〓火焰火樹園橋本大酒店309 6 8〓9 S 4 3 N O CH 6 8〓9
吉田谷郞氏續國譯漢文大成文學部第八册(第二帙の四)李太白詩集中の四
李太白集卷十五送:달ゑんべつはなむけ送とは、人の遠別を餞することで、南陽送客半酒勿爲薄。寸心貴不忘。ま坐惜故人去。偏令遊子傷。離顏怨芳草。春思結垂楊。〓揮手再三別.臨歧空斷腸。き古在そうべつしその作は、卽ち送別の詩である。なんやうかんか南陽に客を送るbなかすんしんわすたふと斗酒、薄しと爲す勿れ、寸心、忘れざるを貴ぶ。まこじんひと、たくいた坐に故人の去るを惜み、偏に遊子をして傷ましむ。がんはうさうしゆんしすゐやうな離顏、芳草を怨み、春思、垂楊を結ぶ。わかむなたんちやうさ手を揮つて再三別る、歧に臨んで、空しく斷腸。わすたふと忘れざるを貴ぶ。歧に臨んで、【字解】【一】斗酒一斗の酒、今の一升ばかりの量である。古詩に斗酒相娛樂、聊厚不爲薄とあるに本づく。鑠の詩に揮手從此辭とあつて、張銑の註に「揮手とは、手を擧げ辭別するなり」とある。S揮手劉なんやうおい南陽に於て、きやくゑんかう客の遠行を贈つたのである。【題義】この詩は、送南陽送客五八五
李太白集卷十五: :すんしん串きやくき【詩意】この一斗の酒を薄しといふ勿れ、わが寸心は、どうぞ忘れて吳れるな。今や客中に客を送り、50팔도このこころいたしこ故人の此を去るを惜んで、偏に遊子の此心を傷ましめる。別れの顏は、芳草の時を得たるを怨めしとに= :ごほuse手を擧げて、再三、眺め、春の思は、しだれかかる柳を結び、それで君の行を送るのである。かくて、:むな辭別の言葉を述べ、路の岐れる處に佇んで、空しく斷腸するばかりである。かくちうかくれこんぜんこ【餘論】鍾伯敬は「項聯、是れ客中客を送るの語、說き得て渾然として覺らず」といひ、乾隆御批にだつくりにin「古詩十九首より服化して出で、詞意倶に古、詠じて五六に至れば、羅森風流といふべし」とある。は、ちやうしやじんおく送張舍人之江東張舎人の江東に之くを送る張翰江東去.正値秋風時。ちやうかんかうとう: $張翰江東に去らむとし、正に秋風の時に値ふ。:がんとほこはんおそ天〓一雁遠。海濶孤帆遲天は〓くして一雁遠く、海は濶くして孤帆遲し。がた白日行欲暮.滄波香難期。白日、行く暮れむと欲す、滄波、杏として期し難し。= 1吳洲如見月。千里幸相思。吳洲もし月を見ば、千里幸に相思へ。【字解】【一】張輪晉書に「張輪、大司馬東曹操となる、秋風の起るに因つて、乃ち吳中の薫菜尊羹、鱸魚の論を思うて曰く、人生、適意を得るを貴ぶ、何ぞ能く覊官數千里、以て名爵を要せむや、と、達に駕を命じて歸る」とある。3千里楊素の詩に「千里悲無駕、一見香難期」とある。武:【題義】この詩は、張舎人の江東に之くを送つたのである、舍人の名字閱歷等は分らぬ。こxま古しへの張翰の如く、: y ,あ【詩意】君は、正に秋風の時に値うて、遽に江東に赴かれる。時しも秋、天は: :な·おaはくじつ〓くして、一雁遠く去り、海は濶くして、孤帆は行くこと遲いやうに見える。白日は、行くゆく暮れかいじやう1かだ늘くむとするも、海上の滄波は、査然として、いつ又逢へるか分らない。かくて、愈よ其地に著せし後、めいげつださいはひ둘吳洲に於て明月を見たならば、:녹n家千里を隔てて我あるを懷ひ、幸に相思の情を寄せて貰ひたい。ちやうしやじんちやうかんだじ【餘論】送られる人が張舍人であるから、同姓の因で、張翰を引き出したので、常套の故事を活用しきんてたものである。三四は、まことに名句で、嚴滄浪は「三四情境曠邀、望むべく思ふべし」といひ、おんこ: :か方虛谷は「一雁孤帆の句、亦た以て吾が道不遇の歎を寓す、下句、白日滄波を引き、行欲暮香難期ほんといふ、意、見るべきなり」といつた。なほ、一本には五六兩句を白日行已晩、欲幕脊難期に作つてある。送王屋山人魏萬還王屋 井序か、도王屋山人魏萬の王屋に還るを送る、えぞ并に序王屋山人魏萬云。自嵩宋沿吳。相訪數千里不遇乘興遊台越。經永嘉。觀謝公石門。後於廣陵相見。美其愛文好古.浪跡方外。因述其行送送張舍人之江東·遺王屋山人魏萬還王屋井序
李太白集卷十五而贈是詩。まんすうそう=そあひとすうぜんりあきようじようたいゑつあそわさをくさんじんぎ台越に遊び、【訓讀】王屋山人魏萬云ふ、嵩朱より、吳に沿ひ、相訪ふ數千里、遇はず。興に乘じて、らはうどわいらうせきたら永嘉を經、しやこう謝公の石門を觀、4きもんみ後のちくわうりよう廣陵に於て相見る。おいたいま其の文を愛し、そこんあ古しへを好み、方外に浪跡するそのかうこのしてを美し、因つて、其行を述べて、是詩を贈る。集卷十五僊人東方生、浩蕩弄雲海。沛然乘天遊。獨往失所在。魏侯繼大名。本家聊攝城、卷舒入元化。跡與古賢〓。十三弄文史。揮筆如振綺。辯折田巴生。心齊魯連子。西涉〓洛源。頗驚人世喧。采秀臥王屋。因窺洞天門。ぜんにんとうほうせいかうたううんかいる僊人の東方生、浩蕩、雲海を弄す。はいぜんてん독あとどくわうしよざいうしな沛然、天に乘じて遊び、獨往、所在を失ふ。れうせつじやう;たいめいっロール魏侯、大名を継ぎ、本家は聊攝城。けんじょげんくわゆとせん卷舒、元化に入り、跡は古貿と〓す。포;治言ふる굴十三、文史を弄し、筆を揮ふこと、綺を振ふが如し。むた달べんでんはは¥2心は〓渡ろ辯は田巴生を折き、子に齊し。にしせいちくみなもとわたせい頗る人世のせんchie西、〓洛の源を渉り、喧に驚く。どうてん;さいしうわうをく:こん采秀、王屋に臥し、因つて洞天の門を窺ふ。6 te揭來遊嵩峰。羽客何雙雙。〓宿玉女腿.朝〓月光子。暮鬼谷上窃〓。龍潭下奔〓。一一)こ東浮汁河水。訪我三千里.逸興滿吳雲.飄飆浙江氾揮手杭、越間。構。亭望潮還(一六)込一九濤卷海門石。雲橫天際山。白馬走素車。雷奔駭心顏。(二〇)遙聞會稽美。且度耶溪水。萬。與與千巖。崢嶸鏡湖裏。秀色不可名。〓輝滿江城。人遊月邊去。舟在空中行。此中久延佇.入幾尋王許。送送王屋山人魏萬置王屋井序けつらいすうほうぬき,だ、なんさうさう場來、嵩峰に遊び、羽客、何ぞ雙雙たる。あしたげつくわうしたらきchぎよくちょさう늘朝に月光子を攜へ、暮に玉女胞に宿す。늘こえうでうじょうたんしたほんそう鬼谷、上に窈窕、龍潭下に奔〓。おむしひらみづニわれと東汴河の水に浮び、我を訪ふ三千里。いつきようごうんaへうえうせつかうし逸興、吳雲に滿ち、飄餌、浙江の氾。さいかうゑつおととときもくしほのとに手を揮ふ杭越の間、報告、潮を望んで遠る。なみかいもんrc 1くてんさい1また濤は海門の石を卷き、雲は天際の山に橫ふ。KBモ뉴はしらいほんしんがんむしろ白馬、素車を走らし、雷奔、心顏を駭かす。セットルくわいけいびかマけいろづた遙に會稽の美を聞き、且つ耶溪の水を度る。ばんがくがんさうくわうきやうこ萬壑と千巖と、崢〓たり鏡湖の裏。しうしょな:かうじゃう〓秀色、名づくべからず、〓輝、江城に滿つ。달げつべんあそ古くうちうあ人は月邊に遊んで去り、舟は空中に在つて行く。このうちひさえんちよえんわうきよたづ此中久しく延佇、刻に入つて王許を尋ぬ。
李太白 集卷十五八一五六笑讀曹娥碑。沈吟黃絹語。(二六)三(二八)天台連四明。日入向國〓。五峰轉月色百里行松聲。CO) (三四靈溪恣沿越.華項殊超忽。石梁橫靑天側足履半月。三六) (三七) (三八)眷然思永嘉。不憚海路賒。(三九)挂席歷海嶠。廻瞻赤城霞。(80,赤城漸微沒.孤嶼前嶢兀。水續萬古流。亭空千霜月。絹雲川谷難、石門最可觀.瀑布挂北斗。莫窮此水端。週三噴壁灑素雪。空濛生晝寒。却思惡溪去。寧懼惡溪惡。:ひもんずんわうけん=わらよ笑つて、曹娥の碑を讀み、沈吟す黃絹の語。てんだいにRakひいこくせいむか天台は四明に連り、日入つて國〓に向ふ。B)げつしよくてんしようせい五峰、月色を轉じ、百里、松聲を行る。れいけいほしいままえんゑつくわちやうことてうこつ靈溪恣に沿越、華頂殊に超忽。せきりやうせいてんよこたあしを性だはんげつ上石梁、靑天に橫はり、足を側てて半月を履む。けんぜんえいかぷかいろ造ら15眷然として永嘉を思ひ、海路の除なるを憚らず。:かかいけうくわいせんせきじやう諸島席を挂けて海嶠を歷、廻瞻す赤城の霞せきじやうPipブほこ노まげうこつ赤城、漸く微沒、孤嶼、前に嶢兀。はんこながれっ水は萬古の流を續ぎ、ていま3 ur亭は千霜の月を空しうす。しんうんせんこくかたせきもんもつとみ縉雲、川谷難く、石門、最も觀るべし。比불かこのみづ焼に瀑布、北斗を挂け、此水の端を窮むるなし。6はそせつこくつもうちうかんしやう壁に噴いて素雪を灑ぎ、空濛、晝寒を生ず。ーれむや。いいむし越つて、あくけいあくけい:われ惡溪に去らむことを思ふ、寧ろ惡溪の惡を懼-咆哮七十灘。水石相噴薄。(四六) (四七)路創李北海。巖開謝康樂。松風和猿聲。搜索連洞壑。(四八) (四九)徑出梅花橋.變溪納歸潮。(60°落帆金華岸。赤松若可招。act沈約八詠樓。城西孤岩堯.岩堯四荒外。曠望羣川會。雲卷天地開.波連浙西大。(三六三(五四)亂流新安口.北指嚴光瀨。(五六)釣臺碧雲中.邈與蒼嶺對。稍稍來吳都。徘徊上姑蘇蘇(五八) (五九) (5)煙綿橫九疑。漭蕩見五湖。目極心更遠.悲歌但長吁。遂王屋山人魏萬還王屋井序はうかうだんすゐせきあひふんは咆哮七十灘、水石相噴薄。い:ほくかいいはひらしやかうらく路は創す李北海、巖は開く謝康樂。しようふうゑんせいわそうさくどうがくつらき松風、猿聲に和し、搜索、洞堅に連るnoいはいくわけっさうけい,徑は出づ梅花橋、雙溪、歸潮を納る。ちくはんきんくわこせきしょうまね꿀落帆、金華の岸、赤松招くべきが若し。しんやくえいろうじやうせいひとてうげう沈約の八詠樓、城西孤り岩峯。てうげうくわうはかくわうほうぐんせんts岩覺、四荒の外、曠望す羣川の會するを。:±チーム남なみTakそつせいだい雲は卷いて天地開け、波は連つて浙西大なり。らんりうしんあんこう:げんくわってか亂流、新安口、北に指す嚴光瀨てうだいへきうんいまさうれいた釣臺、碧雲の中、遞として蒼嶺と對す。やりやくごとこたはいくわこの稍稍、吳都に來り、徘徊、姑蘇に上る。たんめん:よこたほうたう煙綿、九疑に橫はり、漭蕩、五湖を見る。:こころさらとひたいく目極まつて、心更に遠く、悲歌但だ長呼す。五九一
李大白集卷十五(六一) (六二) (六三)廻橈楚江濟。揮策揚子津. (六四)身著日本表〓〓藏出風塵。知非信優人。五月造我語。相逢樂無限。水石日在眼。徒干五諸侯。不致百金產。(六六)吾友楊子雲。絃歌播〓芬。(六七)雖爲江寧宰。好與山公羣。乘興但一行。且知我愛君。君來幾何時。僊臺應有期。東窓綠玉樹。定長三五枝。(六八)至今天壇人。當笑爾歸遲。我苦惜遠別。茫然使心悲。(六九)黃河若不斷.白首長相思。ぜうかうひん:ここし橈を廻らす楚江の濱、策を揮ふ揚子の津。につほん:かうざうふうぢん身には日本の裘を著け、昂藏、風塵を出づ。cnsたい달た五月、我に造つて語る、知る恬候の人に非ざるを。あひあたのしみするせき相逢うて、樂限りなし、水石、日に眼に在り。しよこうをか2こんいた徒に五諸侯を干して、百金の產を致さず。bともやうしん强せいふん吾が友楊子雲、絃歌、〓芬を播く。かうねいこいへどさんこうそん江寧の宰たりと雖も、好し山公と羣す。たひとおつらま興に乘じて、但だ一たび行き、且我が君を愛するを知る。きみきた농せんだいまさ君來る幾ばく時ぞ、偲臺應に期あるべし。さだ東窓の綠玉樹、定めて三五枝を長せむ。いてんだん달:たんだかいおそこ今に至るまで、天壇の人、當に爾の歸る遲きを笑ふべし。われねんごろゑんべつ는おも我苦に遠別を惜み、茫然、心をして悲ましむ。くわうかはくしゆながあひおも黄河もし斷えずんば、白首長く相思はむ。【字解】【一】東方生漢武内傳に「東方朔、一五、龍に乘じて飛び去る、同時の衆人、西北より上つて冉冉たるを見る。仰望良や久しく、大霧、これを覆うて、之くところを知らず」とある。3魏侯左傳に「音侯、畢萬に魏を賜うて大夫となす」とある。3聊攝城左傳に「顆攝以東、姑尤以西」とあつて、一統志に「聊城は東昌府城の西北十五里に在り、攝城は博平縣の西南二十里に在り」と記してある。E田巴魯連太平御覽に「魯連子曰く、齊の靜士田巴、徂邱に辯じ、稷下に露し、五帝を毀り、三王を罪し、五伯を皆り、堅白を離し、同異を合し、一日にして千人を服す。〓連年十二、往いて見て曰く、臣、聞く、堂上の糞除かず、郊草芸らず、白刃前に変はれば流矢を救はずと、何となれば、急者救はず、緩者務に非ず。今、楚、南陽に軍し、趙、高唐を伐ち、燕人、十萬の衆、聊城に在つて去らず、國の亡ぶる、旦暮に在り、先生將に奈何せむとす。田巴曰く、奈何ともすべきなし。書述曰く、危は安を爲す能はず、亡は存を爲す能はざれば、學士を貴ぶなし。今、臣、將に南陽の師を罷め、高唐の兵を還し、聊城の衆を却けむとす。談說に費ぶところのものは、此の若きが爲めなり。若し能はざるもの、先生の言の如くならば、梟鳴いて聲を出して、人皆之を惡むに似たるなり。顯はくは、先生復たずる勿れ。田巴曰く、謹んで〓を受く、と。明日、徐劫を見て曰く、先生の駒は、乃ち飛兎騷畏なり、豈に特に千里のみならむや、と。ここに於て、口を杜ぎ、業を易へ、移身、復た談ぜず」とある。C王屋題義の下に詳し。E場來通雅に「猶ほ何来のごときなり」とある。3嵩峰卽ち嵩山、前に見ゆ。【八】月光子藝文類藥に「仙經に云ふ、當高山の東南大巌の下、石孔方圓、一丈四方、北に入ること五六里、大室あり、高さ三十餘丈、周圍三百步、自然明燭、相見る、日月の如く、異なるなし、中に十六仙人ありといふ。月光童子、常に天台に在り、時に亦た往來す。この中の人、道あるに非ざれば、望見するを得ず」とある〓玉女聽五色線に「國經に云ふ、當山に玉女窓あり、漢の武帝、窓中に於て玉女を見ると。謝鋒の當山に進ぶ書に云ふ、進んで玉女窓、搗衣石を窺ふ、石誠に異なり、窓は亡し、これ玉女窓、宋時に在つて、巳に無し」とある。C.O鬼谷元和郡縣志に「鬼谷、河南府告成縣の北五里に在り、卽ち六國の時、鬼谷先生の居るところ」とある。CI龍潭一統志に「龍潭は、登封縣東二十五里、當頂の東に在り、九潭相接し、その深さ測るなし」とあり、登封願志に「九龍潭は、太室東廢の山嶺に在り、水あり、流下し、激斷、潭を成し、盈坎して出で、復た一潭を作す、ともに九澤あり、遞に相灌輸し、水色洞黑、その深さ際なし、崖〓險峻、波濤意送王屋山人魏萬還王屋井序
李太白集卷十五暴激、登臨するもの、此に至れば、輒ち凛然として長を生ず。石あり、記す、人の龍潭に遊ぶものを戒め、語笑して以て龍神を讀す勿れ、紳怒れば雷恐あり」とある。CIT奔沫毛萇の詩傳に「津、水、會するなり」とあり、說文に「小水、大水に入るを泳といととある。【一三】汴河一統志に「汴河は、源、榮陽縣大周山に出で、東潦須廓の四水を合し、東南、中半廳に至り、北、黃河に入る」とある。CI新江卽ち錢塘江、錢糖縣志に「虞喜云ふ、潮水、浙江に投じ、下折して曲る、一に云ふ、江に反濤あり、水勢折歸、故に新江といふ。盧華曰く、浙は折なり、蓋し、その潮、海を出で、屈折して倒流するに取るなり、一名折河」とある。【一五】氾江岸。C15揮手手を以て指畫すること。CTU杭越杭は杭州餘杭郡をいふ、古時越國の西境たり。越は越州會稽郡をいふ、古時越國の都城たり。二郡、中に浙江を隔て、江の北を杭州となし、江の南を越州となす。【一八】修錢塘縣舊治の南五里に在つて、後に浙江亭といふ。[22海門西溪最詰に「新江の夾岸、山あり、南を龕といひ、北を諸といふ、二山相對し、これを海門といふ」とある。col耶溪卽ち若耶溪、前に見ゆ。CTI萬壑與千巖世說に「顧長康、會稽より選る、人、山川の美を同ふ、顧云ふ、千巖、秀を競ひ、萬壑、流を爭ひ、草木、その上に梨龍し、雪與り霞蔚するが若し」とある。【二三】鏡湖前に見ゆ。言刻卽ち刻溪、前に見ゆ。〓王許營書に「會稽に住山水あり、名士多く之に居る、孫綽、李充、許陶、支通等、皆文義を以て世に冠たり、竝に室を東土に築き、王義之と同好」とある。王許は、王義之と許詢。CIT曹娥碑、黃籍語太平寰宇記に「地志に云ふ、餘姚に孝女曹戴あり、父、濤に泝つて死す、娥、年十四、號痛して水に入り、因つて、父の屍を抱き、出でて死す。縣令度尙、生邯鄲子禮をして、碑文を爲らしむ。後に蔡邑過ぎて、碑を讀み、乃ち八字を題して曰く、黃絹幼婦、外孫臺曰と。魏武、かつて碑下を過ぎ、楊修に謂つて曰く、解するや否や。曰く、解す。魏武曰く、卿、未だ言ふべからず、我が之を思ふを待て、と。行くこと三十里、魏武乃ち曰く、吾、すでに得たり、と。修をして、別に知るところを記せしむ、修曰く、黃絹は色絲なり、字に於て絕たり。幼婦は少女なり、字に於て紗たり、外孫は女子なり、字に於て好たり。薑白は受辛なり、字に於て辭たり。謂はゆる絕妙好辭なり、と。魏武、亦た之を記す、修と同じ」とある。【二六】天台前に見ゆ。【二七】四明寧波府志に「四明山は天台より發し、郡治の坤隔に屹時す、上に二百八十峰あり、明越台三州の境に綿互す、三十六洞天の一たり」とある。【二八】國〓天台山志に「國清寺は、天台縣北十里に在り、舊名天台寺」となる。【二九】五峰府志に「その峰五あり、正北を八桂といひ、東北を靈禽といひ、東南を祥雲といひ、西南を靈芝といひ、西北を映霞といふ」とある。cot百里行松聲府志に「鑿字嚴は縣北三里に在り、巖上に萬松徑の三字あり、相傳ふ、昔時巖より國〓寺に至るまで、大松、列を成す、今無し」とある。CI靈溪天台山志に「縣北十五里福聖觀前に在り、今縣東三十里、亦た靈溪あり、蓋し其名適ま類するなり」とある。(ti沿越溪流に沿うて測る。【二三】華項峰名、山志に「華項峰は、縣の東北六十里にあり、乃ち天台八重の最高處、高さ一萬八千丈、周圍一百里、晴少くして晦多し、夏、積雪あり、中に黃金測あり石色光明、降魔塔に登つて、東、前海を望めば、淵漫際なく、望海尖と號す、日の出沒を見るべし、下、衆山を歐れば、龍虎蟠踞、旗鼓布列の狀の如く、草木薰郡、殆んど人世に非ず」とある。超忽遠き貌。Din石梁卽ち石橋、前に見ゆ。こいて側足石橋險狹、わづかに足を側てて行くべきをいふ。[to]半月石橋号環の狀に喩ふ。CIT永嘉題義の下に見ゆ。いく赤城前に見ゆ。【20】孤嘆浙江通志に「永嘉縣北を孤嶼山といふ、永寧江中に在り、東西兩峰相峙つ」とある。E.1 :11太平寰宇記に「處州蟠當縣に縉書山あり」とある。三一石門、瀑布題義の下に見ゆ。13空港濛は徹雨の貌。目惡溪元和郡縣志に「處州歴水縣に麗水あり、本と惡溪と名づく。その湍流組險なるを以て、九十里間、五十九瀨、名づけて大惡とい··開皇中、改めて慶水となす、皇朝、これに因つて縣名となす」とある。EZ七十灘諸書に五十九灘とあつて、その理由未詳。150李北海李白の自註に「李公邑、むかし、括州となり、この嶺路を開く」とあり、唐書の本傳に「開元二十三年、起つて、括州刺史となり、後、沿滑二州の刺史を經、京師に上計し、出でて汲郡北海太守となり、時に李北海と稱す」とある。【四七】諸康樂李白の自註に「惡溪に謝康樂題詩の處あり」とあり、方與勝覽に「謝公巖、亦た好溪の上に在り、亦た康樂巖と名づく」とある。【四八】梅花橋未詳。断江通志に「金華縣東、石碕巖、高さ十餘丈、俯して大溪を瞰る、巖下に測あり、梅花洞といひ、又梅花溪と名づく」とあるから、橋もいづれ其の邊であらう。127雙溪通志に「雙溪は、金華縣南に在り、一に東港といひ、一に南港といたる東港の源は、東陽の大盆山に出で、義鳥を過ぎ、業流を合し、西行、縣境に入り、又杭慈溪、白溪、東漢.西溪、坦溪、玉泉鍋)赤松溪の水を合せ、馬鋪嶺石碕巖下を經、南港と會す。南港の源は、縉書の黃碧山を出で、永康武義を過ぎて縣境に入り、又松送遂王屋山人魏萬還王屋井序
李太白集卷十五鴻梅溪の水を合し、屏山を經、西北行して東港と城下に會す、故に變溪といひ、又識溪と名づく」とある。cot金華山名、元和郡縣志に「金拳は萎州金華縣北二十里に在り、赤松子得道の處」とある。【五一】赤松新江通志に「金華縣北に赤松山あり、相傳ふ黃初平、石を叱して羊と成す處、と。初平、赤松と號す、故に山、これを以て名づく。後人、これが爲に屆を立て、赤松宮と號す」とある。ctr八誅樓一統志に「八詠樓は、金華府治の西南隅に在り、舊名玄暢樓、南齊の太守沈約建つ、登臺三秋月。會圓臨春風。秋至盛衰。寒來悲ニ落桐。夕行間ニ夜〓農征聽ニ曉鴻。解釈去初市。被褐守山東。の八試詩あり」とあり、因つて樓の名となつた。しかし、王琦の說に「太白の詩より外、崔顧の沈隱候の八詠樓に題するの詩、及び殿羅の明月變溪水、〓風八詠模の句あり、八詠の名、蓋し宋に始まらず」とある。【五三】新安口断江通志に「新安江、一名〓溪、黴州に出で、歙より淳安縣界を經、嚴州府城の南に至り、變港を合せ、東、断江に入る」とある。【五四】嚴光瀨通志に「富春山は、嚴州桐鷹縣西三十五里に在り、一名嚴陵山、清麗奇絕、錦峰縮嶺と號す、前は大江に望む、乃ち漢の嚴子陵の釣處なり」とある。DiH釣臺一統志に「釣臺は、嚴州府城の東五十里に在り、東西二臺、各-高さ數百丈、漢の嚴子陵釣を垂るる處」とある。【五六】蒼嶺通志に「蒼嶺は、台州仙居縣の西北九十里に在り、高さ五千丈、周題八十里、縮雲に界し、重岡覆徑、勢に隨つて高下、その險峭峻絕、東新の最たり、行者病む」とある。【五七】吳都卽ち蘇州。(六)站蘇吳地記に「吳王圖閭、十一年、臺を姑蘇山に起し、山に因つて名と爲す、西南國を去ること三十五里、春夏遊ぶ、後、夫差高うして之を飾る、越、吳を伐ち、遂に焚かる」とある。【五九】九疑范至能の記に「客と辭臺に登る、山頂正平、助堂あり、蘇石、列坐すべし、相傳ふ、吳の故宮たりと。開產別館、その前は、湖光、松陵に接し、獨り孤塔の尖を見る。少しく北すれば、點墨一螺、崑山と爲す。その後、西山秀を競ひ、搜靑叢碧、洞庭林屋と相賓す、大約目力、百里を踰え、登高臨遠の勝を具ふ」とある。しかし、王琦は、疑を挟んで「姑蘇に登り、以て五湖を望む、自ら是れ實景。もし九疑は遠く湖廣の南垂に在り、相去ること數千里、豈に目力の能く及ぶところならむや。或は是れ想像の辭を設爲するのみ。しからざれば、その望見するところの山、その時、亦た九憂の名を冒すものあり、因つて指して詠に入るも、亦た未だ知るべからず」といひ、ひよつとすると、九龍山を指したものでは無いかといつて居る。【六〇】五湖前に見ゆ。ET橈櫂の短きもの。楚江揚子江。揚子津江南通志に「揚子津は揚州府城の南十五里に在り、一名揚子渡、唐の高宗永淳間の攝子縣なり、舊時建康に四津あり、橫江を建康の西津となし、揚子を建康の東津となす」とある。【六日】日本表李白の自註に「裘は朝卿の贈るところ、日本布にて之を爲る」とある。朝〓は卽ち安倍仲麻呂、なほ其詳は後に見ゆ。EN怡優廣韻に「怡健は前まざるなり、伯優は癡の貌」とあり、韻會に「恰健は固滯の貌」とあり、田汝成は「人の進退果ならざるを言うて怡艇といふ」といつた。【六〇】楊子雲楊利物を指す、李白に江事宰楊利物畫賛といふ一文がある。【六七】山公世說に「山季倫、〓州たり、時に出でて酣暢す、人、これが爲に歌つて曰く、山公時一醉、徑造高陽池、日暮倒載歸、酩酊無所知、復能乘ニ駿馬、例著白接龜、擧手間葛張、何如井州兒」とある。【六八】天壇一統志に「天壇山は、懷慶府濟源縣の西一百二十里、王屋山の北に在り、山峰突兀、その東を日精といひ、西を月華といふ、絕項に石壇あり、清虚小有洞天と名づく、旦に五色影あり、夜、仙燈あり」とある。すると、天壇は王屋山中の一峰である。【六九】黃河若不斷この二句は倒裝旬法で、白首相思ふことは、黃河の水の若く、終に斷絕の時なしといふ意。わうをおんつぐんけんしわうをくざんかなんわうをくげんほくあしうゐたか【題義】王屋は、元和郡縣志に「王屋山は、河南府王屋縣北十五里に在り、周圍一百三十里、高さ三ていちうせきじやうわうをくいたたいへいくわんうきわうをくざんたくしうやう十里、尙書禹貢に、底柱析城、王屋に至るとは是れなり」とあり、太平寰宇記に「王屋山は、澤州陽じやうけんなんせんきやうわうをくざんひろせういうせいきとどうてんがうf城縣南五十里に在り、仙經に云ふ、王屋山に仙宮洞天あり、廣さ三千里、小有〓虛洞天と號す、山たかちやうひろ·たいかうせきざんなちうでうこしようほとぶぜういうぐんどうそんの高さ八千丈、廣さ數百里、太行析山、佐命たり、中條古鐘、輔翼たり、三十六洞、小有は羣洞の尊ざんわうをくちうざんい50しれいきやうしんじんどうきやうめいざんどうてんふくちたり、四十九山、王屋、重山の最たり、實に不死の霊〓、眞人の洞境なり」とあり、名山洞天福地記にわうせくどうまんりせういうせいきよてんなとうとあまんおてじ「王屋洞は、周圍一萬里、小有〓虛の天と名づく、東都に在り」と記してある。魏萬は、唐詩紀事に〃まんのちな박じゃうげんはじめとうだい5くわづりよう·はくいは佐ちくcmかならたいめいスープ「魏萬、後の名は顎、上元の初登第はじめて李白に廣陵に見ゆ。白曰く、爾後、必ず大名を天下送遂王屋山人魏萬還王屋井序
李太白集卷十五Sumめいげつどそのぶんいだこれに著さむ、老夫と明月奴とを忘るる無かれ、と。因つて、盡く其文を出し、顎に命じて之を集めしむ」べつがうわうぞくほんめいぎわうをくだれとある。そこで、題義は、別號王屋山人、本名魏萬といふものが、王屋に歸らむとするを送つて、こ、き古の詩を作つたといふのであるが、特に序を添へて、その由來を略記したのである。嵩宋の嵩は嵩山、: mなんほう.しへの宋の地に當るが故に、かく云つたのであらう。沿吳とは、汴河に浮んで、南方の吳地に下つたxも古しへの越の地に當るが故に、ゑpaこど。台越の台は、天台山、かく云つたのであらう。永嘉は、唐の郡8らをんしうかっなんとう、せつぱうざんせつかうつうししよしうせいでんけん名、後の溫州、江南東道に隸屬して居た。謝公石門は、薛方山の浙江通志に「處州靑田縣に石門山あ屋らだうしより、石蓋山の西十里に在り、兩峰對峙して、門の如く、中に洞あり、石門洞といふ、道書に謂はゆるげんかくどうてん1だいせいなんかうこく生じつるじやうたんほんりう業元鶴洞天、乃ち三十六天の第三十なり。西南の高谷に瀑布あり、泉上潭より奔流し、天壁に至る、かしんほうあひだあるえいかのしゆしやれい三十餘丈、天壁より、下潭に至る、四十餘丈、舊と榛莽の間に在り、劉朱の時に至つて、永嘉守謝霊ことこのじょ運性遊覧を好み、はじめて此洞を覓む」とある。廣陵は揚州、すると、此序の大意は王屋山人魏ひたるみあさ:萬が自ら云ふには、嵩宋より汴河を下り、必ず李白に逢はうといふので、相訪ふこと數千里にして、a놓: :しんうん遂に相見るを得ず、しかし、旅興の催す儘に、台越に遊び、永嘉を經、縉雲に至つて、謝靈運の遊'는しよう;ふいCBSへいぜい:賞した石門の勝を觀、處處歷めぐつた揚句に、揚州に於て、はじめて相逢ふを得、仍つて、平生の渴ぶんがくあいかさ且つ古しへを好み、想を慰めたと。かういふ話である。予、すでに魏萬が文學を愛し、且つ衆人とと飄浪の身跡を方外に寄せ、は殊にして、全く浮世ばなれをして居ることを嘉し、仍つて、平生の行爲を〓き述べ、この詩を作つて、贈つたといふのである。かんだいてんじやうだた上【詩意】漢代の東方朔は、もと天上の仙人が此世に墮誦したものであつて、この世を辭してからは、残りたうこ'はいぜん복달浩蕩として海なす雲を弄び、沛然として、天に乘じて遊び、獨りで何處へでも往くから、その蹤跡は:わうをくさんじんとうほうさくとんと分らない。わが王屋山人は、全く之と相似たる一かどの人物である。魏君は、すでに東方朔の近くr e둑あひだ温ラい大名を繼ぎ、その本家は、春秋の時の魂氏で、初めて聊攝二域の間に封せられ、今でも、そこが郷貫えたげんめうくわになつて居る。魏君は、天晴の才を持つて居て、或は卷き、或は舒べ、すべて其時に從つて、玄妙化たいだうにrんとご古しへの賢人と井せ傳ふべきものである。生の大道に參透せざることなく、その跡は、魏君は、年わも完さぶんしやうまちs iづかに十三にして、すでに、文史を弄び、筆を揮つて文章を草すれば、さながら綺繃を振ふが如く、딸白土その心は、魯仲連に齊しく、その雄辯は、田巴を辟易させる程である。しかし、人世の餘りに囂しくたい配のが、まわ れぎ騒しきに驚いて、〓き洛水の源を渉つて、王屋山の奥に分け入り、そして、蘭の秀を摘みつ= ;にんげんみれいきやうら,っ、名だたる洞天の門を窺つて、人間未知の靈境に徘徊して居た。兎角する内、偶然にも、中岳の稱だげつくわうどうじせんにんhある嵩山に遊び、羽客を友として翩翔し、朝に月光童子といふ仙人を攜へ、幕に玉女窓と稱する洞中ゆミこに宿し、仰ぎ見れば、名だたる鬼谷は、上の方に奥深くして何處とも知らず、俯して窺へば、名さへさんちうお下の方に會流し、&こ恐ろしき龍潭は、水聲鞋鞳と鳴り響いて居る。かくて、山中に在つて、稍や時を移いしひらねつ六弘くだしたる後、東して、汴河の水に舟を浮べて、はるばると南方に下り、三千里の長路を辭せずして、わ送王屋山人魏萬暹王屋井序五九九
李太白集卷十五いつきょうのぼ=え込ふかうあれを訪はむとし、逸興騰つて、吳雲に滿たむとした。そして、不幸にして予に逢はざりしものから、ついでしょしよいうxせつかうきし, :) 5cmかうしうとてもの序に處處游覽しやうといふので、飄風として、浙江の岸を過ぎ、手を以て指晝しつつ、杭州せんたうげんふつさつくわんなみに至り、樟亭に上つて、名だたる錢塘の潮を見物した。これは、まことに壯觀であつて、濤は海門のじ:てんさい:二ハtheしやはし1石を卷くべく、雲は天際の山に橫はり、さながら、白馬に乘つて素車を走らすかと疑はれ、その勢の5しんがんためriskくわいけいさんするびと凄じきことは、雷の狂奔するが如く、心顏爲に駭くばかり。次に、會稽の山水の美を聞くや、是非これじやくやげいへんほんがくながれあしたがんをも見物しやうといふので、やがて、若耶溪邊に往つた。抑も、會稽の山水は、萬堅流を爭ひ、千巖1:5でんざんさうくわうきやうこひとそのかけひたしうれい秀を競ふといはれた位、羣山の峰〓たるは、名にしおふ鏡湖に齊しく其影を涵して居る。その秀麗なめいじやうこん:かうじやうなかみひとる風物は、到底、名狀すべからず、四山の積翠は、〓く輝いて、江城の中に滿ち、人は月邊に遊んでCふねこのあひだ去るかと怪まれ、舟は空中に在つて行くやうである。そこで、此間に久しく滯留して居たが、やがてえんけいたうねんわうぎきよじゆんひこいしやうわ雞潔に入つて、當年の王義之、許詢に比すべき名流を尋ねて、之と唱和し、かの曹娥の碑を讀んでは、しんちうしあんてんだいさん黃絹幼婦などいふ謎めいた語を心中に思案し、しばしは、去りがてにして居た。天台山は、四明山にPark志i 'しほつこくせいじむかほうつ連り、一帶の地域、殊に靈秀を以て知られる處で、夕陽西に沒する頃、國〓寺に向つて歩を移せば、층いただきげつしよくしつしつ:ね。溪山忽ち夜に入り、五峰の頂には、月色を轉じ、百里の間、松竝木ばかりで、瑟瑟たる松聲を耳にしおよびれいけかこさかのぼや을澁そびつつ、その間をたどつて行くと、靈溪は岸に沿うて湖るべく、華頂の山は、殊に遠くに聳えて居る。のにはんげつおやまそのはしわたそして、天然の石橋の靑天に橫はるを望み、やがて、巖を攀ぢて、半月の形を成す其橋を渡ると、如けんあしそばだたらふろけいおもしろいミ何にも危險であつて、おもはず足を側てる。それから、永嘉の風景が面白いと聞くと、今は一刻も、かいろしおおだこらへて居ることが出來ず、海路の遠きを厭はずして、舟を乘り出し、帆を挂けて海嶠を歷めぐつて·時に〓せきじやうざんくわいほうしだいま行く間、夕やけの間に隱見する赤城山を囘望すると、やがて、次第に見えなくなり、前には孤嶼と稱えいねいかうへうきみづはんこっづながじんこうていしやする山が、永寧江中に聳えて居る。そして、水は萬古の末までも續いて流れるが、人工に成れる亭樹ねんさいげつあひだあとかたしんうんげんぜんこくかんそは、千年の歲月を經ぬ間に、跡方もなく成つて仕舞つた。それから、縉雲縣は、川谷艱阻な處であるながもつと壁上たかほくとかかすゐけんたうていが、中にも、石門は、最も觀るべく、瀑布は高く北斗の處から挂つて居るやうで、その水源は、到底たんけんでひせきへきに〓し探險することが出來ず、飛沫は、石壁に吹きかかつて、白雪を灑ぐが如く、四邊は空濛の中に鎖され、:それから惡溪の方へ往かうと思ひ、おおそ晝ながら、寒氣を生ずる。惡溪といふ名は、如何にもいやらしく恐とんぢやくまんも:ろしく聞こえるが、そんなことには頓著せず、って愈よ住つて見る七十灘の水は、咆え哮つて、水せきたがひさうぜつくわいぜつたこちかほくかいはじ石互に噴薄し、その壯絕快絕なるは、譬へやうも無い位。このあたりの路は、近ごろ、李北海が始めしやかうらそのないはむかしおぼて創設したのであるが、謝廉樂が其名を留めた巖などもあつて、さすがに、昔なつかしく覺える。そけたさつきつ生uゑんせい&けしなは1,いくたの間、颯颯たる松風は、悲しげに叫ぶ猿聲に和し、極めて、幽邃な景色。そこを繩に縋つて、幾多のだいさうけいみづせつかう洞壑を次第に過ぎ行くと、梅花橋といふ處に出る。ここには、雙溪の水が、漸江の一派を爲して、歸;ッきんくわざんa : :潮を入れ、もとより舟楫を通じ、金華山の下に往つて帆を卸す。その金華は、黃初平の故蹟であつて、ぜんにん:かへしんやく1きんくわこの仙人は、なほ招き還すべきやうである。それから、沈約が詩を作つた八詠樓といふのが、金華の送送王屋山人魏萬還王屋井序六〇一
李太白集卷十五じやうせい달そばだてうげうはうくわうほくねくわうほうで城西に獨り峙つて居て、岩蟲の勢は、四方荒漠の外に拔き、軍川の會流するを曠望することが出來こころみろうじやうたながてんちくわつぜんひらなみupp Perせつせいいたる。試に樓上に立つて眺めやれば、雲卷くとき、天地豁然として開け、波は遙に連つて、浙西に至れかははばま切はちひちつしんあんかうこうたかたつば、河幅が愈よ大きくなる。そして、亂流は相聚まつて、新安江口に注ぎ、北の方には、嚴子陵の釣をこちらおとにThてうだいせいてんへきうんらした早瀨が、彼處かとばかり指點せられる。子陵の釣臺は、晴天の碧雲の中に彷彿として見え、はるだごさうれいあけたいなんゆうくわいけいdeし古しへの吳都たかに、蒼嶺と相對して居る。南方會稽の遊も、これで一先づ濟んだ處から、次第に、し: : :のほ135あひだでんざん名る蘇州の方に來り、やがて、姑蘇の遺墟に上つた。すると、煙の棚引く間に、羣山の影ほの見え、五ゆほうたうさいがいミきはこころいよいca湖の水は、溝蕩として、さながら際涯なきが如く、目を極むれば、心愈よ遠く、まして、今古を俯ぎやうこうほうかんたひちやうたんかう選かちめぐ仰すれば、興亡の感に堪へず、悲歌して長嘆するばかりである。かくて、楚江の濱に楫を廻らして、*さめづにつほんかはごろもふうほう愈よ上陸したる後、鞭を揮つて、揚州に遣つて來たが、身には、珍らしい日本の裘を著し、その丰親かうぜんふせんふうぜんと55くわうりようおい上はうもんは、昂然不羣、はるかに風塵を脫出して居る。時しも五月で、この廣陵に於て、子を訪問して吳れたいろいろはなし1。づ.づ달めいくわいちよくせつあので、色色話をした。魏君は、愚圖愚圖した人ではなく、まことに、明快直截、逢つて見ると、まゆくわい14あひだしあひだたいうぜいえこんことに愉快で、日ごとに、水石の間に一所に遊んだ。その間唯だ五諸侯に遊說はしたが、百金の產をいたtぶっげんかたみ:はなはかうねいさいだに致さなかつた。わが友の楊利物といふものは、絃歌を以て民を治め、甚だ〓名があつて、江事宰びくわんかうじやういつしひと古しへの山季倫と華すべき人物である。えといふ微官に居るが、その高情逸思は、その人は興に乘じて2まなせいふくまい一たび來たことがあるが、子が君を愛するを知つて、少からず敬服して居た。君は、何時又ここに來ろうだい◎やくぞ! $ :かず:ざいあひだるか、仙人の居る樓臺に往くといふ約束もあらうし、その東窓に翳せる綠玉の樹も、君の不在の間でうえだ눅またてんだんさんかひとびとなんちだい焼わらだに、三五條の枝を生じたであらう。又天壇山下の人人は、汝の歸ること甚だ遲きを笑つて、浮世に墮(第はやかた115ゑんべつ落したと言ひ囃して居るかも知れぬ。それにつけても、早く歸る方が善いが、予は、遠別を爲すを惜ほうぜんかなしえしらがあたまかか!ぶくわうかるづけつみ、茫然として心に悲むを禁じ得す、今より後、白髪頭を抱へて、君を思ふことは、黃河の水の決しだんぜつinて斷絕せぬが如くであらう。しふちういうすうきだんらくわかむたへうしゆつ【餘論】この詩も、集中有數の長篇である處から、王琦は、特に段落を分ち、一一大意を標出して居る。すなはいたぶんL魏萬の文を愛し、古を好み、しかも、に卽ち起首より因窺洞天門に至るまでは、王屋に隱居することを美いたすうそうあひと글じよ「あ楽滋滋鮮しても電敷ふ論」ともよくは、その営業より当地るよこふえいか一しんうんきんくわしよめい永學より逸與吾額對に无るまでは、その台州よお海になんで、水邊徧ねく縉雲·金華の諸名あそ둘じいたいた勝に遊ぶの事を敍し、稍稍來吳都より且知我愛君に至るまでは、その姑蘇より廣陵に至つて柵a술じ·五〇か、あひわかじょ見るの事を敍し、君來幾何時より白首長相思に至るまでは、その山に還つて相別るるを敍したので、だんちくせつぜん30みだぶんしようじやうひどうけんっうぎよひ段落は、截然として、決して紊れて居ない。嚴滄浪は「一篇記遊の文、勝情飛動す」といひ、乾隆御批にかれ口じよぶんさは「彼の述ぶるところに就いて、鋪敍文を成し、その曲折に因り、緯するに佳句を以てし、大に、帆ヒョーてんみづいたまへんちうさんすゐしぜんふうけい湘に隨つて轉じ、水到り、渠成るの〓あり」といつて居る。篇中の山水自然の風景を敍した處は、李せんぢやうほと:00にんほたじふんがう白獨特の擅場で、殆んど、他に比類なく、且つ他人の話を敍して、必ずしも、境地と分毫の差なきを送送王屋山人親萬遞王屋井序
