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ものとなる。日本でも佛教の尊い典籍は、斯様な具合に尊重し、天皇陛下から序文を戴き、 将軍家に跋でも書いて貰つて、日本の大藏經を作りたい。斯く考へたのが、第二の動機で、 翁の二十歳臺の時であつた。 その後、日本も御維新となり、時勢が一變したので、左様な考も中絶したのであつたが、彼 の耶蘇教の輩が、バイブルの類を僅かな代償で賣捌いて、大いに布教の便利を得てゐるのを 見、益々佛教交流のために、大藏經を活版に附したいと考へた。古来の大藏經は實に立派で はあるが、あんな大きな本では仕方がない。何様でも活版にして携帯に便にしたいと考へた のが、第三の動機。 これは晩年に至つて、翁が當年を回顧して語つたところであるが、要するに翁の「縮刷大藏經」 開版の目的は、佛教弘通のために、従来の大藏經とは比較にならぬ實用向で、簡便な而して誤のない大藏經を廣く世間一般に流布するにあつたのである。

翁は斯ういふ目的の下に、「縮刷大藏經」出版を發企して、前記稻田佐吉(これは日本橋に須 原屋と並んで商賣をしてゐた山城屋佐兵衛といふ書林の主人)、色川誠一(これは早く西洋へ行 つて印刷事業に就て研究した人で、後に富士製紙會社の理事)、山内瑞圓(もと眞言宗の律僧) 山東直砥諸氏と相談して、弘教書院を創立し、山東氏を社長として、いよいよこれが事業に着 手した。時に明治十二年であつた。而して茲に特に注意すべきことは、この「縮刷大藏經」の出 版に関係した人に、二人の大阪商人のあることである。その一人は、堺屋仁兵衛といふ人で、 嘗て高野山へ孔雀堂を建てた人だが、島田翁がこの計畫を一番最初に謀つたのが、堺屋仁兵衛 で、この人の紹介に依つて、山内瑞圓とも知合となり、當時の高野山管長獅岳快猛師の援助を 仰ぐことも出来たのである。今一人は千草屋の主人平瀬安兵衛といふ人で、これは後に山東直 砥氏の友人岩橋萬藏氏に勧められ、この事業に對して、相當の資金を供給した。故に堺屋、平 瀬両人は、「縮刷大藏經」出版に就ては、隠れたる功労者だといつてよからう。

偖て、いよいよ事業に着手はして見たものの、その進行は容易でなかつた。何しろ大藏經の 縮刷といふことが、佛教界に於ては勿論、出版事業としても、空前なことであるから、一から十 まで、新らしい計畫を樹てねばならぬ。例へば、印刷所の如きも、當時に於ては何處にもこれ を一手で引受けるだけのところがない。仕方がないので、京橋元数寄屋町四丁目にあつた稻田 佐吉所有の活版所を、弘教書院活版所と名づけて、これに充てたのであつたが、後にその印刷 の全部を大藏省の印刷所に廻すことにして、やつと印刷準備が出来たのである。次には製本の


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