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熱田神宮略記

熱田神宮略記

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天皇以前に於いて正一位に昇敍せられたのであらう。これによれば 皇室の御尊崇も、平安朝以後に於いて一層加はれることを示してゐる。爾來歴朝の御崇敬淺からず、後水尾天皇の如きは「熱田大神宮」の宸筆の御神號を下された。近くは、幕末慶應二年の御造營御遷宮の際には畏くも 孝明天皇は當神宮を「格別の御社柄」と仰せ出され、辮官一人を行事として御差遣あり、又慶應四年六月二十六日 明治天皇は直視を發遣あらせられ、特に伊勢大神宮及び熱田宮に大政復古の御奉告に併せて國内の平靜を祈らせ給ふた。此時熱田宮へは七月七日勅使内大臣廣幡忠禮參向あり、米三千俵・絹十二匹、布五端・麻三斤及び刀七口を御奉納あらせられ、次いで明治元年九月二十七日 御東幸の途次御親拜御奉弊あり、又植松少將雅言を勅使として、別宮八劔宮・攝社高座結御子神社・孫若御子神社・日割御子神社・上知麻神社・御田神社・青衾神社に至るまで奉幣せしめ給ひ、この時内侍所は別宮八劔宮に御假泊あらせられた。其の後 天皇、皇后を始め奉り皇族の御參拜は屢々行はれてゐる。  明治四年五月新たに神社社格の制定せられるに當つては、官幣大社に列せられ、同二十六年には國費を以て現在の如き神明造に御改造あり、此時 明治天皇の思召を以て、元赤坂假皇居の賢所及び神嘉殿を御寄進あらせられた。更に大正六年三月二十三日には勅祭を仰出され、爾御六月二十日を以て例祭日と定められて毎年畏くも勅使御差遣の上、極めて嚴肅なる祭儀を齋行せられてゐる。  大正八年には當神宮の境域擴張整備の工費中に、畏くも御内帑の資を賜はつてゐる。  更に近く昭和六年には本宮を始め別宮攝末諸社に至るまで、國費を以て御修築の旨御治定あらせられた。之により同七年十一月一日に本宮假殿遷座祭を執行、同十年十一月一日には本宮御修築の工全く成り、神嚴にして盛大なる本殿遷座の祭儀が齋行せられた。此の兩度の祭儀には、勅使並に儀仗兵を御差遣遊ばされたが、殊に本殿遷座祭當日は、全國諸官吏に對し休暇を賜ふ旨仰せ出され、翌日の臨時奉幣祭には、東遊の御神樂を御奉納あらせられた。  かく 皇室の御崇敬に次いで國司武家の尊崇も厚く尾張國司大江匡衡が度々敬虔なる信仰心を以て祈願文を奉つたことは、本朝文粹及び朝野郡載に見るところである。武家に於ては武神に在すの故を以て其の崇敬殊に厚く、將軍足利義政寄進と傳ふる菊蒔繪手筥も存し、織田信長は桶狹間役の途次當神宮に祈禱して大勝を得るや、報賽として築土塀を奉納した。現に信長塀と名けて一部が殘つてゐる。又海上門及び鎭皇門は夫々織田信長・加藤清正の造營に依るものである。四代將軍徳川綱吉は貞享三年御本宮を修理し參らせたのを初め、尾張徳川藩主の尊崇の深かつたことは、所藏文書や社殿修理の記録等にも窺ひ知られる。又尾張國御器所城主佐久間勝之が海上で颶風に遭ひ、神助を得た報賽に寛永中造營寄進した石燈籠は佐久間燈籠として世に知られてゐる。  斯くの如く上下の尊崇を集められたが故に、國寶三十七點を始め永和三年奉納の日本書紀十五卷、

<trjpft> 「熱田神宮略記」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新旧字混在</gstyle><kstyle>旧仮名</kstyle><tstyle>青空</tstyle></astyle> </trjpft>

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