李太白集卷十五え要せざるに因つて、筆端、窘束するところなく、愈よ其勝を擅にして居る。この詩にも、ちよいちいまちよい異同があるが、卽十路創李北海、巖開謝廉樂を、一本には嶺路始北海、嚴詩題康樂に作り、?がん揚升菴は、この詩を引いて、遠尋惡溪去、不憚惡溪惡、途傳李北海、灘聞謝廉樂に作り、巖の字をはげいしゆつサイトき以て誤として居るが、矢張、本文に揭出したのが一番善いやうである。それから、李白の此詩に對rき恣居として、魏萬の和作があるので、それは、金陵酬輪林謫仙子」と題し、卽ち左の通りである。君抱碧海珠。我懷藍田玉。各稱希代寶。萬里遙相燭。長卿慕蘭久。子猷意己深。平生風雲人。暗合江海心。去秋忽乘興。命駕來東土。謫仙遊梁園。愛子在 〓〓。二處一不見。拂衣向江東〇五兩挂 淮月。扁舟隨海風。南遊吳越徧。高揖二千石。雪上天台山。春逢翰林伯。宣父敬項棄林宗重黃生。一長復一少。相看如弟兄。惕然意不盡。更遂西南去。同舟入秦淮。建業龍蟠處。楚歌對吳酒。借問承恩初。宮買長門賦。天迎驅馬車。才高世難容。道廢可推命。安石重播妓。子房空謝病。金陵百萬戶。六代帝王都。虎石踞西江。鍾山臨北湖。湖山信爲美。王屋人相待。應爲歧路多。不知歳寒在。君遊早晩還。勿久風塵間。此別未遠別。秋期到仙山。上し:これを本詩と同じく解釋すると善いが、大に紙數を增加するから、止むを得ず、ここには見合せる。へいくわんもかうじやうおよたうじだいわか輕〓しかし、兩詩を併觀すると、二人の交情及び當時行旅の次第などが、すつかり分るから、決して、ま輕しく看過してはならぬ。てうぜうちやうろcop豈送當塗趙少府赴長蘆當塗趙少府の長蘆に赴くを送る6€i建客を送つて輕前を囘す。我來揚都市。送客囘輕知。我は揚都の市に來り、(三)五百因誇楚太子。便観廣陵濤。因つて楚の太子に誇り、便ち廣陵の濤を観る。@仙尉趙家玉。英風凌四豪。rコLu仙尉、超家の玉、英風、四豪を凌ぐ。古維舟至長蘆。目送煙雲高。たか舟を維いで長蘆に至り、目送す煙雲の高きを。6 F搖扇對酒樓。持袂把蟹螯。な扇を搖かして酒樓に對し、袂を持して蟹螯を把る。も屋をちやうえう前途儘相思。登嶽一長謠。前途儘し相思はば、登嶽一長謠せよ。【字解】S揭部卽ち揚州。S輕剝廣額に「船は小船なり」とある。30便報廣陵濤枚乘の七發に「楚の太子、疾あり、吳客、往いて之を問ふ。客曰く、將に八月の望を以て、諸侯遠方の交遊兄弟と竝に往き、濤を廣陵の曲江に觀むとす」とある。E仙尉陶弘景の痙鶴銘に「丹陽の仙尉、江陰の眞宰」とある。漢の梅福、南昌の尉となり、人傳へて以て仙去と爲す。尉を稱して仙尉といふは、これに本づく。E四豪信陵、平原、孟嘗、春申、戰國の末、客を好んだ人人達をいふ。把蟹整世說に「畢茂世云ふ、一手に蟹整を持し、一手に酒杯を持し、酒池の中に拍遊すれば、便ち一生を了るに足る」とある。G長諸王琦の解に「趙最前の精茂齊に與ふる書に、むかし、李叟、秦に入り、關に及びて嘆じ、藥生、越に適さ、岳に登つて長議す。夫れ墓通の擧を以て、猶ほ戀恨を愉く、況んや、巳むを得ざるものをや。李善の註、老子の嘆、秦に入るが爲ならず、梁鴻の長諸、前に適くに由らず、且つ復た郊に至るを以て關に及ぶとなし、郎に升るを岳に登ると爲す、斯れ、蓋し、意を取つて文を略するなり、太白、送送當塗趙少府赴長蘆
李太集卷十五引用して義を取る、又此に異なり、古人用事の法を窺ふべし」とある。わうきばたうじちやうろちやうろけんかほくだうきうしうなちやうろちん【題義】王琦の解に「唐時、二の長蘆あり。一は是れ長蘆縣、河北道の滄州に隸す。一は是れ長蘆鎭、わいなんだ?がふけんなんりくはっそうにふしよくきしんしうはつ6Hえんちやうる淮南道、揚州の六合縣南二十五里に在り、陸放翁の入蜀記に曰く、眞州を發し、瓜步山を過ぎ、長蘆じのとろうたふちようふくかうめんべうびsi줄おそむしい寺を望む、樓塔重複、江面渺瀰際なく、殊に畏るべし。李太白の詩に云ふ、維舟至長蘆、目送煙雲りくがふちやうろしたうとげんあてうぼう중高、是れなりと。すなはち、これ六合の長蘆を謂ふなり」とある。この詩は、當塗縣尉たりし趙某の長でんにんお蘆に轉任するを送つたのである。いまやうしうしところ품きためこぶこきてせきじん·むし【詩意】われ今揚州の市に來た處が、客を送るが爲に、小舟を漕ぎ戾した。客は、昔人が楚の太子に向つて誤つたやうに、くわうりょうなみみため〓なんほう도きてけんこれから、廣陵の濤を觀むが爲に、遠く南方へ往くとの事である。客は、縣しよくさいさうびなてうしれんじやうたまひえいふうえしの尉の職に居る。その才藻の美は、名だたる趙氏速域の壁に比すべく、その英風は、四君を凌ぐばかりしうかうひおくちやうろたうちやく合つとteたかえんうんたかくて、舟行日を送り、やがて、長蘆に到著して、舟を維ぐとき、囘顧すれば、空に高く煙雲の立ちくそうたちにしゆろうたもとまだてこいつこめたるを目送する。かくて、扇を搖かしつつ酒樓に對し、袂を捲くつて蟹を手にすれば、定めて逸きょうかぎきざきおいよお一CHE興限りなきことであらう。しかし、行く先先に於て、ひよつと予を思ひ出たならば、山に登つて、-ちやうえうこころよたび長謠を試みるが善からう。けつさく3:0しようこうはん法とじやう【餘論】この詩は、傑作を以て稱すべきものではないが、後半、維舟至長蘆以下は、極めて餘情あほんしゆつて、さすがに凡手ではない。こうはん後半、維舟至長蘆以下は、法とじやう極めて餘情あいうじんゑつもうさんすゐた出、送友人尋越中山水友人の越中の山水を尋ぬるを送る(一)けいざんPressしやかくさいよろ聞道稽山去。偏宜謝客才。聞くならく、稽山に去ると、偏に謝客の才に宜し。千巖泉瀧落.萬壑樹榮廻.がんいづみさいちくばんがくじゆえいくわい千巖、泉灑落、萬壑、樹、禁廻とうかいしんゆうよこたせいりようゑつだいめぐ東海横秦望。西陵繞越臺。東海、秦望橫はり、西陵、越臺を繞る。亡さみづうみ:さうきやうあかつきなみしろ雪山來る。湖〓霜鏡曉。濤白雪山來。湖は〓し雙鏡の曉は白くくち@ぐわつほいじょうごちやうかんさかづき八月枚乘筆。三吳張翰杯。八月 枚 乘の筆、三吳張翰の杯。このうちいつきようおほさうぽんてんだいむか此中多逸興。早晩向天台。此中逸興多し、早晩、天台に向はむ。【字解】E稽山、謝客鍾嶸の詩品に「錢塘の杜明師、夜、東南に人あり、來つて其館に入ると夢む、この夕、謝靈運、會稽に生まる。旬日にして謝玄亡ぶ、家、子孫得難きを以て、靈運を杜の治所に送つて、之を養はしめ、十五、方に都に這る。故に客見と名づく」とある。S千巖萬壑前に見ゆ。3秦望水經註に「秦望山は、州城の正南に在り、衆峰の傑たり、境を〓つて便ち見はる」といひ、史記に「秦の始皇、これに登り、以て南海を望み、平地より以て山頂を取る七里、懸發孤危、徑路險絕、蕭を擊ぢ、葛を捫し、然る後、龍く山に升る。上に草木なし、當に地週に風多きの致すところに由るべし」とある。3西陵水経註に「新江又固陵城北を徑す。むかし、范盡、城を新江の濱に築き、以て固守すべしと言ひ、これを固陵といふ、今の西陵なり」とあり、方輿勝覽に「西興渡は、瀧山縣西十二里に在り、本名西陵、吳越武肅王、吉語に非ざるを以て、改めて西興といふ」とある。CI越臺述異記に「勾賤、四方の士を延き、臺を外に作つて之に館す、今會稽山に越王臺あり」とあり、一統志に「越王臺は、舊と種山の東北に在り、越王勾踐登眺の所、宋の汪綱復た建つ、山の西麓に在り」とある。霜鏡太平御覽に「王義之云ふ、山陰道上を行く每に、鏡中に遊ぶ送送友人等越中山水
李太白集卷十五が如しと。王献之、鏡湖澄澈、〓流瀉注するを望んで、乃ち云ふ、山川の美、人をして應接に暇あらざらしむ」とある。C八月枚乘筆七發中、觀濤の事を用ふ、すでに前に見ゆ。公三吳張輪杯管書に「張輪は、吳郡吳の人なり、心に任かせて自適し、當世に求めず、曰く、我をして身後の名を有せしむるも、卽時一杯の酒に如かず」とある。しいうじんれたんかたゑつちうさんすゐたづためしゆつはつおく【題義】この詩は、友人が南の方越中の山水を尊ねむが爲に出發するのを送ったのであうけたままけいざん;しやれいうんえんここかれおな【詩意】承はれば、君は稽山の方へ往かれるさうで、その地は、元と謝霊運に緣故のある處、彼と同ま:ねしよはやともそくわいけいさんすゐがんしうまほんがくながれじき才ある君にも、亦た大に宜しかるべき筈である。抑も、會稽山水の美は、千巖秀を競ひ、萬壑流をめんたとがんあひだせいせんそそおほんがくたこ, yみづ爭ふといつた通りで、その千巖の間には、〓泉が注ぎ落ち、萬壑の底には、樹が茂つて、そこを水がめぐながとうかいしんほうぎんへだよこたせいりようゑつわうだいあぐあるし禁り流れる。それから、東海は素望山を隔てて橫はり、西陵は越王臺を繞り、いづれも、好位置を占のほかくべつてうほうですさうきやうあかつきe쿨めて居るから、そこへ登れば、格別の眺望が出來る。湖水は、澄み切つて、霜鏡の曉に開くが如く、ばいじよう550しほみ雪山が押し寄せ來るかと疑ばれる。うたがこ눙よ八月の頃、濤は白くして、むかし、枚乘は、ここで潮を觀て、賦?まそのせんしようっちやうかんまたしミごかへを作つたといふが、さもあるべきことで、君も其先蹤を繼ぐべく、張翰は、又故國なる吳に歸つて、そくじいいもためし:かうじやう土そのとほなにとくわいけいさんするゆたおい卽時一杯の酒を樂んだといふが、君の高情も、亦た其通りである。何は兎もあれ、會稽山水の間に於てきようおほなてんだいさんほどとほこあいっは、逸與多かるべく、そして、名だたる天台山も、程遠からぬ處に在るが、何時そこに往かれるか、まけつかんきやくなこれも、亦た決して開却しては成らぬ。くわいけいさんすゐまrえんツしあつ6た【餘論】會稽の山水は、前に魏萬を送る詩中に詳しく述べ立ててあつたが、ここのは、わづかに六句、ここのは、わづかに六句、けいしょう?かんせつきえくんどへつくわみおのおの춘しかも、それで景勝を盡して居るのは、まことに簡切の極で、前詩と併觀して、各その妙を味ふべしゆだんじんじやうようりうしよきけいりんせんひやうたいはくてんく、これは、もとより大家の手段で、尋常庸流の庶幾すべきところではない。桂臨川の評に「太白天言いへういつちやうりつほふどせいげんだってせいこつほろ才飄逸、長律法度整嚴と雖も、しかも〓骨泯びず」とある。送族弟凝之滁求婚崔氏ぞくていぎよう:えさいし:へ族弟凝の滌に之きて婚を崔氏に求むるを送るせん與爾情不淺。なんぢじやうあさ2忘筌已得魚。れ爾と情淺からず、筌を忘れて、すでに魚を得たり。玉臺挂寶鏡。持此意何如.ぎよくだいはうきやうかニ=いたん玉臺、寶鏡を挂く、此を持して意何如。坦腹東牀下。由來志氣疎。たんおくとうしやう1·心しそ坦腹、東牀の下、由來、志氣疎なり。はるかしかうぜんcom ! 5さだa遙知向前路。擲果定盈車。くるま遙に知る、向前の路、果を擲つて、定めて、aくるま車に盈たむ。【字解】S忘筌莊子に「筌は魚に在る所以、魚を得て筌を忘る。歸は兎に在る所以、兎を得て歸を忘る。言ふは、意に在る所以、意を得て言を忘る、吾、安んぞ夫の忘言の人を得て之と言はじや」とあつて、陸德明の註に埃、香草なり、以て魚に餌すべ6。或は云ふ、果を水中に積み、魚をして依つて食はしむ。一に云ふ魚筍なり」とある。3玉臺世說に「温公、婦を表ふ。從站到氏の家、亂に値うて離散す、唯だ一女あり、甚だ姿慧あり、站以て公に屬して婚を覚む。公、害に自ら婚するの意あり、答へて曰く、佳塔得難し、但だ崎の比の如き何と云ふ、と。站、これを諸す。後、公、姑に報じて曰く、巳に婚を得る處を覓めたり、と。因つて、玉鏡臺一枚を下す、站大に喜ぶ。すでに、婚して、禮を交ふるや、文、手を以て、紗肩を披き、掌を拊つて笑つて曰く、送送族第凝之激求婚崔氏
李太集卷十五我、もとより是れ老奴の玉鏡產なるを疑ふ、と。これ、公が劉越石の長史となり、北、劉聰を征して得るところ」とある。3坦腹、東牀王義之の故事、前に見ゆ。三郷果世說註に「語林に曰く、潘安仁、至つて美、行く每に、老嫗、果を以て之に擲ち、車に滿つ」とある。こけつこん崔氏と結婚する爲に、こけつこんみち【題義】この詩は、從弟の李凝といふものが、崔氏と結婚する爲に、滌州に之くのを送つたので、唐なんだう時の滁州は、淮南道に屬して居た。:せいらいじやうふかテ【詩意】汝も亦た生來情の深い者である。そこで、今度は、旅行の爲の旅行ではなく、全く婚娶の爲1ぜんやをんげうはCOSに出かけるので、魚を得れば、もとより筌を忘れても善い。むかし、溫嶠は、玉鏡臺一枚を以て、望〓むすめ:はうきやうわざわざの通り、從姑の女を娶つたといふが、汝も亦た玉臺に寶鏡を挂け、態態それを持つて往つて、どうしいわうぎ: :とにう太やうと思つて居るのか。それから、王羲之は、坦腹して、東牀の下に臥し、志氣疎放なる處から、たと2尉都鑒に見立てられて、その女を要つたといふが、汝の人物を以てすれば、先方でも、屹度これを鑒%だ一と海;識して、容易に話が運ぶであらう。但し、これより往く先先、かの潘岳の如く、老婆までが、その容:灣늘か貌の美なるに看ほれて、果を擲つて車に盈つることもあらうが、そんな事には、頓著せず、早く、彼の地に往くが善からう。かうhあんしやをんけう【餘論】起二句は、この行、婚要を主とすることを暗寫し、三四の二句は、溫嶠の故事で、此方よりFヒられた1 ii意あることを言ひ、五六の二句は、王義之の故事で、先方より話を進ませるといふことを言ひ、表裏み滌州に之くのを送つたので、ち唐a차で相得て、この行の目的が容易に遂げられるといふ、極めて御目出たい結構である。七八二句は、聊か화謔意を帶びて、その餘波としたのである。大體、あつさりして居る割合に、故事の運旋が面白く、〇き寸氣が利いた作である。いうじんreれ送友人遊梅湖友人の梅湖に遊ぶを送るまみ送君遊梅湖。應見梅花發。お:はいくわ담君が梅湖に遊ぶを送る。應に梅花の發くを見るなるべし。有使寄我來。無令紅芳歇。2018使あり、我に寄せて來る、紅芳をして歌ましむる無かれ。hit〃さだ暫行新林浦.定醉金陵月. 3暫く行く新林浦、定めて醉はむ金陵の月。(三)目だ노もおんぢん号莫惜一雁書。音塵坐胡越。一雁の書を惜んで、音塵、胡越に坐せしむる莫れ。【字解】【一】有使寄我來太平御覽に「〓州記に曰く、陸凱、范暉と友とし善し、江南より梅花一枝を寄せ、長安に詣らしめて譚に與へ、井せて詩を贈つて曰く、折梅逢驛使、寄與醜頭人、江南無所有、聊罰一枝春」とある。【三】新林浦胡三省の通鑑註「新林浦は、今の建康城を去る二十里、西、白鷺洲に値る」とある。S一雁書王琦の解に「詩人、腫書を用ふ、悉く漢書蘇武傳中旬奴を誑くの事を用ふ、實に其事あるに非ざるなり」とある。胡越胡は北に在り、越は南に在り、以て間隔して相聞せざるの意に喰ふ。かいL ;ばいこはこ【題義]王琦の解に「初學記、始與に梅湖あり。北堂書鈔に、地里志に云ふ、梅湖は、むかし梅筏あ送送友人遊梅湖六一一L ;ばいこ始與に梅湖あり。はこ梅湖は、六一一北堂書鈔に、地里志に云ふ、むかし梅筏あ
李太白集牛十五みづうみしづごいはるいたはなeもとながし詩内、ないしんりん後新林浦、金〓りこの湖に沈み、時あつて浮び出で、春に至れば、花を開いて滿湖に流ると、りようのつきくもてあそまきんりようあひちかしいうじんぽうひとあそ陵月の句を玩べば、この地は、當に、金陵と相近かるべし」とあり。この詩は、友人某の梅湖に遊ぶ安を送つて作つたのである。:はいこゅそのかうれかのちき【詩意】君は、これから梅湖へ行くさうで、ここに其行を送るのであるが、やがて、彼地に著したな〓たし内ところなおはいくわteみらば、處の名にし負ふ梅花の開くを見るであらう。その時は、使に託して、われに一枝を贈らるべく、しんりんはさだ愚圖愚圖して居て、ぐづム折角の紅芳を散らして仕舞つてはならぬ。せつかくこうはっし:かくて、暫らく新林浦を過ぎ、定め:がんたminしよをしおんしんた$音信絕さんりよう上われをして、て、金陵の月に酔ふであらうが、その時も、亦た雁に託する一封の書を惜んで、ゑつやうまななこゆること、さながら朝越のやうたといふ樣な想を爲きしめぬやうにして貰ひたしょこうはうなこうだんきんりよう【餘論】ぜんだん前段、ばいこ梅湖に至るときは、いた一枝を寄せて紅芳をして歇ましむる無かれといふ。後段、金陵にいたがんしよをしにらまいどなながれんぞくもじま둘至りては、一雁の書を惜んで、胡越の想を爲さしむる勿れといふので、連續して類似せる二つの事をれんげつheたた聯結して、一首に敲き上げたのである。こてんぢくじあそお(崔十二の天竺寺に遊ぶを送るむ:とうゑつKてんちくじ還た聞く天竺寺、夢想、東越を懷ふ。まいねんかいじゆし記してしうげつ30毎年、海樹の霜、桂子、秋月に落つ。送崔十二遊天竺寺還聞天竺寺.夢想懷東越; (三)毎年海樹霜。桂子落秋月。送君遊此地。己屬流芳歇。まこのちあそまりうはうやに君が此地に遊ぶを送る、すでに流芳の歇むに屬す。@待我來歲行。相隨浮溟渤まわらいさいゆあひしたがあいぼつうか待て我が來歲行き、相隨つて、溟渤に浮ぶを。【字解】S天竺寺題義の條に見ゆ。S東越杭州は春秋の時、越に屬し、そして、東方に當るが故に東越といつたので、史漢に東〓を稱して東越といへるとは、異なつて居るから、混同してはならぬ。g桂子落秋月成淳臨安志に「舊俗、傳ふるところ、墜桂子、唯だ天竺素より之あり、唐の天寶中、寺前の一子、樹を成す、今月桂峰あり。刺史白居易の詩に云ふ、宿因月桂落、辭爲海梅開註に云ふ、天竺、かつて、月中に桂子あつて落つ、と。又東城桂の詩に云ふ、子隨本從ニ天竺寺、裡盤今在國関城、註に云ふ、舊說、杭州天竺寺、毎歲秋中月桂子あつて墜つと。又刺史虛公輔の詩に云ふ、遠容偏求月桂子、老僧不誌石蓮花」とある。三溟南溟は溟海、渤は散海、矢張、大海と見れば大差は無い。かんじゆんりんあんしてんぢくじよかうしようせつひらいほう.えせんむにぼんそうゑ【題義】咸淳臨安志に「天竺寺は、餘杭の勝利なり、飛來峰は武林の奇慮なり。晉時、梵僧慧理、こすなはりやうじゆうれいしいされとしとこたミいたしやくかゐんおの山を指し、乃ち靈鷲の一小嶺、知らず、何の年か飛び來つて、此に至るといひ、錫を挂け、院を置:ほんきやう:かいくわうちほふししんくわんひろゆうたてんぢくじ33せつき、初め翻經といふ。隋の開皇中、法師眞觀、これを廣め、改めて天竺寺となす」とある。王琦の說にあんかうしうてんなくじじやうてんかくじせきしんてんおくかん日だうよくぜんじいR in「按ずるに、杭州天竺寺に三あり、上天竺寺は、石音の天福間より創し、道翊禪師、異木を得、刻してだいし以て大(なごゑっこむつ33 :これほうてんぢくくわんおんかんきやうゐんぢ士像と爲し、吳越の忠懿王、その地に卽き、佛廬を創して之を奉じ、天竺觀音看經院と號するちうてんぢくじ:たいへいこうこくそわんねんさまごゑつわうはうしやうぜんじだうぢやうきうしっなもの、是れなり。中天竺寺は、宋の太平與國元年より創し、吳越王、寳掌禪師の道場舊址に卽いて改せんすうじゃゐんがうかてんぢくじ:かいくわうちう:しんくわんほふしAほんきやうゐん建し、崇壽院と號するもの、是れなり。下天竺寺は、隋の開皇中より創し、眞觀法師、慧理、翻經院かしけんみなみてんぢくじがうじやうちうじみなたういごたはじめに卽いて改建し、南天竺寺と號するもの、是れなり。上中二寺は、皆唐以後建つるところ、その始、送送崔十二遊天竺寺六一三
李太白集卷十五:てんぢくじなおうてんぢくじきたいかてんぜくしにてんせくじい亦た天竺寺の名なし、唐の天竺寺は、乃ち今の下天竺なり」とある。この詩は、崔十二の天竺寺に遊:こぶを送つて作つたのである。またてんぢくじなな時に2/4承ないうすゐ【詩意】又しても、天竺寺といふ名を聞けば、夢寐の間にも東越の地を懷ふので、その地は、幽邃を·ぶつじEおいまいねんかいへんLにかつらみ極めて、まことに佛寺たるにふさはしい。その寺に於ては、毎年、海邊の木に霜の降る頃、桂の實がなか一たきみ萬あそじせつわるりうはうしほ月の中から降るといふことである。唯だ君が此地に遊ぶのには、稍や時節が惡く、流芳すでに凋み、: 1/なかくべつふうけいじにんよらいねん秋も末に成つて、格別の風景もないと思はれるのが遺憾である。しかし、子は、來年、その地に往つまたいかいだよていみそのつもとうりうて、君とともに、大海に乘り出す豫定であるから、君も、其積りで、しばらく逗留して待つて居て貰ひたい。せんほくかごそのきようおくところさくしやほんしよくべつけん【餘論】この詩は、淺薄ではあるが、一氣呵成に、其胸臆を抒べた處に、作者の本色が瞥見される。にてんせくじい崔十二の天竺寺に遊きたいかてんぜく乃ち今の下天竺なり」とある。しこの詩は、せんほく淺薄ではあるが、かご一氣呵成に、そのきようおくところ其胸臆を抒べた處に、さくしやほんしよくべつけん作者の本色が瞥見される。この詩は、やうさんじんてんだいかにおく楊山人の天台に歸るを送るたてんだいぷとうかうみちてうこつ客に天台を思ふあり、東行、路超忽。なみ4せつかうあり1なあきらにー濤は落つ浙江の秋、沙は明かに浦陽の月。こんいう1 & aゑつだ今遊、方に楚を厭ひ、昨夢、先づ越に歸る。送楊山人歸天台行路超忽。客有思天台。東濤落浙江秋。沙明浦陽月。Cu今遊方厭楚。昨夢先歸越. (四)へいしよくくわん?じりようしん且つ乘燭の歡を盡す、なはつ且盡秉燭歡.無辭凌晨發。辭する無かれ凌晨に發するを。我家小阮賢。部竹赤城邊。わいせうげんえたけせきじやうBE我が家、小阮の賢、竹を剖く、赤城の邊。しじんおほ최官燭未曾然。くねんしふくいまかっ詩人多見重。詩人多く重んぜらる。官燭未だ曾て然やさず。(九)きようとこん둘はんかい広もよほ興引登山展。情催泛海船。興は登山の展を引き、情は泛海の船を催す。石。如如可度。攜手弄雲煙。せきげうわたておきでうんえんろう石橋もし度るべくんば、手を攜へて、雲煙を弄せよ。【字解】S超忽遠き貌。E浙江元和郡縣志に「新工は、杭州錢塘縣の南十二里に在り。莊子に新河といふ、蓋し、その曲折に取つて名と爲す。江濤、毎日、晝夜再び上り、常に月の十日、二十五日を以て最小とし、月の三日、十八日を最大とす。小なれば、水、漸く涵ること、數尺に過ぎず。大なれば、濤湧いて、高さ敷丈に至る。毎年八月十八日、數百里の士女、ともに舟人漁子の溝に派り濃に觸るるを見る、これを弄濤といふ」とある。3浦陽會稽志に「浦陽江は、源.婺州の浦陽に出で、北流一百二十里、諸豐縣溪に入り、又東北流し、峽山より直に臨浦灣に入り、以て海に至る、俗、小江と名づけ、一名錢〓江」とある。乘燭歡古詩十九首に晝短苦ニ長い何不乗燭遊とある。3小阮阮籍の姪阮成、後人仍つて姪を小阮といふ。王琦の說に「文獻通考、唐の李嘉祐、別名從一、趙州の人、天寶七年の進士、祕書正字袁台二州刺史となる、善く詩を爲り、綺靡婉屋、齊梁の風あり、時に以て吳均何週に比すと云ふ。唐詩記事、李嘉祐は、上元中、かつて台州刺史となり、大層の間、袁州に劇とし、嚴維、劉長國、冷朝陽と友とし善し。嘉祐、從叔陽冰を送り、從第軒及び姪端に寄するの筒あり、蓋し三子の族なり」とある。すると、この小阮は李嘉祐であらう。剖竹割符を裂いて刺史となること。F赤城前に見ゆ。〓官燭官より給せらるる蠟燭。C登山展謝靈運の用ひたもので、前に見ゆ。ci泛海營書に「謝安、かつて孫綽等と海に泛ぶ。風起り、浪湧き、諸人竝に懼る、安、吟噛自如たり、丹人、安を以て悅ぶとなし、猶は去つて止まず、風、轉た急なり。安、徐に曰く、かくの如きは、將に何にか歸らむとすると。送送楊山人歸天台
李太白集卷十五舟人、言を承けて、郎ち同る、衆、その雅量に服す」とある。目石橋法苑珠林に「天台、石橋ありて、潤に跨ると雖も、しかも橫石人を斷ち、且つ蕪苔青滑、終古より以來、至るを得るものなし」とある。しやうさんじんてんだいだ皮うついか달わかさんじん【題義】この詩は、楊山人の天台に歸るを送つたのである。楊は、如何なる人か分らぬが、山人とい, aしくわんさんちういんきよzかうせつしふ上は、終に仕官せず、山中に隱居して居た高節の士であらう。やうさんじんいまこきやうてんだいぶいこくちにとうかうゑんろいといら【詩意】楊山人は、今や故郷の天台を思ひ出で、一刻も猶豫せず。東行して遠路をたどり、愈よ其地こtせつかうあまさたけたはくわんたうさうくわん王者に歸るとのことであるが、その途すがら、浙江、秋正に闌にして、觀濤の壯觀もあらうし、又浦CすなしろところっきせいぜつBroまいそテあそ陽浦口、沙白き處に月が映じて、〓絕なる眺もあらう。君は、今まで、この楚國に遊んで居たが、あし ぜん145ゑつたいのu口大法その故國なる越まり久しきに互つた爲に、自然あきが來て、前夜の夢には、に歸り、さめての後に、にはかだンえたミまなラムしよくとぶ俄に思ひ定めて、今次歸國の旅を爲すものと見えた。しかし、今夜だけは、せめて燭を乗つて、十分えん? :ねむレりようしんほはやしゆつたつよをひに歡を盡し、あしたの朝は、すこし眠いかも知れぬが、凌晨の頃に早く出立するが善からう。わが姪わたらたいしゆせきじやうざんRTBゐせいらいしよひとおは、恰も其地に太守となつて、赤城山の邊に居るが、性來、詩を能くするを以て、人に重んぜられ、まただいれんもつせいなけつくわんぶつ동なあつねれじんぶつふう又〓廉以て性と爲し、決して、官物を濫費することなどは無く、まことに、天晴の人物。その上、風きょういたしやれいうんまなえ:っいつじやう沙丘かいろこころ古しへの謝靈運を學んで、と流の心がけもあつて、興至れば、登山の展を著け、逸情に催されては、海おそじんふつ:かうさいよ둘bニなみ少しも恐れない。上に舟を泛べて、波などは、かういふ人物であるから、君も、交際されたら善いのおとてんだいせきけうわたてちょうわたこころけいざんで、音に聞く天台の石橋が、もし渡れるものならば、手を攜へて、これを渡り、心しづかに、溪山の石橋ありて、潤に跨ると雖も、しかいか달わか如何なる人か分らぬが、さんじん山人というんえんるつぶつぞわいたのしみほしいままよ雲煙を弄して、物外の樂を縱にしたら善からう。ぜんほんそうべつにんじこうはんぜうてつそうかい【餘論】前半は送別の本意、後半は小姪を紹介したので、慶文相得て、しぜんかうけつこう自然の好結構を爲して居る。をんしよしくわうざんはくがほうきうきよ中に철送溫處士歸黃山白鵝峰舊居溫處士の黃山白鵝峰の舊居に歸るを送る(一)くわうぎんじんれんほう黃山四千仞。三十二蓮峰。黃山四千仞、三十二の蓮峰。(三)たんがいせきちう:かんたん초1)丹崖夾石柱。菌舊金芙蓉。丹崖、石柱を夾む、菌苔、金美蓉。(三)こむかしぜつちやうCてんもくまつら伊昔昇絕頂。下窺天目松。伊れ昔絕頂に昇り、下、天目の松を窺ふ。仙人鍊玉處、羽化留餘蹤.せんにんたまこちら,ふよしよう듣仙人玉を鍊るの處、羽化、餘蹤を留む。(六をんはくせつどくわういまあひあ亦聞溫伯雪。獨往今相逢。亦た聞く溫伯雪、獨往今相逢ふ。thれじほんちょう採秀辭五嶽。攀巖歷萬重。とい秀を採つて五嶽を辭し、巖を撃ちて萬重を歷たり。歸休白鵝嶺。渴飮丹砂井.はくがたかつのたんさご歸休す白鵝嶺、渴しては飮む丹砂井。,〇一たしうんしや鳳吹我時來、雲車爾當整。ほうすゐわれ놓きたたくち:ととな風吹、我、時に來る。雲車、爾當に整ふべし。(一二)去去陵陽東。行行芳桂叢。きよきよりょうやつおじしかうかうはうけいくさだら去去陵陽の東、行行芳桂の叢送送溫處土師百
李太白卷十五(一三)廻溪十六度。碧嶂盡晴空.他日還相訪.乘橋躡彩虹。へきしやうことごとせいくう碧嶂盡く晴空。はしむら橋に乘じて、彩虹を躡まむ。たにめぐと溪を廻ること十六度、た55あと他日、還た相訪はば、【字解】【一】四千仞、三十二峰題義の條に見ゆ。E菌舊說文に「未だ最かざるを菌首となし、すでに發くを芙蓉となす」とある。こ天目太平寰宇記に「杭州於潜麻に天目山あり、上に兩湖あり、左右の目の若し。故に天目と名づくるなり。山極めて高峻、上に美石泉水名茶多し」とあろ。E鍊玉處山志に「鍊丹峰、高さ八百七十切、相傳ふ。浮邱公、丹を峰項に鍊り、八甲子を經て、丹、はじめて成る。黃帝、七粒を服し、雪煙を藉らず、空に昇つて游戯す」とある。CO羽化仙人の形を解いて去るをいふ。8溫伯雪莊子に「溫伯雪、齊に適き、反つて善に舍る。仲尼、これを見れども言はず。子路曰く、吾子、溫伯雪子を見むと欲すること久し、これを見れども言はざるは何ぞや。仲尼曰く、夫の人の若きものは、目擊して道存す、亦た以て聲を容るべからず」とある。王琦は「太白、その名を借り、以て溫處士に喩ふ、謂はゆる河東郭有道、吾友揚子雪、洛陽蘇季子、笑對劉公榮の如きの順、集中甚だ多し、皆古人の名を借り、以て今人を謂ふ」とある。C採秀秀は芝草。〓白鴎嶺題義の下に見ゆ。〓丹砂井江南通志に「黃山の殊砂泉、殊砂峰より來り、巖に依つて二小池に連る、上池は螢激、廣さ七尺ばかり、深さ之に半す、豪髪皇すべし。泉、石底より出で、彙彙貫珠の如くして細えず、氣郡静、湯の若く、これを酌めば甘芳、蓋し他の硫黃泉の比に非ざるなり。浴者、垢旋ち流出し、織塵留めす、人をして、心境〓廓、氣爽に體舒びしむ。相傳ふ、沈疴の者、澡雪すれば立どころに差ゆ」とある。col風吹笙の聲をいふ。CE)雲車水經註に「中山の奮叔卿、華山の中に居り、常に雲車に乘じ、白鹿に駕して、漢の武帝に見ゆ」とある。CT)陸陽元和郡縣志に「陵陽山は、宜州涇縣の西南百三十里に在り、陵陽子明、仙を得る處」とある。CIO廻額曲調に同じCI乗橋山志に「天橋は鎌丹臺に在り、一名仙人橋、黃山の最險たり。兩峰絕ゆる處、各增石を出し、彼此相抵り、筍の綾するが若きあり、接して合はず、職くに似て斷ゆるが若く、登るもの、嘆じて奇絕と爲さざるなし」とある。王琦は「國經に載するが若きは、唐の開元中、鍊丹峰側に見はる。長さ三十餘丈と。近代謂ふ、蓮花峰の西南に見はると。又謂ふ、藥を採る人あり、橋下に宿し、橋上笙歌の聲を聞き、天明、橋を覓むれども見えず。皆虚誕信ならず、石橋、固より眞境、幻境に非ざるなり。方拱乾の避黃山記に、獅子峰を過ぎ、清凉臺に登り、天橋を瞰る、長虹の如く、巖の上に亙る、下りて、親ら積側に至れば、三石合成、兩石、橋柱の如く、一石これを覆ひ、柱下著くるところなく、繩を以て度るべし、上脊、五寸に盈たず、下大に岡しく、都城團の如く、俯して鳴絃泉を視る、恰も之を覆ふ、ここを去る四十里なるを知らざるなりと。乗橋顯彩虹は、蓋し天橋彩虹の如きを指すのみ。又武夷山記に、武夷君、八月十五日に於て、大に村人を武夷山上に會し、較事を置き、虹橋に化し、以て山下に通ずと。これ彩虹を以て、橋の以て乘原すべきものと爲す、又一說なり」とある。52しょうらんくわうざんきうめいえいざんせいほくたか【題義】方輿勝覽に黃山、舊名は夥山、徹州歙縣の西北一百二十八里に在り、高さ一千一百八十〓としやてん1かつたかせんきふy·ならびこのやま切」とあり、郡志に「その山、天を摩し日を憂するの高さあり、宣歙池饒江等の州の山、竝に是れ此山しみやくしよほうさ: iえんらんかぎりらいうむたかじやうどうしつがんとうぼくぜんみねの支脈。諸峰削成するが如きあり、煙嵐際なく、雷雨下に在り。その霞城洞室巖寶瀑泉は、峰としてれいぜんさんせいてほくちうたくのたいくわざん:〇あらざるなく、信に靈仙の窟宅。山勢西北中坼、これを望めば、太華山に類す。峰三十六あり、そのするげんまたらがんみづながくだ:あはせつかうみなもとだい水源亦た三十六、溪二十四、洞十有二、巖八、水流れ下り、揚の水を合せて浙江の源となる。第四峰にうるb i a上つたくわっていがめいようせいしふ:おな泉あり、沸いて湯の如く、常に殊砂を湧かす。世傳ふ、黃帝、かつて駕を命じ、容成子浮邱と同じくおまたせんにんさうげんたらけわうせつくわうざんづあん游び、丹を此に合す、その後、又仙人曹元の屬あり」とある。それから、王琦の說に「黃山圖を按ずじ#もんほううでいれいゆうにあしぎんせうげうurたまなもつとらるに、白鵝峰は石門峰鳥泥嶺の間に在り。志に云ふ、吟嘯橋は、白鵝嶺下に在り、名最も著はると。せんぼくさいいははしいまはくが造りはあけだ錢牧齋曰く、李白に送溫處士歸黃山白鷄峰の詩あり、今白鵝峰は三十六峰の列に在らず、蓋し三BラみなたかほかしよほうたかじんもRyほうしよほう十六峰は、皆高さ七百仞以上、その外、諸峰高さ二三百仞なるものは與からず、白鵝峰も亦た諸峰の送送溫處士歸黃山白鶏峰舊居
李太白集卷十五らしいロサ一なり」とある。それから、此詩の起首に黃山四千仞、三十二蓮峰とあるが、それに就いても、王琦せつなくわうぎんしさいなんしょざんくわうざんこたかにあんくわうざんしょほうもつと最は說を爲し「黃山志、江以南の諸山、黃山を最とす、その高さ四千仞と。按ずるに、黃山の諸峰、も高きもの、志に九百仞と稱す、ましじんしよう四千仞とは、じん大抵山麓の平地よりして、之を淮擬す。たいていさんろくFS元じゆんずしょしよみない諸書皆言ふ、くわう黃xみね밥灣はくしたらけだ明たういぜんいまな山の峰三十有六と。而して、白の詩、只だ三十有二といふ。蓋し四峰は唐以前未だ名あらざるなり」くわうぎんはくがほうきりきよかへただ논たつれきじんしをんしよし溫處士が黃山なる白鷄峰の富居に歸るのを送つたのである。とある。この詩は、但し、處士の関歷人ふつとうじ둘さいわか物等は、例の如く、一切分らぬ。くわうざんなんゆうめいざんfたかじんたん(5)たけ【詩意】黃山は、南方の名山であつて、平地より高きこと四千仞、そして、その山彙中には、蓮花のたちにみねおほさんくらゐせきしよくだんがいせきちう:はすinteむらがあひだこんじき形せる峰が、三十二の多きを算する位。赤色の断屋は、石柱を夾み、として、連の荅の族る間から、金色ふよういやう上そのぜつちやうのぼした15てんもくずんちやうまつの芙蓉が咲き出でた樣に見える。予も、かつて其絕頂に登つたが、はるか下の方に天目山頂の松が、ふきうこうせんたんねところげんぜんそんうくわしようてんな륜ちらほら見えた。そして、浮邱公が仙丹を鍊つた處は、儼然として存し、その羽化昇天せし名殘を留あはくわいこおもひしやうをんしよし달モ=よこうめ、併せて、懐古の想を生ぜしめる。溫處士は、獨りで其處へ往かうといふので、予は、ここで、其がくしすこいはほんちょうけんひと人に遇つた。聞けば、五嶽に分けズつて、芝草を採り、巖を攀ぢて萬重の陰を歷めぐつたといふが、こたと今度は、Ryu白鵝峰下の舊居に歸休するとのことで、ほうかきうきよま渴しては、かつしゆさ殊砂を吹き出す彼の霊泉を飮み、小だかれいせん心のどこころかに、せんじゆつ仙術の修行をすることであらう。しゆぎやう予は、しやう笙を吹いて風吹を學び、+ほうするまな時時その地に往くこともあらときどきめいせんきよころしようりようやうさんちういあたたうんしやまいんよこころみ古しへの子明が仙去した處と稱する陵陽山中に入しうから、汝は、雲車を用意して置くが善い。試に、はうけいくさむらところちくけいりうくつきよくとせふり、行く行く芳桂の叢をなせる處を過ぎ行くと、一道の溪流、しきりに屈曲し、これを徒涉すること十六〓くあーへきしやうぞくぞくぜんせいくうらぜつきうぜつふうけい仰ぎ見れば、碧嶂は、簇簇然として、晴空に羅列し、まことに奇絕壯絕の風景を見ることがでたじつまととところ〓すなてんけうandきやくか出來る。そこで、他日、君を訪うた時には、これ等の處を行き過ぎて、名だたる天橋に上り、脚下にさいこうかうせう彩虹を躡んで浩嘯しやう。どうか、その積りで、待つて居て吳れろ。くわうぎんがいけい:そういうをんしよし【餘論】起四句は黄山の〓景、伊昔昇絕頂の四句は、李白の曾遊、亦聞溫伯雪の六句は、溫處士の歸:たじつさうはうへけつこうきんけん훌休、風吹我時來の八句は、他日の相訪を約したので、結構緊健にして、よく纏まつて居る。かういふ題はきいムよごあひだおいsぜんせつえしぜんせんき화目は、李白の得意とするところで、不用意の間に於ても、筆致の雋絕を得、自然仙氣を帶びて居る。5cてうそうとうへいたく方士超更の東平に之くを送るちやうさうばんどうしきぜんぎう長桑晩に洞視、五藏に全牛なし。てうそうひ30あいし〓あそ趙叟、祕訣を得、還た方士に從つて遊ぶ。酉くわくりんだいすためこうきうpe獲麟臺を過ぎなば、我が爲に孔丘を弔へ。にさんぜん別を念ひ復た古しへを懷へば、おむななんだなが潸然として空しく涙流る。史記に「扁鶴、少時、人の舍長たり。會客長桑君過ぐ、局鶴、六二一送方士趙叟之東平(一) (三)長桑晩洞視.五藏無全牛。趙叟得祕訣。還從方士遊.西過獲麟臺。爲我弔孔丘。念別復懷古。潜然空淚流.【字解】【一】長桑隱者で扁韻に方を授けた人。送送方士趙叟之東平ひとり之を奇と
李太白集卷十五し、常に謹んで之を遇す。長桑君、亦た肩〓の常人に非ざるを知るなり。出入十餘年、乃ち扁論を呼んで、私に坐し、間に與に語つて日く、われに葉方あり、年老いて、公に傳與せむと欲す、公濯らす毋れ。局鶴曰く、敬んで諾す、と。乃ち懷中の藥を出し、局鶴に與へて飲ましむ、是れ上池の水を以てす、三十日、當に物を知るべし、と。乃ち悉くその禁方の書を取つて、盡く局歸に與へ、忽然見えず、殆んど人に非ざるなり。局鵠、その言を以て、藥を飮み、三十日、垣を視るや、一方人を見、これを以て痢を視、盡く五臟癥結を見、特に診脈を以て名と爲すのみ」とある。【三】五蔵心肝脾肺腎を併稱す。3全牛莊子に「庖丁曰く、はじめ、臣、牛を解くの時、見るところ、牛に非ざるものなし、三年の後、未だ嘗て全牛を見ざるなり、今の時に方り、臣,神を以て遇うて、目を以て視ず」とある。三寝麟臺左傳に「西、大野に狩す、叔孫氏の車子鉏商、麟を得たり、以て不詳となし、以て虞人に屬ふ。仲尼、これをててくく麟なりと。然る後、これを取る」とあり、史記正義に「括地志に云ふ、護麟堆は、〓州飯野縣東十二里に在り。國都城記に云ふ、鉅野故城の東十里、澤中に土臺あり、廣輪四五十步、俗に獲麟堆といふ、魯城を去ること三百餘里ばかり」とあり、一統志に「捜麟臺は、鉅野縣東南五十里に在り、卽ち西狩獲麟の所、後人ここに於て臺を築く」とある。ことしはうじゆつ탈しトほうぜんしとえんせいかいじやうとうに555ったしんせん【題義】方士は方術の人、史記の封禪書に「燕齊海上の方士、その術を傳ふ」とある。すると、神仙むらう:さほんぎのちはうぎすなはいじゆつをさ달の術を修むるものを指したのが、本義であるが、後には、方技、卽ち醫術を修むる人をも言つたのでもちろんいじゆつしんせんれんたんはふたうしよきんせつくわんけいたうじよちしがなんある。勿論、醫術と神仙鍊丹の法とは、當初、緊接なる關係があつたのである。唐書地理志に「河南だううんしうとうへいでんしいかてうそうとうへいおく道に鄆州東平郡あり」と記してある。この詩は、醫家の超更といふものが東平に往くのを送つたので、ふちめいじけいれきとうれい[さいわか叟の名字經歷等は、例の如く、一切分らない。ちやうさう달へんじやくせんせいいじゆつたちしよう갈날もうねんまた【詩長桑といふ人は、扁鵲の先生で、醫術の開祖と稱すべき人、その人は、老年になると、愈よそのぎたつげやうげんどうし달ぎう=にみわちやうどはうていねん其技に達し、すべて病源を洞視し、人の五臟でも、すつかり個個に見分けることが丁度、庖丁が三年に:ぜんぎうみ:いまでうそう날ちやうさうひyeことごとつたの後、未だ嘗て全牛を見ざるなりといつた樣である。今超叟といふ人は、長桑の祕訣を悉く傳へたとしく〓なにちひたなとうへいはう正に、これから、方士に從つて、愈よ其技を〓磨せむが爲に、東平の方へ往くとのことである。かくかんぶん豚丼くわくりんだいすろあいこうま¥2えところためこうして、獲麟臺を過ぎたならば、そこは、魯の哀公の時、麟を獲た處で、その爲に、孔子が感憤しゆんじうつくくらゐなめひこうしとむらそ:えんじやうづつして春秋を作つたといふ位であるから、わが爲に、是非、孔子を弔つて吳れろ。ここ祖席の筵上、別かなみだむななが兼ねて古しへの事を思ふと、굴さんぜんを念ひ、清然として、涙が空しく流れる。たれおもしろぜん方士に切實であるが、しせつじつ【餘論】前四句は、後四句は、誰にでも流用が出來るので、さばかり、面白くぜんたいぶ〓あいさつもない。全體に於て、あまりの氣乘りがせぬやうで、いはば、通り一べんの挨拶に過ぎぬものであらう。かんじゆんはいせいこうきうほやまかへた送韓準。裴政.孔巢父還山.韓準·表政·孔巢父の山に還るを送る獵客張兎買。れふかくとしはりようこかカニ不能挂龍虎。獵客、兎置を張るも、龍虎を挂くる能はず。せいうん달にぎだこん所以靑雲人。高歌在巖戶。·靑雲の人、高歌して、巖戶に在る所以。韓しんえいげんBLUせいしん〓さ韓生信英彥。裴子含〓眞。信に英彥、表子、〓眞を含む。しうしゆつふしたし孔侯復秀出。倶與雲霞親こうこうま孔侯、復た秀出、ともに雲霞と親む。送送韓準表政孔葉父置山六二三六二三
李太白集卷十五酸節凌遠松:同〓臥盤石斧氷嗽寒泉三子同二展;時時或乘興。往往雲無心。出山揖牧伯。長嘯輕衣簪昨宵夢裏還.云弄竹溪月。(今晨魯東門。帳飮與君別。雪崖滑去馬。蘿徑迷歸人。C相思若煙草。歷亂無冬春。しゆんせつゑんしようしのどうきんひたくき峻節、遠松を凌ぎ、同衾、聲石に臥す。おのかんせんくちすすおなこほり氷に斧して寒泉に嗽ぎ、三子、二履を同じくす。じじあるひきょう통わうわうくこころ時時或は興に乘じ、往往、雲に心なし。ぼくはくにちやうせういしんかろ:い山を出でて、牧伯に揖し、長嘯、衣箸を輕んず。さくせうひごいちくけいしろう昨宵、夢裏に還り、云ふ竹溪の月を弄すと。こんしんろとうもんちやういんきみわか今晨魯の東門、帳飮君と別る。毒1なめらかこ.じん±'去馬滑に、蘿徑、歸人を迷はしむ。さうしえんさう클れきちんとうしゆん相思、煙草の若く、歷亂、冬春なし。【字解】【一】兎置詩の國風に見ゆ。兎網。3文選李善註に「聲〓に云ふ、盤は大石なり」とある。CO斧氷競武帝の苦寒行に擔嚢行取新、斧氷持作ととるるに本づき、氷を斧で打破ること。三牧伯尙書正義に「曲禮に曰く、九州の長を牧といふ。王創に曰く、千里の外、方伯を設く、八州八伯と。然らば、牧伯は一で、伯は一州の長といふこと、牧は下民を牧養するといふ義」鄭玄は「殷の州收を伯といひ、虞夏及び周には牧といふ」とあつて、後人が太守を稱して牧伯といふは、これに本づく。3帳飮頸地に輾を張つて飮むこと。【六】雪崖雪の降り積れる崖壁。G歷亂整はざる觀。くたうじょこうさうほし)ひあざなじやくをうはやむて尾まつに少時、かんじゆん韓準·装政·はいせい李白·,いちやう張【題義】舊唐書に「孔巢父は、冀州の人、字は弱翁、早く文史を動め、かんじゆん韓準·装政·はいせい李白·,いちやう張【題義】しゆくめいたうべんそらいざんいて1ちくけいらづつえいわうりんこかうわいだけん叔明·陶酒とともに徂徠山に隱れ、時に竹溪の六逸と號す。永王瑛の兵を江淮に起すや、その賢を聞じうじこのこさうほあたたP ,しみ底はprp〓よなき、從事を以て之を辟す。巢父、その必ず敗るるを知り、身を側てて潜に遁る、これに由つて、名をとくそうほうてんみゆききふじちうかちうせんくわとうしうせうたうしうつっぎよしたいふかr役知らる。德宗の奉天に幸するや、給事中河中陝華等州招討使に遷り、尋いで、御史大夫を兼ね、魏博ごんあがいかんじゆんはいせいしみこうさうほにん李白のもないと宣慰使に充てられ、害に遭ふ」とある。して見ると、韓準·表政·孔巢父の三人は、游び仲間たきにんうちそろこミきざんっか,최(ため를このし{であつたのが、今次、三人打揃つて故國に歸山するに就いて、その行を送るが爲に、特に此詩を作つたのである。かりうどうさぎあみはむろんiとりようこそのあみからとでりようこ【詩意】獵人が兎網を張ると、無論、兎は取れるが、龍虎を其網に搦め取ることは出來ない。龍虎はうさぎをやうところ+をすところたしもとより、兎などの居る樣な處には住んで居らぬもので、それにつけても、住む處を擇ぶといふことだいかんえうせいうんこうざししんせんこちらまたほうSamは、第一に肝要である。されば、靑雲の志があつて、神仙の道を學ばむと欲するものは、高歌してがんこ皮だたわかんじゆんまことえいせんはいせいせいじやうte信に英〓の才士であるし、巖戶の間に隱るるを例として居る。ここに、我が友の韓準は、裴政は性情せいしんこうさうほいたましけつしゆつみん뇬にんしゆんせつゑんざんまつしの〓眞、孔巢父に至りては、更に傑出し、ともに、雲霞と親んで居る。三人の峻節は、遠山の松をも凌ぐかうさいきはしんみつLANE衾を同じうして大石の上おなこあのこほりたたわん、、そして、交際は、極めて親密であつて、に臥し、斧で氷を敲き破つて、かんせんくちす·天にんにんぶんもくげききようようくらゐまきようじようぢうきよで寒泉に嗽ぎ、又三人で二人分の木履を共用して居る位。時としては、興に乘じて、その住居から出てくbyいおなひしん來ることもあるが、さながら、雲の岫を出づると同じく、もとより、無心である。それで、山を出るしうぼくちやういふかうせういしんかろにんげんしやくろくなんぶと、州牧に長揖し、しかも、浩嘯して、衣簪を輕んじ、人間の爵祿などは、何とも思はない。予は、送送韓準表政孔業父還山六二五
李太白集卷十五!ひ:おいかれらきつきよかへちくけい;もてあそ昨夜、夢中に於て、彼等の舊居に歸るに遇つたが、ともに竹溪の月を弄んだとのことであつた。聞おのおのてL〓こんてううとうもんぐわい外に於て、そだうえん:じょうま1·けば、各、その故國に歸山するとのことで、今朝、魯の東門祖道の宴を設け、愈よ君と別れな1 :ゆおじょは¥はけんることに成つた。今しも、寒い盛りで、雪を帶びたる崖路は、馬も滑り易く、甚だ危險であるから、ちうい上きうざんひさくわうぶまかシむらつたかづら최よくよく注意するが善いし、舊山も、久しく荒蕪に任せてあつたから、定めて、徑路には蔦蘿が生ひし도bctしよくんじやうけむ歸人を迷はすことであらう。1たさうし: in冬茂つて、別後、諸君に對する相思の情は、さながら煙れる草の如く、じみだゐといはず、春といはず、四時ともに、離離として亂れて居る。しいたにんじんぶつかうずがふじよかんりやくほ【餘論】起首より長嘯輕衣箸に至るまでは、三人の人物交誼を合敍したので、簡略ではあるが、略ニはうんつcいかそうべつほんびげんさうらうさうしじやうなぼ之を彷彿せしめる。次に、昨宵夢裏還以下八句が、送別の本意である。嚴滄浪は「相思、狀を爲しがたひとうつえこ〓濃げんしけつご꿀花すくな難し、これ獨り寫し得て極めて眞、極めて現、李詩結語、かくの如きは亦た甚だ少し」といつて、そしうそくよじやうげきしやうの收束の餘情あるを激賞して居る。やうせうふせんおもむたく楊少府の選に赴くを送るたいこくかうきやうおてんちcarじゆんべい大國に衡鏡を置き、天地の心を準平す。でんけんじやじんらうかんせいしんこ華賢に邪人なく、朗鑒、〓深を窮む。送楊少府赴選大國置衡鏡.平平天地心。羣賢無邪人。朗鑒窮〓深。〓吾君詠南風〓〓彈鳴琴。時泰多美士。京國會纓簪。B山苗落稠底。幽松出高岑。せ夫子有盛才。主司得球琳。6流水非鄭曲。前行遇知音衣工剪綺繡。一誤傷千金。何惜刀尺餘。不裁寒女〓。我非彈冠者。感別但開襟空谷無白駒賢人豈悲吟。大道安棄物。時來或招尋.一一爾見山吏部。當應無陸沈。なんぶうごえwめいさんだん吾が君、南風を詠じ、衰冕、鳴琴を彈ず。ときたひらかびしごげいこくえいしんくわい時秦にして美士多く、京國、纓箸を會す。さんべうかんていいうしようかうしん山苗、硼底に落ち、幽松、高岑に出づ。〓せいさいしゆしきうりん〓夫子、盛才あり、主司、球琳を得たり。りうすゐいきよくこぜんかういんあ流水、鄭曲に非ず、前行、知音に遇ふ。:きLyえいた衣工、綺繡を剪り、誤、千金を傷む。なんをしたうせき上かんぢょえこ何ぞ惜まむ刀尺の餘、寒女の衾を裁せず。mだんくわん:あらProかんた: ES我は彈冠の者に非ず、別に感じて但だ襟を開く。くうこくはくくけんじんあひえ空谷に白駒なし、賢人豈に悲吟せむや。たいだう: 18とききたたらせうじん大道、棄物を安んじ、時來つて或は招尋せる。なんぢみさんり:りくちん爾見よ、山吏部、當に陸沈なかるべし。【字解】E食品庾信の代人乞致仕表に出擁干施、入參術鏡とあつて、人を送衡する時の評議。S期望陸機の詩に期鹽豈遺假とあつて、副は明、聖は鏡、矢張明鏡の職、その鑒識の誤らざること。3詠南風淮南子に「舜、天子となり、送送楊少府赴還六二七
李太白集卷十五五粒の琴を彈じ、南風の詩を歌うて、天下治まる」とある。〓衰晃偏禮に「天子は衰晃、斧依を負ふ」とあり、左傳に我是献理とあつて、杜預の註に「褒は畫衣なり、晃は冠なり」孔穎達の正義に「畫衣とは、龍を衣に畫くを謂ふなり」毛萇詩傳に「褒晃は君の上服なり」とある。3櫻善公卿に同じ。山苜落爾底左思の詠史に鬱鬱爾底松、離離山上苗とあつて、以て世胃、高位を脈み、英俊、下僚に沈むの意を異起す、そして、太白は之を反用して、以て才器に因つて、高下各〓その宜しきを得せしむべきに喩へたのである。【七】球琳淮南子に「西北方の美なるもの、崑崙の球琳琅玕あり」とあつて、高誘の註に「球非琅玕は皆美玉なり」とある。〓流水呂氏春秋に「伯牙琴を鼓し、鍾子期、これを聴く。志、流水に在り。子期曰く、善いかな、琴を鼓する、湯湯乎として流水の若し」とある。돈鄭曲史記に「鄰膏の曲、動いて心淫」とある。CO1彈冠漢書に「王吉、貢禹と友たり、世に稱す、王陽位に在れば、貫禹冠を彈すと。その取舎同じきを言ふなり」とある。CI白駒毛萇の詩傳に「白駒は、大夫、宜王を刺るなり。宣王の末、賢を用ふる能はず、賢人、白駒に乗じて去るものあり。その末章に云ふ、峽峽白駒、在彼谷谷、生芻一東、其人如玉、金玉爾普、而有〓心心とある。cit山吏部管書に「山濤、吏部尙書となり、前後選擧、內外に周編して、竝に其才を得たり。濤の奏するところ、人物を頸拔して、各題目と爲す、時に山公の啓事と稱す」とある。(tit)陸沈莊子に「是れ陸沈する者なり」とあつて、郭象の註に「人中の隱者、水なくして沈むに譬ふるなり」とある。しけんゐやうぼうせんぎじやうきやうれせん=そのしよくた政【題義】この詩は、縣尉魯某が還に赴いて上京するのを送つたので、選とは、能く其職に任へて、たらみやこのたくわんしよくえいせん績彰著なる處から、これを選んで都に上せ、そして、他の官職に榮遷せしめることである。たいこくせんかうしよくいたひたるissじゆんべいつ【詩意】大國には銓衝の職があつて、偏頗なく、天地の心に準平せしむることを務め、すべて、そのくわんかなとうようぐんけんかんねいぜうじんかんべつせいしん官に稱ふものは、どしどしと登庸する。かくて、羣賢の中には奸佞の小人なく、その鑑別も、〓深をことぐしゆん굴なんぶうし:名甘だくらんせんぼくはうこん古しへの虞舜の如く、極め、決して、濁亂淺薄のものではない。方今の天子は、南風の詩を歌うて、政てんかおのづかhatそわいくわんべんめいおんときたひらしおほ天下自ら治まり、畫衣冠冕を召して、鳴琴を聞いて居られる。かくて、時平かにして、美才の士多く、けいこくこうけいSipいくわんふそむさんべう퇴かんていあ京國には、公卿を會して、さすがに、衣冠の府たるに負かない。もとより、山苗は落ちて潤底に在るいうしようかうしん〓君よろかな時んて、幽松は高岑の上に植ゑらるべきもので、才器に從つて、高下、その宜しきに稱ふべき筈であやうくんせいさいまじやうしせんきよあつぼれびぎよくちんせき''る。楊君は、盛才あるが故に、上司は、これを選擧し、天晴の美玉に比して、珍惜して措かず。かのRyだんミてい急いいんわいかんしも놓ひ伯牙の彈じたる流水の曲は、鄭衞淫猥の音ではなく、子期に非ざれば、これを賞する人もないが、:さいはひちいん날こんじせん: =でしたいも君は、幸に知音の人に遇つて、今次選に赴くので、まことに、御目出たいことである。かの仕立屋がた달おとたえだたんせ上た錦繡綺羅を裁つときに、一たび誤つて裁ち損ひをすれば、千金を臺なしにするので、刀尺の餘の裁ちいかほんしつたふとかんちよやなじんさいせんきよ屑では、如何に本質が尊くても、寒女の夜具にさへ成らない。これにつけても、人材を選擧するといらい둘またせんあたつた以上は、いよいつとこうめいふうふのも、容易な事ではなく、又選に當愈よ勉めねばならない。われは、固より、功名富ち〓いかりつしんかんむりだんあひけい:わかれ貴に意なく、知人が如何に立身した處で、冠を彈じて相慶するといふ樣なことはないが、ここに別をなこ六りrこころおふんいやけんた爲すに際し、襟を開いて、心に思ふことを十分に述べるのである。今しも、野に遺賢なく、從つて、ひとけんじんぎんひつえうげんす÷s :o白駒で空谷に乘り込むやうな人を見ざれば、賢人も悲吟する必要がない。世間に棄てられた不過の者だいだう1:せうじん는さんたうth :とうよう古しへの山滿も大道に安んじ、やがて、時が來れば、招尋される。君を登庸した主司は、さながら、inひとをみづしづいUいんとんなはずさいかんの如く、かういふ人が居れば、水なくして沈む樣に、無理に隱遞するものも無い筈である。君の才幹せいせいこんごいよいごを以て、この盛世に遇つたのであるから、今後愈よ務めねばなるまい。送送楊少府赴還
李太白集卷十五せんきよしんせいしん【餘論】大國置術術の四句は選擧の眞精神を述べ、吾君詠南風やうぜうふ÷,んそうべつほんオの八句は、楊少府の赴選、我非彈冠者は送別の本意である。屋はの六句は刻下の治世、夫子有盛對雪.奉餞任城六父秩滿歸京なじんじやうちつみぱいだはなだけたてまつ雪に對し、任城の六父、秩滿ちて京に歸るを餞し奉るこべんさくしやゑんちんあしたつかさど龍虎謝鞭策.鵺鸞不司晨.龍虎、鞭策を謝し、勉鶯は晨を司らず。まんどかいじやうつるろうちうさいいづれ君看海上鶴.何似籠中鶉。君看よ海上の鶴、籠中の鶉に何似。말いたらこころふうんすなはb獨用天地心。浮雲乃吾身。獨り天地の心を用ふれば、浮雲乃ち吾が身。ちになにてえんかしたし꿀雖將簪組狎。若與煙霞親簪組を將て狎るると雖も、煙霞と親むが若し。えいふうはくびじやうりんこ季父有英風。白眉超常倫。季父、英風あり、白眉、常倫に超ゆ。むだつ一官卽夢寐。脫雇歸西秦。んはたびしせいしんだ一日、卽ち夢寐、展を脫して西秦に歸る。(賣公敵華筵。墨客盡來臻。くわえんしやうぼくかくことごと:に竇公、華筵〓たり、墨客盡く來り臻る。した〓(れ) (一〇)むらにがんおともいきよくやうしゆんか.燕歌落胡雁。郢曲廻陽春。燕歌、胡雁を落し、郢曲、陽春を廻す。征馬百度嘶.遊車動行塵。またどいなないうしやかうぢんき征馬百度嘶き、遊車、行塵を動かす。いしざu躊躇未忍去。戀此四座人。躊躇して未だ去るに忍びず、この四座の人を戀ふ。はをむげおつま릍べつをしむないんぎん餞離駐高駕。惜別空慇懃。離を饒して、高駕を駐め、別を惜んで、空しく慇懃。何時竹林下。更與步兵鄰.いづれtちくりんまはなた何の時か、竹林の下、更に步兵と鄰らむ。【字解】【一】純鸞不司農抱朴子に「麟は守を吠えず、風は農を司らず」とある。3浮雪乃吾身維摩詰經に「是れ、身、浮雲の如し、須臾變滅す」とある。3白眉蜀志に「馬良、字は季常、兄弟五人、竝に才名あり、郷里、これが諺を爲して曰く、馬氏の五常、白眉最も良し、と。良の眉中に白毛あり、故に以て之を稱す」とある。3脫歷競志に「崔林、國州刺史となる、日刺史の此州を去るを視る、展を脫するが如し、寧ろ當に相累はすべきか」とあつて、胡三省の解に「履の盟を歸まざろを歷といム.脫するの易きを言ふのみ」とある。C寶公その人不詳。C散開く。C蒸歌古樂府に蒸歌行といふがあつて、李善の文選註に「歌錢に曰く、蒸は地名、猶ほ是宛の類のごとしと。樂府古題要解、燕歌行、晉樂奏、魏の文帝、秋風蕭瑟天氣涼、別日何易會日羅の二篇、時序遷換、しかも、行役歸らず、佳人怨讀、訴ふるところなきをいふなり」とある。〓落胡雁その聲の精妙、能く飛鳥をして、これを感じて、下集せしむろをいふ。(C)郵曲客に郵中に歌ふものあり、その曲彌よ高く、その和彌よ寡し、すでに前に見ゆ。CO1廻陽春その番の美、能く陽氣をして之に應じて潘勳せしむるをいふ。CI征馬江淹の別賦に驅征馬而不願、見行塵之時起とある。CII何時竹林下營書に「阮成、任逸拘はらず、叔父籍に從つて竹林の避を爲す」とある。ここでは阮籍を以て六父に、阮威を以て自ら比したのである。ていかうせいにんせんかうき:じんじやう+はしゆく【題義】鄭廉成の毛詩箋に「儀は、行を送つて酒を飮むなり」とある。任城六父といふは、李白の叔〓はいかうだいあたじんじやうけんれい날ちつまん七十六父で、排行第六に當り、そして、任城の縣令であつた人と見える。秩滿は、任期の滿つること。このし→じんじやうけんれいしゆくふほうにんきみためじやうきやうおく詩は、雪に對して、任城縣令たりし叔父の某が任期滿ちた爲に、上京するを送つたのである。送對雪奉議任城六父秩滿歸京
李太白集卷十五:屋にはとり【詩意】龍虎は、もとより神靈あつて、馬の如く鞭策を受くべきものではなく、鶯風は雞の樣に晨を12司つて鳴くものではない。されば、海上の鶴は、もとより籠中の鶉と比すべきものでない。つまり、しくわんおもひ人にして高情あるものは、區區として、俸祿の爲に仕官して、窮屈な想を爲すべきものではない。わ달ゅたいれは獨り天地の成り行に任かせ、この身を視ること、浮雲の如く、たとひ、公卿輩と交際した處で、ほんしんらしゆくふえいふうきやうだいちう둘その本心は、煙霞と親み、出世間的願望を有して居る。わが叔父は、英風あつて、兄弟中、殊にすぐひさひびごとにんきみれたものとして知られ、久しく、牧民の官に居たが、さながら夢寐の如く、ここに任期が滿ちたといたつた蹴られる。ふので、その職を去ること、履を脫すると同じく、今次、愈よ、西、長安にそこで、寶公と날えんせきeぶんじんぼくかくせきじやうえんかかっ:いふ人が、爲に宴席を開かれ、風流の文人墨客どもは、盡く來會された。その席上、燕歌行を歌へば、元一せいめうがん*えいひとたその聲の精妙、胡雁を感じて、地に落ち來らしむべく、郢人の高調は、陽氣をして春に囘さしむべく、:00 : ,しゆつたつせいはせいしや意よ以て座席の興を添へた。それから、愈よ出立せむとするに就いて、征馬は、百たびも嘶き、征車ふ; :は、路上の塵を動かし、しきりに、催促する樣な氣色であるが、君は、躊躇して、なほ去らず、このBふaかつはなむけ륜わかれ四座の人を戀うて、別るるに忍びないやうである。予は、君の行を餞して、ここに駕を駐め、別を惜げんかんきいんぎんじやう風古しへの阮威に比すべきもので、んで、空しく、慇懃の情を盡した。予は、さながら、何の時か、竹えご¥したがた林の下に至り、叔父の阮籍に從つて遊ぶことが出來るか、唯だ其日を待つのみである。じ【餘論】龍皮謝、策策の四句は高人の官累を受くべからざることを言ひ、獨用天地心の四句は自分줄늘の事、季父有英風の四句は六父の事、竇公敵華筵の四句は離筵の事、じこ둥c :じ出立、餞離の四句は自己惜別の情を敍したので、竹林歩兵の一故事は、仕ゐてきせつあるから、この場合に極めて適切である。征馬百度噺の四句は、六父の叔姪の關係に本づいたものでさてこ500魯郡堯祠送吳五之瑯琊れ魯郡の堯祠にて吳五の瑯琊に之くを送るart堯沒三千歲。靑松古廟存。こ堯沒する三千歳、賣食、古廟存す。送行奠桂酒拜〓れ、けいしゆまひしんこん舞〓心魂。:行を送つて桂酒を奠し、舞を拜して心魂を〓うす。日色促歸人。連歌倒芳樽。Econo Bry日起、歸人を促し、連歌、芳樽を倒す。馬嘶倶醉起.分手更何言。를わかl馬嘶いて、倶に醉起、手を分つ、更に何をか言はむ。【字解】E奠桂酒楚辭に其桂酒兮椒葉とあつて、王逸註に「桂を切つて酒中に置くなり」とある。3心魂何用苦心魂に本づく。E芳樽劉孝綽の芳樽散ニ〓寒に本づく。E分手謝瞻の分手東城圖に本づく。【字解】E奠桂酒楚辭に其桂酒兮椒葉とあつて、王逸註に「桂を切つて酒中に置くなり」とある。3心魂江淹の請、何用苦心魂に本づく。E芳樽劉孝綽の芳樽散ニ〓寒に本づく。E分手謝瞻の分手東城圖に本づく。いえんしう£い¥【題義】通典に「魯郡は今の竟州、瑯琊郡は今の沂州」とあり、太平寰宇記に「堯祠は竟州瑕丘縣のBEぶ달こだ東南七里に在り」とある。この詩は、魯郡の堯祠に於て、吳五といふ人の瑯琊に還るを送つたのであるが、吳五その人の事は、一切分らぬ。送書郡堯岡送吳五之郵那心魂江淹の請、
李太白集卷十五かつていげうほうねんせいしようあひだ=じげんぜんそん君の行を送ま【詩意】帝堯崩じて、すでに三千年、靑松の間に古廟が儼然として存して居る。ここに、あけいしゆ홍?でんないまひ:しゆくぼくさうちようようしんこん호る爲に、桂酒を薦め、次に、殿內に舞を奏するを見ると、肅穆莊重の容、まことに心魂を〓うするばにつしよくゆふ도;ごと上しか忘はうそんかりである。やがて、日色夕ならむとして、歸人を促すが如く、仍つて頻りに離歌を唱へて、芳樽をたふとかたらうまいただすあちうたきみあわ:のなてわか倒した。兎角する内に、馬が嘶いたから、ともに醉中より起ち、君は違てて馬に上り、愈よ手を分つなあんぜんinありさまに際しては、黯然として言葉なき有樣である。げんほっまげんながたげんさっちろこれむすり「別情抗壯、【餘論】嚴滄浪は、之を評して言なからむと欲するも、更に言を爲し難し」といつた。まげんながた更に言を爲し難し」といつた。魯郡堯祠。送竇明府薄華還西京ろxげうしとうめい二はくくわせいけいだおく魯郡の堯祠に寶明府薄華の西京に還るを送るあした,び:むちう朝に犁眉の關に策ち、【字解】【一】單層驕十六國春富ちからた秋に「姚嚢、乗するところの駿馬を鞭を擧げて力堪へず。藍眉驕といふ、日に行くこと千里」レしうしつたすいづれたらg强ひて愁疾を扶けて、何の處にか向ふ。とあり、說文に「騙は黃馬黒喙なり、かくきんび六げうしみなみ雜は黒なり」とあるから、犂眉騒と堯祠南。角巾微服、堯祠の南。いへば、黄馬にして黑眉なるもの、ちやうやうは長楊、地を掃うて日を見ず。古しへ翠と黨と通用した。【二】朝策犁眉關。擧鞭力不堪。强扶愁疾向何處。角巾微服堯祠南。G長楊掃地不見日.いづれたらg何の處にか向ふ。なきんさたしせきちんふ石門噴作金沙潭。石門噴いて作る金沙の潭。またたこじんぜつきやうさ笑誇故人指絕境。笑つて誇る、故人の絕境を指すを、色靑於藍。さんくわうすゐしよく:あを山光水山光水色、藍よりも靑し。べうちうわうわう:廟中往往來擊鼓。廟中、往往、來つて鼓を擊つ、げうひしんたんとなんむし堯本無心爾何苦。堯、本と無心、爾.何ぞ苦む。もんぜんちやうきさうせきじん門前長跪雙石人.門前長脆す、雙石人、호迭た,有女如花日歌舞。女あり、花の如く、日に歌舞す。銀鞍繡〓往復廻.ぎんあんしうこく〓は銀較〓穀、往いて復た廻り、슝(1)ふうらいな株をteいし簸林蹶石鳴風雷。簸ひ、石に蹶いて、風雷を鳴らす。三んえんくうする$めいめつ遠煙空翠時明滅。遠煙空翠、時に明滅、はくおうれきらんなか:白鷗歷亂長飛雪。白鷗歷亂、長く雪を飛ばす。こうでいていしせきらんかん紅泥亭子赤欄干。紅泥の亭子赤欄干、へきりうくわんてんせいきんたん碧流環轉靑錦湍.碧流環轉す靑錦満。送魯郡覺祠送實明府薄華還西京巾·胡三省の遺鑑註に「輻巾は、橫輻を以て之を爲す。角巾は巾の角なおもの、郭林宗、雨に遇うて、巾の一角熟す。卽ち角巾」とある。【三】長楊掃地梁の情文帝の詩に長楊搭地桃花飛とある。E青於藍萄子に「青は藍より出でて、藍より青し」とある。3銀稜縮於王勃の詩に銀鞍續戰盛繁華とある。8簸林斷石西京賦に蕩川濱、簇林ととつつと、李周輪の註に「蕩簸は、搖動を謂ふ」とあり、張協の七命に顯林厭石、扣拔幽靈とあ??李善の註に「脈は動搖の貌」とある。CE縣球澤水洛陽倫藍記に「眼儀寺に池あり、京師の學徒、これを翟泉といふ、後、際士趙逸云ふこの地、是れ晉の侍中石崇の家池、池南に緣球樓ありと。ここに於六三五
李太白 菓卷十五深沈百尺洞海底。那知不有蛟龍蟠。君不見綠珠潭水も流東海。綠珠紅粉沈光彩。綠珠樓下花滿園。今日曾無一枝在。昨夜秋聲間闔來。洞庭木落騷人哀.遂將三五少年輩。登高遠望形神開.生前一笑輕九鼎。(九)魏武何悲銅雀臺。て、學徒、はじめて經過する者を悟リ、綠珠の容を想見するなり」とあり、太平寰宇記に「洛陽縣石巢の宅に綠珠樓あり、今、これを秋泉といふ」とある。〓秋聲問圖來孔頴進の春秋正義に「易緯通卦職に云ふ秋分に闇圖風至と、王叔青の顔記に、間関風、一に曰く盲風、又曰く颶風、亦た曰く泰風、成天の關國門より起り、西方より來る」とある。C22銅雀臺魏志に「建安十五年き、銅雀臺を作る、陸機の弔魏武帝文に、魏の武帝、遺令して曰く、吾が菱好玆人、皆銅雀臺に著き、臺の堂上に於て八尺の牀を施し、總帳を張り、朝哺に肺綿の屬を上り、月朝十五、輒ち帳に向つて伎を作し、汝等時時銅雀嚢に登つて、わが西陵の墓田を望め」とある。COI業配しんちんどうかい三深沈百尺、洞海の底、なしかうりようわだかま那んぞ知らむ、蛟龍の蠕るあらざるを。ま君見ずや、綠珠潭水よくしゅたんする東海に流れ、とうかいながこうふんくわうさいしづ綠珠の紅粉、光彩を沈む。りよくしゆろうかはなそのみ綠珠樓下、花、園に滿つ、こんにもかっし今日曾て一枝の在るなし。!しうせいしやうかふ津昨夜秋聲間圏より來り、どうていき회さうじんかなし洞庭木落ちて騷人哀む。Bせうねんはい遂に三五少年輩と、とうかう忌んほうけいしんひも登高遠望、形神開く。せいぜん:きうていかろ生前一笑、九鼎を輕んじ、なんまたにどろじゃくだい魏武、何ぞ悲む銅雀臺い。:われ白雲を歌うて、應腸に倚る、佐々こんたてこ爾.その聲を聞いて但だ手を揮ふ。こうよ2 :わた第長質、月を吹いて、海を度つて來る。Binぜんにん享:遙に僊人に勸む一杯の酒。:ぶんx酒中樂醋にして、實、分に向ふ、さかづきごどうき觴を擧げて堯に酪す、堯聞くべし。なんかうえう·あ;)きよく清三何ぞ皐絲をして等を擁し、八極に横へ、い。:我歌白雲倚聰腸。われ白雲を歌うて、應腸に倚る、佐々こんたてこ爾聞其聲但揮手。爾.その聲を聞いて但だ手を揮ふ。こうよ2 :わた第長風吹月度海來。長質、月を吹いて、海を度つて來る。Binぜんにん享:遙勸僊人一杯酒.遙に僊人に勸む一杯の酒。酒中樂酣〓向分。:ぶんx酒中樂醋にして、實、分に向ふ、さかづきごどうき擧觴酪堯堯可聞。觴を擧げて堯に酪す、堯聞くべし。(15 (三なんかうえう·あ;)きよく清三何不令皐絲擁等何ぞ皐絲をして等を擁し、八極に横へ、一四橫八極たちにせいてんのぼム2÷直上靑天揮浮雲直に靑天に上つて浮雲を揮はしめざる。(一かうやうせういんしん高陽小飮眞瑣瑣。高陽の小飮、眞に瑣瑣、二さんこうめいていなんわれ山公酩酊何如我。山公酩酊、何ぞ我に如かむ。(こち)きよだうはるか竹林七子去道除。竹林の七子、去道除なり、14らんていゆうひつちて浩た蘭亭雄筆安足誇。蘭亭の雄筆、安んぞ誇るに足らむ。送魯郡堯祠送實明府薄華還西京上林賦に於是酒中樂醋とあつて、顔師古の註に「酒中とは、酒を飮んで中半なり。樂醋とは、樂を奏して治れきなり」とある。三一宵向分夜半に垂んとする。CIT阜無卽ち皐陶、字異なれども、普同じく、漢書人物表に本づく。【一三】擁養漢書に「太公聲を擁す」とある、聾は、ははき。CI八極天のはて。CIO高陽水經註に「嚢陽侯習都、范蠡の養魚法に依りて、大肢を作り、破の長さ六十歩、廣さ四十步、大池の水を宅北に逗引し、小魚池を作る、池の長さ七十步、廣さ十二步、西、大道に就み、東二邊、限るに高堤を以てし、楸竹夾植、蓮灰水を覆ふ、これ游宴の名處なり」とある。cit山公前文の續きに「山季倫の嚢陽を償するや、每に此池に臨み、未だ
李太白 集卷十五一一げうしせうさつみづ堯祠笑殺五湖水.堯祠笑殺す五湖の水、ててして歸らずんばあらず。恒いいたせうすゐむなかるに言ふ、これは是れ我が高陽池、と。至今憔悴空荷花。今に至つて憔悴す空しく荷花。故に時人これが爲に歌うて曰く、山(二〇)佐々にせいしんおかわれとうゑつ爾向西秦我東越。爾は西秦に向ひ、我は東越、公出何去、往至高陽池、日暮倒載ミ灣えいしうガきんけつ歸酩町無所知と。酩酊は醉の甚暫向瀛洲訪金闕。暫く瀛洲に向つて金闕を訪ふ。しきこと。171竹林七子阮籍、らんでんたいはく香康、向秀、藍田太白若可期。藍田太白、もし期すべくんば、山藩、到伶、阮成、王よためさうさいせきじやうフ戎魏の嘉平中、竝に河南山陽に居爲余掃灑石上月。余が爲に掃灑せよ、石上の月。リ、共に竹林の遊を爲し、世に竹林の七賢と號した。(2)明治何延之の國亭始末紀に「蘭亭は、音の右將軍會稽内史瑯耶の王義之書するところの序なり。晉の程帝永和九年幕春三月三日を以て、山陰に官達し、太原の孫統、孫綽、廣漢の王彬之、陳郡の謝安、高平の郡曇、太原の王蘊、釋支遁、丼に其子凝之、散之、操之等、四十有二人と祓禊の體を山陰の蘭亭に修し、毫を揮うて序を製し、樂を興して書し、意蘭紙、鼠鬚筆を用ひ、遺孀動他、絕代更に無し」とある。じくれ五湖太湖。【二〇】東越會稽。C三瀛洲金園前に見ゆ。CIT藍田太白太平寰宇記に「藍田山は、藍田縣西三十里に在り、一名玉山、一名覆車山。郭綠生の遙征記に云ふ、山形、履車の象の如きなり、と。按するに、後魏風土記に云ふ、山崩方二里、仙聖遊集の所、劉雄鳴、道を此に學ぶ、下に祠あり、甚だ嚴、漏水の源、ここに出づ」とあり。■書編に太白山は、廊縣の東南に在り、■中の諸山、これより高きはなし、上に鐵鑄山神牌三あり、湫池あり、三伏とももたた水水山崩常に積雪あつて消えず、盛夏、これを視れば、猶ほ馴然、故に太白を以て名づく。鬼谷あり、卽ち、鬼谷子、蘇藥に搏圖の術を授くる處」とある。まへおなはし上せんげうしおいげんれいとうくねちやうあんど【題義】この詩は、前と同じ場所なる魯郡の堯祠に於て、縣令竇華といふものの、長安に歸るを送つげんれいとうくね縣令竇華といふものの、ちやうあんど長安に歸るを送つ【題義】この詩は、·だしお달:たのである。竇華は、前に任城六父を送る詩中にあつた寶公かとも思はれるが、その人の事は分らなドルじら)를きうびやうはじたい。そして、この詩は、題下の自註に「時に久病初めて起つて作る」とある。c institutingなにふんじん古しへの犁眉關にも比すべき名馬に鞭つて出かけやうと思ふが、びひでふわびやうきbyc【詩意】朝に、何分、病氣の揚句で*らたしたでむしうびしうじたの1今しも、ある爲に、鞭を擧ぐるにも力が足らず、馬をかけさせることが出來ない。無理に、愁病を扶とかくきんおそびinげうしみなゐむかけて、何處へ往くかといへば、角巾を戴き、ことさらに微服して、堯祠の南に向ふので、そこには、じますえだながだとうめいふせんえんからげうしあたり邊に於ては、しにつくれう寶明府の儀筵が開かれるからである。その堯祠の柳の枝が長く枝垂れて、日光さへも見くらゐたんせつきやうこじんむかさもんなが噴き出でて、きんさな乙えぬ位、石門から流れる水は、金沙潭と成つて居る。そこで、絕境を指して、故人に向げまたかくべつなさんくわうすゐしよくあひえいあをまたひ、なんと、この景色は、又格別では無いか、山光水色相映じて、藍よりも靑いといつた。堯祠のべうちうおいわうわうさんけいしやつづるたたそわんちいげうむしんさんけいしやなに廟中に於ては、往往、參詣者が來て、鼓を敲く。元來、堯は、無心であるのに、參詣者は、何を苦ねべうぜんせじんとひざまづたらんで、そんな眞似をするのであるか。その廟前には、二個の石人が脆いて居るし、そこら邊には、港글をんなあつまいにちか50じんこうし卷ぎんあん五分子花の如き女が聚まつて、毎日、歌舞を爲し、まことに賑かである。貴人公子輩は、銀較に跨り、補ほんわうちいしやばはやしit G4いきほひSchff穀を轉じて、しきりに往來し、そして、その車馬は、林を簸ひ、石に蹶くやうな勢で、遙に聞けふうらい違たなびけむりいろときどるめいめつみづば、風雷の鳴るやうである。眺めやれば、遠くに棚引く煙や、空翠の色は、時時明滅し、水に泛んでゐはくおうとたみにてめしあからんかん居る白國が飛びあつ時は、さながら雪の飛んだやうに見える。それから、丹塗りの亭子は、赤い欄干をまそのしたくわんてんにあをにしきしやくふかisじら繞らし、其下には、碧流がぐるりと環轉し、早瀨は、靑錦を展べたやうである。百尺の深き淵は、洞送督郡堯祠送寶明府薄華還西京달:その人の事は分らな
李太白集第十五:きっ순かうりようせわたませきすう海の底にも通ずるかと怪まれ、そこには、蛟龍が潜んで、蠕まつて居るかも知れない。むかし、石崇とうかいながあたりよくしゆたんその水は、がうくわほ恣늘まが豪華をにした時、この宅の邊には、綠珠潭といふがあつて、東海に流れて居たが、ちょうあいりよくしゆわぎはひとなこうふんよそほひくわうさいいますしづaなやがて寵愛の綠珠は、禍の本を爲し、紅粉の妝も、いつしか消え、光彩は水に沈んで、見えなく成おなりよくしゆなくれんろうしたustみだゑんちうaこんにちり、同じく綠珠てふ名を冠した樓の下には、花咲き亂れて、園中に滿ちて居たが、それも今日では、ようくわひさ를かげたAしゐこの通一枝も殘つて居ない。容華久しく駐まらず、はては、見る影も無いやうになるのは、すべて、とうあさくやしうせいさつぜんてんもん二천どうていこじやうもくえよみだ회さうじんひり。時しも秋で、昨夜秋聲颯然として天門より吹き起れば、洞庭湖上、木葉亂れ落ちて、騷人は、悲じやうせうねんはいにん동たかGゑんほううつくわいただちさん哀の情に堪へない。たそこで、少年輩を三人五人引き具し、高きに登つて遠望すれば、鬱懷直に散じせいぜんせうふけいしんEおほきうていた品ふゆて、形神ともに開くを覺える。九鼎の尊きも、物の數ではなく、生前には一笑に付し去るが善いので、〃ていくめいゐげんれんりんじうさいどうじやくだい魏の武帝など、區區として、名位に春戀して居たから、臨終の際も、銅雀臺が氣にかかつて居たのではくうんたフ:よみたんそのこゑたて=ある。われは、今、白雲に對して歌ひつつ、窓に倚つて居るので、汝は、其聲を聞いて、唯だ手を揮ちやうふうさつぜん,よひ〓ふかいじやうまたへば善い。眺めやれば、長風颯然月を吹いて海上より來り、まことに、この上もない好い景色であBishせんにん上···にgばすおんさけなかかくこゑまさたけなはるから、遙に仙人を呼び下して、一杯の酒を勸めやうと思ふ。かくて、酒半ばに、樂の聲方に酣にしよなかちかいうしやうくわうせんむかこのほこらさいしんいにていげうまて、すでに夜中に近きをも意とせず、羽觴を擧げ、黃泉に向つて、此祠の祭神たる古しへの帝堯に酒これげうこんぼくいましくらあ홈熱はたを勸めるが、は、果して之を聞くであらうか。もし堯の魂魄、未だ死せずして、これを聞く位ならかうえうめいときよくわうぜつたちせいてんえ3ば、皐陶に命じ、ははきを執つて、八極を橫絕し、直に靑天に上つて、浮雲を掃ひ盡し、かの月をしとあきらこわきようそよな〓ま行て、長しへに明かならしめ、以て我が興を添へたら善いのであるが、さうも成らぬを見ると、堯の魂いといわかさんかんかうやう上もじやうおいつういん魄は、何處へ往つたか分らないのであらう。むかし、山簡は、高陽なる習家の池上に於て痛飮したとこさんこう上こちこんにちしゆきようほしいまいふが、それは、まことに瑣瑣たる事で、山公が醉ひつぶれたといつた處で、今日わが酒興を縱にすたうていおよちくりんけんしやうがいはふうりうはうたん恣いどこいしるのには、到底及ぶまい。竹林の七賢は、風流放誕の生涯をにしたが、今は何處へ往つて仕舞つ;しらんていしうけいゆうひつ5つそのじょワチ늘03たか、王義之は、蘭亭に修禊し、雄筆を以て其序を書いて、千古に傳へて居るが、そんな事は、決したて釋るに足らぬ第たはんれい=최古しへ范盡が卅を泛べて2ことである。ここに、堯祠に立つて、はるかに五湖を思ひ、とわらこんにちに:せうするほすはなのこ:遠く去つたことを笑ふので、今日、湖中には、憔悴したる運の花が殘つて居るばかり、まことに、寂れつありさまたんとせいしんさいとうゑつむかえいしうせんにん2寥の有樣であらう。ここに、汝が西秦に往くに際し、われは東越に向ひ、しばらく、瀛洲に仙人の金B考れもんこちんでんたいはくめいざんばんまたっ關を尋ねやうと思ふ。汝すでに去りし後、藍田だの、太白だのいふ名山が氣に入つて、仙を學ぶに都がふ上した。たいせめんげつかさうぢそのち予が爲に、:合が善いと知つたならば、大石の面を月下に掃除して、いづれ其地に往くのを待つて居て貰ひたい。しゆいたらげうしふうけい【餘論】起首より那知不有"鼓龍蟠」に至るまでは、專ら堯祠の風景を述べ、君不見綠珠潭水流東いたせいえいぐわけつおたビいかもつゆ:海より魏武何悲銅雀臺に至るまでは、浮生の榮華、決して特むに足らざることを敍し、以下專ら送べつこおよせんおんへうべううきよところおもしろゑんじゆく別の正意に及び、仙音線緲として、浮世ばなれのして居る處は、まことに面白く、いくらか圓熟せぬところはくしゆひつだんちらし處もあるが、李白の手筆たることは、斷じて爭はれない。送管郡堯祠送醫明府薄華還西京
李太白集卷十五金〓送章八之西京11客自長安來.還歸長安去。狂風吹我心。西挂成陽樹。此情不可道。此別何時遇。(三)望望不見君.連山起煙霧。【字解】S還またと訓す、循環する意。本づく。きんきやうせいけいおく金〓にて章八の西京に之くを送るかくちやうあん文まちやうあんかへ客は長安より來り、還た長安に歸つて去る。きやうふうまム酢かんやうcか狂風、わが心を吹いて、咸陽の樹に挂く。じやうでついづれとこの情、道ふべからず、この別、何の時か遇はむ。ほうほうまれんざんえんむだ望望、君を見ず、連山、煙霧を起す。S還またと訓す、E成陽長安に同じ。3連山鮑照の連山滲ニ〓〓、長波週難依の二旬にきんさやうけんめいたうじよちし〓かなんだうえんしうろぐんこ面めいじふしやう【題義】金〓は縣名、唐書地理志に據れば、河南道竟州魯郡に屬して居る。章八は、名字ともに不詳。しちとんきんきやうボム달ちやうあんにご?この詩は、魯郡の金〓に於て、章入といふ人の長安に囘るのを送つて作つたのである。:さきごろちやうあんきんきやうしよようおむら【詩意】君は、先頃、長安から、この金〓の地に來たのであるが、所用も、すでに片付いたといふのいふたたちやうあんはうかへをりきやうふうさつさつこころにし歩とで、今しも、再び長安の方へ歸らうとして居る。折しも、狂風蠟颯、わが心を西の方へ吹き飛ばし、まっ:かんやうか:ちやうあんかへここる君の行き著くよりも先に、これを威陽の樹に挂けた。つまり、君が長安に歸ると聞いたから、わが心たてた1おこいじやうしたうていげんせつは、矢も楯も堪まらず、先づ其地へ飛んで往つたのである。この精思は、到底言說すべからず、そしわかれないっまたあ:まほaは時て、この別を爲した上は、何時又過へるやら、もとより分らない。かくて、君が程に登りし後、望望:かびたれんざんゆふべ초급おことして眺めやれども、その影は、すべて見えず、そして、一帶の連山、せいさうかんいたづらに、悽館の感を增すばかりである。しかんたんわりあひおりしろでじやうしんごしきやうふう【餘論】この詩は、簡單な割合に、面白く出來て居るので、句句、情眞にして語撃、狂風の二句は、いきよくどういかつひにところかの我寄愁心與明月、隨風直到夜郞西と異曲同工、以下四句も妙に人を動かす處がある。たれんざん一帶の連山、ゆふべ초급おこ夕ならむとして、煙霧を起し、そして、まころおく送薛九被讒去魯薛九の讒せられて魯を去るを送る宋人不辨玉.〓賤東家丘.そうひとたまドイルろとうかを宋人玉を辨ぜず、魯は東家の丘を賤む。せつふうし我笑薛夫子。胡爲兩地遊。になんすりやうちあそ我は笑ふ薛夫子、胡爲れぞ兩地に遊ぶ。黃金銷衆口白壁竟難投。わうごんしきこう;はくへきつひ등がた黃金、衆口に銷し、白壁、竟に投じ難し。§ミラしつれかしやうりよくちくかcm높梧桐生蒺藜。綠竹乏佳實。梧桐、蒺藜を生じ、綠竹、佳實に乏し。ほうわうたに늘つひぐんけいひつ鳳皇宿誰家。遂與羣雞匹。鳳皇、誰が家に宿し、遂に羣難と匹す。@でんか56じょきうしえん田家養老馬。窮士歸其門。田家、老馬を養ひ、窮士、その門に歸す。蛾眉笑蹙者。賓客去平原。がへきしやわらひんかくへいげん蛾眉、躄者を笑ひ、賓客、平原を去る。込越つて、びじんかうべしゅんほん却斬美人首。三千還駿奔.き美人の首を斬り、三千、還た駿奔D送金〓送章八之西京·送薛九被議去魯
李太白 集卷十五毛公一挺劍。楚趙兩相存。·(0)孟嘗悅狡兎。三窟賴馮煖。信陵奪兵符。爲用候生言。春申一何愚。刎首爲李園。に一賢哉四公子.撫掌黃泉裏。借問笑何人。笑人不好士。(爾去且勿喧。桃李竟何言. (一五) (一六)沙邱無漂母。誰肯飯王孫。まうこう2げんていそにふたあひそん毛公、一たび劍を挺し、楚趙、兩つながら相存す。まうしやうあっとよろこsふうげん孟嘗、狡兎を悅び、三窟、馮煖に賴る。とうたいへいふ昭ためこうぜいげん信頼、兵符を奪ひ、爲に侯生の言を用ふ。レゆんしんなんぐふんしゆゑんた春申一に何ぞ愚なる、刎首、李園の爲めなり。せんかなこうしたなごころ고くわうせん賢なる哉、四公子、掌を撫す黃泉の裏。しやもんなんびとわち달あわら借問す、何人を笑ふか、人の士を好まざるを笑ふ。佐くかかまびすなかたうりつひ唯い爾去つて、且つ喧しうする勿れ、桃李竟に何をか言ふ。3へうぼたれあわうそんはん沙邱に漂母なく、誰か肯て王孫に飯せむ。【字解】3宋人不辨玉宋人が蒸石を参重したことで、すでに前に見ゆ。3東家丘文選五臣註に「善人、孔子の聖人たるを知らず、乃ち曰く、彼の東家の丘なるもの、吾、れを知れりと。言ふは、孔子を輕んずるなり」とある。C·黃金銷衆口國語に「衆口金を鎌す」とあつて、章昭の註に「蝶は消なり。衆口の毀るところ、金石と雖も、猶ほ之を消すべきなり」とある。しかし、太平御覽には風俗通を引いて「衆口金を鎌す。俗說、ここに美金あり、衆人咸な共に詆皆して、その不純を言ふ、金を賣るもの、その售れむことを欲し、因つて、取りて煖燒し、以て眞を見はす、これを衆口金を蝶すといふ」とある。三白壁竟離投史記に「明月の珠、夜光の壁、暗を以て人に道路に投ずれば、人、劇を按じて相断せざるものなし、何となれば、因なくして、前に至ればなり」とある。C梧桐、綠竹鄭康成の毛討箋に「風風の性、梧桐に非ざれば棲まず、竹實に非ざれば食はず」とある。C田家養老馬淮南子に「田子方、老馬を道に見、喟然として志あり、以て其御に圓うて曰く、これ何の馬ぞや。其御曰く、これ故の公家の畜なり、老罷して用を爲さず、出して之を驚ぐ。曰く、少にして其力を貪り、老いて其身を棄つ、仁者は爲さざるなりと。東帛以て之を贖ふ。罷武、:れを聞いて心を師するところを知る」とある。5蛾眉笑覽者史記に「平原君の家樓、民家に臨む。民家に覺者あり、盤散行いて汲む。平原君の美人、樓上に居り、望み見て、大に之を笑ふ。覽者、門に至り、笑ふ者の頭を得むことを請ふ。平原君、これを諾し、しかも終に殺さず。居ること歲餘、實客門下舍人、引き去るもの過半。平原君、これを怪み、問うて其故を知り、壁者を笑ふ美人の頭を斬り、自ら門に造り、監者に進めて因つて謝す、門下乃ち復た稍稍來る」とある。〓駿奔駿は大、もしくは疾の義。CHC毛公史記に「秦、趙の郡耶を國む、平原君、敦を楚に求め、門下、文武備具するもの二十人を揮んで、之と與にす。十九人を得たり。毛遂、自ら薦む。楚に至つて、從を定むれども、決せず。氏玉、歷階して升る。楚王、怒つて之を叱す。毛遂、劍を接じて前んで日く、王の遂を叱する所以は、楚國の衆を以てなり。今、十步の内、王、楚國の衆を侍むを得ず、王の命は、遂の手に懸れり。楚の强を以て、天下能く當るなし、白起は小豎子のみ、一戰して郡野を擧げ、再戰して夷酸を焼き、三戰して王の先人を辱しむ、これ百世の怨、趙の差づるところ、合從は楚の爲にして趙の爲めに非ざるなり。王曰く、唯唯、まことに先生の言の如し、謹んで社稷を奉じて以て從はむ、と。平原君、すでに從を定めて歸る。楚、春申君を將として趙を敦はしむ」とあり。tc1孟嘗悅狡兎戰國策に「馮煖、孟嘗君に謂って日く、狡兎に三窟あり、僅に其死を免るるを得るのみ。今一窟あり、未だ枕を高くして臥するを得ざるなり。11/2ふ、君の爲に復た二窟を鑿たむ、と。西、梁に遊んで、其王を說くや、梁王、使者をして、孟嘗君を聘せしめ、使三反す。齊王、これを聞き、太傅を遺して、君に謝せしむ。馮煖、孟嘗君に謂つて曰く、順はくは、先王の榮器を請ひ、宗廟を薛に立てよ、と。廟成るや、量つて君に報じて曰く、三窟、すでに成る、君、はじめて枕を高くして樂を爲せ、と。孟嘗君、相たること數十年、纖芥の禍なきは、馮煖の計なり」とある。E1信陵奪兵符前に見ゆ。CII春申一何愚史記に「李園、妹を以て春申君に獻ず、娠めるあり、而して後に、之を考烈王に納れ、國王を生む。圖、盜をして春申君を殺さしめ、以て口を滅し、楚の政を事にす」とある。CT1黄泉左氏傳の註に「天玄地黄、泉は地中に在り、故に黃泉といふ」とあり、論衝に「その死するや、これを黃泉の下に葬る」とあ送送薛九稜議去魯大豆乳
李太白集卷十五CCU桃李史記に「桃李言はず、下、亦た前に見ゆ。その詳は、前に見ゆ。る。漂母自ら朕を成す」とある。CIU沙邸魯の地に在つて、CAUミ【題義】この詩は、薛九といふものが讒言せられ、その爲に、止むを得ず、魯國を立ち去るに就いて、さcc〓賦して贈つたのである。薛九の名字は、何といふか、又如何なる徑路で、さういふ事に成つたのか、ミわかその邊の事は、詩を讀んでも分らぬ。なにもの【詩意】むかし、宋人は、其性太だ愚にして、玉の何物たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしミほしよかて居たといふし、魯國の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び棄てにして東家の丘といつて居ミ上、55た位。世の中は、目くら千人であるから、折角才があつた處で、容易に認められるものではない。今、造たミで薛君は、何が故に、この地より他國に出かけるのか、一寸聞いただけでは笑ふべきことであるが、よくよおんむ글げんわうごんたあんく考へれば、まことに無理もない事である。現に、黄金は衆口に因つて消せられ、美事な玉も、暗だ中に投ずれば、劍を按じて見るといふ位で、うつかり、投げ出す譯には行かず、才があつた處で、矢ちせいな鱈に見せつけると、必ず禍を受けるものである。それから、梧桐の樹には蒺藜が寄生し、竹も實を岩で:結ばぬから、折角、鳳凰が出て來た處で、棲むべき處もなく、食ふべき物もなく、止むを得ず、羣雞と才あるものも、その處を得ざれば、と一所に成つて居るより外はないので、羣小と伍して居らねばなら30拂ひ下げの老馬を買ひつぬ。しかし、むかしから士を好むものは、決して少くないので、田子方は、い: : :福ふて、大切に飼養した爲に、窮士は、その門に來り集まつた。次に、平原君の美人は、躄の者の水を汲む두わらへきしやに、びすねん、樣子がをかしいといつて笑ひ、しかも、平原君は、躄者の約に背いて、その美人の頭を斬らざりしにひんかくだび因り、賓客は次第に門下より辭し去つた。それと氣が付いたから、平原君は、美人を斬つて覺者に詫おほいそ厚く之に禮したから、たび、三千の賓客は、又ぞろ大急ぎで其門に騙け込んで來た。かくて、毛遂とい大らcomふ樣な偉い男も、その内に居合せ、平原君が合從を約せむが爲に楚に赴きし時には、劍を按じて、つこれちっ·15かつかと楚王の前に進み出でて之に說き、遂に合從を全うせしめ、楚趙の二國は、その爲に、猶ほ存쿨でっ續することが出來た。それから、馮煖は、孟嘗君に說き、狡兎も三窟あればこそ安心であるので、是Rす非とも、さう無くては成らぬといひ、孟嘗君の爲に力を盡して、數十年間、繊芥の禍も無い樣にしはかりごとわCこみづかた。信陵君は、候贏の謀に因り、王の臥內に在る兵符を竊んで、晉鄙の軍を奪ひ、自ら將として趙〓みぶこあi iを救ひ、遂に希代の大功を成した。古人士を好むの功は、大抵かくの如く、これにつけても、讒言をE :0둘た聞いて、天晴の士を追ひ拂ふなどいふのは、以ての外の事である。唯だ春申君のみは、まことに、愚の骨頂で、その行爲も、純ならざるに因り、後に李園といふ小人の爲に首を刎ねられて仕舞つた。以玉トだこ上、平原·孟嘗·信陵·春申の四人は、戰國時代に當つて、ともに賓客を好み、四公子と稱せられた〓とたは&こ位で、死後黃泉の下に於て相會し、手を拍いて快げに話して居るであらう。そこで、何人を笑ふかとひとびとら1問へば、世の中の權勢ある人人が兎角士を好まず、從つて、大事業を仕出かすことが出來ない、送送薛九被議去書
李太白集卷十五己士を好まざる世の中に於て遂に用ひしこなかつひとびとわら君今とに詰らぬことだといつて、その人人を笑つて居る。も、すんげんかうむおだかくべつはちなすたたられず、はては、讒言を被つて追ひ出されたからといつて、格別恥にも成らないから、素直に此を立:たいうよものいしぜんしたこみちなたうりち去りて、くどくどしく騒ぎ立てぬ方が善いので、物言はずして、自然その下に蹊を成すといふ桃李1·5ほかへり;ちうしんろinちはへうぼの樣に、臭床かしく有つて欲しい。顧みれば、この沙丘を中心とせる魯國を尋ね廻つたとて、漂母の봉발〓わうそん:追いたはんあたやうやうな俠氣ある人もなく、從つて、王孫の窮を憐んで、これに飯を與へるといふ樣なこともないから、だんきうれんたらたたい はうよこの地は、斷じて、久戀の地に非ず、さつさと立ち去つて、他國に往つた方が善い。けだじんしあひれきげんわうきれんおちいが蓋し古人士を好むの美を歷言【餘論】王琦は、この篇を評して「田家養老馬より以下十四句は、りんああねかぶんまたせつも倫類に非ざるに似たり。し、しかも雜ふるに春申一何愚、列首爲李園を以てす、下文又接するに賢哉のぼぼくちむ忽ちにして雪嶺に登る。うんねんたと李家の娘子、か四公子云云を以てす、これを譬ふれば、わづかに墨池に入り、たいはくとunべんたてしつしよしにしかすうくPBRこくはくぶんめい太白斗酒百篇、筆に任かせて疾書し、疵類なくんばあらず、然れども、數句の間、黑白分明ならずしいただしけつぶんあらくわひつけだうたがひこて、此に至るべからず。苟くも、缺文に非ざれば、訛筆たること、蓋し疑なし」といつたが、極めててきかくせつたうしゆんしんくん.ふあは的確切當である。すでに、春申君を一何愚といひ、その次に之をも併せて賢哉四公子といつたのは、ひとこためむじゆんはなはだ16わか今の人が士を好まぬ爲に止むを得ず矛盾も亦た甚しく、まことに譯の分らぬことである。それから、おおしだざんかうむつうせつげきれつ둘此を去るといふのは、穩かであるが、題には、讒を被つて去るとあつて、もそつと、痛切激烈な事がはやはじぜんそうてき또いみつよrなところ士の不遇を言つて居たので、に言つて無くてはならぬ筈である。初めの處では、漸層的に愈よ意味が强にんCくなるべき筈であるのに、一轉して、まが合はなく成つて仕舞つたのである。최고士を用ふる功に及んだものだから、なん何となく、ぬつじつま間が拔けて辻德單父東樓、秋夜.送族弟沈之秦ぜんほとうろうちぞくていしん單父の東樓にて、秋夜、なんぢかんやうきた爾從咸陽來.爾、咸陽より來り、われとなにちうく問我何勞苦.我に問ふ、何をか勞苦すると。沐猴而冠不足言。もくこうちんいた沐猴にして冠するは、言ふに足らず。二と:とうろたい身騎土牛滯東魯。身は土牛に騎して、東魯に滯す。しんていほつぎょうてい〓沈弟欲行凝弟留。沈弟は行かむと欲し、凝弟は留まる。がんしんうん:孤飛一雁秦雲秋。孤飛一雁、秦雲の秋。たいくわうえふお坐來黃葉落四五。坐來、黃葉落つる四五。ほくとかかせいじやうろう北斗己挂西城樓。北斗すでに挂る西城の樓。送單父東樓秋夜送族第沈之秦ぞくていしんえんれ、族弟沈の秦に之くを送る【字解】E沐朕面冠史記に「說者曰く、人は曰ふ、楚人は沐族にして冠するのみ」とあつて、張晏の解に「沐験は〓〓なり。漢書に、藝太子以爲へらく、漢廷の公縮列侯、皆沐猴にして冠するが如きのみ。その衣冠を著くと雖も、但だ徽に人形に似て、他の才能なきを言ふなり」とある。S土牛周奉が鐘靜に答へて「硼族、土牛に騎する、何ぞ週きや」といふに本づき、すでに前に見ゆ。【三】絲桐感人王条の請六四九
李太白 集卷十五こ絲桐感人絃亦絕。滿堂送客皆惜別。卷簾見月〓興來。疑是山陰夜中雪.明日斗酒別。)惆悵〓路塵。遙望長安日。不見長安人.長安宮闕九天上。此地曾經爲近臣一朝復一朝。髪白心不改。た屈平憔悴滯江潭。に絲桐感人清、爲我發悲音とあるに本づく。E山陰夜中雪世說に「王子猷、山陰に居る、衰大雪、眠覺め、室を開き、命じて酒を酌み、四望峽然」とある。B清路曹植の詩に君若ニ清路ととあも。E屈平憔悴楚辭に「屋原、すでに放たれて江潭に遊び、澤畔に行吟す、顏色慥悴、形容枯槁」とある。CB事伯後漢書に「罹國、字は事伯、寶憲の主簿となり、前後妻記數十、長短を切指す。憲、容るる能はず、稍や之を疎んず。因つて、國の高第を察し、出して長半の長となす。剄,自ら遠く去り、意を得ざるを以て、遂に官に之かずして歸る」とある。長岑は縣名、樂浪郡に風し、その地は遼東に在る。〓:曹植の詩に轉蓬離本根、風呂園長しsひとかんげん1た絲桐、人を感じて、絃、まんだうそうかくみなわかれ滿堂送客、皆別を惜む。球米: 3せいきようきた簾を卷き、月を見て、〓興來る。:さんいんや疑ふらくは是れ山陰夜中の雪。としbトロキ明日、斗酒の別、さえいにち:備え、〓路の塵。:55mちやうめんひの遙に長安の日を望めども、ちやうあんひと長安の人を見ず。ちやうあんうてん長安の宮闕、九天の上、きんしんこの地、かつて經て近臣となる。:)一朝復た一朝、はつしろ髪白くして心改改めず。くつべいせうーめかうたん屈平憔悴して江潭に滯し、げん絃、1た亦た絕ゆ。亭伯流離放遼海折翩翻飛隨轉蓬。聞弦虛墜下霜空。聖朝久棄靑雲士。승他日誰憐張長公。亭伯流離放遼海は風、何意圖國學、吹我入二中中高高亭伯流離して遼海に放たる。をほんじ上無極、天路安可窮、順此游客子、折翩翻飛隨轉蓬。ごてんほう1 5 -關を折り、翻飛して轉蓬に隨ひ、損幅遠從戎とある。【九】聞弦處聞弦虛墜下霜空。品きよつあくだ弦を聞き、虛墜して霜空を下る。墜戰國策に「夏高、魏王と京臺の下せいこうひさ魏王に謂つて曰く、聖朝久棄靑雲士。に處り、臣,王聖朝久しく棄つ靑雲の士、승な5cたれたんの爲に弓を引き、虚發して、鳥を下他日誰憐張長公。他日、誰か憐む張長公。さむ。魏王曰く、射、ここに至るべきか。更高曰く、可なり、と。間ありて、履、東方より來る。更羸、虚發を以てして之を下す。王曰く、然らば、4.ここに至るべきか。更羸曰く、これ摩なり。その飛ぶこと徐にして、鳴くこと悲し。飛ぶこと徐なるものは、故瘡痛むなり。鳴くこと悲しきものは、久しく鞏を失ふなり。故瘡、未だ息まず、靈心未だ忘れず、弦音の烈しきを聞いて、高く飛ぶ、故瘡頤つるなり」とある。【一〇】張長公史記張釋之傳に「その子を張撃といた字は長公、官、大夫に至り、免ず、容を當世に取る能はざるを以て、故に終身仕へず」とある。五五けん출かせんだうそうしうすゐやうぐんtぞくていじうてい【題義】單父は縣の名で、唐時は河南道宋州唯陽郡に屬して居た。族弟といへば、從弟であらう。そせしんぼくほんち(ちやうあん:いけい7の人、名は沈、繆本には況に作つてある。秦は長安、一本には西京に作つてある。すると、この詩は、ぜんはひがしじやうろうのほじうていりしんちやうあんおじけれ、?秋夜、單父なる東の城樓に登り、其處で從弟李沈の長安に赴くを遂つて作つたのである。そして、李いままぎょうていせきし: the 15ぶん白の自註に「時に凝弟席に在り」とあつて、詩中にも、沈弟欲行凝弟留とある。沈、凝の二人、そのあひちかわからきやうだい名の相近き處から考へると、これは、同腹の兄弟であるかも知れぬ。送單父東樓秋夜送族第沈之秦は亭伯流離して遼海に放たる。をほんじごてんほう1 5 -關を折り、翻飛して轉蓬に隨ひ、品きよつあくだ弦を聞き、虛墜して霜空を下る。せいこうひさ聖朝久しく棄つ靑雲の士、な5cたれたん他日、誰か憐む張長公。
李太白集卷十五ちく:たニm2むかいからうくしなぞさ【詩意】汝は、曩に長安より來り、我に向つて、如何なれば、かくは勞苦するかといつて、頻りに慰さいのうさるひとねm iかくべつ狼が人の眞似をして居るやうなもので、1めて吳れた。我の如きは、格別の才能もなく、たとへば、げんisどぎうやう,あひいまもつとうろたいりうぶとより、言ふに足らず、現に猴が土牛に乘つた樣な工合で、今以て、東魯の地に滯留して居る。然るたたさひさホナもやうあんおぎようていに、汝は、此に留まること久しからず、今しも再び長安に赴かむとし、そして、凝弟だけは、ここにのなくた10/4がんとしんちあき殘つて居るとのことで、汝の此行、たとへば、一雁さびしく飛んで、秦地の秋の雲に入るやうなものあひだくわうえふかつざじやうひるがへとほしけいけい는t.折しも秋の末、あみである。見て居る間に、黃葉が四つ五つ、座上に飄り、北斗の星は、榮榮として、西;じやうううかか줄だんニせいゑつじんしんかんの方の城樓の上に挂つて居る。やがて、琴を彈ずれば、その聲、〓越にして、人心を感ぜしめ、そしいしだこひとびとわかれをしせいぜん六十六て、絃も切れて仕舞ひ、見送りに來た人人は、いづれも、別を惜んで悽然として居る。かくて、簾をああいげつせいくわうひる둘いうきようもよほさんいんヤう:ム卷き上げて明月を見れば、〓光晝の如くして幽興を催し、さながら、山陰の夜中に雪が降り積つたか3させてとthわかれななんせ(Restauration)じら: 1'てと疑ふばかり。明日斗酒を酌んで別を爲せば、汝は、國民國家〓路の塵の如く、行く手はるかにもううん長安の月を望み得るも、ちやうあん長安に赴く人は、おもむ달やがて見えなくなる。みちやうあん長安は天子の都で、てんみやこ宮國嵯峨としてきうけつさきうてん: 6かつきんしんごとおにほうしてうま:九天の上に聳え、汝も嘗て近臣として、天子の御側に奉仕したことがある。それから、一朝復た一朝おひおひしろべんたんしんいぜんかはと、としつも年月は次第に移り行き、レ志うつづじやう頭上の髪は、追追白くなつても、一片の丹心は、依然として變らない。なんぢ〓ニくつげんかうたんあそがんしよくせうすゐ늘またさいていはくとうけんうととほれう今、汝の身の上は、屈原が江潭に遊んで、顏色憔悴せるが如く、又崔亭伯が賢憲に疏まれて、遠く遼(114を:ゆくゑことてんろうiひるがへとつるおととは東に放たれたやうなものである。かくて、翼を折つた儘、行衞定めず、轉蓬の如く翻つて飛び、弦音をごしもこほtおはかきやうがいこんにち:聞いても、古瘡を持つ雁が、霜凍る空から地に落ちるといふやうな、果敢ない境涯である。今日、聖にてうていセ·せいうんすや、いかいたちやうちやうこうじゆん明の朝廷に於て、靑雲を棄てて、久しく顧みないのは、如何なる故か。かくて、張長公に比すべき純げつりやうしむかどうじやう上ななげ둘潔なる良士に向つて、同情を寄せるものの無いのは、まことに、嘆かはしい事である。tchしんていおのれもんいた【餘論】初の四句は、沈弟が己を慰問せしことを述べ、沈弟欲行凝弟留より不見長安人人至至ままそうべつじやうきやういかじんぶつじよふかつうせきい:かんがいりんり달では、送別の狀況、以下十句は、その人物を敍し、深く痛惜の意を寓したので、感〓淋漓、人をしておかうたん覺えず浩歎せしめる。送族弟凝至晏堌。單父三十里.ぞくていぎようおくあんこいたぜんほ族弟凝を送つて晏堌に至る、こ125しちじうさういはんいう雪滿原野白。戎裝出盤遊。雪は滿ちて原野白く、戎装出でて盤遊す。かうきう揮鞭布獵騎。四顧登高丘。w :じるL e鞭を揮つて獵騎を布き、四顧して高丘に登る。3た12 B+さうようへいちうくだ兎起馬足間.蒼鷹下平疇。た兎は起つ馬足の間蒼鷹、平疇に下る。けんこBaseたのしみじんいう喧呼相馳逐.取樂銷人憂。と喧呼相馳逐、樂を取つて人憂を銷す。(國)画三きんくわういましじせいおうれつ捨此戒禽荒。徵聲列齊謳。此を捨てて禽荒を戒めよ、徵聲、齊謳を列す。♂めいけいあたしはつべつがんおどろ鳴雞發晏堌。別雁驚〓溝。らいこう鳴雞、晏堌を發し、別雁、淶溝に驚く。送送族第凝至憂增單父三十里六五三ぜんほ單父より三十里六五三
李太白 集卷十五もせいかうとういんよちやうかtips西行有東音。寄與長河流.西行、東音あり、寄與す長河の流【字解】E原野淮南子に「原野を周視す」とあつて、高誘の註に「廣平を原といひ、郊外を野といふ」とある。3盤遊書の五子之歌に盤游無度とあつて、孔安國の傳に「盤樂避逸なり」とある。3禽荒同じく五子之歌に外作ニ禽荒とあつて、を狩することに耽ること。微聲鮑照の詩に選色福齊岱一黴聲〓「越越とあつて、徵聲は悲しい調子。【五】齊語說文に「謹は齊歌」とある。E漆溝魏書に「東平縣范縣に漆溝あり」山東通志に「單縣東門外に漆河あり、源、汴水に出づ、管時、開くところ。北、濟河に抵り、南徐沛に題ず。元以後、漸く湮み、惟だ下流沛に入るもの、わづかに水道を存す」とある。3東音呂氏春秋に「夏后氏孔甲、破斧の歌を作る、實に始めて東音たり」とある。ぞくていぎようてんみしん3にちやうあんおもむ좋ひとぜん【題義】族弟凝は、前詩にも見えて居たので、李沈が先つて長安に赴きし時、この人だけは、なほ單. Byおこかへをこれ를そして、李白は、父に留まつて居たが、やがて、相繼いで都に歸つたものと見える。特に之を送つて、もんとところいぜんはへだたたちじゃぜんは2晏增といふ處まで往つたので、そこは、單父から三十里距つた處である。この題は、單父の上に、どだつじああんことこわかにつうやら脫字が有るらしい。しかし、晏堌は何處か、その地理は、よく分らない。そして、その時は雪ごしゆれふなべつじよそうべつた눈れChi後で、狩獵を爲し、そこで、別を敍したものと見えるが、ひよつとすると、送別の爲め、特に獵を催ししたものかも知れない。おほゆきげんやふ:からこ$ ,ま盤【詩意】大雪が降つて、原野一白、まことに、狩には持つて來いといふ時であるから、武裝して、いためで考ふるしじょえうしよはいちじぶんかうきううへうま遊の爲に出かけた。かくて、鞭を揮つて指揮しつつ、獵騎を要處に配置し、自分は、高丘の上に馬をころみ)かだ止;あひだ:ださうまういきほひたひら立てて、試に四顧した。すると、兎は狩り出されて、馬足の間に跳り出し、蒼鷹は、勢こんで、平かはたち: 1たは:たゆしろchな畑地に下り、そして、勢子どもは騒き立てて馳せ廻り、まことに、この上もない樂で、區區たる人でからはすなはきんくわう〃げんとげんわけげ間の憂を消すことが出來る。しかし、狩に耽るのは、卽ち禽荒といふものであるから、いい加減の處こんむしえんじやうごのせいこニとそうべついで切り上げて之を戒め、そして、宴上には、徵聲を以てせる齊國の歌を唱へ、いささか、送別の意をだ:まみやうてう즉なたたしゆつはつ友を失こと寓した。君は、明朝、鷄の鳴くのを聞いて、この晏埋から出發されるであらうが、へる雁のじらいこうちらみにかよところおむら三いたさうゐ驚飛して泳溝の邊を過ぐるを見れば、おのが身に似通つて居る處から、必ず心を傷ましめるに相違なおんそちやうかニティたみちこの東方の音を耳にしたならば、§まいもい。それから、西に行く途すがら、わが特に意を用ひて、長河の流ょたいまた굴六だこに寄せた爲であるとして、又わが事を思ひ出して貰ひたい。ぜんしゆれくわうけいてんそうべついまっくこいっおほ【餘論】前八句は狩獵の光景、一轉して送別に入り、末句は殊に意の盡きざるを覺える。魯城北郭曲腰桑下送張子還嵩陽ろじやうほくくわくよくえうBriganismちやうしすうやうごおく魯城北郭曲 腰の桑下に、張子の嵩陽に還るを送る(一)わかれおくこ:てうえふはんくう회送別枯桑下。凋葉落半空。別を送る枯桑の下、凋葉、半空に落つ。かっ:詣佐々ひとてんぷうし我行憎道遠。爾獨知天風。我が行、道の遠きに憎し、爾.獨り天風を知る。こたれおちやうちううつまよおつほう誰念張仲蔚。還依蒿與蓬誰か念はむ張仲蔚、還た依る蒿と蓬と。送替城北郭曲腰桑下送張子置當腸六五五六五五
李太白集卷十五(圖)いづれ$ほいさけさら,ようおな何時一杯酒。更與李膺同。何の時か一杯の酒、更に李膺と同じうせむ。【字解】日枯桑古藥府に枯桑知ニ風風とあり、李善の註に「枯桑枝なくして、尙ほ天風を知る」とある。S悟·說文に「不明なり」とある、卽ち暗いこと。3張仲蔚高士傳に「張仲蔚は平陵の人なり、同郡の魏景卿と倶に道總を修め、身を隱して仕へず、天官博物に明かに、善く文を屬し、詩賦を好む、常に窮素に居り、處るところ、蓬當人を沒す、門を閉ぢ、性を養ひ、榮名を治めず、時人識るなし、惟だ劉鶴これを知る」とある。3李膺前に見ゆ。しろじやうほくくわくきよくえうこシットごちやうぼうすうざんみなみごおく【題義】この詩は、魯城の北郭なる曲腰といふ處の桑下に於て、張某の嵩山の南に還るを送つて作つたのである。きみゆ費さうしたたたずははんくうお【詩意】君の行くを送つて、枯桑の下に佇めば、黃ばんだ葉が、はらはらと半空より落ちて來る。わas旨しほうぜんdこかゞしおせれは、道の遠きをも知らず、茫然として居るが、桑は、時の風を知つて、かくは落ちて來るので、だいりやうおもむきモちやうちううつひまほうかうiお,またいっしほ凄涼の趣を添へる。張仲蔚に比すべき君は、ここを去つて、蓬蒿の中に隱れ住み、又何時、こよう능ほいさけさいくわいうらみ많은たがたおぼの李膺と共に一杯の酒を酌むであらうか。あはれ、再會期すべからず、この恨、愈よ堪へ難きを覺える。にゆん.むちちみちやうちううつよっどうせいせんぼんし【餘論】前半四句は一氣呵成、自然に淒寥の致に滿ちて居る。それから、張仲蔚李膺、ともに同姓ゆゑじたにんまんぜんP凜の故を以て、自他二人に比したので、もとより、漫然として倩ひ來つたものではない。ちやうぼうすうざんみなみごおく張某の嵩山の南に還るを送つて作つわせどうせいともに同姓李太白集卷十六るxりうちやうしこうのうちやうし,っれ送魯郡劉長史遷弘農長史魯郡の割長史、弘農長史に遷るを送るミみづわうかいえいがた魯國一杯水.難容橫海鮮るいい魯國一杯の水、橫海の鱗を容れ難し。ちうぢか出いはすなはじんじやう달仲尼且不敬。況乃尋常人。仲尼すら且つ敬せられず、況んや乃ち尋常の人や。はくぎよくぞくかわうごんぜきしん白玉換斗粟。黃金買尺薪。白玉、斗粟に換へ、黃金、尺薪を買ふ。ともくえふくだはじおほもいる。あら閉門木葉下。始覺秋非春.門を閉づれば木葉下り、始めて覺ゆ、秋、春に非ざるを。(二)さみにしむかうつすなはていことなり聞君向西遷.地卽鼎湖鄰。聞く、君が西に向つて遷るを、地は卽ち鼎湖の鄰。115はうきやうさうせんにたんけいモえ〓寶鏡匣蒼蘚。丹經埋素塵.寶鏡は蒼蘚を匣にし、丹經は素塵に埋む。軒后上天時。攀龍遺小臣。けんこうてんのほとはんりようせうしんの二軒后、天に上る時、攀龍、小臣を遺す。ここおよけいあい를しよきふうくわじゆん及此留惠愛。庶幾風化淳。此に及んで、惠愛を留め、庶幾す風化の淳なるを。送しはくえんげん魯縞如白煙。五練不成束.かう글そく魯編は白煙の如く、五纖、束を成さず。送送魯郡劉長史遍弘農長史六五七六五七
李太白 集卷十六のひんかう貧交に贈る、さんがく臨行贈貧交,一尺重山岳.行くに臨んで、一尺、山岳よりも重し。相國齊晏子しやうこくせいあんしかう行を贈つて言に及ばず。최보贈行不及言.相國齊の晏子、託陰當樹李.二いん表:れなむ:けん忘憂當樹萱。陰を託する、當に李を樹うべく、憂を忘るる、當に萱を-にたじつちやうろくみていはうきうおんれ他日見張祿。綿袍懷舊恩。他日、張祿を見ば、綿袍、舊恩を懷はむ。樹うべし。【字解】5横海峰抱朴子に「寸鮒は牛跡の水に遊び、橫海の巨鱗を貴ばず」とあり、謝世基の詩に、偉哉橫海瞬、壯矣垂天翼とあろ。3鼎湖黃帝が鼎を饒た處、その詳、前に見ゆ。その地は、弘農郡の胡城縣である。3寶鏡太平廣記に「黃帝、十五鏡を歸る、その第一、横徑一尺五寸、滿月の數に法るなり」とある。又路史には、十二鏡となし、羅苹の註に「十有二次に廳じ、得る者あるに隨つて、以て日蝕を占し、刻分差なし」とある。E丹經抱朴子に「黃帝、王屋に勝つて、丹經を授かる」とあり、路史に「黃帝、駕を王屋に囘し、石面を啓き、玉笈を發し、九鼎飛壹神丹訣を得たり」とある。C軒后黃帝軒轅氏の略。魯縞魯國に產する白絹。F五線王琦は謙を以て兼の誤だらう、そして五兼は卽ち五匹だといつた。束は鄭玄の周禮註に「十個を東となす」とある。唐制に、帛は十端を東としたので、五匹の儘では、東を成さぬ。〓晏子晏子春秋に「曾子、將に行かむとす、晏子、これを送つて曰く、君子は人に贈るに軒を以てするも、言を以てするに若かず」とある。Car樹李說苑に「桃李を樹うるもの、夏は休息するを得、秋は其實を得」とある。c()樹萱詩の國風に、焉得ニ發草、言樹之背とあつて、毛傳に「嚴草は、人をして憂を忘れしむ」とある。三一張祿史記に「范誰、すでに秦に相たり、秦、號して張藤といふ、而して、魏知らず。秦の東韓魏を伐たむとするを聞き、須買を秦に使す。范雖、これを聞き、微行を爲し、敵衣間步して邸に至り、須賈を見る。〓、意、これを哀み、留めて與に坐し、飮食せしめて曰く、范叔一寒、ここに至るか、と。乃ち一締砲を取つて以て之に賜ふ」とある。締砲は卽ち麁砲、どてら。ろたんえんしうこうのうぐんくわくしうかなんだう:じやうしうぐわんちいじやうしうししべつがした【題義】魯郡は、竟州弘農郡の號州で、河南道に屬し、もと上州である。元來上州の刺史別駕の下ちやうしにんじゆほんちやうしいげんさんじくわん꿀コめいには、長史一人あつて、從五品である。長史といへば、今の縣參事官の如きものであらう。劉は、名ヒふしやうしりうぼうろそんちやうしこうのうちやうしえいてんかうおく字ともに不詳。この詩は、割某が魯郡の長史から、弘農の長史に榮轉したるに因つて、その行を送るたのつが爲に作つたのである。たぱいみづたた一五うみわうぜつやうたいぎよい【詩意】むかし、魯國に於ては、唯だ一杯の水を湛へたると同じく、海を橫絕する樣な大魚を容れるでせつかくもしやうだいせいじんでしまろことが出來ず、折角、孔子の樣な大聖人が出て來ても、これを用ひずに仕舞つた。孔子さへ、魯國の달そんけいくちゐじんじやう달おいなほさら〓ところ人に尊敬されなかつた位であるから、尋常の人に於ては、猶更の事で、こんな處へ往つては、とてもまろにあ。:5おほひとはかはくぎよくごと遣り切れない。されば、君の魯郡に在るや、矢張、多くの人から馬鹿にされ、白玉を以て一斗の粟にかわうごんしやくたきぎか干わざわざたかへいこう:廉いものを態態高く買はされて、まことに閉口して居た。換へ、黃金を以て一尺の薪を買ひ、かくて、licもくえふくだ달55かはる門を閉づれば、木葉はらはらと下り、わが身一つの秋は、早くも來て、世は今しも春でないといふこまusうけたまはまこんくらいにしむかえいてん古とを覺つたといふ位。承れば、君は、今囘西に向つて、榮轉されたといふことで、その地は、ていことくわうていちうざうはうきやうあをごけつつてんさづたんけいしへの鼎湖に鄰つて居る。おもへば、黃帝の鑄造した寶鏡は、蒼苔に包まれ、天から授けられた丹經せんあいまいぼつくわうていてんのとせうしんはいひげひげは、塵埃に埋沒して仕舞つた。しかし、黃帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀ぢ、やがて、髯がねおといぜんけいあい를ざいのつおい拔けて、地に落されたといふことで、依然として、惠愛を留め、そして、千歳の後に於ても、どうやふうぞくじゆんりやうまげんじんそんざいみとろ〓くわうてい:こうのうてんにんら、風俗は純良である。君は、賢人の存在を認めぬ魯郡から、黃帝の遺跡たる弘農に轉任されたる送送魯郡劉長史運弘農長史
李太白集卷十六るおきみやげミえことだから、まことに目出たい。その上、君は予が窮迫を憐み、置土產として、魯國に產する白絹をた§:둘かや贈られたが、その絹は、如何にも精緻を極めて、さながら白煙の如く、五匹では數こそ揃はぬが、ま는ミ철せいもんとことに、大したもので、一尺ごとに、誠心が籠つて、その德は、山岳よりも重い。むかし、齊の晏子おくin :) us〓いと人の行を贈るには、の云つた通り、言葉を以てするのが第一であるから、予はここに、晏子に倣うて、こ心ほう33 1はなおけするに言を以てしやうとふ。"君に餞もし木蔭に身を寄せむと欲せば、李樹を植うべく、もし憂を달活39人のお달忘れむと欲せば、萱草を植ゑたが善い。つまり、人の德あるものに交れば、以て庇蔭すべく、きんしやうだい華あるものに交れば、以て欣賞することが出來るので、何につけても、交を擇ぶが第一である。われひんせんしんは、いつまでも貧賤に甘んじて居るものでないので、かの范雎が秦に入つて張祿と稱し、やがて相位のほおなりつしんとに登つたと同じく、いつかは、相當に立身しないものでもないから、その時は、かの綿袍に比すべききうおんいかならぶ表君の奮恩を懷うて、必ず之に報ゆるであらう。りうぼうこころざしえうこうのうBし、弘農に遷れば、【餘論】起首の八句は、劉某が魯郡に於て志を得ざることを寫し、次の八句は、大げん上ろわかれ以下六句は、に得意なるべきを敍し、魯縞の四句は、別に臨んで物を贈られたるを謝し、ここに言を:しうけつ贈るといふことに及び、以て收結としたのである。送族弟單父主簿凝攝宋城主簿至郭南月橋。却廻棲霞山。留飮贈之ぞくていぜんは노.げつけうかへ:族弟單父の主簿凝、宋城の主簿を攝し、郭南の月橋に至り、却つて棲霞山にれに廻るを送り、留飮して之に贈るいせいひやうけん吾家靑萍劍。操割有餘開。吾が家の靑萍劍操割、餘聞あり。.三七:ミじょ늘か往來糾二邑。此去何時還。往來、二邑を糾し、此を去つて何の時か還る。げつけうみなみ鞍馬月橋南。光輝歧路間。鞍馬、月橋の南、光輝、歧路の間あひつるせんだに賢豪相追餞.却到棲霞山.賢豪、相追錢し、却つて到る棲霞山。2羣花散芳園。斗酒開離顏。羣花、芳園に散じ、斗酒、離顏を開く。(五六樂酣相顧起。征馬無由攀。たのしみたけなは:上t樂酣に、相願みて起つ、征馬攀づるに由なし。【字解】【二】靑萍劇の名。E操削子產の「未だ刀を操る能はずして割かしむ」といふ語を用ひたので、すでに前に見ゆ。3糾韻會に「督なり、又豪なり」とあり、周禮大司徒に「萬民を糾す」とある。三斗酒開離顏陶潜の詩に斗酒開芳顧とあるに本づく。E征馬江淹の別にに征馬而不願とあるに本づく。三노しちやうあんご츨【題義】族弟凝は前に見え、族弟沈と一所に居て、沈の長安に還りしとき、なほ單父に留まり、それちやうあんだ5から、長安に歸るに就いて、李白は、これを晏堀まで送つたといふので、その詩は、前に見えて居た。送送族弟單父主簿凝攝宋城主簿至郭南月橋却廻棲霞山留飮贈之げつけう郭南の月橋に至り、かへ:却つて棲霞山斗酒、
李太白集卷十六そうじやうけんちなんだう:くわくか長ij宋城縣は、唐の河南道、宋州唯陽縣に屬し、その郭下に單父縣があつて、州の東北一百四十九里に在ぜんはりんせつせいかざんえんしうぜんけんひがしよつたといへば、宋城も、單父も、互に鄰接して居たのである。棲霞山は、一統志に「兗州單縣の東四ぜんけん居ぞくていぎょうしゆば里に在り」と記してある。單縣は、卽ち舊時の單父縣である。この詩は、族弟凝が單父の主簿であつこんくわいそうじやう上けんきつがふくわくなんたのに、今囘宋城の主簿をも兼攝することになり、公務の都合で、郭南の月橋に至り、それから、:こか、たご를ま因つて、棲霞山に還らむとするに際し、これを留めて酒を飮ましめ、賦して贈つたのである。なんぢごせいひやうけんみ10【詩意】汝は、ガ象の靑岸創ともいっくぐるの和わはは何にも量事でこれを幾つてこらさいかんあつゆれ際し、精粹として餘籍がある位、その才幹は、天晴の人物と接すべきももかくて、今までは單そうじやうほんみん·しゆぼけんせついふあひだ:を行ふこ父の主簿であつたのに、今度は、宋城をも兼攝し、二邑の間を往來し、萬民を糾して政とまたまあんはげつけうみなみsに成つたが、ここを去れば、又何時還るであらうか。かくて、鞍馬を聯ねて、月橋の南に至れば、光あひだpsとばんけんがう~せんべつじら輝燦然として、歧路の間に照り耀く位、そこで、單父の賢豪どもは、跡を追ひかけて、儀別の宴を開せいかざん〓t use發ほうゑんさんしき、それから、汝は棲霞山に往くとのことである。時しも春の半羣花は芳園に散じ、斗酒を酌めば、んEあひかへりで別離の愁顏を開かしめる。やがて、樂酣なる時、さらばといひつつ、相顧みて起ち、愈よ出かけるinなんちとでぜんねんといふが、公事程あり、汝の馬を引き留めることの出來ないのは、まことに殘念である。じんぶつつぎたいよう【餘論】起四句は李凝の人物、次の四句は今次の征行、終の四句は饑筵の狀況で、内容が內容だけ:に、格別の物ではないが、相應にまとまつて居る處は、さすがに李白の手筆である。性い、魯郡東石門送杜二甫魯郡東石門にて杜二甫を送るだい醉別復幾日。登臨徧池臺。醉別復た幾日。登臨、池臺に徧ねし。いづれ$きんそん何時石門路.重有金樽開。co何の時か石門の路、重ねて金樽の開くあらむ。秋波落泗水海色明徂徠とし3あああ秋波、泗水に落ち、海軍、徂徠に明かなり。15ひほうおのおのおのづか造3さかづき飛蓬各自遠.且盡手中杯.飛蓬各、自ら遠し、且つ盡せよ手中の杯。【字解】S酒水元和郡縣志に「潤水は、源、兗州酒水縣東の陪尾山より出づ、その源、四あり、四泉ともに導く、因つて、以て名と爲す」とあり、一統志に「酒水は、源、陪尾山より發し、四泉竝に發し、潤水縣北八里に循ひ、はじめて合して一となり、西、曲阜縣を經、竟州府城の下を貫き、濟事に至つて南北に分流し、南流は徐州の境に入り、北流は會通河に入る」とある。3徂〓水經註に「鄰山記に曰く、徂徠山は梁甫、奉高、博、三縣の界に在り、なほ美松あり、亦た尤來の山といふ」とあり、一統志に徂徠山は、秦安州の東南四十里に在り、上に業原池、玲瓏山、獨秀峰、天平東西三寨あり」と記してある。SO飛邊商子に「飛蓬、属風に通うて、千里を行く」とある。ねうぎよやう〓とうほくせきもんざんし【題義】王漁洋の居易錄に「孔博士東塘言ふ、曲阜縣の東北に石門山あり、卽ち杜子美の詩、張氏隱1ドはふさうていか居に題すに謂はゆる春山無伴獨相求、劉九法曹錦瑕廊、石門宴集に謂はゆる秋水〓無底、是れなり。ご1李太白、石門に杜二市を送るの詩あり、何時石門路、更有金樽開しと。亦た其地の山麓、今尙ほ張氏莊けだふか、あり、相傳へて、唐の隱士張叔明の舊居と爲す。張は、蓋し太白孔巢父輩と同じく、徂徠に隱れ、竹送魯郡東石門送杜二甫
李太白集卷十六いつ녹·莊せきげふたいちせきもんじ溪六逸と稱せしものなり。山は甚だ高大ならざるも、石峽對峙、門の如し、故に名づく。中に石門寺ヒこほうちやういづみけいかん石あり、寺後を油峰といふ、峰頂に泉あり、流れて溪洞に入り、往往瀑布を成す」とある。すると、ゑんかうれくい,ろいとあその地に於て杜甫の遠行をつたときに作つほ門は、卽ち今の石門山で、魯郡の東に在る。この詩は、たのである。わかれなすゐいん~時は【詩意】今次、君が遠くに行かれるに就いて、別を惜む爲に醉飮し、すでに幾日を經たか。その間だいはやのこぜきもんみち處處の池臺に登臨して、最早殘すところもない位。しかし、一たび別れなば、この石門の路に於て、きんそん담さいくわいひで秋の何時又相逢うて金樽を開くべきか。再會の日は、もとより期することが出來ない。眺めやれば、だもはわたはんえいaま波が起つて、さしもの泗水も稍や淺く、海色は晴れ亙つて、徂徠山に反映して見える。君も、我も、毒ひEてとひとしく旅の身で、蹤跡は飛蓬の定處なきが如く、やがて、各自に遠くに往つて仕舞ふから、せめてしゆちうさかづきかたむぶんたのしみ上は、ここに於て、手中の杯を傾け、十分に樂を盡すが善からう。んcみじかしやじやうちうし흔えんしよく一【餘論】この篇は、極めて短いが、出語輕省、寫情稠至、すべて自然に出でて、少しも掩飾したり敷きやうちせいくわう丈むげん「無限張したりした處がない。五六は境地〓曠、これを得て、一層の色澤を添へて居る。乾隆御批にていくわい? 5ヒかんR :それから、蕭の低徊說いて盡さざる處あり、情辭よりも深し」とあるが、簡にして盡して居る。お今この當を觀えつて曰く、士賛の說に「杜少陵、かつて詩あり、太白に贈何時一樽酒、重與細論文。ぜんべんるに、豈に一時酬答の詩なるか」とあつて、その全篇は、左の通りである。白也詩無敵、飄然思不羣、〓新庚開府、俊逸鮑參軍、渭北春天樹、江東日暮雲、何時一尊酒、重與細論文。むろんまましかし、この詩は、春日憶李白と題してあるから、無論、この時の作ではなく、別後に寄せたので、ほくかうとうりやうちかくぜつコ消北江東は、兩地隔絕せるを寫し、そして、結二句は、李白の句を翻用したものであらう。又藝苑雌またげいゑんしでうほしびおほ黃に下の一條がある。노曰く、洪駒父詩話に言ふ、子美集中、太白に贈る詩、最も多し。しかも、李集、初めより一篇の杜に與ふるものなし、んあんだんせいしよくいうやうざつそ李集、と。按ずるに、段成式の酉陽雜組に云ふ、堯祠贈杜補すなははんくわざん闕といふものあり、卽ち老杜なり、ひとり飯顆山の句のみに非ざるなり、らと。予、かつて之を考ふわんけそふるに、太白集中、沙上城下寄杜甫の詩あり、又魯郡東石門送社二甫の詩あり、洪駒父、略して此aを見ざるは何ぞやと。飄然思不羣、〓新庚開府、俊逸鮑參軍、渭北春天樹、江東日暮雲、何時一尊酒、重魯郡堯祠、送張十四遊河北ぐんげうしかき魯郡堯祠にて、張十四の河北に遊ぶを送る猛虎伏尺草。雖藏難蔽身。+おほ詳猛虎、尺草に伏す、藏ると雖も、身を蔽ひ難し。〓有如張公子。굴ふうぢん骯髒在風塵。張公子の如きあり、航髒、風塵に在り。〓豈無橫腰劍。屈彼淮陰人。はか달ら豈に橫腰の劍、彼の淮陰の人を屈するなからむや。送各郡発詞送張十四遊河北
李太白 集卷十六歌易水濱。ミえんか擊筑向北燕。燕筑を擊つて、北燕に向ひ、燕歌易水の濱。た:政歸來太山上。當與爾爲鄰.歸り來る太山の上、當に爾と鄰を爲すべし。【字解】【】張公子强十四その人を指す。【二】伉佛後漢書の註に「高亢俸直の親」とある。CO淮陰人韓信が淮陰の少年に尋められた事を用ふ、すでに前に見ゆ。【日】易水濱水經註に「太子丹、剤刺を遣して秦王を刺さしむ。賓客、謀を知るもの皆衣冠を素くして、これを易水の上に送る。〓軻、起つて毒を爲し、歌うて曰く、風蒼蒼兮易水寒、壯士一去兮不復還と。高漸離、筑を撃つ。宋如意、これに和し、壯聲を爲せば、士皆髮冠を沖し、哀聲を爲せば、士皆流涕す」とある。3當與爾爲郡陶滑の詩に老夫有所受、思與爾爲〓とある。ミえんか筑を擊つて、北燕に向ひ、燕歌易水の濱。た:政歸り來る太山の上、當に爾と鄰を爲すべし。けだ喜ば:たはたうじょちがほくだう蓋し古しへの幽·冀二州の境:【題義】唐書地理志に「河北道は、孟·懷·魏·博·相·衞·貝·にけいに1じき去はばくいセ那·南京·鉄·孝·孝·忠·泉·泉·定·定長·幽·ネ·夢·美·か15 L c 62さぶ張某の河北に遊ぶを送つちやうほうほ州あり」と見ゆ。張十四の名字は不詳。この詩は、例の魯郡の堯祠に於て、(て作つたのである。たけたかる〓おほ丈高き草むらに伏して居る時、【詩意】猛虎が、かくれて居る積りであつても、その身を蔽ひかくすで500ぜんぜんたうく口い15달ことは出來ない。士の此世に在るも、正に之と同じく、全然韜晦しやうとしても、矢張、人の目につこ꿀さいのう:き、毀譽褒貶、必ず之に伴ふものである。わが張公子の如きは、天晴の才能あれども、兎角不遇で、ふうぢん:およおしつけいけいなわい風塵の中に跼踏して居る。もとより、腰下には實刀を佩びて居るから、失敬にも人を輕侮する彼の淮せうねんはい.줄陰の少年輩をつかまへて、目に物見せて吳れることの出來ない筈もない。しかし、そんな事はせず、き古しへの〓柯を弔ひ、초レーこれより、筑を擊ちつつ、北燕に向ふとのことで、易水の邊に於ては、燕歌をまたいざんほしらたた唱へて、感慨に堪へぬことであらう。かくて、太山の邊なる、この魯郡の地に再び歸つて來たならば、たがひ汝と鄰同士に住んで、日夕追隨、互に慰め合ふことにしやう。かかうがいただか5【餘論】全體が悲歌慷慨といふ樣な調子で、讀者の心を動盪する。但し、張十四は、何の爲に河北に〓さいわかけ:出かけるのか、その邊の消息は、一切分らず、一轉して、歸來太山上となり、甚だ呆つ氣ない樣な氣がする。杭州送裴大澤〓赴廬州長史はいだいたくれし)ちやうしおも杭州にて表大澤を送る、時に廬州の長史に赴く西江天柱€西>遠。東越海門深.江、天柱遠く、東越、じ去割辭親戀。行憂報國心。ふ去つて、辭親の戀を割き、好風吹落日。流水引長吟。好風、落日を吹き、流水、き五月披裘者。應知不取金。55 : e :五月、裘を披くもの、還杭州送雲大澤時赴廬州長史海門深し。a行く報國の心を憂へしむ。流水、長吟を引く。:應に金を取らざるを知るべし。好風、55五月、落日を吹き、: e裘を披くもの、
巻十六【字解】【一】天柱漢書に「廬江郡瀧縣、天性山南に在り」といひ、三國志に「濫中に天柱山あり、高崚二十餘里、道險狹、步徑わづかに通ず」とあり、一統志に「霍山は廬州府六安州の西南九十里に在り、一名衡山、一名天柱。漢の武帝、南巡して盛唐に至り、南岳衝山の遣阻なるを以て、乃ち岳神を霍に移して祀る、又南岳山と名づく。山頂に天池、龍湫、風洞、岳井、試心崖、凌霄樹あり」と記してある。S海門成淳臨安志に「海門は仁和縣の東北六十五里に在り、山あり、赭山といふ、龕山と對峙し、漸、その間に生ず」とあり、輟耕錄に「浙江の口、兩山あり、その南を龜山といひ、その北を赭山といふ、蓋し江海の會に峙つ、これを海門といふ」とある。g披装者論衝に「延陵の季子、出でて遊び、路に遺金あるを見る。夏五月に當つて、裘を抜いて薪するものあり。季子、覇者を呼んで曰く、彼の地の金を取れ、と。采薪者、鎌を地に投じ、目を賦らし、手を拂うて、言つて曰く、何ぞ子居るの高く、視るの下く、儀貌の壯、語言の野なるや。吾、夏五月に當り、表を披いて薪す、豈に金を取るものならむや、と。季子これを謝し、姓氏を請ひ問ふ。薪者曰く、子は皮相の士なり、何ぞ姓氏を語るに足らむや、と。遂に去つて顧みず」とある。おつかうしう上かうぐんかうたんとうだうてろ片ろかうぐんわいなんだうだゐはいだいポート【題義】唐時の杭州は餘杭郡で、江南東道に屬し、廬州は廬江郡で、淮南道に屬して居た。裴大の大はいかうだい〓おにしかうしうぶいはいだいたくあらたろかうちやうしほは排行第一、澤は、其名であらう。この詩は、杭州に於て表大澤といふものが、新に廬江の長史に補赴低するのを送つて上にんiせられて、作つたのである。ろし)せいかうなてんちうざんとほそびいまかうしうぶ君の行く廬州に於ては、【詩意】西江の地に名だたる天柱山が遠くに聳えて居るし、今居る杭州は、すなはいにとうゑつかいもんふかりやうちかくぜついまいおやあい卽ち古しへの東越で、海門深く、兩地の隔絕することは、言ふまでもない。君は、今、親に對する愛れん〓はうこくこころうれこうじたのわたくしかへりていゐたのしみす戀の情を割いて、行く報國の心を憂へしめ、つまり、公事の爲には私を顧みず、庭關の樂を棄て,ㅊこころねらうかうふうらくじつふ:て、于役しやうといふ、その心根は、まことに見上げたものである。折しも、好風は落日を吹き、流すゐちやうぎん元まぜんとしゆくふくえんりようしなつおら水は長吟の聲を引き、さながら、君の前途を祝福するやうである。むかし、延陵の季子は、夏の五月あつかはごろもゐおえひろところみごと源수合に、厚い裘を著て居るものに向ひ、金を拾へといつた處が、見事に一本遺りこめられたことがあるそうめいけんしやじ달くびなせいしやま=ので、いかに聰明の賢者なりとも、これを自負して、人を見縊つては成らぬので、爲政者たる君に向じもうこくしだいつては、この一事を特に忠告する次第である。じさんぜんっがんれん123かせいてきでところだいだいりやうくきんみつ【餘論】これは純然たる五律で、領聯が聊か一氣呵成的に出來て居る處から、第一第二の兩句を緊密るれんめいくくわうけいじんぶつおくさうじやうけいゆうがふめうに對した。好風の一聯は名句で、この光景に因つて、その人物を臆想すべく、つまり、情景融合の妙けつまつ1たくかいまししうけつはふがある。結末は、一歩を拓開したので、亦た一種の收結法である。だいだいりやうくきんみつ第一第二の兩句を緊密じやうけいゆうがふめうつまり、情景融合の妙はりようかうべつれ漏陵行、別を送るはりようていかうかうきみおくはすゐなが君を送る漏陵亭、滿水流れて浩浩たり。2む:こじゆ上に無花の古樹あり、したしやうしんしゆんさう下に傷心の春草あり。〓しんびとgろ秦人に向つて路岐を問ふ、いわうさんなんとう15云ふ是れ王榮南登の古道と。灞陵行.送別こ送君灞陵亭.濔水流浩浩.上有無花之古樹。下有傷心之春草。我向秦人問路歧。〓云是王粲南登之古道送獨陵行送別六六九
李太白集卷十六こだうれんめんはし古道連綿走西京.古道連綿、西京に走る、けつらくじつふうんしやう紫闕落日浮雲生.紫闕落日、浮雲生ず。あたこんせきだんちやう正當今夕斷腸處.正に當る今夕斷腸の處、しうぜつしの驪歌愁絕不忍聽。驪歌愁絕、聽くに忍びず。【字解】E滿陵亭太平寰字記に「霸陵は成陽縣の東北二十五里に在り」とある。三漏水水經註に「漏水は白鹿原を經、東は卽ち霸川、西は故の芷陽、これ之を霸上といふ。漢の文帝、その上に葬り、これを霸陵といふ。上に四出道あり、以て水を瀉ぐ。長安の東南三十里に在り。故に王仲宣、詩を賦して曰く、南登ニ陵陵岸、醒首望長安」とある。【三】王桑字は仲宜、西京の擾亂を以て、乃ち〓州に之いて劉表に依り、七真詩を作る、卽ち南登三國陵岸、囘首望ニ長安の一首。3風歌漢書に「王式曰く、寄、壓胸を歌ふ、主人歌へば客歸るを容るるなし」とあつて、服處の註に「鳳駒は逸詩の篇名、大義禮に見ゆ、客去らむと欲して之を歌その辭に曰く、■胸在門、僕夫具存、壓駒在路、偶夫整〓」とある。こだうれんめんはし古道連綿、西京に走る、けつらくじつふうんしやう紫闕落日、浮雲生ず。あたこんせきだんちやう正に當る今夕斷腸の處、しうぜつしの驪歌愁絕、聽くに忍びず。はりようそうべつくわうげいきつだ【題義】灞陵送別の光景を寫したから、かく題したのである。まゑんかうはりようていはすあながれかうかうわた【詩意】君の遠行を送るが爲に、この漸陵亭まで來て見れば、溺水は、流浩浩として、渡ることも一む寸六つかしい位。ここ5によき153たしたそのあたりを見まはすと、上には、花もない古木が如鬼如鬼と立つて居るし、下にいたしゆんさうB5 iであとじんsみらわかは、心を傷ましむる春草が煙の如く萌え出て居る。そこで、我は、土人に向つて、路の分れるのは、ニテわうさんみなみはりようのぼだうどこへ通ずるかといつて問ふと、これこそ、むかし、王粲が南、漸陵の岸に登れば」といつた古道みなみけいしうきたちやうあんParkちやうあんじゃうちうきうけつさがで、南すれば、〓州までも行くし、北すれば、長安に連つて居る。長安城中には、宮闕嵯峨としてこにBDほふうんたちましやういたたらはにい2§聳え、落日西に斜なる頃、浮雲忽ち生じ、まことに心を傷ましめる眺である。この漸亭附近こそ、長あんはつこんせきとうしゆくはらわたた달とだわかれ1せいせいしう安より發する旅客が今夕投宿し、囘願して腸を斷つ處であつて、その人の唱へ出す別の歌は、聲聲愁し:1しミ글絕、聞くに忍びないのも、まことに、尤も至極な事である。けんりうぎよひ「古しへの傷心の人、くわいはうは죽【餘論】乾隆御批には別に懷抱ありとは、この詩の謂」とある。起首六句、長たんさくそう:地れ、あていけいせいしんい短錯綜、亦た實に、一奇格と推すべく、その下、古道の二句は、綴景〓新、正當今夕斷腸處に至つて、よじやうとこ餘情長しへに盡きない。は죽この詩の謂」とある。起首六句、長ていけいせいしんい綴景〓新、正當今夕斷腸處に至つて、がかんかへれ送賀監歸四明。應制賀監の四明に歸るを送る、toえいたつ久辭榮祿遂初衣。久しく榮達を辭して、初衣を遂げ、曾向長生說息機。ちやうせいむかかつて長生に向つて、息機を說く。眞訣自從茅氏得。しんけつみづかぼうし眞訣、自ら茅氏より得、若者:へだかへ恩波應阻洞庭歸。恩波、應に洞庭を阻てて歸るべし。0えうだいせいしんみ瑤臺含霧星辰滿。六瑤臺、霧を含んで、星辰滿ち、送送賀監歸四明應制おうせい應制【字解】【一】違初衣初衣は初服楚辭に進不入以離尤一分、に同じ。退將復修平初服、製菱音以爲衣〓,集美容以爲裳とあつて、王「初服、初始潔〓の服なり」逸の註にとあり、卽ち朝衣を脫いで、初始潔〓の衣服を著ること。3眞訣息機を說く。
李太白集卷十六@仙嶠浮空島嶼微. (七じ借問欲棲珠樹鶴。何年却向帝城飛。李太白集卷十六@太玄眞人傳に「茅政、仙し去らむと仙嶠浮空島嶼微.仙嶠、空に浮んで、島嶼微なり。(七じしやもん5つし、家人及び親戚と辭し、句曲に歸借問欲棲珠樹鶴。借問す、珠樹に棲まむと欲するの鶴、る。二第、これを聞き、官を棄てていづれごていじやうむか家に歸る。漢の元帝永光元年、江を何年却向帝城飛。何の年か、却つて帝城に向つて飛ばむ。渡つて、兄を東山に求め、遂に與に相見る。兄曰く、癇、すでに老いたり、欲、補ふべきこと離し、たとひ眞訣を得るも、適ま地上の主者と成るべきのみ」とある。3潤庭水經註に「太湖中に大雷小雷の三山あり、亦た之を三山湖といひ、又これを洞庭湖といふ」とあり、吳地記に「揚州記に曰く、太湖、一名は震澤、一名は洞庭」とある。三瑞臺拾遺記に「須彌山の旁に瑞產凡そ十二あり、各-廣さ千歩、皆五色の玉を臺基となす」とあり、梁の武帝の詩に、瑞臺含 z歸z、羅慕生ニ類煙とある。3仙嶠列子に「渤海の東、中に五山あり、その根、連著するところなく、常に潮波に隨つて上下往還す」とあつて、その詳、前に見ゆ。仙崎、浮空は、卽ち其事を用ひたのである。E珠樹鶴淮南子に「崑崙中に珠樹あり、玉樹、強樹、不死樹、その西に在り」論衝に「海外、西南に球樹あり」と見ゆ。次に神仙傳に「蘇仙公、道を得たり、數年の後、雲に昇つて去る。後に、白鶴あり、來つて郡城東北樓上に止まる。或は彈を挾んで之を彈す。普、爪を以て模板を握し、漆書に似せて曰く、城郭是、人民非、三百甲子一來歸、我是蘇公、彈我何爲」とある。仙嶠、空に浮んで、島嶼微なり。しやもん5つ借問す、珠樹に棲まむと欲するの鶴、いづれごていじやうむか何の年か、却つて帝城に向つて飛ばむ。ド中止,ニヒ白くる【題義】賀監は、卽ち賀知章で、その四明に歸臥せしことは、もとより著名な事實である。册府元龜がまに「賀知章、祕書監となり、銀靑光祿大夫を授けらる。天寶三載、老疾に因つて、恍惚醒めず、洞天RISしんいう늘まひも出じやうそ三〓の上に神游するが若く、數日にして方に覺め、遂に入道に志あり、乃ち上疏し、度して道士とかへほんきつうたなりて歸り、本〓の宅を捨てて觀と爲さむことを請ふ。玄宗、これを許し、仍つて、其子典を設郞にくわいけいやんしは:かう おくかa ,い拜し、曾を會稽郡司馬となして侍養せしめ、御製の詩、以て行を贈り、皇太子以下、威な就いて別を執る。御製の詩〓に序に云ふ、天寶三年、太子賓客賀知章、鑒止足之分、抗歸老之疏、解組辭榮、志期入道、朕以其夙有微尙、年在遲暮、用循挂冠之事、俾遂赤松之游、正月五日、將歸會稽、遂儀東路、乃命六卿庶尹大夫、供帳靑門、寵行遁也、豈惟崇德尙齒、抑亦勵俗勸人、無令三二疏獨光漢册、乃賦詩贈行云、遺榮期入道、辭老竟抽簪、豈不惜賢達、其如高尙心、環中得祕要、方外散幽襟、獨有靑門儀、羣英帳別深、またん又云ふ、筵開百壺儀、詔許二疏歸、仙記題金錄、朝章換羽衣、悄然承ニ睿藻行路滿光輝。デハ,ちやうらくはそれから、詩紀載に據ると〓知章の越に歸るや、詔して、東門外に供帳せしめ、百僚、長樂坡に:〓だき祖餞す。李適より以下、詩を作つて之を送る」とあつて、今詩の存するもの三十七首、李白の此詩も其一である。應制は、天子の詔を承けること。51おんえいけつせいに【詩意】賀老は、恩榮ある俸祿を辭し、朝衣を脫いで、初始潔〓の服を著けやうと願ふこと、すでに:·キトちやうせい七七久しく、又かつて長生の仙術に心を寄せ、これに因つて、浮世の塵機を斷つことが出來ると言つて居送送賀監歸四明應制かう おく以て行を贈り、か皇太子以下、a ,い威な就いて別を御製の詩、豈不惜賢達、其如高尙心、環中得祕要、方外散幽襟、獨有靑
李太白集卷十六ヒたた。かくて、今囘愈よ官を辭して、その故郷なる會務の四明に歸るといふことであるから、やがて、おんたくiが: 1元長生の祕訣を茅盈から傳授されるであらうし、天子の恩澤は、波の溶溶たるが如く、賀老は洞庭を隔だえうだい:させいしんらんちんbeゆずこてて容易に其〓に歸られる。仙人の居る十二の瑤臺は、霧を含んで、星辰爛爛、その周圍に照り輝き、かいじやうぜんざんs꿀かげが:5:せんじゆつ'につ海上の仙山は、空に浮ぶが如く、島嶼らしい影が、かすかに見える。賀老も、仙術を學んだ上は、日ほつ己またていじやうむか夕こんな處を飄遊するであらう。しかし、崑崙の珠樹に棲まむと欲する鶴は、何時又帝城に向つて飛:サせんじゆつじやうじゆ%び歸るか、賀老は、すでに天子の殊遇を受けたことであるから、仙術成就の後には、是非一度は御たちよつとちやうあんぶ禮の爲に、一寸でも長安に顏出しするが善からうと思はれる。ぜんかいが35にゆことのり認して之を;じミ【餘論】王翼雲の評に「前解は、賀監が〓に歸らむとし許せしより、その祿を辭して〓もこうかいせんこんおんわず歸するの由を寫し、後解は、その仙と成つて以後、君恩の隆重を忘るる勿からむことを冀ふ、應制體100おほかたかへが5:달を得たり」とある。結二句、鶴は何時歸るか、大方歸るまい、これと同じく、賀老も、一たび此を去わたた漢おわかれだinつた後は、再び歸り來ることなかるべく、これが最後の御別であるから、愈よ名殘が惜まれるといでせんきん小참:す。榮ふ樣な意味にも取れるが、それでは、淺近の謂を免れない。なほ翼雲は「久の字、遂の字に應ず。こころぎしひねがひ今ざしんけつちやうせいぐるを得たり。祿を辭する志、すでに久しく、はじめて初衣の願を遂眞訣は、長生を學ぶの訣示ほうくんはなり。むかし、曾て之を慕ふ、今、すでに之を茅君に得たり。恩波は、帝の恩澤なり、洞庭の字と相えいたいせいかうじゆんぜんっはおほ殿X映帶して生巧」といつた。この詩は、純然たる七律で、李白の集中に於ては、多く見ざるところ。おうせいいつたう날滄浪は「應制の體を得たり、逸蕩の人、これを爲す、亦た是れ一苦」といつたが、如何にも其通り、かか:きもし體制と格律とに拘はらず、五古でも用ひたならば、一層の佳作を爲したに相違なく、まことに遺ち憾の至である。仕)く寶司馬の宜春に貶せらるるを送る天然はくぎん天馬白銀の鞍、親ら明主の軟を承く。し雞を鬭はす金宮の裏、雁を射る碧雲の端。こかしょうせいやたげなは堂上には中貴を羅ね、歌鐘〓夜關なり。を発何ぞ言はむ、南國に謫せられ、劍を拂うて坐して長歎。やゐしゆだん趙璧、誰が爲にか點ずる、隨珠、枉げて彈せらる。中でら聖朝、雨露多し、この行、難きを厭ふ莫れ。送竇司馬貶宜春E天馬白銀鞍。親承明主歡。鬪雞金宮裏.射雁碧雲端. (三)堂上羅中貴。歌鐘〓夜關。何言謫南國。拂劍坐長歎。(む)趙璧爲誰點。隨珠枉被彈。聖朝多雨露。莫厭此行難。【字解】E白銀鞍和く鐘聲の聲。E趙璧史記にに青蠅一相點、白壁達成 をとある。C鹽珠送送賣司馬貶宜春聖朝、白銀鞍陳の後主の詩に照縮白銀鞍とある。鬪難、中貴ともに前に見ゆ。歌鐘歌聲と之に和してE趙璧史記に「趙の惠文王の時、楚の和氏の壁を得たり」とある、その詳、前に見ゆ。F爲誰點陳子昂の詩白壁達成 をとある。C鹽珠捜神記に「隨侯、出でて行き、大蛇の傷を被つて中斷するを見、その靈異を凝ひ、送賣司馬貶宜春六七五
李太白集卷十六人をして、藥を以て之を封ぜしむ。蛇、乃ち能く去る。因つて、其處を號して斷蛇邱となす。歲餘、蛇、明珠を喞んで以て之に報ゆ。珠、徑寸に盈ち、純白にして、夜、光明あり、月の燭らすが如く、以て室を燭らすべし。故に、之を隨侯珠といひ、亦た靈蛇珠といひ、又明月球といふ。莊子に「今且つ此に人あり、隨候の珠を以て、千仞の雀を彈せば、世、必ず之を笑はむ、これ何ぞや。その用ふるところのもの重くして、要するところのもの輕ければなり」とある。赤じやうしう【題義】唐時の宜春郡は、卽ち袁州で、江南西道に隸して、上州であつた。上州には、刺史長史の下生こ入2人なに司馬一人あつて、從五品である。この詩は、寶某が何か罪を得て、宜春の司馬に貶せられ、愈よ赴にんbに任するに際し、慰藉の意を寓して、その行を送つたのである。い千石〓【詩意】今まで、君は、天馬に白銀の鞍を置いて、得意に乘り廻はし、しづしづと入朝して、親しく: ;佐々がんごだ明主の歡心を承け、又雞を金宮の裏に國はしたり、雁を碧雲の端より射落したりして、天子の御側にごほかしようきようたらに奉仕し居た。それから、家に還れば、堂上に中貴人の輩を列坐せしめ、歌鐘興を添へて、〓夜、す최고君でに闌ならむとする頃に及び、まことに富貴榮華を極めて居た。しかも、料らざりき、一朝罪を得占ESて、遠く南方の宣春に貶調せられむとは。かくて、劍を拂うて長嘆し、まことに、感慨に堪へぬ有樣:うである。君の才德を以てして、今次の貶謫に遭へるは、たとへば、趙に傳へた和氏の壁が何者かに汚ま1%にされ、隨侯の明珠を以て、雀か何かを彈ずるやうなもので、まことに、不幸の至である。しかし、聖尺늘い上た:召し還されるに相違ないから、明の世には雨露多く、いづれ遠からぬ內に、一切の事が分つて、このだ上行の困難を厭はず、何事も運命と諦めて、兎に角、出かけたら善からう。しや【餘論】前半六句は往日の豪貴、後半六句は今日の貶謫で、結二句は慰藉の意を寓して居る。りんたうしやうぐん送羽林陶將軍羽林陶將軍を送る10〓あ將軍出使擁樓船。將軍出でて使して、樓船を擁す:江上旌旗拂紫煙。江上の旌旗、紫煙を拂ふ。(三)たニサ萬里橫戈探虎穴。萬里、戈を橫へて、虎穴を探り、@ほt三杯拔劍舞龍泉。三杯、劍を拔いて、龍泉を舞はしむ。莫道詞人無膽氣。道ふ莫れ、詞人、膽氣なしと、(출た、ty臨行將贈繞朝鞭。行くに臨んで將に贈らむとす繞朝の鞭。【字解】S樓船水軍載するところの船、すでに前に見ゆ。【二】拂紫煙東都賦に羽施掃霓、施旗拂天とある。co探虎穴呂蒙の語に「虎穴を探らざれば虎子を得ず」とあるを用ふ、詳に前に見ゆ。3龍泉創の名、すでに前に見ゆ。3繞朝鞭前に宇文太守に贈る詩に繞朝策とあつたのと同じ、朝を繞つて様を贈るといふ。ちしゃうぐんおのおりほくが【題義】唐書百官志に「左右羽林軍には大將軍各'一人正三品、將軍各三人、從三品、北衙のた禁兵を掌統し、左右廂の飛騎儀仗を督攝す」とある。この詩は、羽林軍に屬する將軍陶某が命を受けCoffee (めい2 iて、江南に使するを送る爲に作つたのであるが、如何なる使命を帶びて行くのか、その邊の事は、送送羽林陶將軍六七七
李太白集重十さいわか切分らない。たうしやうぐんこたらいなんゆう〓ろうせん〓たいかうくだせいきかけかうじゃう【詩意】陶將軍は、今次出でて南方に使し、樓船を從へて大江を下るとのことで、旌旗の影は、江上Khuはしえん포함とほ薄た15元こっさくに簇つて、晴れた日の紫煙を拂ふばかり。かくて萬里の遠きに赴き、戈を橫へて虎穴を探らむとし、はいたもりようせんあいけんぬょがいさうれついかなと三杯を傾けし後、龍泉の名劍を拔いて、起舞する。その氣〓の壯烈なる、如何なる事でも成し遂げぬ45しじんたんじげつ5きみ筈はない。むかしから、詞人には膽氣なしといふが、決して、そんな譯ではなく、われは、君の行くのてうだうめぐあゆはべん門このじやうぶに臨み、朝堂を繞つて歩みながら、馬鞭を贈り、以て此情を展べやうと思ふ。しかくべつたいぐうなぜいたうたつ【餘論】この詩は格別のものでなく、萬里三杯の二句は、對偶を爲しては居るが、精當ではない。唐ちうげんんちゃりつたいpurりようせんごれんだつはうこうせい仲言は「この篇、全く是れ律體、疑ふらくは是れ、龍泉の下に一聯を脫す」といひ、方弘靜は「このへんまきんたいいついまもつしtel :)ら篇、當に是れ近體八句して、その五六を逸せしなるべきなり。今以て古詩となし、或は以て六句の律わうき元だんきんたいたうひととこれりくてうじんとあるひゴりとなす」といひ、王琦は之を斷じて「六句の近體、唐人時に之あり、六朝人に本づく、或は號して小はんりつらつせうりつ平仄の上かひやうそくしらい律となす」といつた。小律は一に半律といふ。しかし、ら見ると、この詩は、王琦の云ふたうちうげんやうせうりつやら唐仲言·方弘靜等の云へるが如く、たに글五六二句を脫したものに相違ない。さうん樣な小律ではなく、矢張、白集重十送程劉二侍郞兼獨孤判官赴安西幕府じとくこはんぐわんあんせいほく程·割二侍郎の獨孤判官と西幕府に赴くを送る; comごあんせいほとさいゆうおほ安西幕府多材雄。安西の幕府、材雄多し、【字解】【一】織衣僕書に「侍げんげんたらすうこう御史に縮衣直指あり」と記し、齲師喧喧惟道三數公.喧喧惟だ道ふ三數公。古の註に「衣するに縮を以てするは、〓しういてうきうせうせつあきら繡衣貂裘明積雪。縮衣貂裘、積雪よりも明かに、これを尊重するなり」とある。【三】〓kとはしへうふう글飛書走樣西京雜記に「枚皐文章敏飛書走檄如飄風。書を飛ばし〓を走らすこと飄風の如し。疾」とあり、揚子法言に「軍旅の際、ゆためいしゆcし:朝辭明主出紫宮。朝に明主を辭して、紫宮を出で、戎馬の間、飛書馳樹には枚皐を用ふ」ぎんあんべつれきんじやうむなとある。こ紫宮卽ち紫微宮、銀鞍送別金城空。銀鞍、別を送つて、金城空し。天子の居るところ、すでに前に見ゆ。숲てんぐわいひさそうかいくだ天外飛霜下葱海。天外の飛霜、葱海に下り、金城長安城、亦た前に見ゆ。くさごくわきごはんくわうさいしやうC葱海通典に「安西郡、西、疎火旗雲馬生光彩。火旗雲馬、光彩を生す。勒鎭守使の軍に至る三千里、葱嶺をいくにちた胡1胡塞〓塵幾日歸。塞、塵を〓めて、幾日か歸る、去る七百里」とあり、涼州異物志にかんちくさみどりBish 61「葱嶺の水、東西に分流し、西は大漢家草緣遙相待。漢家草緣にして遙に相待つ。海に入り、東は河源となる」とある。8火旗旗の赤くして火に似たるをいふ。Car馬の多くして雲に似たるをいふ。くたうじよほうじやうせいでんかいげんすゑあんせいちんせつとし+もうれいさつはんぐわんりうてうどくこしゃんみ【題義】舊唐書封常〓傳に「開元の末、安西四鎭節度使夫蒙靈營判官に劉胱·獨孤峻あり」と見えりうじ:どくこはんぐねんおほかた달ただて.たんぴとわかて居るから、劉侍御、獨孤判官は大方その人であらう。但し、程は何人だか、分らない。それから、送送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府【字解】【一】織衣僕書に「侍御史に縮衣直指あり」と記し、齲師古の註に「衣するに縮を以てするは、これを尊重するなり」とある。【三】飛書走樣西京雜記に「枚皐文章敏疾」とあり、揚子法言に「軍旅の際、戎馬の間、飛書馳樹には枚皐を用ふ」とある。こ紫宮卽ち紫微宮、天子の居るところ、すでに前に見ゆ。金城長安城、亦た前に見ゆ。C葱海通典に「安西郡、西、疎勒鎭守使の軍に至る三千里、葱嶺を去る七百里」とあり、涼州異物志に「葱嶺の水、東西に分流し、西は大海に入り、東は河源となる」とある。
李白集卷十六, , in通鑑唐紀に「安西節度は、西域を撫寧し、龜茲、焉耆、于聞、疎勒の四鎭を統べ、龜茲城に治す、兵だだいヒ二萬四千」とあるし、册府元龜に「周禮、六官六軍、竝に吏屬あり、大は朝廷に命ぜられ、次は皆自ら돈は;ひと、ほ辟除す。春秋諸國、軍司馬尉候の職あり、しかも未だ幕府の名あらず。戰國の際、はじめて、將帥治:をにんはするところを謂うて幕府と爲す。唐節度使の屬、副使一人、行軍司馬一人、判官二人、掌書記一人あ:ににみなそうせい달おより、參謀は員なし、隨軍四人、これより正に幕府の職たり、皆奏請し、出身あるの人、及び六品以下じの正員官、これを爲す」とある。この詩は、侍御劉胱及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府にふにんれん赴任するを送つて作つたのである。たいげんせいおは15【詩意】安西都護府は、西域一帶の地を牽制するから、その必要上、才氣雄傑の人が多いが、その中の; eでも、喧喧として、人口に上るのは、程·割·獨孤の三數公である。三君は、纖衣を著け、貂裘を披き名にはそれが滿地の積雪よりも明がに、き、そして、書を飛ばしたり、檄を走らしたりする場合に、その疾둘いことは、さながら飄風の如く、まことに、天晴の人物で、これなればこそ、かの重職も、やすやすとCえ%あしたせいめい務まる譯である。今次、三君は、朝に聖明の君に辭して、紫宮より出で、そして、其行を送る人人は、おほい' OF馬に銀較を置いて、美美しき打扮、しかも、その數の多いことは、長安城が空に成るかと思ふ位。the Byせいかんたこれより、行く手の路は、いとも遙にして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬおほ;屋が、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相從ふ人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事であうまあやこる。かくて、何時胡塞の塵が收まつて、目出たく歸京せらるるか、造品中えして、遙に三君の歸るのを待つて居る。L)こ【餘論】起首四句は、三人の人物を寫し、朝辭の二句は、送別の有樣、想像し、胡塞の二句は、その歸京の早からむことを嘱望したのである。あやこおい都に於ては、目出たく歸京せらるるか、春囘り、草再び緣にら途中の光景を天外の二句は、送姪良攜二妓赴會稽〓歳有此贈155 ; : )妊良が二妓を搆へて會稽に赴くを送り、戯れに此の贈あり(1)おろいBLE攜妓東山去。春光半道催。妓を攜へて東山に去れば、春光半道に催す。遙看若桃李。雙入鏡中開. Bisは李の若く、遙に看れば桃雙つながら鏡中に入つて開く。【字解】E東山一統志に「東山は、紹興府上虞縣西南四十五里に在り、晉の太傅謝安、ここに居る。今絕項に、謝公の調馬路、白雲明月二亭の遺跡あり」と記してある。S桃李曹植の詩に、南國有二人人、容華若桃李」とある。co鏡中開王逸少の言に「山陰道上に行くは、鏡中に在つて遊ぶが如し」とあつて、すでに前に見ゆ。うこで李白の妊李良といふものが二妓を攜へて、會稽の方へ遊びに出かけるに就いて、送別の爲に【題義】李白の妊李良といふものが二妓を攜へて、れ戲に此詩を贈つたのである。送送錘良攜二鼓赴會稽戯有此贈送別の爲に
李白集モナ大ちやうどいにしやあんとうざん굴くわいけいにもむなんだおちく·丁度古しへの謝安の東山に於けるが如くである。【詩意】汝の妓を攜へ行くのは、そして、會稽に赴だうちうVしあんくわうしだい廿五五じニきようたこたづさく道中に於ては、春光次第に催し、まことに、善い時候で、その興も、さこそと思はれる。汝の攜へて30元みむうげんこiiきやうちうどこの居る二妓を遙に看れば、さながら、桃李の妍を競ふが如く、そして、鏡中を行くが如しといはれた其さんすゐあひだおいえんぜんあひならひらぜいまたひと山水の間に於て、嫣然相竝んで開き、その風情は、又一しほであらう。こかんたんいささぎやくいおところ. :ま【餘論】この一首は、極めて簡單であつて、その聊か龍意を帶びた處は、戯贈だからでもあるが、亦;りくてうせいりやうよし一そた實に、六朝齊梁の餘習に沿うたものである。. :戯贈だからでもあるが、ま亦〃ひんかく〓っだこ送賀賓客歸越賀賓客の越に歸るを送る【字解】【一】鏡湖通典に〓鏡湖流水漾〓波。きやうこりうすゐせいはむたん州會稽縣に鏡湖あり」と記してある。鏡湖の流水、〓波を漾はす。E狂客賀知章、白ら四明狂客狂客歸きやうかく1/3いつきようおほ舟逸興多。狂客の歸舟、逸興多し。と號す。CO山陰道士王義之が山陰道士如相見.さんいんだうしあらあ山陰道士の實を飼ふを見、これを得山陰の道士、もし相見なば、むと欲し、仍つて、黃庭經を寫して:くわうていうつRyか應寫黃庭換白鵝。應に黃庭を寫して白鵝に換ふべし。之に換へたので、その詳は、前に見ゆ。しかし、それは、黃庭經でなく、道線經だといふ說もあつて、その詳は、餘論の項に於て述べることにする。がひんかく:がかんしまへみほとことき賀賓客は、卽ち賀監で、この詩は、前に見えた送賀監歸四明の一首と略ぼ同時の作であ【題義】ただまへおうせいこじんまたべつた、くたうじよてんほうねんる。但し、前のは應制であるし、これは個人として又別に贈つたものと見える。舊唐書に「天寶二年十ぐわついついうたにひんかくがちしやうとだうし13かへ三年正月喫子ルさいうしやうい二月乙酉、太子賓客賀知章、度して道士となつて、〓に還らむことを請ふ。左右相以つかははふしよえうろくがちしやうらたかが賀知章を長樂坡に祖別し、語を賦して之に贈る」とあり、ちしやうちやうらくは+でつしみ下を遣し、法書要錄に「賀知章、字は維摩、きふだいくわいけいえいこう달むたしせんぱとくじんまご:ぶんじなし草隸の書上theしんし會稽永興の人、太子洗馬德仁の孫。少にして文辭を以て名を知られ、に工なり。進士に及第れいぶじらうしふけんがくしむし는けんくわうしじけんかうこうぶじ:れきくわんひしよかんむしひんかくけいわうし、禮部侍郞、集賢學士、太子右庶子兼皇子侍讀、檢校工部侍郎に歷官し、祕書監、太子賓客、慶王じ를こつちしやうせいはうぜんぎやくほんねんことほしいまませんこみづかめいきやう侍讀に遷る。知章、性放にして善謔、晩年、尤も縱にして、復た規檢なし。年八十六、自ら四明狂かくがうきようたげなはいらだいじしょむしゅむししおつよめい글或は三百言、客と號す。興酣なる毎に、筆を命じ、好んで大字を書し、或は五百言、詩筆惟だ命のおつつかみつごいくしとレはう亦たししまゐ。幾紙あるかと問ひ、十紙と報ずれば、紙盡き、語、盡く。二十紙、三十紙、紙盡き、語亦たったちまかうしよざうくわあひあらそじんこうたあらてんぼうねんとしお盡く。忽ち好處あれば、造化と相爭ふ、人工の到るべきところに非ざるなり。天寶二年、年老いたるじやうへうにふだうきやうりだとみことのりこれいまにふかくちよくわういかを以て上表し、入道して〓里に歸らむことを請ふ。特に詔して、之を許し、重ねて入閣、儲皇以下きようちやうれうせんそう:はいじ上5みづかし:にした"しよしをして、拜辭せしめ、親ら詩序を製し、所司をして供帳せしめ、百僚餞送し、詩を賜うて別をにちしやうへうしやしゆせうテ敍す。知章表謝するや、手詔して答へて曰く、卿儒才舊業、德著老成、方欲乞言以光東序、而乃高踏世表、歸心妙門、雖雅意難違、良深耿嘆、眷言離祖、是用贈詩、宜保松喬愼行李也、兒子輩、常所執經、故令親別尊師之義い何以謝爲、還送賀賓客歸輪六八三六八三
李太白集季十このこてんせつらうじふくてうきんたいふほんでんし拉このじやう仍つて、其子典を設郞に拜し、曾子を朝散大夫本郡司馬となし、以て侍養を伸べしむ」とある。それつかさどけだつうてんくわうたいしひんかくよにんてうごじじうきかん用そ太子、およしひんかく云じやうしから、通典に「皇太子賓客四人、調護侍從規諫を掌る、賓客の事あらば、上齒たり、蓋ししやう:つとしかんちう:さつ象を四皓に取り、資位閑重、その流、雜ならず」とある。古きやうこみづせいは安定今ままおこ;【詩意】鏡湖の水は、澄み切つて、〓波を淺はして居る。君は其地に歸休されるといふので、舟にIb達いつきようさだおほにめいきちやくのらに乘つて、湖水を渡つて行かれるが、逸興定めて多きことであらう。かくて、愈よ四明に歸著せし後、ちうつさんいんだうし꿀しよかんのうま古しへの王逸少を學び、わういつせうまなくわうてい山陰道士の如きものに遇つたならば、書に堪能なる君は、黃庭の一經を寫しださいはくがかて、道士の白鵝に換へることであらう。わういつせうぜんばんめいきちやくりよきようこうはんきちやくのらミい以て之に【餘論】前半は四明に歸著するまでの旅興、後半は歸著せし後の事を云つたので、王逸少をのうしよrunちょしたis比したのは、ひとしく能書の譽あるからである。それから、むかし王義之が道士の爲に寫したのは、黃鹿ていきやうまたべつだうとくきやうばつ始めて黃くわうていきやうはく庭經だといひ、又別に道德經だといふ說もある。そして、庭經といつたのは、李白の此詩だいぶ5ろんたやかくそうしよせいせいしにたいはくしなどだといふので、大分議論がやかましくつて居る。野客叢書に「西〓詩話に曰く、太白の詩、山しんじよあんいうぐんだうとくきやうこだうしがか陰道士如相見、應寫黃庭換白鵝上と。晉書を按ずるに、右軍は道德經を寫して、道士の鷄に換ふ、さんいんだうしがぐんいうそん出こたうこくはつくわうていきやうみるに曰く、りうくんくわうてい鵝羣を以て右軍に獻じ、黄庭に非ざるなり。僕、陶穀の跋せる黃庭經を觀山陰道士劉君くわうていうやうしよこミまくわうていいたいはくあやまりこ黃庭經を書せむことを乞ふ。これ是れなりと。穀、亦た黃庭と謂ふは、太白の誤を承くるに非ざるくわうろちよくしはいせいゆしまたいは〓道士難換黃庭經、又曰を得むや。黃魯直の詩、爲君寫就黃庭了、不博山陰道士鵝、梅聖兪の詩、それけだ蓋しほたあやまりあるひい논ただうしがこいしミく、黃庭換白鵝と。皆、この謬を承く。或は謂ふ、晉史、但だ道士の鵝羣と言ふのみ、知らず、穀、なにっつだうしりうくんしぼくしんてふわんげんこ元何を以て、その道士劉君たるを知るや。僕、晉帖を考ふるに、獻之に劉道士〓〓亦復歸也とあり、乃inべいげんしやう논くわうそくわうていきやうくわんりくてうじんしたうこくはついさんいんち此に據るなからむや。米元章の書史、黃素黃庭經一卷、これ六朝人の書、陶穀跋して云ふ、山陰だうしりうくんがu :)いうぐんけんくわっていきやうしよすかはむと道士劉君、鵝羣を以て右軍に獻ぜむとし、黃庭經を書せむことを乞ふ、これ卽ち是れなり。晉史にためだうとくきやううつ:せんあひおくほくしがかん式載す、爲に道德經を寫さば、當に羣を擧げて相贈るべしと。李白の詩、賀監を送るに、山陰道士如相いよじんひくわんうていきやうくわんがきやうな滋味わら見、應 黃 黃 庭 操 鵝 鶏と云ふに因り、世人、遂に黃庭經を以て換〓經と爲す、甚だ笑ふべきなくわうはくしとうくわんよろんよくわうていしんてふつたいつせうしんな装ふんウチリひり。黃伯思の東觀餘論、世、黃庭眞帖を傳へて、逸少の書と爲す。僕、かつて之を考ふるに非なり。あんたういんきよしんかうよくしんけんろんじやうせいしんきやうしまついしんあいていこうねいねんなんがくぎ+じんさづてい按ずるに、陶隱尼眞話買異檢論上〓眞經始末に云ふ、皆の哀帝輿事二年、南岳魏夫人授くるところの弟ちやうしやうくんつくうついだこでんちやうしきよくんきじゃうけいえんつた:とこうふれいじ以て護軍長史許君及の子上計掾に傳へしむ。えん子、司徒公府長史楊君、隸字を作つて寫し出し、撮、以こくわうみんニみん:こうもくつたのわうこうせんひそかこうつせつかうわたにて子黃民に付し、民、以て孔默に傳へ、後、王興先に竊に之を寫さる。はじめ、浙江を濟り、風に遇りんへうたくわうていびこん大けだこのきやう(あんいつせうしんぼくうて淪漂し、惟だ黃庭の一篇、存するを得たり、と。蓋し此經なり。僕、按ずるに、逸少は、音の穆ていしようへいねん3)おちらとし歲たしんいうのらねん는혼すなはあいていこうねいねん帝昇平五年を以て卒す。この年、辛酉に在り。後二年、歲、甲子に在り、卽ち哀帝の興寧二年、くわうていよごとおていつせうあらかじこれしょ〓またあんち。ろんしよへうはじめて、黄庭を世に降す。安んぞ、逸少、豫め之を書するを得む。又按ずるに、梁の虞龢の論書表さんいんどんじやうそんErだうし·しいいはひさかじやうこうたいうつほっけんそに云ふ、山陰曇破村の養鶏の道士、義之に謂つて曰く、久しく、河上公の老子を寫さむと欲す、維素はや¥ひとよしよ上え2みづかsiだうとくきやうりやうしやうしよ薩そん早く辦ず、しかも人の能く書するなし、府君、もし能く自ら屈して、道德經兩章を書せば、便ち華送六五五
李太白集卷十六がつほう出rし店를はんじつため:をはが芳ちを合して奉ずべしと。ここに於て、義之、便ち停まること半日、爲に寫し畢り、鵝を攜へて去ると。たんはじしんじょほんでん:だうしためだうとくきやううつまさ當に筆を擧げて相贈あけおくい音書本傳、亦た、道士が、爲に道德經を寫さば、るべきのみと云ふを著し、初めよぬかつくわうていっいしよ:これわんかくわうていいつせうしよらり、未だ嘗て黃庭を寫すと言はざるなり。二書を以て之を考ふれば、黄庭は逸少の書に非ざること、うたがひhiたういんきよりやうぶごあたせいいいつせういうめい;すうしゆくわうていくわん疑なし。然れども、陶隱居が梁の武帝に與ふる啓に云ふ、逸少有名の蹟は、數首に過ぎず、黃庭·勸じんかうせいとうなそんいなつまびちかけだせいしんかうたん초あ中進·告誓等、猶ほ存するあるや否やを審にせず、と。蓋し、この啓は、眞詰を著す前に在り、故にがくきくわうていたいくへんえいこかうしようたうちやうくわいくわんいたしよこ書估を作つて云ふ、未だ之を考證せざるのみ。唐の張懷瓘に至りては、樂毅、黃庭但だ幾篇を得すなはこくはうなつひあやまいつせうしよたいはくし?たり、卽ち國寶と爲ると。遂に誤つて逸少の書となす。李太白、これを承けて、詩を作る、山陰道士これをふ塩ほつ初めより未だ書て之を考へす。いまかつおよび如相見、應寫黃庭換白鷄と。苟くも、之に隨はむと欲するのみ、かんたいしたい능くわうていいあそのあやまこしかも、韓退之は第だ數紙尙可 傳 白熱 と云ふのみ、而して、黃庭と云はざるは、豈に其謬を覺はふしょゑんきろんしやうしつ쿨よ示わんすたら?詳悉なるが若きに似たるも、るに非ざるか。王氏の法書苑、伯思の論、予を以て之を考ふれば、そのせつひけだくわうていきやうしよががだうとくきやうしよがかおのづかりやうじやく說、非なり。蓋し、黃庭經を書して鵝に換ふると、道德經を書して鵝に換ふると、自ら是れ兩事。伯レいくわうていでんいうぐんしこ;しやうしんしつだうかくわうていないけいきやうくわうてい思謂ふ、黃庭の傳は、右軍死後に在りと。これ最も詳審に失するなり。道家に黃庭內景經、黃庭ぐわいけいきやうおよくわうていとんかふえんしんきやうくわうていぎよくぢくきやう*ぞくれいしようくわうていきやうないけいきやう外景經及び黃庭遁甲緣身經、黃庭玉軸經あり。世界、例、稱して黃庭經となすは內景經、千社だいだうぎよくしんくんつくふさうたいていくんやうこくしんわうめい'ムじんったえんしやうすなは乃ち大道玉農君の作るところ、扶桑大帝君、腸谷神王に命じて、魏夫人に傳へ、凡そ三十六章、卽ちしんかういぐわいけいきやうべんすなはもうくん〓すなはぐんしよ真詰に言ふところのもの。外景經三篇は、乃ち老君の作るところ、卽ち右軍の書するところのもの、じんったはじおなよいきうざういうぐんしよどわいけいきやうせきこく醜夫人の傳ふるところと初めより同じからず。予が家の舊藏、右軍書するところの外景經、石刻一およ1あらん膣そ六十行。せうおうやうしふころくもくニかう卷末に云ふ、永和十三年五月二十五日在山陰縣寫と。小歐陽集古錄目と之を校するぶんちうしよざうぽん%だいうぐんくわうていうつ滋げうぜんしよこうハイルいに、文忠の所藏本と同じ。すなはち、右軍の黄庭を寫す、甚だ曉然、諸公これを考ふること、未だつまびらかょゆゑふんうん〓ごと쏜いりやうふ中たひしんかう詳ならざるに緣つて、故に紛紜を免れざること、かくの如し。伯思謂ふ、梁武に與ふるの啓、眞詰あんたたあさこれんな·だうざうちうひせいしちうぐわいけいを著すの前に在り、と。これ又曲げて之が辯を爲すなり。予、又かつて道藏中に於て、務成子註外景旁ゑえじよい經一卷を得たり。序あり、云ふ、晉有道士、好黃庭之術、意專書寫常求序人、聞王右軍精於草隸、而復愛白鵝、遂以數頭贈之、得其妙翰、右軍逸興自縱、未免脫漏、但美其書耳、ちやうくんほうすすうんきふせんまこのじょもつとてききよなけだだうとくきやうと。張君房進むるところの雲笈七籤、亦た此序を載す、これ最も的據と爲すなり。蓋し道德經は、是たたんださいがときよこれためうつくわうていこたこし노よがよろこれ偶ま道士の鵝を悅び、因つて之が爲に寫す。もし、黃庭は、是れ道士その書を善くし、且つ鵝を喜·inもつそう:)そのしよ:りやうじす)ぶんめい÷しやきやうぶを聞き、故に是を以て贈となし、以て其書を求む。これは是れ兩事、頗る分明。倶に寫經を以て鵝,よひこうじんじみだいあんだたたいはくを得るに緣つて、遂に後人をして指して一事となして、妄りに異論を起さしむ。唯だ李太白、その二じしゆゑしよいうぐん税事たるを知る、故にその書右軍の一篇に云ふ、右軍本〓眞、瀟灑出風塵、山陰過羽客、要此好鵝生がだうとくきやうを得たるを言實掃素寫道經、筆精妙入神、書罷籠鵝去、何會別主人と。これ道德經を書して鵝まんいくわうていきやうふなり。送賀實客歸越の一篇に云ふ、山陰道士如相見、應寫黃庭換白鵝と。これ黃庭經を노大たいはくりやうしおいまおのおの±かつあた書して、鵝を得たるを言ふなり。太白、兩詩に於て、亦た各、これを言ふ、すべて未だ嘗て誤らず、送送賀實容歸能六八七
李太白集卷十六またていぶんかんえんはんろいわうぎしほんでんしよがかだうとこすなは乃ち後人自ら誤るなり、こうじんみづかあとと。又程文簡の演繁露に云ふ、王義之本傳、書を以て鷄に換ふるものは道德ちよすゐりやう張彥遠のはふしよえうろくいうぐんしょもくせいしょ13經なり、ませ文士用つて黃庭となし、くわうてい人皆以て誤と爲す。ひとみなもつ:法書要錄、褚遂良の右軍書目正書を載しんせき、っくわうていせ、だい第二卷に黃くわんくわうていきやう庭經六十行あり、품山陰道士に與ふ、さんいんだうしあたその時の眞蹟、と故と在り、すでに以てその黃庭〓;たいそうと〓はふしよたること疑なきを見るべし。うたがひ又武平一の徐氏法書記、大正へいじよしはふしよき親しく禁中に在つて、したきんちうあ武后が太宗の時の法書六せんしよrかうせいくわうていまたじよかうこげんそうかんきだ又徐浩の古蹟記、玄宗のよ樂教、黃庭。十餘函を曝すを見る、記憶するところのものは、扇書、告誓、놓たいわうせいしよまんにくわうていだいだうとくきやうでんい却つてかへ時、大王正書三卷、黃庭を以て第一となし、道德經を聞かず、すなはち傳の云ふところは、けだいたいはくしつまびらかまんじし釋しんじょあやまりつたいあや誤れり。晉書誤を傳ふと云ふものは、蓋し未だ太白の詩を詳にせず、故に二事たるを知らざくわうていだうとく'じ究極、っやかくそうしよいかた로るなり、と。野客叢書以下述ぶるところは、此の如く、その黃庭と道德とを以て二事として居いうす。なあんはくしてよいうぐんわうぎレさんいんだうしるのである。そこで、王琦は說を爲し「琦、按ずるに、白氏六帖、右軍王義之、かつて、山陰道士、sすなはいうどんけかくわうていきやうしん以て換ふといひ、か遂に之を書つひ〓しよ羣鵝あるを見て、これを求む、乃ち右軍を邀へ、黃庭經を書せしめ、たいへいどようんかはこせいしんもうこうしよいはさんいんだうし囍Gideしいはなはよろここれていす。太平御覽、何法盛の管中興書に曰く、山陰に道士あり、羣鵝を養ふ、義之意甚だ悅ぶ。道士云ふ、爲に黃ためくわうていきやう庭經を寫さば、:當に羣を擧げて相贈るべしと。まなんああひおくすたに乃ち爲に寫し訖り、ためうつをは鶏を籠にして去る。がかご仙傳せんでんシかご·しぎくわうていきやうしよたいはくI'sしふるさんいんだうしくわんせうかま太白、用ふ拾遺、山陰道士管零霞、紅〓一雙を籠にして義之に遺り、黃庭經を書せむことを請ふ。ごあら七七いせんでんしふゐたら·せんいKてもるところ、誤記に非ざるに似たり。卽ち謂ふ、仙傳拾遺、或は僞撰に出づと。白氏六帖引くところ、またなんしよごゆたんおのづかまさしんじよのこ·)しんなしかたいへいざよらん又何の書に本づくかを著さず、自ら當に晉書載するところを以て信と爲すべし。然れども、太平御覽、かはふせいしんちうこうしよまたしんしせんへんあ:しんたそ引くところ何法盛の營中興書は、すなはち又晉史の先鞭なり、豈に亦た信ずるに足らざるか。夫れ一국たらし30くわうていむしゅだうとくだうしあるひおじゃくわん經なり、或は以て黃庭となし、或は以て道德となす。一道士なり。或は以て劉となし、或は以て管とがあるひxたらまけだいでんぶんいじ温じなす。一鵝なり、或は以て羣を擧ぐとなし、或は以て一雙となす。蓋し謂はゆる傳聞異辭の故、事りやうでんものかずつさいせきおほすなはこのさとら)そのよそしあるひB)兩傳の者を退考するに、載籍もとより多く有るなり。乃ち其一說を取つて以て其餘を警り、或は以てたいはくあやまりあるひ3)しんじょあやまりあるひa)いうぐんくわんがじぬしんの太白の誤となし、或は以て營書の誤となし、或は以て右軍換鵞、もと二事ありとなし。或は以ていうぐんはじいかつくわうていきやうしよみな上しつまたこうようさいひついたいはく右軍初めより未だ嘗て黃庭經を書せずとなす、皆これを執に失す。又洪容齋の四筆に謂ふ、太白、:かいたからちなただけぜんたけんえついつせうでんaしから眼、四海に高く、口を衝いて章を成す、必ず規規然として、晉史を檢閱し、逸少の傳を看て、然る後六おと: 614だうとくくわうていなおい:おのづかがそしに筆を落さず、正に誤つて道德を以て黃庭と爲さしむるも、理に於て正に自ら害なし。夫れ詩の美〓ようじやまりしかいなドンメン白壁の徴瑕、びかこうじんし: ,あたたいはく原と用事の誤と否とに關せず、と。然れども、後人の指摘を受けざる能はず、太白らし둘いかつかゆゑせきじんろんれきいんふべんせきかの此詩の若きは、もとより未だ嘗て瑕あらざるものなり、故に昔人の論を歷引して之を辯断し、且つかんが古しへを考ふるものの易からざるを見はすなり」といつて居る。1こらちやうえうおくじゆやうほくふ張遙の壽陽幕府に之くを送るじゆやうまことてんけんてんけんけいくわんよこた壽陽は信に天險、天險、〓關に橫ふ。ムけんえlyはるかこうぎん人苻堅百萬の衆、遙に八公山を阻つ。送張遙之壽陽幕府〓壽陽信天險。天險橫〓關。三三苻堅百萬衆。遙阻八公山。送送弧遊之壽陽幕府六八九
李太白集卷十六不假築長城。大賢在其間。(國)戰夫若熊虎。破敵有餘開。(一五)張子勇且英。少輕衞霍孱。(た)投軀紫髯將.千里望風顏。(t)勗爾效才略。功成衣錦還。ちやうじやうきづかたいげんあひだあ長城を築くを假らず、大賢その間に在り。アイスゆうこ별でこよかん戰夫、熊虎の若く、敵を破つて餘聞あり。せう高いくわくせんちやうし張子、勇にして且つ英、ゆつかかろ少にして輕んず衞霍の屏なるを。しぜんふうがんの とみま軀を投ず紫髯の將、千里、風顏を望む。たいとこさいりやくいたられにしきここ爾を勗む、才略を效し、功成らば、錦を衣て還れ。【字解】【一】壽陽太平寰宇記に「壽陽城は、便水に臨み、北に八公山あり、山北は卽ち淮水、東管より今に至るまで、常に要害の地たり」とある。CO苻堅百萬衆十六國春秋に一、兵を遣し、道を分つて膏に意す。秦王苻堅、遂に長安の戌卒六十餘萬、騎二十七萬を發す。骨、謝石を以て征討大都督となし、謝玄を前蜂都督となし、衆八萬を督して之を拒がしむ。劉牢之、精兵五千を帥ゐて、洛潤に趨き、直に水を渡り、秦の前鋒梁成を擊つて之を斬る。石等、水陸權いで進む。堅、壽陽城に登つて望見するに、管兵の部陣嚴整なり。又八公山の草木を望見して、晉兵となし、憮然として懼るる色あり。秦兵、肥水に逼つて陣す。玄、人をして謂はしめて曰く、陣を移して小しく都き、我が兵をして渡るを得せしめ、以て勝負を決せば可ならむか、と。堅、晉兵に聽るし、半ば渡るとき、これを覺めむと欲し、兵を磨いて却かしむ。秦兵、退いて、復た止むべからず。朱序、陣後に在つて、呼んで曰く、秦兵敗る、と。達に潰ゆ。玄等、勝に乘じて追擊す。秦兵大に敗れ、走るものは、風聲鶴唳を聞いて皆以て管兵至るとなす。堅、狼狽して長安に歸る」とある。3八公山江南通志に「八公山は、壽州城北五里、淝水の北、淮水の南に在り、漢の淮南王安、その實客八公と偶に此山に登つて仙を學ぶ。今山に淮南王廟あり、安及び八士の像を圖す。山、八公を以て名づくるは、蓋し此に本づくとある。E熊皮三國志に「劉備、梟雄の姿を以て、關羽·張飛·熊虎の將あり」とあり、江表傳に「戰つて熊虎の如く、軀命を惜まず」とある。衣舘る。賣し收警の如虎如貌、如熊如」ののに本づく。C屏懦別なること。8紫髯將孫權をいふ、前に見ゆ。G衣舘南史に「柳慶遠、出でて雍州刺史となる。帝,新亭に錢し謂つて曰く、病、錦を衣て〓に還る、朕西顧の憂なし」とある。たうじよちわいなんだうじゆしうじゆしゆんぐんちうととくふわいなんぐんてんほうそわんねんなあらた【題義】唐書地理志に「淮南道に壽州あり、壽春郡中都督府、本と淮南郡、天寶元年名を更む」とあ3せつあんじゆしゆんなせんごくレそせいかかうれつわうおこしじゆしゆん:る。王琦の說に〓按ずるに、壽春の名は、本と戰國よりす。史記楚世家、考烈王、都を壽春に徒す。:いはじゆしゆんみなみじゆしうじゆしゅんけんゐじゆやうtとうしんだつうてんたうしん正義に曰く、壽春は南壽州壽春縣に在りと。是れなり。壽陽の名は、東管より起る。通典、東晉、ていくわうごいみな으うじゆしゆんむたっじゆやうぎしゆん.やうふしゆんムやうおよしゆんな鄭皇后の諱を以て、壽春を改めて壽陽といひ、宜春を宜陽といひ、富春を富陽といひ、凡そ春と名づとごとinあらたカライじゆしゆんなたいはくじゆやうけだきうめいしふようくるものは、悉く之を改む。唐時、壽春と名づけ、太白壽陽を用ふるは、蓋し舊名を襲用するのみ」にちくきよ將軍けだしさくいんこれを幕府いへいもんあはゐちやうといつた。それから、幕府は、史記索隱にㄱ凡そと謂ふは、蓋し兵門合せて帷帳をぼくさいかういはしゆつせいしやうすゐただしゆゑ놓古しへ出征して將帥たり、ぐんかへPじやうしよほくえき施す、故に幕府と稱す。崔浩曰く、軍、還れば罷む、理、常處なし、幕奔+し·K 12しちやうえうじゆしゆんちうざいを以て府署となす、故に幕府といふ」とある。すると、この詩は、張遙といふものが、壽春に駐在すしやうやんぼくかみ)ためじゆしゆんでっごためる將軍の幕下に身を投ぜるが爲に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る爲に作つたのである。じゆしゆんてんけんなんほうそくわんもんよこたゐ2.げんまんhば【詩意】壽春は天險で、南方楚地の關門として横はつて居る。むかし、苻堅は、百萬の衆を率ゐて、かうなんBinこうざん〓〓ごといきほひすさまくらゐ江南を擧げむとし、遙に八公山を隔てて、ここに陣取つた。その勢は、まことに凄じい位であつたとうしんは,ちやうじやうサゴさいはひしやげんしやせき굴たいけんそのあひだをかせんが、東音の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄·謝石の如き大賢が其間に居り、麾下の戰送送張遙之壽陽幕府
李本白集卷十六ゆうかん:쿨t 1'みごと: :よゆうしやくしやくみ士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも餘裕綽綽として居た。ここせう思いせいくわくきよへいごといにしやうぐんせんじやくこかろちやうえう勇銳英俊"に、張遙は、少にして衞靑·霍去病の如き古しへの將軍をさへ、孱弱な者として之を輕んこんくわいそんけんひめいしやうBressちとほにわざわざずる位、かくて、今囘孫權に比すべき名將の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢たちくち千たれる딸ほくかくぶんさいりやく¥ひに行くといふので、汝に勸めるは他に非ず、一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがこうなのたちこきやうかて、功成りし後は、錦を衣て故〓に歸れといふことである。ぜんじゆしゆんこじごくそうべつこりやうしやくわんけいし ぜんきんみつ【餘論】前八句は壽春の故事、後六句は送別の正意で、兩者の關係は、自然緊密である。し ぜんきんみつ自然緊密である。じとたんすうざんかへおく二首表十八圖南の嵩山に歸るを送る二Proところべつなちやうあんだc何の處か別を爲すべき、長安の靑綺門。そしまねかくひきんそん1胡姫、素手を招き、客を延いて金樽に醉ふ。: 'のほtのぞわれひときみい當に馬に上るべき時に臨んで、我獨り君と言ふ。おやはうらんをひESてうじやくかまびす風吹いて芳蘭折れ、日沒して鳥雀喧し。てひ;じやう33tあんがた手を擧げて飛鴻を指し、この情、具に論じ難し。おなまきうほんえいすゐせいげん同じく歸つて早晩なし、頴水に〓源あり。背二送裴十八圖南歸嵩山何處可爲別。長安靑綺門。胡姬招素手。延客醉金樽。臨當上馬時。我獨與君言.風吹芳蘭折。日沒鳥雀喧。擧手指飛鴻。此情難具論。(三)同歸無早晩。潁水有〓源。【字解】【一】靑綺門三輪黃圖に「長安城の東出南頭の第一門を霸城門といふ、民、門色の青きを見、名づけて青城門といふ」とあり、廟記に「霸城門は、亦た靑綺門といふ」とあり、洞冥記に「靑雀あり、霸城門に軍がり飛ぶ、乃ち改めて靑畫門となし、乃ち更に修飾し、木を刻して綺棟となす、雀去る、因つて青綺門と名づく」とある。【二】擧手指飛涵晉書に「郭瑀、臨松、蓬谷に隱る。張天錫、使者孟公明をして、節を持し、蒲車玄編を以て禮を備へて、之を徵さしむ。公明、山に至る。瑀、期鴻を指し以て之に示して曰く、この島、安んぞ龍すべけむや、と。遂に深く逃れて跡を絕つ」とある。g顯水嵩山の少室より出づ、すでに前に見ゆ。はいはいかうとたんおとすうざんちりこんしやくすうざんかなんとうほうけんこた【題義】裴十八の十八は排行、圖南は其名。嵩山は、地理今釋に「嵩山は、河南府登封縣の北十里に下しらくやうげんせつニエきようけんせついかいほうふみつけん-31-せつめんこう在り、西、洛陽縣に接し、北、輩縣に接し、東開封府密縣の界に接し、綿亙一百五十里」とある。しはいとえすうざんかへおこ、この詩は、表圖南といふものの嵩山に歸るを送つて作つたのである。まゑんかうコとこわかれなちやうあんじやうとうせいきえみちがふ【詩意】君の遠行に就いて、何處で別を爲すべきか、長安城東の靑綺門は、路の都合もあつて、一ほんよよもんとうぶせんえんBAそしゆ法きやくひきんそん番善からう。仍つて、この門頭に於て餞筵を催せば、胡姫は素手を擧げて招き、客を延いて、金樽のま1ままはつてい: 22 |あた말즐きみ花に酒に醉はしめる。やがて、君が愈よ發程せむとして、馬に上る時に當り、われ獨り留まつて、君と話かざさつさつ÷はうらんをほつてうじやく元pht今しも、ひをした。風は颯颯と吹いて、芳蘭は、むごくも折れ、日は沒して、つまらぬ鳥雀の聲が喧したとむし:こころざしえまたきみくらざんげん:だい。これを譬ふれば、君子が抑へられて、その志を伸ばすを得ず、又君暗くして、讒言が競ひ起るそらかごで:ありさまてととても籠に入れることは出來樣な有樣である。かくて、手を擧げて、空を飛ぶ雁を指し、この鳥は、じぶんそのとほいんほんししんじやうごろんでない。自分も其通りだといつて、歸隱の本志をほのめかしたが、その眞情は、詳しく論ずることは出送送農十八圖南歸當山六九三
辛太白卷十六すうざんえいするでみなもときは:そこナつき來ない。嵩山は、頴水の出る處、その源は極めて〓い、われも、いづれは、其處に住む積りであるま:い:から、君は先へ往つて、待つて居て貰ひたい。そうべつじやうたいしたさふそうべつじ【餘論】起四句は送別の狀態、その下に臨當上馬時の二句を挿入し、あとは送別の辭。風吹日沒ひまレールヒせいいんえだうきふぢじぶんの二句は、比の體で、刻下の時勢を述べ、歸隱の止むを得ざるに道及し、結二句は、自分も、どうせおなところいとうろそうそうていかたへいはん40な同じ處に往くといふ意を逗露したので、層層遞下して、絕えて、平板の弊が無い。そこナつ其處に住む積りであるわれも、いづれは、まえいするc.たくちょ1すうしんかへ君は頴水の綠なるを思ひ、忽ち復た嵩岑に歸る。に)みみになかわた。そのこころあつ歸る時、耳を洗ふ莫れ、我が爲に、其心を洗へ。こころたしんじやうえい·8らいたづらなか心を洗はば、眞情を得む、耳を洗はば、徒に名を買はむ。しやこうつひあひともさうせい1謝公、終に一起、相與に蒼生を濟はむ。まえいするc.たくちょ1すうしんかへ君思頴水綠〓忽忽歸嵩岑。君は頴水の綠なるを思ひ、忽ち復た嵩岑に歸る。歸時莫洗耳.爲我洗其心.に)みみになかわた。そのこころあつ歸る時、耳を洗ふ莫れ、我が爲に、其心を洗へ。こころたしんじやうえい·8らいたづらなか洗心得眞情。洗耳徒買名。心を洗はば、眞情を得む、耳を洗はば、徒に名を買はむ。しやこうつひあひともさうせい1謝公終一起.相與濟蒼生;謝公、終に一起、相與に蒼生を濟はむ。【字解】【一】洗耳高士傳に「許由は、召して九州の長となす、由これを聞くを欲せず、耳を顯演に洗ふ」とあつて、その詳は前に見ゆ。S謝公終一起世說に「謝公、壓ば朝旨に遠ひ、東山に高臥す。諸人每に相與に言ふ、安石、肯て出でずんば着生を如何せむ」とある。きみえいぜんながれいちなつおこんにちこつぜんすーざんかへ【詩意】君は、頴川の流の綠に澄めるを懷かしく思ひ、今日、忽然として、嵩山に歸られる。しかこんにち今日、こつぜん忽然として、すーざんかへ嵩山に歸られる。【詩意】しかいやすうきんたきよいう:ねうきよ둘けが耳し、嵩山に歸りし後、許由の眞似をして、浮世の事は聞きたくない、汚されるのは厭だといつて、あなもこころあるよこころあら15ほんぶつしんじやうを洗ふことは爲さず、それよりも、我が爲に、その心を洗ふが善い。心を洗へば、意よ萬物の眞情を;なみみあらにきよめいしやあんせきとうざんかうどわ悟るやうに成るが、耳を洗へば、却つて、虛名を買ふに過ぎぬ。かくて、謝安石が東山に高臥して居ひとた消えた1とききたいんせいいといんかたものの、やがて一たび起つて、蒼生を濟つたやうに、時來れば、その隱棲を出で、われと共に天下きうさいを救濟しやうではないか。ぜんしゆ在にくこうさうちうかんよじ〓【餘論】前首の終なる頴水有〓源の句を承けて、構想したので、中間四句は、能く事理を得、まこいくけつぜんぜんいんじやをはひらかiiわすしよくぼうとに名句である。それから、結二句は、全然、隱者を以て終らず、天下の事を忘れぬことを囑望したい:せつじつaたいはくけつきやうしな%ので、その言ふところも、極めて切實、これを見ても、太白が決して狂士で無いといふことが分る。げんさうらうたいじやうざんだ글しゆび3)みなあひおうけんりうぎよひちんこくいくわいご嚴滄浪は「この格、常山の蛇の如く、首尾、中と皆相應ず」といひ、乾隆御批には「沈刻の意、快語コふいだ品いいしようを以て之を出す、聞く者をして、驚竦せしむべし」とある。同王昌齡、送族弟襄歸桂陽。二首わうしやうれい整ぞくていじやうけいやうだい王昌齡と同じく、族弟襄の桂陽に歸るを送る二首啓へきさうそ축せいそんたい秦地見碧草。楚謠對〓樽。秦地、碧草を見、楚謠、〓樽に對す。なんぢなにお는把酒爾何思.鷓鴣啼南園。もと酒を把つて、爾、何をか思ふ、蘭鴣、送同王昌齡送族弟妻歸桂陽なんゑんな南園に啼く。六九五
事太白集卷十六こ·一第25おん:余欲羅浮隱。猶懷明主恩。余は、羅浮に隱れむと欲し、猶ほ明主の恩を懷ふ。〓:ほげんこふ躊躇業宮戀。孤負滄洲言。紫宮の戀に躊躇し、滄洲の言に孤負す。ひしんかいじやうおな終然無心雲。海上同飛翻.終然たる無心の雲、海上同じく飛翻す。Biすなはほうこん相期乃不淺.幽有芳根。相期する乃ち淺からず、幽桂に芳根あり。【字解】E羅浮洞天福地記に「羅浮洞は、周圍五百里、朱明編眞の天と名づく。惠州傳羅縣南八十里に在り」といひ養字記に「羅浮山は、本と是れ蓬萊の一峰、浮んで澤中に在り、羅山と合し、因つて、之に名づく、山に洞あり、句曲に通じ、又華開瑤室七十二所あり」といひ、農淵の廣州記に「羅浮の二山、天に隱る、惟だ石樓の一路登るべし」とある。【三】麻膳增韻に「猶躍なりへとある。3紫宮天子の居、前に見ゆ。幽桂有芳根吳均の詩に桂樹多芳根とあるを用ひたが、その意は、却??誰南相壓士の桂樹叢生山之國といふを用ひたのである。けいやうぐんのい吉正かうなんせいだう를てくいいじじう【題義】桂陽は郡名、卽ち彬州で、江南西道に隸して居た。この詩は、王昌齡と共に、族弟李襄といまただほんわうしやうれいさいこくほひとふものの桂陽に歸るを送つて作つたのである。但し、一本には「王昌齡·崔國輔と同じく、李舟の彬}まと?州に歸るを送る」に作つてある。ちやうあん警モた碧草の萌え出づる春の頃、楚地の歌を唱へて、〓樽に對し、こ【詩意】秦地なる、この長安に於て、もたんか,れEさうぜんそは何を思つて居るのであるか。ふこに、汝の行を送るのである。汝は酒を把り、愴然として居るが、たふん〓なんゑん元ぜんてい동いた5 +多分、劇鴣の南園に啼く聲を聞き、前程の愈よ遠きに心を傷ましめて居るのであらう。われも、羅浮xたれおん:ミたしJちうせい山に隠れやうと思ふが、明主の恩を懷へば、むやみに此を立ち去ることも出來ず、紫宮を戀ふる忠誠こしせんたづへいぜいげんの念に動かされて、頻りに躊躇し、そして、滄洲に仙を尋ねるといふ平生の言に孤負して居る。しかな물tかいじやうとがし、われは、無心の雲の如く、いつかは、ここを立ち去つて、汝と共に海上に飛び翻るべく、爾我二〓わ글せうえう心に期すること淺からず、たとへば、幽桂に芳根があつて、山中に叢生するが如く、物外に逍遙はんらいするのが、本來の志である。:か<ぶんいんとん【餘論】起首四句は送別の正意、以下八句は、自分もいづれ隱遞するから、必ず待つて居て吳れろとたくかいえげんさうらう漢てんせつピわんりふく244いふので、更に一步を拓開し、熟套を避け得た處が面白い。嚴滄浪は「許多の轉折、却つて腕力を費)あたまち〃なんあつさず」といひ、蕭士賛は「細に此詩を味へば、一飯君を忘れざるものに非ざるか、議者、何ぞ厚く太:はくけたと白の杜に如かざるを誣ふるや」といひ、猶懷明主恩の一句を本にして、大に李白を辯護して居る。いづこ爾家何在瀟湘川·爾の家、何くにか在る、靑莎白石長江邊。:ちやうかうin靑莎白石、長江の邊。昨夢江花照江日;き昨は夢む、江花の江日を照らすを。acとうさうま幾枝正發東窓前。幾枝、正に發く東窓の前。送同王晶齢要桂陽こ瀟湘の川。【字解】E瀟湘二水の名、王琦の說に「湖よりして南、二水組るところの地、甚だ廣く、長沙湘陰はじめて靑草湖に途し、廳に至り、測庭に注ぎ、岷江の流と合す。故に側の北は、漢汚これ主、これを灌潮
李白卷十六*はたまっころいうぜんといふを得ず。もし湖の南は、皆瀬覺來欲往心悠然。覺め來つて、往かむと欲すれば、心悠然湖を以て、これに名づくべし。のこんゑつてう上なんてんと魂隨越鳥飛南天。魂は越鳥に隨つて、南天に飛ぶ。時、人の桂陽に歸るを送つて、雷家しんうんやまParうみあひせつ何在灌湘川と云ふ、その實、瀟湘の水秦雲連山海相接。秦雲、山に連つて、海相接し、は桂陽の下に在り、逆流して桂陽を桂水橫煙不可涉.けいすゐ12/3たわた桂水、煙を橫へて、渉るべからず。經る能はざるなり」といつた。3まおく갈に青莎夢は水草の名。CE桂水送君此去令人愁。君が此に去るを送れば、人を愁へしむ。水經註に「桂水は、桂陽縣北の界山ふうはんほうほうかし)一元風帆茫茫隔河洲風帆茫茫、河洲を隔つ。に出づ、山壁高聲、三面特峻、石泉しゆんたんけいさうみどりま懸注、瀑布となつて下り、も、南平春潭瓊草綠可折。春潭の瓊草、綠折るべくんば、縣を徑し、東北流して、艦亭の右にELよちやうあんめいげつうう西寄長安明月樓。西に寄せよ、長安の明月樓。至り、鍾水と會す。通じて桂水と爲すなり」といひ、應劭は「桂水は桂陽に出で、東北流して湘に入る」といつた。王琦の說に「按ずるに、桂水は彬州桂東縣の小桂山に出で、下流は、來水に合す、來水は衡州府城の北に至り、はじめて瀟湘と合す」とある。なんぢいへどけいやうすなはせうしやう〓〓iこもやうかうほとり:【詩意】汝の家は、何處かといへば、桂陽、卽ち滿湖二水の流域附近であつて、長江の邊には、靑莎はくせきあひえいだんおもむきさくじつまゆめ江邊の花は、は だなさかいてwて白石が相映じて、一段の趣がある。昨日、君は夢を見たが、今が盛りで、江天の日に照まむしちやうじさそおのが故居に於ても、とうさうらされ、そして、東窓の前なる幾枝が丁度咲き初めたとのことであつた。そここころいうぜん君は夢が覺めると、:こきやうごおとっで、故〓へ歸らうと思ひ、しかも、心悠然として取り付くすべもなく、はては、しんこんまつてう〓へうへうぜんなんてんとねん1:しんちくやまつらき神魂が越鳥に隨ひ、飄飄然として南天に飛び行く想がした。顧みれば、秦地の雲は山に連り、そしてさんみやくところ:けいすみ:おれたあべんrieそのうへたいgoとせふ山脈の盡くる處は海、桂水は山の彼方に在つて、一片の煙が其上に橫はり、決して、徒涉することはよか君の今此地を去るを送れば、うこんなんいまこのも引くF:おはしおのづかた出來ず、旅行するのも、なかなか困難である。別離の愁自ら堪へず、ま10社かぜえうほう河洲に隔てられ、へだうみなし:君き君の乘る船は、帆に風を受け、査茫として、やがて見えなく成つて仕舞ふ。すげいやうかへたんじやうのるいけいさうみどりを忘れずに之を折り、をでに桂陽に歸りし後、潭上に萌え出でし瓊草の綠なるを見、もし折るべくんば、にしxいまをちやうあんげつかろうよさうしじやうなぐさ西に向つて、わが今居る長安なる月下の樓に寄せ、せめては、わが相思の情を慰めて吳れろ。ミしゆんしよくゑがor次の四句は桂陽に歸る道ギだうとこんなんにはくそうべつ【餘論】起四句は故國の春色を描き、途の困難なるを述べ、終の四句は送別おまえにこ結二句は仙音標緲として、けつひとはらけいりんせん〓しえいLの正意、第十、人を賺し去るの妙がある。桂臨川が情至憫に出づ、詞てうげいぜつとしさくしやせんぢやうさいたはうめうしよ調警絕」といつた通り、かういふ詩になると、さすがに作者の擅場で、容易に他の模倣を許さぬ妙處がある。じうぞんだし、送外甥鄭灌從軍やわいせいていくわん三首外甥鄭灌の從軍するを送る三首いちくたにかうさいきた:【字解】六博爭雄好彩來。S六博演繁露に、六博、雄を爭つて、好彩來れば、1.六子を用ふ、楚辭これを六博金盤一きんほん:まんにんひら擲萬人開。金盤一擲、萬人開く。といふ」とある。E好彩彩は送送外甥鄭灌從六九九
李卷十六丈夫賭命報天子。當斬胡頭衣錦囘。し、そして、うまく中れば勝つので、檸蒲一擲百萬」とあるを翻用す。賽の目の文を指したので、黒白の色を以て別ち。雄犢の物を以て別つは、皆彩である。何の色といつて投げ出栄誉に「劉毅、家に備石の儲なきも、ちやうふあいとことは丈夫、命を賭して、天子に報ず、:らだしょた當に胡頭を斬り、錦を衣て囘るべし。その出た目を彩と名づけた。3仍つて、3金盤一ははがたをひははLまいこしぐわいせいにんていくわんぐわいせい【題義】外甥といへば、母方の甥で、つまり母の姊妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌といふじうそんに、2ていくわんあいじえつれきとうさいわかものの從軍を送つて作つたのであるが、鄭灌の名字関歷等は、一切分らぬ。ほくなゆうあらそIさいはひさいでくきんほん【詩意】たとへば、六博の戲を爲して雄を爭ふが如く、幸にして、よき賽の目が出て來れば、金盤一たちまおほまんにんあしもでいなんぢじうどんあつp郷、忽ち大まうけをなし、萬人を驚かすことも出來る。今、汝は從軍するとのことであるが、天晴、ぢやうふしんめいとこと費こころ拉あひ丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報ゆることを心がくべく、さうすれば、うまい場合にめぐじんかうべたいこうたきんいがいせんでおたしり合ひ、胡人の頭を斬つて、大功を立て、やがて、錦衣を著て凱旋することも出來るので、必ずかくげうほうしだいあれかしと翹望する次第である。ぜんほんはくず'こうめいこうはんとじこれ緣起よく祝えんぎLast【餘論】前半は博戲を以て功名に比し、後半は、賭命の賭の字を以て之を受け、そして、つたのである。ぐわいせいにんていくわん外甥の一人鄭灌といふこうはん後半は、とじこれ賭命の賭の字を以て之を受け、緣起よく祝えんぎLastそして、丈八蛇矛出隴西。いじやぼうりようせいい丈八の蛇矛、隴西より出で、【字解】5丈八蛇矛十六圖〓(三)ひマらはくゑんな春秋に「醜上の人、壯士の歌を作つ彎弧拂箭白猿啼.弧を彎き、箭を拂へば、白猿啼く。(四)こ:かならりようたう:て曰く、丈八蛇矛左右盤、十盪十決無破胡必用龍韜策。胡を破る、必ず龍韜の策を用ひよ。當前」とある。E弧說文に木(五)せきかふ:ゆうじひと弓とある。3白建略淮南子に積甲應將熊耳齊積甲、應に熊耳と齊しかるべし。「楚王、白猿あり、王、自ら之を射れば、矢を搏つて熙ぶ。養由基をして之を射らしむ、はじめ、弓を國へ、矢を矯む、未だ發せざるに、號、柱を擁して號ぶ」とある。三龍韜太公六韜の篇名。【五】積甲後漢書に「赤眉、忽ち大軍に遇ひ、創震、爲すところを知らす、乃ち劉恭を遣して際を乞ふ.兵甲を宜陽城西に積んで、熊耳山と齊し」とある。ちた죽しやくおほじやぼうちょっりようせいで【詩意】汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛を攜へて、しづしづと隴西から出て來たので、さながら、音に聞く古しへの壯士の通り。さうしと:ひ늗修pやういうきそのままそして、弓を引き搾り、箭を拂つて番ふと、むかしの養由基を其儘に、はくゑんわたるなさけむんなさいぶごとこんじじうとんおにしたいこうたさうね白猿は驚いて泣き叫ぶ。汝の材武、かくの如く、今次從軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。ただ: :たいこうりようたうろんそのはかりごとせいそいだうだうぢんは但し、胡虜を破るには、太公が龍韜に論じた其謀を用ひて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡:かうふくとちやうとばへいかふとっゆうじx달虜が降服する時は、丁度、赤眉が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山と齊しかつたといふやうさだに定めて目ざましいことであらう。しまいくじゆうくわ少しも、わざとらしい處のいのは、ところな【餘論】この首は、毎句に故事を用ひて居るが、善く酸化して、送送外甥鄭灌從軍七〇一ゆうくわ善く酸化して、少しも、わざとらしい處のいのは、ところな七〇一
李太白集:まことに手際である。卷十六:月蝕西方破敵時。月蝕、西方、敵を破るの時、べからず。〓みよかへいま:おそ及瓜歸日未應遲.瓜に及んで、歸る日、未だ應に遲かるへんくわうかみづ斬胡血變黃河水。胡を斬れば、血は變す黄河の水、はくじやく) (三)首を梟す、:はた梟首當懸白鵠旗。當に懸くべし白鵠の旗。3懸白鶴族史記に「武王、黃鍼を以て、対の頭を斬り、太白の旗に懸く」とある。も知れない。【字解】E及瓜歸日左傳に「齊侯、連稱管至父をして、美邱を成せしめ、瓜時にして往く。曰く、瓜に及んで歸らむ」とある。3梟首漢書頗師古の註に「梟とは、首を木上に懸くるなり」とある。白勸旗は未詳、或は白鶴の羽を飾にしたがかせいはうやぶsおよていげつしよく期して待つべく、もと瓜期に及んで歸るといふ規定で、【詩意】月蝕に際し、西方の敵を破ることは、おひおひせますみやかこ홍こニくわうかろづくれなるへんその日も、追追迫つて來た。されば、速に兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黃河の水を紅に變:日はくじやくきかぜしむべく、やがて、首を梟して白鵠旗に懸けたらば善からう。ぜんしゆおなほとこごこthつうらん【餘論】この詩も、前首と同じく、殆んど每句故事を用ひてある。それから、三首を通覽すると、そだいちつぜんずみだれんさくま入の次第、秩然として、毫も紊れず、まことに、連作の體を得たものである。thつうらん三首を通覽すると、そ送于十八應四子擧落第還嵩山おうらくだいすうずんかへれ、于十八の四子擧に應じ、落第して嵩山に還るを送るてんじんまことむに吾祖吹秦筩〓天人信森羅.吾が祖、棄衞を吹き、天人、信に森羅。歸根復太素。動動熙元和。(4)ニたち〓現在歸根、太素に復し、羣動、元和を熙らぐ。(くせもえんえんしんじんちえんむね끝炎炎四眞人.搞辯若濤波。炎炎たる四眞人、摘辯、濤波の若し。:やうほくひ:交流無時寂。楊墨日成科.交流、時として寂なるはなく、楊墨日に科を成す。ふうし··性まお夫子聞洛誦.誇才才故多。夫子、洛誦に聞く、才を誇る、才もと多し。むし2た爲金好踊躍。久客方蹉跎。金と爲つて、好んで踊躍、久客方に蹉跎たり。(一〇) coご〓道可束賣之.五寶溢山河。道は束ねて之を賣るべく、五寶、山河に溢る。:흥.ハーかいしやく勸君還嵩丘:開、酌眄庭柯。君に勸む、嵩丘に還り、開酌、庭柯を晒みよ。三花如未落.乘興一來過. 6い魂三花もし未だ落ちざらば、興に乘じて一たび來り過ぎよ。【字解】S吾祖老子を指す。李白は、唐室と同姓で、老子の後と稱して居た。3棄舊老子に「天地の問、其れ猶ほ棄衞のごときか」とあつて、棄蓄は、ふいご。歸根老子に「萬物芸芸、各その根に歸る、櫻に歸るを靜といふ」とある。三太素列子に「太素は質の始なり」とあり、白虎通に「はじめて起る先づ太初あり、後に太始あり、形兆すでに成る、名づけて太素送送子十八應四子擧落第選當山
李太集卷十六といふ、混沌相連る、これを視れども見えず、これを聽けども聞こえず」とあり、潛夫論に「太素の時、元氣窃冥、形兆未だ成らず」とあり、淮南子に「その聴明を偃せ、その太素を抱く」とある。C·熙やはらぐ。E眞人舊唐書に「天竇元年、荘子は號して南華眞人となし、文子は酸して通元眞人となし、列子は號して沖處眞人となし、度桑子は號して洞處眞人となす。その四子著すところの書、改めて眞經となす」とある。€摘辯班固の答實歳に「静を馳すること溶波の如く、藻を搞すること春華の如し」とあつて、顔師古の註に「大波を溜といふ、摘は布くなり」とある。四洛師莊子に「副墨の子、これを洛師の孫に聞く」とあつて、陸德明の音義に「副墨、以て元墨に副貳たるべきなり。洛誦、師は通、苞落して通ぜざるなきなり。崔云ふ、皆古人の姓名、或は寓言のみ、その人なきなり」とある。【九】爲金好踊躍莊子に「大冶、金を鑄る、金、動躍して曰く、我必す鎮節と爲らむと。大冶必ず以て不祥の金と爲さむ」とある。CO1五寶不詳。【三】開酌眄庭柯歸去來辭に「引 蘆籐 以自酌、兩 柯以怡顏」とあ?.呂向の註に「何は樹枝なり」とある。CII三花初學記に「漢の世、道士あり、外國より貝多子を將て來リ、嵩高西脚の下に於て、これを種う、四樹あり、衆木と異なるあり、一年三たび花さき、白色香異」とある。tはいかうあいじわかつうてんかいげん【題義】于十八の十八は例の排行で、その名字は分らない。四子とは、通典に「開元二十九年、はじげいしおだうきよせいとおだうきよめて、京師に於て崇玄館を置き、諸州に道學生徒を置くこと差あり。これを道擧といふ。擧送課試、澄おのおのにんとはかん明經と等し。京師は各百人、諸州は常員なし、老莊文列を習ふ、これを四子といふ、所、國子監かいげん:5すうげんがくだうとくおなたうくわいえうねんしやうぐわつ玄元皇帝の廟に於て、かんげんくわうていと同じ」とあり、唐會要に「開元二十九年正月十五日、崇玄學を置き、道德きやうさうじしふせいまいねんきよじんにたん눔經·莊子·文子·列子を習はしめ、習成の後を待ち、毎年、擧人の例に隨ひ、名を送つて省に至り、明經にじゆんかうしつうきふだいじんじゆんしよぶん准じて考試し、通ずるものは、及第人に准じて處分す」とある。從前文官試驗を受けるには、儒學の:げんそう進行せん,でみに限つて居たが、玄宗の中年、大に道學を標榜し、これを以て試驗を受けることが出來るやうにし) ,すうげんくわんかうしふたので、その學校の主要なるものが崇玄館そこでは、專ら四子を講習したのである。この詩は、于すうげんくわんふら十八といふものが、崇玄館に入る積りで、其擧に應して入學試驗を受けた處が、不幸にして落第し、すうざんか、ため?仍つて、嵩山に歸らむとするに就いて、これを送る爲に作つたのである。B+로そのとほ【詩意】わが祖の老子は、天地の間、猶ほ棄箭の如きかと云つたが、まことに其通りで、そのふいご上上{ , sから吹き出されて、天に屬し、下、人に屬するものが、森然として、宇宙の間に羅列して居る。달にじやうたいえこかくて、一たび、其根に歸れば、形兆わづかに成りし、調はゆる太素の狀態に復するので、萬種の生: :こちじやうたいさうぶんれつかう物は、元氣の〓和を受けて、和らいで居る。これが卽ち理想至治の狀態である。ここに、莊文列庚のこ)ゆうべんはぼき四眞人は、老子の統を傳へ、雄辯を揮ふこと、さながら波濤の如く、やがて、その會流した揚句には、よせきぜん;やうぼく時として、寂然たることなく、愈よ以てやかましく騒ぎ立てる樣なり、はては、流れて楊墨の一派を¥はんきみづいまse生じ、それが、日日窪みを成して、萬派の水を受けるやうに成つた。今、君は、洛誦から道を聞いただBさいおほごといつて、才を誇つて居る。なる程、その才は、もとより多いに相違ないが、それでは、根に歸るとにまたきんしいふ根本主義に違背したものである。又金が踊躍して、われは莫耶に成りたいといつた樣に、頻りにし〓偉がつて騒ぎ出すのは、世に處する道を得たものではないので、久客として他〓に居り、夙志蹉跎しばん둘まこんくわいらくだいたのも、尤も千萬な事である。つまり、君が今囘落第した理由は、あまり偉らく見せかけて、是非としにわんらいtsへうへんかも、試驗を通過したいといつてあせつたからである。元來道てふものは、表面に露出せぬ處價値送送子十八應四子擧落第運當山
事白集卷十六やう:こは톰あふやうがあるので、あまりけばけばしい樣な道は、束ねて之を賣るべく、かくて、五寶が山河に澄るる樣なくわんなけつ征:すでくくだい〓しかた觀を爲すべきも、決して、褒めたことではない。君が既に落第した上に、ここに留まつて居ても仕方こきやうすうざんかへ:にはながこころ20がないから、その故〓なる嵩山に歸り、酒を酌みつつ、庭の木でも眺めて心を落ちつけ、ゆつくりとしうやうよはいた'えふねんとはな최おなレせん修養するが善い。たとへば、貝多羅葉が一年に三度花さいて、なかなか落ちないと同じく、この試驗たとみやうねんみやうごねん立ち통し訳も唯だ一度だけではなく、なほ明年も、明後年もあることであるから、興に乘じて、試驗を受ける爲いとじやうきやうよに、今一度、上京したら善からう。こんゆんしよしゆがくかうしやうしたがその研究ひつえう老子の學が根本になつて、しれ【餘論】起八句は、諸種の學校を生じ、從つて、も必要で、これとしいこんじレけんらくだいいを以て士を取ることも、至極尤もだといふ意。夫子聞洛誦の六句は、今次、試驗に落第した理由をしききやうご누い;たじつしよくぼう揚摩し、勸君還嵩丘の四句は、その歸郷を送り、兼ねて、慰藉の意を寓して、他日に囑望したのである。)に送別じんやうけい尋陽五溪の水、%えんくわいただちに入る巫山の裏。沿酒直送別尋陽五溪水.沿酒直入巫山裏.【字解】S五漢蕭士賛の解に「巫山は、聖峽二州の間に介し、に青溪、赤溪、綠蘿溪、滄茫溪、姜詩溪あり。峽の五溪たり。蓋し、別姜別しょうきやうひとともつた勝境由來人共傳.ゅこ勝境由來、人共に傳ふ、るる者、尋陽より五溪に上つて、區峽に入るを謂ふなり。乃ち、子見、君なんちうでみづかびしょう君到南中自稱美.南中に到つて自ら美と稱す。指して武陵の五溪と爲す、恐らくはきみこ、づぐわつ送君別有八月秋。詩意を失せむ。武陵の五選は、沅よ君を送る、別に八月の秋あり、さっきつろくわ:〓こリ湘に合し、洞庭に瀦し、岳陽に至つ颯颯蘆花復益愁.颯颯蘆花、復た益す愁ふ。て後、江に入る、巫峽の地勢と相聯うんゆんとだのぞあひみ屬せす、雲帆望遠不相見。雲帆遠きを望んで、相見えず、引くところ武陵の五溪に非(き)にきさえたむなおのづかながざること明かなり」といひ、これに日暮長江空自流.日暮、長五、空しく自ら流る。就いて、王琦は「按ずるに、詩句、五溪、當に尊陽に在るべし。然れども、考據するところなし。按ずるに、一統志に、五溪水は、池州青陽縣西二十里に在り、源は九華山に出づ、五溪は、龍溪、池溪、漂溪、雙溪、淵溪、合流して、も、大江に入る。尋陽、或は是れ青陽の誤なるも、未だ知るべかsho楊氏は、武陵の五溪を以て、蕭氏は巫峽の五淺を以て之に當つ。恐らくは、皆是に非ず」といつた。要するに、尋陽五溪は、遂に其解を得ないので、ここでは、しばらく、文字の通りに解釋して置く。3沿洞沿は水に願つて下る、個は水に逆つて上る、つまり水を上下すること。C長江空自流王勃の詩に檻外長江空自流とある。たそうべつたれどこいわか【題義】唯だ送別とあるだけで、誰が何處に往くのを送つたのか、よくは分らぬ。じんやうはつながれ달五溪の水に沿ひ、品しやうか4けふやがて座峡の中に入る。보亠【詩意】一たび尋陽を發し、その流を上下して、その巫峽おとしとうきやうひとびとにたこれま君は南中に到り、なんちうは、音に聞こえた勝境で、むかしから、人人は之を傳へて居るので、これを見ると、さだぜつびしやうたんいきみ おくとフィ:59さなか定めて絕美だといつて、賞嘆することであらう。今や、君を送る時、恰も八月で、秋の最中、たださ處送別
白集卷十六ひせうはきnじざさつさつiiへ物淋しいのに、一しほ蕭寂の想がする。眺めやれば、兩岸の蘆花は、風に吹かれ、颯颯として聲をご:ふ:〃君の乘つて居る卅は遠く雲か水かの間に入り、塩あひだ爲し、はては、雪の如く散り亂れ、益す離愁を惹く。ゆおのづかながいくら望んでも、復た見えず、ここに佇立して居ると、日は暮れかかり、長江の水、空しく自ら流れ、しかも、わが愁は、渺渺として盡くることはない。ぜん1. t出ヒ?【餘論】前四句は、行く手なる巫峽の佳景を述べて、この行の徒爾ならざるをいひ、次の四句は、送別なかんづくけっあひるあじの正意、就中、結二句は、延佇、神に入り、かの孤帆遠影碧空盡、唯見長江天際流と極めて相類似し、ひとた;人をして、魂銷の想に堪へざらしめる。もとより、格別の名作ではないが、多少の餘情を存して居るところ處は面白い。おく送族弟縮從軍安西あんせい族弟縮の安西に從軍するを送るに:へいはほくふう【字解】E漢家中國の義に漢家兵馬乘北風。漢家の兵馬、北風に乘じ、用ふ。3鼓行漢書の項籍傳に鼓行而西破大戎。:鼓行して〓し、犬戎を破る。「我、兵を引いて、鼓行して西せば、かんしやうしたが必ず楽を擧げむ」とあり、頗師古の爾隨漢將出門去。爾漢將に隨つて、門を出でて去り、註に「鼓行とは、鼓を學つて行き、:さ쿨ニ剪虜若草收奇功。虜を剪ること草の若く、奇功を收む。長懼なきなり」とある。3大戎くんわうけんあんへんしよく君王、劍を按じて、邊色を望めば、되施頭すでに落ちて、胡天空し。Kつな: : (匈奴、頸を繫いで、數、應に盡すべし。みやうねんまさ明年應に入るべし蒲萄宮。くんわうけんあんへんしよく國語に「穆王、〓に大戎を征せむと君王按劍望邊色。君王、劍を按じて、邊色を望めば、す」とあり、章昭の註に「犬戎は西施頭已落胡天空、되施頭すでに落ちて、胡天空し。式なり」とあり、文獻通考に「大戎〓Kつな: : (は西戎の別名、荒服に在り」とある。匈奴繫頸數應盡。匈奴、頸を繫いで、數、應に盡すべし。三邉色邊塞の景色。C施頭蒲萄宮。みやうねんまさ明年應入明年應に入るべし蒲萄宮。漢書に「昴を施頭といふ、胡屋なり」とある。8匈奴擊頸賈誼の傳に「陛下、何ぞ試に臣を以て屬國の官となし、以て何奴を主らめし、臣の計を行はざる。請ふ、必ず單于の頸を係ぎて、その命を創せていとある。E)蒲葡宮三輔黃國に「蒲桃宮は、上林苑西に在り、漢の良帝の元壽三年、單于來朝、太歲願勝の在る所なるを以て、これを舍す、卽ち此宮なり」とある。蒲桃は卽ち葡萄。ぞくていわんくわん?あんせいつうてんあんせいとごヒミだいたうめいけいちう【題義】族弟縮、一に琯に作る。安西は、通典に「安西都護府は、本と龜茲國なり、大唐明慶中に置に( Car前はなら높:く。東焉耆に接し、西、疏勒に連り、南吐蕃に鄰り、北、突厥を拒ぐ」とある。すると、この詩めんあんせいとこco/ご〓は、族弟李縮といふものが、從軍して安西都護府に赴くを送つて作つたのである。nへいはいきほひCos Eむか比【詩意】今や、中國の兵馬は、北風に乘じて、勢すさまじく、そして、鼓を擊ちつつ、西に向つて進はやたいしやうぐんしたが行し、必ず西戎を破つて見せるといふ手筈である。汝は、中國の大將軍に從ふ爲に、門を出でて從軍:まiぶん;まいし、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を收めることが出來やう。今しも、天子は、劍に手15 :をかけて、邊境の風色を望まれ、折しも、施頭の星、地に落ちて、胡天寥濶、物もなく、やがて、匈送送族弟縮從軍安西七〇九君王按劍望邊色。施頭已落胡天空、〓匈奴繫頸數應盡。蒲萄宮。明年應入だいたうめいけいちう大唐明慶中に置すると、この詩
李太白集卷十六奴は、ど5:珠數繫ぎに首を縛られ、つ6しはあらむ限りの數を盡し、かぶ?まなんぢらPらうといつて、待つて居られる。汝等も、その積りで、そむやうほところに負かぬ樣にして欲しい。【餘論】ぜんほん前半四句は送別、そうべつこうはん後半は天子を借りて、ことかは:すなはこんこえん卽ち之を易める所以である。みやうねん明年、これを驅り立てて蒲桃宮に入朝するだかたほたうきうにふてうしん15ふんとう돈よ一身を抛つて、奮闘し、天子の豫期せらるるは破虜の功一日も早からむことを囑望したので、: 11 K5はやしよくぼうこれニンうこうしやうしんあんしたがほくせいごく送梁公昌從信安北征梁公昌の信安に從つて北征するを送るえいせんお上ゑんじう줄人幕推英選。指書事遠戎。ほく幕に入つて英選を推し、書を捐てて遠戎を事とす。だんばんぶ:高談百戰術鬱作萬夫雄。志せん福ら高く百戰の術を談じ、鬱として萬夫の雄となる。큰たれんくわえゆくゆ%めいげつ:起舞蓮花劍.行歌明月宮。起つて舞はす蓮花の劍、行く歌ふ明月の宮。〓Eいいんんうう將飛天地陣.兵しやうと1/5せん出塞垣通.將飛んで天地陣し、兵出でて塞垣通ず。@ 'tiそたんぜいをせいうさいこう祖席留丹景。征麾拂彩虹。祖席、丹景を留め、征麾、彩虹を拂ふ。旋應獻凱入.縣閣作深功.に:しけんりんかくしんこう旋つて、應に凱を獻じて入るべし、麟閣に深功を佇つ。【字解】E入幕雜幕に參與する。C百戰術百戰百勝衞の略。3蓮花劍漢書音義に「營灼曰く、古しへ、3古しへ、長創の首,玉を以て井鹿盧形を作り、上に木を刻して山形を作り、蓮花初めて生じて未だ數かざる時の如し」とあり、吳均の詩に玉鞭蓮花劇とある。〓天地陣六韜に「武王、太公に同うて曰く、凡そ兵を用ふる、天陣地陣を爲す、奈何。太公曰く、日月星辰、斗柄、一左一右、一向一背、これを天陣といひ、邱陵木泉、亦た前後左右の利あり、これを地陣といふ」とある。C寒垣邊牆に同じ'後漢書に「秦は長城を築き、漢は塞垣を起す」とある。E丹最日比.〓征麾廳は旌幡、指麾するに用ふ。〓麟通鑑漢紀に「甘露三年、上、式狄賞服せしを以て、股肱の美を思ひ、乃ち其人を麒麟閣に圖畫し、その容貌に法り、その官爵姓氏を署す。霍光、張安世、韓增、趙充国、腕相、丙吉、杜延年、劉德、梁邱費、蕭望之、蘇武、凡そ十一人、皆功德あつて、名を當世に知らる。これを以て表して、之を揚げ、明かに中興輔佐を著し、方叔召虎、仲山甫に列す」とある。CC佇待つ。きくにくるかいげんねんしやうとわつさくはうせつとふくたいしれいぶしやうしよしんあんぐんわうゐコ:かとうかほくりやうだうかう【題義】册府元龜に〓開元二十年正月、朔方節度、副大使禮部尙書信安郡王禕を以て河東河北兩道行ぐんふくだいそうくわんちぜつとじは:きつたん고ヒちうはいえうげいしよふくしやう:みちわか軍副大總管知節度事となし、兵を率ゐて、契丹を討たしむ。戶部侍郞表耀卿、諸副將を率ゐ、道を分はんやうきたいおほいりつうほんしうやぶしうちやうとりこよたうざんさんこくち兵を統べ、范陽の北に出で、大に兩蕃の衆を破り、その曾長を擒にす、餘黨竄して山谷に入る」としやうこうしやうしんあんぐんわうりゐトきつたんせいはつでごある。すると、この詩は、梁公昌といふものが、信安郡王李禕に從つて、契丹征伐に出かけるのを送: (る爲に作つたのである。:こんくらいしんあんそんわうはくちう上えらだひやうはん노【詩意】君は、今囘、信安郡王の幕中に入り、まことに、善く選び出されたといふ評判。かくて、書店ゑんじうせいほつ늘せんしようじゆつかうだんるばんぶ四しようを抛つて、遠戎を征伐するを事とし、百戰百勝の術を高談し、鬱として萬夫の雄と稱せられて居る。둘のたれんくわめいけん±めいげつきう此にもあつみてうことたいしやうその事なきに當りては、起つて、蓮花の名劍を持つて舞ひ、明月宮の邊に行歌し、一朝事あらば、大將〓FFぢんcいださいゑんcomこ는しゆんまいきばめゐに從つて、天地の陣を布き、兵を出して、塞垣の路を通ぜしめ、終始その雋道の氣〓を示して居る。送送梁公昌從信安北征
李太白集卷十六せんべつえん홍かげかたむおよせいはんふるだいこうはら今云말餞別の筵は、夕日影の傾く頃にも及び、やがて、君は、旌麻を揮つて、さながら彩虹を拂ふがかいいありさまごとしょこうたいごといよいだまことに美美しく、如く、これから愈よ乘り出すといふので、且つ勇ましい有樣。天子は、諸公の大たきんかくこれづだわおしめしじょ:はやききやう功を建つるを待つて、麒麟閣に之を圖畫しやうといふ御思召であるから、凱歌を奏して、早く歸京さ:いたれる樣に致されたいものである。いじゆんぜんごんはいりつたいだやうきはせいたうけつ,しよくほうあさ且つ【餘論】この一首は、純然たる五言排律で、その對仗も極めて精當で、結二句、囑望淺からず、臺せつじつ最も切實である。たいだやうきはせいたうその對仗も極めて精當で、けつ,結二句、しよくほうあさ囑望淺からず、且つはくりきんごとうしやうぐん〓せいせいおく送白利從金吾董將軍西征白利の金吾童將軍に從つて西征するを送るせいきやうこくたうはくきぐんゐた西羌延國討:白起佐軍威。西羌、國討を延べ、白起、軍威を佐く。小2こひあいげつ劔は決す浮雲の氣、US〓決浮雲氣。弓彎明月輝.弓は彎く明月の輝。うまゆへんさうみどり:しよさうと馬行邊草綠.旌卷曙霜飛.馬行いて、邊草綠なり、旌卷いて、曙霜飛ぶ。(三)てにあひかへりかんぶうちら눕抗手凛相顧、寒風生鐵衣手を抗げて、凛として相顧みれば、寒風、鐵衣に生ず。【字解】こ西羌後漢書に「西羌の本は、三苗より出で、姜姓の別なり。その國、南岳に近し。舜の四國を流すに及び、れを三危に徒す。河關の西南の羌地、是れなり。賜支に潰して、河首に至る、綿地千里、南は蜀漢徵外豐夷西北部善車師諸國に接す。居るところ常なく、水草に依隨す。地に五穀少く、產牧を以て黨となす」とある。しかし唐時は、〓ね吐蕃、卽ち今の西藏を指して、西羌といつた。3延遷廷。30白起史記に「白起は、廊の人なり、善く兵を用ひ、敵を料り、鹽に合し、奇を出して窮まりなく、天下に震ふ」とある。E創決浮雪氣莊子に「天子の創、上は浮雷を決し、下は地紀を絕つ」とある。CI抗手孔叢子に「子高、趙に遊ぶ。平原君の客に都文李節といふものあり、子高と相善し。將に善に還らむとするに及び、諸の故人、訣れて既に畢る。文節、送行三宿、別に臨み、文節、流涕顯に変る。子高、徒に抗手するのみ、背を分つて路に就く」とあり、文選の李善註に「抗手とは、手を擧げて拜するなり」とある。5鐵衣木蘭詩に朔氣傳金桥、寒光照鐵衣とあるに本づく。たうじよくわんしたらきんごゑいじやうしやうぐんおのおのにんたいしやうぐんおのおのにんしやうぐんおのおのにんとうしやう【題義】唐書百官志に「左右金吾衞上將軍各、一人大將軍各一人、將軍各二人」とある。董將x LEふしやうしはくりきんごしやうそんとうぼうしたがせいきやうせいたうでぶ軍は、名字不詳。この詩は、白利といふものが、金吾將軍董某に從つて、西羌征討に出かけるのを送つて作つたのである。せいきやうしようとほんこくさいてきせいはつしばしへいうごな【詩意】西羌の稱ある吐蕃は、國際的征伐として、數ば兵を動かしたが、のびのびに成つて、まだ十ふんかたこんくわい:じうぼくこんむん총ひとこしゆつべいな分に片が付かない。そこで、今囘君は戎幕に參し、軍威を佐けて、愈よ出兵することに成つた。かえさる十うんきゆみめいげつ157おな:くて、劍を揮へば、浮雲の氣を切りまくるべく、弓を引けば、明月が輝いて居ると同じである。馬の〓ft 1しげはたげうてんしはま〓行くところには、邊地の草、なほ綠に茂り、旗を卷けば、曉天の霜の飛ぶ想がする。何は兎もあれ、すぢやうし覺えず心を傷ましめるばかりで、たせいぐんしやうしはいにん沙場の物凄じき景色は、征軍の將士輩が凛として身ぶるひを爲し、てあひだかんおうままつしやうねがくわうかんちやうく手を擧げて相願みつつある間に、寒風は颯として鐵衣に生する。願はくは、この荒寒に耐へて、長驅いちはやこうくんたこ千里、逸早く功動を立てて貰ひたい。送送白利從金吾童將軍西征
李太白卷十六うちうかんりやうれんじよけい吉じつじためないようじうじつ【餘論】これは五律で、中間兩聯が敍景、卽ち實事である爲に、內容が充實したやうに見える。それはくきどうせいゆるら)てんせいたくわんようしゆだんけつまつへんていくかんじやうから、白起は、同姓の故を以て點醒したので、例の慣用手段である。結末二句は、邊庭苦寒の狀を述じうぐんしやつと旨げんさつらう涼Mいなべて、從軍者を勗め勵ましたので、嚴滄浪が「千載、生氣あり」といつたのも、主として、これが爲である。ちやうしうさいじうぐんおく張秀才の從軍するを送るたちsとは2〓は六駁、猛武を食ひ、驚馬の羣に從ふを恥づ。てうちやうめいけう별一朝長鳴し去り、矯として龍の雲を行くが若し。さうしゑんりいだこころざしせいふんとそん壯士、遠略を懷き、志は世紛を解くに存す。しうぞくたド。せいけいいづくあへわか周粟、猶ほ顧みず、齊珪、安んぞ肯て分たむ。見いだかうだうじ:まとす霍冠軍。劍を抱いて高堂を辭し、將に投ぜむちやうさくか:港ねいしんじよふんかへ長策、河洛を掃はば、寧親、汝墳に歸れ。:りんかくLたし當に千古の後をして、麟閣に奇動を著さしむべし。送張秀才從軍六駁食猛武.秘從。篤馬羣。(三)一朝長鳴去.矯若龍行雲。壯士懷遠略;志存解世紛。間粟猶不願。齊珪安肯分. @ (六)抱劍辭高堂。將投電冠軍。まi長策掃河洛。寧親歸汝墳。當令千古後.麟閣著奇勳。【字解】C六駿詩の國風に關有六駿とあつて、C毛傳に「絞は馬の如く、鋸牙、虎約を食ふ」とあり、孔頴達の正義に「即畜に云ふ、駛は馬の加く、鋸牙、虎約を食ふ」とあり、郭璞は山海經を引いて「獸あり、腋と名づく、白馬の如く、黑尾鋸牙、音,戯の如く、虎的を食ふ」とある。然らば、この獸は駭と名づけるだけ、それを六胶といつたに就いて、王肅は「六と云ふは、見るところに據つて言ふなり」といつた。北史に「强華原、兗州刺史となる。これより先、州境數ば延歌あつて暴を爲す。華原、政に臨んでより、州の東北七十里、甑山中、忽ち六肢あり、猛獸を食ふ、感な化感の致すところと爲す」とある。【三】猛式猛虎に作るべき答であるが、唐では、虎の子を諱み、常に武の字を以て之に代へた。3爲馬爲は鈍馬。三周粟猶不順史記に「伯夷叔寶、義として周の粟を〓はず」とある。C-齊珪謝靈運の詩に弦高恊ニ育師「仲連却」車軍、臨 組年不線、對珪事肯分とあつて、李善の文選註「史記に曰く、平原君、善速を封ぜむと欲す、連、肯て受けず」とある。王琦の解に「左太冲の詠史の詩に曰く、臨組不昔緣、對珪不肯分、仲速の文に據るに、分珪の事を見ずと雖も、古しへ、語を分つ、皆その語の輕重に隨うて、これに珪壁を賜ひ、執つて以て瑞信と爲す。今仲連、齊起の封語を受けず、その肯て珪を分たざるを明かにするなり」とある。魯仲連は、はじめ、趙の平原君から封土の事を言ひ出されたのであるから、一體ならば、趙珪といはねばならぬ處である。E當冠軍史記に「霍去病、剩姚校尉となり、封ぜられて冠軍候となる」とある。3事親揚子法言に「孝は寧親より大なるはなし」とある。0汝墳詩の國風に遵彼汝墳」とあり、鄭康成の周禮註に「水涯を墳といふ」とあつて、汝墳とは汝水の遲をいふ。後漢書郡國志に「汝陰、本と胡國」とあつて、その註に「詩に謂はゆる汝墳なり」とある。又塵奉傳贊に「二應克聰、亦表汝墳」とあつて、凡そ汝水の演は皆汝環といふのである。CO麟閣すでに前に見ゆ。こくしほ논つうしようおろいちやうほうにこた글ふしやうし【題義】國史補に「進士、通稱、これを秀才といふ」とある。張某の名字は、例の如く不詳。この詩しんしちやうぼうじうぐんれ?は、進士張某の從軍を送つて作つたのである。はく출:しと12むれしたがは【詩意】敗は、猛虎をさへ食つて仕舞ふもので、駑馬の羣に從つて、のそのそして居るのを愧づるこいてうちやうのいこころはうはしけうけう;とは、言ふまでもない。かくて、一朝長鳴して、その志ざす方に走り去るを見れば、矯矯として、龍遠送張秀才從軍ちやうほうにこ張某の名字は、た글ふしやう例の如く不詳。しこの詩と12むれしたがは駑馬の羣に從つて、のそのそして居るのを愧づるここころはうはしけうけう;その志ざす方に走り去るを見れば、矯矯として、龍
李太白卷十六あひだまたうだいさうしきようちうゑんりやくいだしゆくし世の{その宿志は、が雲の間を行くやうである。君は、もとより、當代の壯士、胸中には遠略を懷き、おというを〃かたぶつ紛転を解そんとやはかの六駿と同じ樣である。くに存し、矢張、かくて、苟くも義理に叶はねば、一物をも受けた、글ちうれんしんていひ伯夷叔齊が義として周の粟を顧みざるが如く、魯仲連が秦を帝とするを非として、その·yざず、たとへば、えbeへいでんくんほうどあた君わかいさぎよセル軍を斥け、やがて、平原君から封土を與へやうといはれたが、珪を分つことを屑しとせざると同じでんだえいだ÷にじくわくきよへいひめいしやうもとみ)ある。今次は劍を抱いて、父母に辭し、かの霍去病に比すべき名將の下に身を投ぜむとして居る。かちやうさくこのかくぞくそんりくわいふくおやくて、ひと一たび幕中に入れば、はくちう長策を以て河洛の賊軍を一掃して、その地を囘復し、その後、親を見舞なじよすみほしかへくよなにあつゆれてがらにきりんかくじやうたあとくい麒麟閣上ふ爲に、得意に成つて汝水の邊に歸つて來るが善い。何は兎もあれ、天晴の手柄を顯はし、そのざうとのびにワフ*はそのせいこうbに其像を留めて、千古の後までも、美名をへるやうにして欲しいと、ひそかに其成功を祈つて居る。【餘論】起四句は、六駿を敍し、税上駿は、はく猛虎さへ食ふといふ位、きとくらゐいた至つて强いものである處から、つよところちやうしう張秀: a)いうたん:くつきやうよ唐じ壯士懷遠略の才を以て、幽燕の賊よりも、もつと倔强なるものとなし、仍つて相比したのである。じんぶつしまてうぜつしようやういじゃうそうべつこ四句は、ちやうしうさい張秀才の人物志操の超絕なることを稱揚し、以上六句が送別の正意で、當令千古後、麟閣著奇動の二句は、前の匈奴繫頸敷應盡、明年應入蒲桃宮だの、旋應獻凱入、麟閣佇深功だのほいしやう封いちかた:やうたいつかはなは灣ぷと略ぼ意象を同じうし、いくら、李白でも、かう型に嵌つた樣な文句を使ふと、甚だ懐らず思はれる。ろくざんこうらくやうおとしい〓わうきし:そは長策掃河洛の王琦は「この詩、當に祿山寇して洛陽を陷るるの後に作るべし」といつたが、かくたうもやうしうさい달じんだっかくべつ를;格別その名を留一句に本づいたので、まさしく確當であらう。張秀才は、一かどの人物と見えるが、ところみめぬ處を見ると、せつかく折角ながら、こうみやうてがらこをはみ功名手柄を顯はさずに終つたものと見える。送崔度還吳。度故人禮部員外郞國輔之子こじんれいぶあんぐわいらうこくほ崔度の吳に還るを送る、さいどにど度は故人禮部員外郎國輔の子、にいうえんさせつほんりことごとくわううん幽燕沙雪地。萬里盡黃雲。幽燕沙雪の地、萬里盡く黃雲。(三)てうするしうがんたなんびひいくぐん朝吹歸秋雁〓南飛日幾羣。朝吹、秋雁を歸し、南飛日に幾羣。あいめい哀鳴九天聞.なかニほう:きうてん中有孤鳳雛。中に孤鳳の雛あり、哀鳴、九天に聞こゆ。chaすなはこのとりおさいしやうしよくわか我乃重此鳥。綵章五色分.我乃ち此鳥を重んじ、綵章五色分る。四)じんほんきんまじけいぼくかろがうまをが若し·胡爲雜凡禽。雞鶩輕賤君。胡すれぞ、凡禽に雜り、雞鶩、輕しく君を賤む。てなんぢあしささcasや。擧手捧爾足。疾心若火焚。手を擧げて爾の足を捧げ、心を疾ましむること、火の焚く(五)はね125約大あんaれ、ごかう拂羽淚滿面送之吳江漬。羽を拂つて、淚面に滿つ、送つて之く吳江の潰。きよえいたちまみちうちよ:ん去影忽不見.躊躇日將曛.去影忽ち見えず、躊躇、日、將にはせむとす。【字解】5國燕古しへの國州で、後に燕に成つたから云ふので、今の直隷地方。3朝吹朝風。E·九天九は陽の大數なるが故に冠したのである。鍛蠶驚は家鴨。C吳江漬吳江は、吳地を貫流する長江の本支を併稱したので、演は送送羅度還吳度故人禮部員外郎國輔之子七一七
李太白集季十庫、すでに前に見ゆ。じほん=【題義】度故人禮部員外國輔之子の十一字は、自註であつて、一本に題下に割註にしてある方が體をさいこくほ:得て居る。唐書藝文志に「崔國輔、縣令の擧に應じ、許昌令集賢直學士禮部員外郎を授けられしが、~달崔〓王鉄の近親に坐して、竟陵郡司馬に貶せらる」とあり、唐詩品彙に「崔國輔は吳郡の人」とある。ccその子の崔度は、國輔は、當時世に知られた詩人であつたが、名字関歷、ともに不詳である。しかしa :えこきやうごこの詩を見ると、久しく北方幽燕の地に居たが、兎角不遇にして、志を得ず、やがて故〓に還るとおていふので、李白は、乃ち其行を送る爲に、この詩を作つたのである。isかず【詩意】幽燕は、北方荒寒の地で、風沙と氷雪とに閉ぢこめられ、見わたす限り、萬里の果までも、5がん2원黃色に曇つた雪げの雲が低く立ち籠めて居る。かくて、朝風は、秋の雁を吹き送り、日ごとに幾擧と志々ひ元なく、南飛する。その雁羣の中に、鳳風の雛が、一羽まじつて居て、悲しげに鳴く聲は、九天に聞こぼんきん元と此鳥を重んじ、える位。われは、その文彩、爛然として、五色分明なるを見、いかなれば、凡禽は+しrに立ちまじり、鶏や家鴨などに馬鹿にされて居るのであるか、まことに不思議で堪まらぬ位。まニ¥2で、手を擧げて風雛の足を捧げて、戀に之を劬はり、かの雞驚を憎む心は、さながら火の焚えると同:)買じである。やがて、其羽に染みて居る塵などを拂ひ去り、滿面の淚を抑へつつ、これを送つて、その中に故〓なる吳江の邊に歸らしめ、見えなくなるまでも、佇立して、その影を目送し、去りがてにして居集季十옴る間に、夕日は、暮れなむとし、一しほ、寂寥の想を爲した。でけんりうぎよひ:【餘論】全體が比の體で、極めて面白く出來て居る。乾隆御批に「哀痛の音、故舊に篤く、自ら深情1に古글た上にを見る」といひ、嚴滄浪は「須らく、人、かくの如く、才を憐むを知るべし」といひ、ともに成程resと頷かれる。送祝八之江東〓賦得浣紗石れ祝八の江東に之くを送り、浣紗石を賦し得たりを西施越溪女。西施は越溪の女、に雲海。か明監光明監、雲海に光る。い未入吳王宮殿時.未だ吳王の宮殿に入らざる時、浣紗の古石、浣紗古石今猶在.今猶ほ在り。桃李新開映古査。낱ま桃李新に開いて、古査に映じ、菖蒲猶短出平沙。are菖蒲猶ほ短く、平沙を出づ。昔時紅粉照流水。昔時は紅粉、流水を照らし、送送祝八之江東賦得浣紗石【字解】5明醫容貌の配對しくきらびやかなること。3海雲なす海。S古査査は水中の浮木。三菖蒲猶短菖蒲の芽の纔に出たばかりなるをいふ。C超愈遠き貌、王巾の頭陀寺碑文に東望ニ平學一千里超恕とある。
李太白集卷十六こんにちせいたいらくくわおほ今日靑苔覆落花。今日は靑苔、落花に覆はるみせいしんとうゑつ君去西秦適東越。君は西秦を去つて、東越に適く、(五)へきざんせいかういくてうこつ碧山〓江幾超忽。碧山〓江、幾超忽。てんがいにじんぶ若到天涯思故人。もし天涯に到つて、故人を思はば、くわんさせきじやうめいげつ3:浣紗石上窺明月。浣紗石上、明月を窺へ。しゆくはいかうにじわかかうとうヒやつくわんさせったいへい【題義】祝八の八は排行で、名字は分らない。江東は吳越の地。それから、浣紗石に就いては、太平ひぢよこわけん노ちよらさんはいしん:にぎよらんこうえうくわいけいきこうせんこと以て吳王に獻せむとし、諸暫苧蘿山の賣新の女、西御覽に引ける孔嘩の會稽記に「句踐、美女を索め、とじやうざんけうしふさんべんいしせいしくわんさせきたいへいくわんラしていたん大ま云ふ是れ西施の浣紗石」施鄭旦を得、先づ土城山に〓習せしむ、山邊に石あり、とあり、太平寰宇記じせいしくわんさところくわんさせなあとしよきけんちよらえんさんか·云ふ是れ西施浣紗の所と。に「諸曁縣に苧蘿山あり、山下に石跡あり、浣紗石、猶ほ在り」と記してめいしようたおのおのだいところ5いくしときでかうとうぎある。この詩は、祝八の江東に之くを送るにつけ、その地の名勝を擇んで、各題とした處が、李白くわんさせきしくわんさせきよいそのなかおいそうやついと送別の意は浣紗石を取り中て、因つて、この詩を作つたので、つまり、浣紗石を詠する其中に於て、:おを寓した譯である。うみてとごとゑつけいうただようくわうめいえんいじやう【詩意】西施は、もと越溪に生まれた女で、その容光の明豔異常なることは、雲なす海をも照らす位。いま:コきうでんまんか:のぞしやたつねそして未だ吳王の宮殿に入らざりし前は、河水に臨んで紗を浣つて居たとかいふので、その常に乘つるったレいまのC焼そうたうりはなたったいすゐちう글て居たと傳ふる石が、今でも殘つて居る。その石の邊には、桃李の花、新に咲き出でて、水中の古い十ぼくまみぎははしやうぶめだへいさうへだたうじすこ浮木に映じ、そして、汀に生える菖蒲は、やつと芽を出して、平沙の上に抽き出して、當時と少しもかはけしまおいこうふんよそほひないにし渉みづそのかげ:變らぬ景色。しかし、むかしは、その處に於て、紅粉の妝を爲せる西施が、流るる水に其影を映しいせきじやうあを〓ちくくわおーはひとおかんたが、今では、石上の靑い苔は落花に覆はれて、その人、すでに見えず、これを思へば、まことに感きみちやうあんとうゑつちょうとへきざんせいかうあひつらなみら慨に堪へぬ。君は、今、ここ長安を去つて、東越に行かれるので、3の目、碧山〓江、相連つて、道治てんがこじんすなはわれおもだいたくわんさせ烤い瓦も極めて遠い。かくて、天涯に至つて、故人卽ち吾を思ひ出したならば、浣紗石の邊へ往つて、の2층あいげつ달:ばこころそのつきよ155かん上に映ずる明月を見よ、われも亦た均しく君を思ふ心を其月に寄せてゐるから、それとなく、心に感うさうゐ得することがあるに相違ない。heいたかいもつぱくれんさせなけつにそうべついうっ【餘論】起首より今日靑苔覆落花に至る二解は、專ら浣紗石を詠じ、結一解に於て、送別の意を寫に2の二句を以て題意を完うしたのである。ちろんし出し、若到天涯思故人、浣紗石上窺明月そして、この例の我寄愁心與明月、隨風直到乾郞西と極めて如似し、きはちじまたまへ二句は、又前の藍田太白若可期、爲余掃へうりな:とかこくわんようひつほふ灑石上月と表裏を爲す樣にも見え、兎に角、慣用の筆法である。;一を送るく侯十しゆがいしん朱亥、すでに晉を擊ち、送侯十一(一)朱玄己擊晉。侯贏尙隱身.送送侯十一こうえい侯贏、なか、尙ほ身を隱す。七二一
李太白 集卷十六를rこうしあはうくわんひとたふと時無魏公子。豈貴抱關人.時に魏の公子なくんば、豈に抱關の人を貴ばむや。())くわしよく국またちんあおな余亦不火食.遊樂同在陳余亦た火食せず、梁に遊ぶは陳に在るに同じ。(三)むなたんろえ:たくさい円、かうしん漬空餘湛盧劍。贈爾託交親。空しく滿盧の劍を餘し、爾に贈つて交親を託す。【字解】E朱亥、侯事ともに前に數ば見ゆ。【三】不火食煮た物を食はぬ、莊子に「孔子、陳蔡の圓に窮し、七日火食せず」とある。3淇虛創吳越春秋に「楚の昭王、臥して縮め、吳王漢盧の劍を牀に得たり。その故を知らず、乃ち風胡子を召して國ふ答へて曰く、これを湛盧の劇といふ、五金の英、太陽の精、氣を寄せ、靈を託し、これを出せば神あり、これを服すれば感あり、以て折衝して敵を拒ぐべし。然れども、君、理に逆ふの謀あれば、その劍、卽ち出づ、故に無道を去つて有道に就く。今、吳王無道、君を殺し、楚を謀る、故に湛盧楚に入る」とある。isたにえつれきふしやうしらうけふ【題義】候十一は、名字閱歷、ともに不詳。しかし、詩を見れば、一個の老俠であるらしく、そこでどうせいちにこうえいうこんかそのかうwく同姓に因み、侯〓を以て之に擬し、且つ其行を送つたのである。いしゆがいひまもんかしてっつひとつあさつちやくちやくはめんしんかうに【詩意】今や朱亥に比すべき君の門下は、すでに音鄙の樣な人を椎殺し、著著と場面が進行するに拘こうえいひかんじんおほだてものまで,くわつどう等尙ほ身を隱して引なみはらず、候凛に比ずべき肝腎の大立物たる君が出て來て活動すべき等であるこ둘こくかよこうししんりようくんやうひとなしたがくわんもんほんにん込んで居るのは、どうした事か。刻下の世、魏の公子信陵君の樣な人が無く、從つて、關門の番人の글いやムを돌:しごく둘ごとま七ぐう如き賤しき地位に居るものを貴ばないのは、尤も至極な事である。かくの如く君が不過であるばかり:くわしよくにりやういうれきちやうどこうしちんさいやくるしおなか、予も亦た火食せず、今しも梁に遊歷して居るが、丁度、孔子が陳蔡の野に困んだと同じである。らうけふ一個の老俠であるらしく、そこでたんろめいけんひ2じ···なこ君に贈つて、しんさはれ、滿慮に比すべき名劍だけが殘つて居るから、ここに別を爲すに際し、これを親おつへうちようぷ交の表徵としやうと思ふ。どうせいこうえいそのひとtくわんようしゆだんぜんほんかうさうきよく【餘論】同姓の故に、侯贏を以て其人に比したのは、例の慣用手段で、前半四句、まことに骯髒の極で;じぶん둘けつじたかうしんおよある。次の二句は、自分の事を述べ、結二句は、自他の交親に及んだのである。じ···なこここに別を爲すに際し、君に贈つて、これをしん親魯中送二從弟赴擧之西京ろあるじうていせいけい出魯中にて二從弟の擧に赴き西京に之くを送る魯客向西笑。君ろかくにむかちくんもんむ:굴門若夢中。魯客、西に向つて笑ふ、君門、夢中の若し。(三)しちくしんはつbeひめいくわうきうお霜凋逐臣髪。日憶明光宮。霜は逐臣の髪を凋ましめ、日に明光宮を憶ふ。ま3cようささいくわくわんせい:復羨二龍去。才華冠世雄.復た羨む、二龍去つて、才華、冠世の雄なるを。平衡騁高足。逸翰凌長風。へいくかうそくしはいつかんもやうふうty平衞、高足を騁せ、逸翰、長風を凌ぐ。hyしうげつにかえさ舞袖拂秋月。歌筵聞早鴻。うこう舞袖、秋月を拂ひ、歌筵、早鴻を聞く。おくりやうくわいなにおな送君日千里。良會何由同.ま君が日に千里なるを送る、良會何に由つてか同じうせむ。【字解】【一】向西笑桓譚の新論に「人、長安の楽しきを聞けば、門を出で、西に向つて笑ふ」とある。明光宮雍錄に送魯中送二從弟赴擧之西京七二
李太白集卷十六「漢に明光宮三あり。一は北宮に在り、長樂宮と相連るもの、武帝の太初四年に起る。即ち王商の指借し、以て暑を避けむと欲するところの者なり。別に明光宮あり、甘泉宮中に在り、亦た武帝の起すところ、蒸趙の美女三千人を發して之に充つ。尙書郞、文書を作リ、起草するを主るに至り、更めて建禮門內に直す、すなはち明光殿に近し。建禮門內、神仙門を得、神仙門內、明光殿を得、省中皆胡粉壁に塗り、丹を以て地に漆す、これを丹墀といふ。尙書郞、蘭を握り、雞舌香を含んで、事を奏す。これ明光殿、その方向を約するに、必ず未央正宮殿中に在らむ、北宮甘泉、奇玩を設爲する者と比せず。すなはち、臣下事を奏するの地なり」とあつて、王琦は「養ずるに、太白の用ふるところ、正に明光殿を指し、しかも、宮の字を借用するは、以て韻を趁ふのみ」とある。【二】二龍世說に「謝子徹、許子將兄弟を見て曰く、平奧の淵に二龍あり」とある。E平衞謝靈運の詩に平衡修且直とある。C2高足古詩に何不策高足とあつて、李善の註に「高は上なり、又逸足を謂ふなり」とある。;じうていふたりじぶんくわんしげんもやうあんじやうきやう穴【題義】この詩は、魯中に居た時、從弟二人が例の文官試驗を受ける爲に、長安に上京するのを送にんぞくていくわうまだ〓詩中にも二龍つて作つたのである。一本には「族弟鍠を送る」とあるさうだが、題に二從弟といひ、みたおちほかいまひとb去といひ、もと二人であるから、李鐘の外に今一人あるべき譯である。たいりうちやうあんにしむかわら:た、つて滯留して居るが、【詩意】われは、今魯中の客とな長安の事を聞けば、おもはず西に向つて笑ふわうじつしゆつこにのへゑんぜんむ:おもしづじやうので、往日出入せし九重の宮門は、宛然として、夢中の想を爲すばかり。身は逐臣となつて、頭上の髪は、追追白くなり、おりおけしろ日として、明光殿を思はぬことはない。ざる羨むべきは、루汝等二人、なんぢらふたり今次、えたじやうきやう上京すさいくわたうせいくわんゆうけつ녹たんたんたいだうじるとのことで、その才華は、當世に冠として、その雄傑を稱すべく、やがて、坦坦たる大道に向つてただにはははしのおにレせんきふだいおひおひりつしん名馬を馳せ、力ある翼を振つて、長風を凌ぐと同じく、きつと、試驗に及第して、追追立身することわかれまひそでしうげつかげはらえんじゃうチCH3をはごであらう。ここに、別を爲すに際し、舞の袖は秋月の影を拂ひ、筵上の歌を唱へ終れば、やがて、雁元:へだふたたでの聲が聞こえる。これより、君は、日ごとに千里を隔つべく、どうして、再び良會を爲すことが出なドをし來やうか、まことに、名殘の惜まれることである。ヒ2じうていみぶんけつこPEかん【餘論】起四句は自己の現狀、次の四句は二從弟の身分、結四句は送別の正意で、殆んど遺憾なく言ひをほせて居る。けつこ結四句は送別の正意で、PEかん殆んど遺憾なく言奉餞高尊師如貴道士傳道錄畢。歸北海だうしだうろくつたをはほくかいたいせんたてき高尊師、如貴道士が道錄を傳へ畢り、北海に歸るを餞し奉るC 01 ceどうてんぎう道隱不可見。靈書藏洞天。道、隱れて見るべからず、靈書、洞天に藏す。まんごふれきせいたがひあひつた吾師四萬劫。歷世遞相傳。吾が師四萬劫、歷世遞に相傳ふ。腓杖留靑竹。行歌躡紫煙。せいちくと上別杖、靑竹を留め、行歌、紫煙を躡む。離心無遠近。長在玉京懸。k見んきんながぎよくけいかか離心、遠近なし、長く玉京に在つて懸る。【字解】【一】道隱不可見老子に「道隱れて名なし」とあつて、河上公の註に「道は活隱、むるなり」とあり、莊子にも「道は聞くべからず、聞けば非なり。道は見るべからず、見れば非なり」とある。C【一】道隱不可見老子に「道隱れて名なし」とあつて、河上公の註に「道は活隱、人をして能く指名すること無からしとあり、莊子にも「道は聞くべからず、聞けば非なり。道は見るべからず、見れば非なり」とある。C雲書太平御送奉錢高尊師如貴道士傳道篆學歸北海
太白集卷十六覽に「後聖道君列記に曰く、刻するに紫玉を以てして簡となし、青金を文と爲し、龜母筆を按じ、眞章筵を拂ひ、玉童編を結び、名づけて靈書度人經といふ。この二章、竝に是れ諸天上帝及び至雲覽王隱祕の番、皆此れ大梵の言、世上の常辭に非ず、言に報壓なく、曲に華宛なし、上天の寶とするところ、京都業徵上宮に祕す、支科に依つて四萬劫に一たび傳ふ」とある。別杖留青竹後漢書に「費長房、強公に隨從して深山に入る。長房辭して歸る。前、一竹杖を與へて曰く、これに騎し、之くところに任かせば、自ら至らむ。すでに至らば、杖を以て葛陵中に投すべし、と。長房、杖に乘じ、須臾にして來歸す。杖を以て、骸に投じ、顧視すれば、龍なり」とある。E玉亨前に見ゆ。ほくかい줄ぐんめい古庄せいしうかなんだうれいぞくしかうそんしじよきだうレホ【題義】北海は唐時の郡名、卽ち靑州で、河南道に隸屬して居た。この詩は、高尊師、如貴道士の二ちやうあんしが3おいだうろくいよいだうじゆつしゆぎやうすほくかいかへおくく人が、長安紫徽宮に於て道錄を受け、急よ道術の修行が濟んで北海に歸るを送つて作つたのである。,ちうたいだうせんいういんびしたがだうかしゆぎやうむ【詩意】宇宙の大道は、潜幽隱微にして見るべからず、從つて、道家の修行は、なかなか六つかしみちあうびかきしるした霊書は、Lきうひざうまんごふでんい。その道の祕奥を書紫微宮に祕藏されてあつて、四萬劫を經て一傳し、代代こくんこんくわいいよいそのだうろくこでれを受け繼いで居る。二君も、今囘愈よ其道錄を許されたので、これ位、お目出たいことはない。べつじあにおいちくっム:かへかうかしえんかくて別時に與へられた靑竹の杖に騎して、その之くが儘にして歸り、それから、行歌しつつ、紫煙せいてんかまはわかれわらゑんきんをがてんじやうはくぎふくげいかかを躡んで、靑天を驅け廻ることであらう。ここに、別の愁は遠近なく、長く天上の白玉京に懸つて居る。っけいしきに在三四の一職は散體を以て之を行つたのである。れんさんたい··こうれん【餘論】これは五律の形式を備へて居るが、後聯は、じ:めいせい1/3たべつじやううつRえ措辭極めて明観。離愁の句は、唯だ一語千古の別情を寫し盡し、そして、長在玉京懸の句を得て、へりべりせんいんな縹緲たる仙音を爲して居る。だいたいぶ大體に於て、じわらいあひかな題と恰も好く相稱ひ、かきんけんて且つ緊健に出來て居る。きんりよう둥されとうごあそおく金陵送張十一再游東吳金陵にて張十一の再び東吳に游ぶを送る張翰黃花句.風流五百年。もやうかんくわうくねふうりう久張輸黃花の句、風流五百年。たれびとじ·つ、亮よよけんしよう誰人今繼作.夫子世稱賢.誰人か今繼いで作る、夫子世賢と稱す。十六=あぞ4 2ほいふね:再動遊吳棹。還浮入海船.再び吳に遊ぶの棹を動かし、還た海に入るの船を浮ぶ。春光白門柳. )んんんわらにく厚かしよくせきじやうてん霞色赤城天春光白門の柳、霞色、赤城の天。≦わかれながただおおのおのいまか去國難爲別。思歸各未旋.國を去つて別を爲し難く、歸るを思うて、各。未だ旋らず。むなかごなんだのあひかへりるぜいぜん空餘賈生淚。相顧共悽然.空しく、賈生の涙を餘し、相顧みて共に悽然。【字解】3黃花句張輪の詩に青條若總翠、黃花如散金とある、この黄花は菊でなく、菜の花である。3)白門胡三省の通鑑註に「白門は建康城の西門なり、西方は色白し、故に以て稱と爲す」とあり、古しへの楊叛兒曲に暫出ニ白門前、楊柳可蔵鶏とある。赤城台州府志に「赤城山は、天台縣北六里に在り、一名燒山、石皆霞色、これを望めば雉塚の如し、因つて以て名となす。孫綽の賦に謂はゆる赤城置起而建標とは、是れなり。支道の天台山銘の序に日く、天台山に往く、當に赤城より道と爲すべしと。而して、神邑山圖、亦た赤城を以て天台の南門となし、石城山を西門となすなり」とある。6賣生淚王琦は漢書に「買誼、自ら傅となつて無狀なるを傷み、常に哭泣す」とあるを引いたが、これは、治安策に於て、痛哭太息すべきものがあるといつた其事金陵送張十一再游東奥
李太白集卷十六な指したので、卽ち時事に感憤したことに相違ない。きんりよういなんきん죽はいかうゆいじふしやうきんり上うおいちやうぼうふたた=【題義】金陵は今の南京、張十一の十一は排行、名字は不詳。この詩は、金陵に於て、張某の再び呉おくつくに遊ぶのを送つて作つたのである。ちやうかんふうりうこうせいらうえいいぬん【詩意】張翰は、黃花如散金の一句を以て世に知られ、その風流は後世に朗映し、今すでに五百年そのひとふうりつたれしようけい夫子は代代費と稱せられた人で、よげんを經た。その風流を誰が承繼して居るかといふと、まさしく、其人いまちみ古さをさふたたごあそたいかいうかだ(であらう。今君は、舟に棹して、再び吳に遊び、はては、大海に浮び出さうといふので、愈よここをしゆつはつ$しゆんくわうはくもんだこせきじやうてんえいたび出發される。時しも、春光は白門の柳を籠め、霞色は赤城の天に映じて見え、旅をするには、持つてらせつ〓かくちうFじやうことs來いといふ好期節である。さはれ、われは國を去つて此に居る客中の身であるから、別離の情殊に苦またかへおのおのかへ〓じじかうがいつうこくちやうたいそくしい。又歸りたいと思つて居ても、各歸り得ずして居る。おまけに、時事に慷慨して、痛哭長太息か1쿨あひかへりせいぜん古しへの賈誼の如く、〃すること、さながら、相顧みて、ともに悽然たるばかりである。いちやうぼうりよかうちやうほう張某が古しへの張輪の後繼であるといふ意、再動遊吳樟の四句は、ちやうかん【餘論】起四句は、張某の旅行せつだうきふかそうべつこげいくわくおう以下四句は、の計畫と其期節とに道及し、送別の正意である。ゆいじふしやう名字は不詳。きんり上うおい金陵に於て、ちやうぼうふたた=張某の再び呉この詩は、ちやうぼうりよかう張某の旅行しうさいあつまこだ紀秀才の越に遊ぶを送るかいするみまる海水、眼に滿たざれば、濤を觀るも、送紀秀才遊越海水不滿眼.觀濤難稱心.かながた心に稱ひ難し。卽知蓬萊石。却是巨〓簪。店しほうらいかへ こきとがう卽ち知る蓬萊の石、こしん却つて是れ巨鰲の簪。送爾遊華項令余發鳥吟。€たんじくわちやうあそた上せきぎんはつ爾の華頂に遊ぶを送れば、余をして鳥吟を發せしむ。仙人居射的道士住山陰:せんにんしやてきだうしさんいんす仙人、射的に居り、道士、山陰に住む。(tyちけつたに〓禹穴尋溪入。雲門隔嶺深。,うんもんみねんだふか禹穴、溪を尋ねて入り、雲門、嶺を隔てて深し。あひおも綠蘿秋月夜。相憶在鳴琴。めいきん綠蘿秋月の夜、相憶ふは鳴琴に在り。【字解】【一】蓬萊石、巨鯊警初學記に「玄中記に日く、東澤の大なるもの、巨薫あり、背を以て蓬萊山を負ふ、周圖千里」とある、巨鰲は巨龜。華項一統志に「華項山は、天台縣の東北六十里に在り、同圖百餘里、高さ萬丈、絕項より、東、滄海を望む、俗.望海尖と名づく、草木薰都、すべて人世に非ず、耳、積雪あり」とある。3鳥吟王榮登樓賦に荘鳥顯而越吟とあるに本づく、その詳、前に見ゆ。三射的隣文類聚に孔曄の會稽記を引いて「縣の東南十八里に射的山あり、遠望的的、射候の如きあり、故に之を射的といふ。射的の西に石室あり、方二丈ばかり、これを射室といふ」とある。욥道士住山陰卽ち王義之が道德經を寫して鶏に換へて來た其道士で、すでに前に見ゆ。禹穴方奥勝覽に「禹穴は、紹興府龍瑞宮の側に在り」といひ、縣耕錄に「會稽の陽明洞天は、秦望山後、萬廟の西南に在りと云ふ、卽ち古しへの禹穴、越の勝境なり」とある。或は委宛山が卽ち萬穴だといふ說もあるが、それは誤つて居る。5雲門水經註に「山陰縣南に玉筍·竹林·雲門·天柱の精舍あり、竝に山を疏し、基を創め、林を架し、字を戴し、湖を割き、流を延き、泉石の好を盛す」といひ、施宿の會稽志に「雲門山は、會稽縣南三十里に在り。舊經に云ふ、管の職然二年、中書令王子敬、ここに居る。五色の雲あつて見はる。留して、寺を建て、雲門と號す。山に謝敷宅、何公井、好泉亭、王子敬の山亭、永祿師の臨書關あり」と記してある。店しほうらいかへ こきとがう卽ち知る蓬萊の石、こしん却つて是れ巨鰲の簪。たんじくわちやうあそた上せきぎんはつ爾の華頂に遊ぶを送れば、余をして鳥吟を發せしむ。せんにんしやてきだうしさんいんす仙人、射的に居り、道士、山陰に住む。けつたに〓,うんもんみねんだふか禹穴、溪を尋ねて入り、雲門、嶺を隔てて深し。あひおもめいきん綠蘿秋月の夜、相憶ふは鳴琴に在り。送送紀秀才遊越
李太白集卷十六ししんし5ゑつあそ汽〓ccえつれきとうさいふしやう【題義】この詩は、進士紀某の越に遊ぶのを送つて作つたのである。紀の名字閱歷等は、一切不詳。:なみみうみる:まなこみ【詩意】海を觀るには、濤を觀るべしといふが、海は海でも、狹くては不可ないので、もし眼に滿たBせつかくなみたうていこころかなくわいさいaなほうらいざんぬ程であれば、折角濤を觀ても、到底心に稱うて快哉を叫ばしめるやうには成らぬ。蓬萊山といふも、ひろひつきやうおほがめ中央上一寸載かんざしやう畢竟するに、大龜の頭に、つて居る、いはば簪の樣なものに過ぎぬ。されば、觀るところが廣しんきようかいたくでりよかういうらんひつえうくなければ、心胸を開拓することが出來ないので、それにつけても、旅行游覽は、まことに必要なもおほさうせきゑつぎんたんたゑつらうがてんだいくわちやうざん山に遊ぶを送れば、あそよのである。ここに汝が越中に向ひ、天台の華頂予をして、覺えず、莊鳥の越吟をはつ&bしようきやうきはおほしやてきざんせんにんさんいんたがか發せしめる。越の地たるや、勝境極めて多く、射的山には仙人が住んで居るし、山陰は例の鶏を飼つことゐち,けつけいりうモたっうんもんじみぬへだ:達た道士の住んで居た地であるし、禹穴は溪流に沿うて尋ね入るべく、雲門寺は嶺を隔てて山の極めてふかとこちあこことしようちたっあひだぶりふくちしうやあたたいだん深い處に在る。君が此等の勝地を尋ねる間に於て、綠蘿に月の照る秋夜に遇はば、必ず琴を彈じて、い。だわれを憧ひ出すことであらう。ひじやうごなマがんこうだい別ひじやうひとげんさうもうはだびやう一【題義】嚴滄浪は、破題の四句を評し「起二句、眼孔大、非常の人、非常の語を爲す、二くTHEたんそのとほたけつかん句は便ち誕」といつたが、いかにも其通りて、蓬萊巨鰲は、竹に木を續いだやうな感がある。仙人のゑつちうしようがいれつきよよじやうつじゆくたふだは入四句は、越中の勝〓を列擧し、綠蘿の二句は、餘情盡きず、まさしく、熟套を打破し得たので、ここ:にきところらは、流石に李白といひたい處である。ちやうさちんたいしゆおく남長沙の陳太守を送る二首ちやうさちんたいしゆいつきせいしようしの長沙の陳太守、逸氣、靑松を凌ぐ。はえいしゆた本と是れ天池の龍。りよう英主、五馬を賜ひ、しやうすみきうきよくなかうざん:のを湘水九曲を廻らし、衡山、五峰を望む。まっあんえ冶あひしたがおエ君が節を按じて去るを榮とし、遠く相從ふに及ばず。送長沙陳太守二首長沙陳太守.逸氣凌靑松。英主賜五馬本是天池龍湘水廻九曲衡山望五峰。榮君按節去。不及遠相從。【字解】E天池龍庚信の春賦に馬是天池之龍種とある。C湘水廻九曲水經註に「衝山東南二西、湘川に臨映す、長沙より此に至る、江湖七百里中、九背あり、故に漁者歌うて曰く、帆隨湘轉、望衡九面」とあり、藝文類藥に引ける潮中記に「遙に衝山を望めば、陣雲の如し、湘に沿ふこと千里、九向九背、乃ち復た見えず」とある。C衡山望五峰通鑑地理通釋に「衝岳は、潭州衡山縣西三十里、衡州衡陽縣北七十里に在り。五峰あり、曰く、紫蓋、天柱、芙蓉、石糜.祝融」とある。E按節史記の索隱に「郭璞云ふ、言ふは響を頼するなり。司馬彪云ふ、轡を按じて行けば、節を得、故に節を接ずといふ」とある。卽ち馬の手綱を緩めること。ちやうさたうとんめいすなはたんしうかうなんせいだうれいぞくしちんぽうあらたちやうさた【題義】長沙は、唐の郡名、卽ち潭州で、江南西道に隷屬して居た。この詩は、陳某が新に長沙の太しゆ표ふにんれこんceえっれきとうれい굴んしやう守に補せられて赴任するのを送つて作つたのである。陳の名字閱歷等は、例の如く不詳。えちやうさたいしゆにんのいちんくんあつぼれじんぶついつきせいしようしの【詩意】今次、長沙太守に任命された陳君は、まことに天晴な人物で、その逸氣は、靑松を凌がむばおほいせくばなてんちりようしゆしようたにまほどたかりで、大に俗離れがして居る。それから、天池の龍種とも稱すべき名馬五頭を、天子より賜はり、送長沙陳太守七三、
*太白集卷十六かうしやうながれそれに騎して、任地に向ふことである。やがて、長江を渡つて、衡湘一帶の地へ往くと、湘水の流出エかうざんスは、うねつたり、くねつたりして、凡そ九曲と稱せられ、衡山の五峰は、目の前にはつきりと見えは〓はや近いたうちやくる。君が手綱を緩めて、しづしづと練り行かれるのは、まことに榮譽の極で、早く任地に到著して、ニ1今後政績を擧げられるのが善いので、いたづらに、別を惜んで、遠く相從ふやうな眞似は、斷じて爲さぬ。ぜんほんこ進たる달:【餘論】前半四句は一氣呵成。湘水、衡山の二句は、本地の風光を點醒して、人の眉目を〓うする。示結二句は、翻つて之を激勵する意味である。進たる本地の風光を點醒して、달:人の眉目を〓うする。七郡長沙國。南連湘水濱.さんちやうさ¥南ぬCafほとり七郡長沙の國、連る湘水の濱。定王垂舞袖.地窄不廻身。〓is :に定王、舞袖を垂れ、地窄くして身を廻らさず。:ご: ;ゑんぞく莫小二千石。當安遠俗人。二千石を小とする莫れ、當に安んずべし遠俗の人。Sin 24湖庭〓路遠。遙羨錦衣春。洞庭〓路遠く、遙に羨む錦衣の春。【字解】E七郡唐時の潭州長沙耶、衞州衡陽郡、永州零陸郡、連州連山郡、道州江華郡、彬州桂陽郡、邵州部陽郡、この七郡は、秦漢の時に於ける長沙の故地であつた。【三】定王垂舞袖前に見ゆ。C二千石漢時太守の秩、故に直に太守を指す。F洞庭長沙へ行く路に當つて居る。にえはんしょうかた選られんせつ【詩意】古しへ謂はゆる長沙國は、今の七郡を汎稱したもので、南の方、湘水の濱に連接して在つた。ていわうこんをなにぶんほ노:き漢の長沙の定王は、父景帝の御前で、變な手つきをして踊り、何分場所が狹くして、自由に身を動か君すことが出來ぬと、あてこすりを言ひ、その爲に大に封土を增されたといふことである。しかし、35へきゑんせうみん1)は君は、二千石の秩を以て小と爲さず、專心一意、政を勵んで、僻遠の小民を安撫するが善い。は、ええ2元と洞庭附近の產で、今次赴任するに就いては、〓路を通過せられることであらうが、錦衣きらびや:滋賀yおやらseかに、折からの春景色に輝いて見えるのは、まことに、羨ましいことである。ぜんほんぜんしゆ選造【餘論】この首も、前半は一氣呵成で、前首と大に類似して居る。それから、政を勵むべきこと、まつたいしやう故〓に錦を飾ることを述べ、すべて、前首とは全く異なれる意象を詠出した處は、まさしく、連作の體を得たものである。造を勵むべきこと、まさしく、連作のやうえん〓楊燕の東魯に之くを送るくわんせいかんじつも關西の楊伯起、漢日舊と賢と稱す。だせいふう四代三公族、〓風、人天に播く。くわいんぎよくれんな夫子、華陰に居り、門を開いて玉蓮に對す。送楊燕之東魯〓關西楊伯起.漢日舊稱賢。四代三公族。〓風播人天。〓夫子華陰居.開門對玉蓮。送送楊藩之東魯夫子、
李太白集卷十六何事歷衡霍.雲帆今始還. ~うんほん何事ぞ、衡霍を歷、雲帆、今はじめて還る。돈君坐稍解顏.爲我歌此篇。君坐して稍や顏を解き、我が爲に此篇を歌へ。caのぼ我固侯門士。謬登聖主筵.我、固より候門の士、謬つて登る聖主の筵。0층살きんくわでんちやうかう一辭金華殿。蹭蹬長江邊.一たび金華殿を辭し、踰蹬す長江の邊。えいし은二子魯門東.別來已經年。二子、魯門の東別來すでに年を經たり。류このうち淡いづみ둘因君此中去。不覺淚如泉。君が此中より去るに因つて、覺えず、淚泉の如きを。【字解】S關西楊伯起後漢書に「楊震、字は伯起、弘農華陰の人、少にして學を好み、經に明かに、傳覽、窮究せざるなし。諸信、これが語を爲して曰く、關西孔子楊伯起」とある。それから、震より、乘、賜を經て、彪に至るまで、四世相繼いで、太尉となつた。【三】華陰太平寰宇記に「華州華陰縣、太華山の陰に在るを以て、故に之を名づく」とある。3玉蓮華山の蓮花峰を指したのであらう。王時の解に「或は謂ふ、玉女蓮花の二峰を指して言ふと。或は謂ふ、華山記に云ふ、山頂に池あり、千葉の蓮花を生ず、これを服すれば羽化す、昌黎の詩に謂はゆる太華峰頭玉井蓮、開花十丈覇如船、玉蓮は玉井蓮を指すに似たり」とある。三街電二山の名。霍山は、太平寰宇記に「一名衡山、一名天柱山、僕の武帝、衡山遼遠、識諱皆霊山を以て南所となすを以て、故に其神を此に祭る、今土俗、皆南岳大山と呼ぶ」とある。3解顏笑ふこと。8金華嚴三輔黃圖に「未央宮に金華殿あり」と記してある。~うんほん何事ぞ、衡霍を歷、雲帆、今はじめて還る。君坐して稍や顏を解き、我が爲に此篇を歌へ。caのぼ我、固より候門の士、謬つて登る聖主の筵。살きんくわでんちやうかう一たび金華殿を辭し、踰蹬す長江の邊。えいし은二子、魯門の東別來すでに年を經たり。류このうち淡いづみ君が此中より去るに因つて、覺えず、淚달わか如何なる人か分らぬが、L ;)詩中に夫子華陰居とあるからには、はりかんはつえい矢張漢の楊震の末裔と【題義】楊燕は、しきんりようらやうえんニ見える。この詩は、李白が金陵あたりに居た頃、楊燕が南方を旅行して來りしに遇ひ、そして、その(東魯に之くを送つて作つたのである。くわんせいヒふんおとだいけんじん上たせいぜつ【詩意】關西の楊白起は、後漢の時分、音に聞こえた大賢人で、四代打續いて太尉となり、その〓絕まそのはつそん〓にくわいん2 5なる高風は、人天の間に搔き渡つた位、君は其末孫で、矢張、華陰の地に居り、門を開いて、蓮花峰わざわざ~の秀色を眺めつつあつた。然るに、何事に因つて、態態旅行を爲し、衡霍二山を經めぐり、今しも、うんほんなまurgミせつかくつく雲帆を飛ばせて還られるのか。君よ、暫く此に坐して、笑顏を見せ、折角作つて上げた此詩を我が爲こ;せいしゆ:に歌うて御覽ぜられよ。われは、固より侯門に出入するものであつたが、誤つて、聖主の知遇を得、むしき달きんくわでん一時は、大に得意であつた。然るに、一たび金華殿を辭し、都を去つて放浪してからは、この長江のBioい、づ.ふたり若いおむしご른邊に踰蹬として、今に愚圖愚圖して居る。二人の倅は、魯の城門の東に儒居し、一別以後、すでに年をおもむこ:늘おなみだいづみ꿀吉經た。そこで、今君が東魯に赴くに際し、倅どもの事を思ふと、涙が泉の如く湧き出づるを覺える程である。山글かか)はたそうべつ:【餘論】起首より爲我歌此篇に至るまでが、楊燕の事に係り、卽ち送別の正意である。爲我は一( = :に爲君に作つてあるが、その方が、意味が一層明白である。我固侯門士以下は、自己父子の事を述べじやうし달ニたので、因君此中去、不覺淚如泉の二句は、語眞にして情擊、たしかに人を動かす處があるし、かIの;くの如き構想は、これまで餘り其類を見なかつた樣である。送楊燕之東書やうえんニ楊燕が南方を旅行して來りしに遇ひ、そして、その
李太白集送蔡山人我本不棄世。世人自棄我。一乘無倪舟。八極縱遠施。こ燕客期躍馬。唐生安敢譏採珠勿驚龍。大道可暗歸。(一七)故山有松月。遲爾翫〓暉。さいさんじんを送る蔡山人thr、じんおのづかわれ我、本と世を棄てず、世人、自ら我を棄つ。ひとむげい言복あましゑんだほしいまき一たび無倪の舟に乘じ、八〓、遠権を縱にす。あへそしえんかくLわけて生、燕客、躍馬を期し、唐安んぞ敢て護らむ。たまなかたいだうあんた珠を採る、龍を驚かす勿れ、大道、暗に歸るべし。こ故山、しようげつなんぢ松月あり、遲つ爾が〓暉を翫ぶを。【字解】【一】無倪舟倪は極際、卽ち無限に進行する舟。【ニ】遠権施は船尾、柁に同じ、かぢ。g燕客慕澤を指す、史記に「蔡澤は蒸人なり、諸侯に游學し、小大甚だ衆くして過はず。唐學に從つて相せしめて日く、臣の若き者は何如と。唐擧熱視して、笑つて日く、先生、易鼻巨肩、魅顏蹙觸腺擊、吾聞く、聖人は相せず、と。殆んど先生かと。蔡澤、唐擧の之に戯るるを知り、乃ち日く、富貴は吾が自ら有するところ、吾が知らざるところのものは毒なり、順はくは、之を聞かむ。唐擧曰く、先生の毒、今より以往は四十三歲と。蔡澤笑つて謝して去り、その御者に謂つて曰く、吾、梁刺齒肥を持し、馬を躍らして疾區し、黃金の印を體にして、紫綬を腰に結び、人主の前に揖讓し、肉を食うて富貴四十三年足れり」とある。【日】採珠莊子に「千金の球は、必ず九重の淵にして麗龍の領下に在り」とあつて、すでに前に見ゆ。3週待つ。こさんじんむくわん:〓pm蔡は山人といへば、もとより無官の處士である。ただ送といつただけで、何處へ往くのか分:ただ送といつただけで、〓pm何處へ往くのか分【題義】らない。さんじんみづかt、じんしぜんしかた【詩意】山人自ら曰く、われ本と世を棄てざれども、世人が自然にわれを棄てるから仕方がない。わたうてい定むげんしんかうふねじようきよくおとへういうれは、到底、世と相容れぬものである、と。かくて、無限に進行する舟に乘じ、八極の表を飄游し、からたいくわさんじんし1てうぜつてす柁の儘に任かせて、つまり、大化の中に縱浪して居る。山人の志操は、かの如く、まことに、超絕的さいたく:まさっみえた155である。むかし、蔡澤は、馬を躍らす樣な、立派な身分に成りたいと心に期して居たが、唐擧は、そ) $こころざしま:つひの人相を見て、これを議らなかつたといふので、志あるものは、自然、その相にも顯はれ、且つ終じやうじゆちんしゆやしたとに成就するものである。しかし、珍珠は龍の頷の下に在るから、これを采らむとして、龍を驚かしてたいだうたあん,へうめん:かかかたさんじんは成らぬし、大道は、唯だ暗に歸〓するを得るので、表面から騒ぎ立てて懸つても仕方がない。山人んか굴むらんせいこうは、今、遠遊せむとし、その志ざすところは、如何なる事か知らぬが、注意さへすれば、無論成功すしようかんフけうえい:로安全:せいくわう3) :西る。しかし、故山なる松間の月は、皎瑩、舊の如く、汝が歸り來つて、〓光を弄するのを待つて居るせいこうぢんせい륜おだしミたCiseざんねんきから、たとひ成功した處で、久しく、塵世に留まらず、必ず此に歸つて來て、長閑に殘年を送るが善からう。〓へいぜいくわいはう굴けつ三いさんじん【餘論】この一首は、李白が平生の懷抱を述べたもので、殊に結二句は、その理想である。今、山人おくとさんじんじんぶつを送るに際して、覺えず、これを吐露したものと見えるので、これにつけても、山人の人物も、さこさうかうそと想像される。さんじん山人さこ送送蔡山人
李太白集卷十六送蕭三十一之魯中。兼問稚子伯禽: 5:蕭三十一の魯中に之くを送り、兼ねて稚子伯禽に問ふ11 5六月南風吹白沙。六月、南風、白沙を吹き、に; 3ゆ吳牛喘月氣成霞。吳牛、月に喘いで、氣、霞を成す。(三)すゐこくうつじよう水國鬱蒸不可處.水國鬱蒸、處るべからず、かうしや時炎路遠無行車。時炎に、路遠くして、行車なし。효わ.夫子如何涉江路。夫子如何ぞ、江路を涉る。うんぽんでうでう雲帆嫋嫋金陵去。雲帆媚婦、金陵に去る。( (六)かうだう高堂倚門望伯魚。高堂、門に倚つて伯魚を望む、魯中正是趨庭處。魯中正に是れ趨庭の處。&かたはら我家寄在沙丘傍。:我が家、寄せて在り沙丘の傍、むなだんちやう三年不歸空斷腸。三年歸らず、空しく斷腸。まづ君行既識伯禽子。君が行、すでに識る伯禽子、【字解】【一】南風吹白沙音書惠帝元康中京洛の童譲に「南風起、吹白沙、遙望ニ魯國 何嵯峨、千歲個讓生齒牙ことある。E吳牛喘月風俗通に「吳牛、月を見て喘ぐ。言ふは、これをして、日に於ける若くこれが故に、月を見て喘ならしむ。ぐ。蓋し、傷禽は虚弦に驚き、彼牛は月を望んで喘ぐ。物の憚怯、似たるを見て驚く、此の如きものあり」とある。つまり、吳牛は、輩、日光の暑いのに苦んで居るから、花、月を見ても、矢張、日ではないかと思つて喘ぐといふ意。3鬱蒸もやもやして蒸し暑きこと。〓無行車程曉の詩に、平生三伏時、道すでに識る伯禽子、〓應駕小車騎白羊。;應に小車に駕して白羊に騎すべし。路無行車とあるに本づく。3倚門戰國策に「王孫買の母曰く、家語に「伯魚の生まるるや、魯の昭公、鯉魚を以て孔子にc沙丘前に見ゆ。〓騎白羊世說註に「衞〓、師汝、朝に出でて晩に來れば、吾、門に倚つて望む」とある。8伯魚家語に「伯魚の生まるるや、魯の昭公、鯉魚を以て孔子に賜ふ。君の睨を榮とし、故に因つて鯉と名づけ、伯魚と字す」とある。c沙丘前に見ゆ。〓騎白羊世說註に「衞〓、師齔の時、白羊車に洛陽市上に乘ず、威な曰く、誰が家の壁人」とある。じめいじわかよ【題義]蕭三十一の三十一は例の排行で、その名字は分らぬ。稚子伯禽は、李白の子で、この時、ま:ら)회だ魯中に寄寓して居たのである。そこで、この詩は、蕭某の魯中に之くを送り、併せて、稚子伯禽に近況を問うたのである。I〓た【詩意】夏の季の六月、たださへ暑いのに、南風は白沙を吹き上げて、愈よ堪まらない。そこで、吳こ1/8ゆおよくandすや地の牛は、夜になつても、月に喘いで、その氣は霞を成すを疑ふばかり。このあたりは、水國で、涼ひ蒸し暑く、〓〓inしかるべき筈であるのに、もやもやととても留まつて居ることも出來ない位。かくの如くあつこと赤いは暑さも嚴しい上に、路が遠いから、さしもの驛路にも、旅行く車も見えない。然るに、君は、如何なわらる±かげでうでう2れば、江路を渉り、雲井に迷ふ帆影媚媚として、金陵から立ち去るのであるか。われは、日夕門に倚ま云カいつて、わが長子の居る方を望んで居るが、その趨庭の處は、君が今度行かれる魯中である。今でも、ごきんぼう.したが:我が家は、沙丘の近傍に寓居して居るが、われは、三年も歸省せず、從つて、その近況も分らぬから、ぶむなだんちやうま: 10にて,これを思へば、空しく斷腸するばかり。君は、魯中に行く序に、どうか、わが子の伯禽を見知つて下送送蕭三十一之魯中兼同稚子伯禽七三九よこの時、ま稚子伯禽に
李太白集卷十六:いにゑいかい글ぜうしやはくやうひしあるはまはさい。彼は、さながら、古しへの衞〓の如く、小車を白羊に牽かせて、市中を得意に乘り廻して居ることであらう。しよゐはなはだ드いかそうかうせいめんい,くじゃそはくきん【餘論】六月の二句は、暑威の甚しきを敍し、以下六句は送行の正面、我家以下の四句は、序に伯禽きんきやうはくきん줄焼しもう焼きてんりんあつを尋ねて近況を知らせて呉れろといふ意。伯禽の事は、屢ば詩中に見え、さすがに、李白の天倫に厚しじやうぷき至情を想はしめる。しあるはまは市中を得意に乘り廻して居るぜうしやはくやうひ小車を白羊に牽かせて、やうさんじんすうざんにれ楊山人の嵩山に歸るを送るぎよくぢょほうわれはんこたすうやう我に萬古の宅あり、嵩陽の玉女峰。出たん1とかとうけいまつあ長く一片の月を留め、挂けて東溪の松に在りはなしじょうなんぢぜんさうひろしやうぶ爾.去つて仙草を援へば、菖蒲、花紫茸。さいほんたしょおとせいてんはくりようき歳晩、或は相訪はば、靑天、白龍に騎せむ。やうさんじんすうざんにれ送楊山人歸嵩山楊山人の嵩山に歸るを送るぎよくぢょほう嵩陽玉女峰.われはんこたすうやう我有萬古宅。我に萬古の宅あり、嵩陽の玉女峰。出たん1とかとうけいまつあ長留一片月。挂在東溪松。長く一片の月を留め、挂けて東溪の松に在りはなしじょう爾去援仙草。菖蒲花紫茸。なんぢぜんさうひろしやうぶ爾.去つて仙草を援へば、菖蒲、花紫茸。CELさいほんたしょおとせいてんはくりようき歲晚或相訪。靑天騎白龍。歳晩、或は相訪はば、靑天、白龍に騎せむ。【字解】5玉女峰登封縣志に「太室二十四峰、玉女峰あり、峰北に石あり、女子の如し、上に大篆七字あり、人、能く議るなし」とある。【三】援拾ふ。3菖蒲神仙傳に「嵩山石上の菖蒲、一寸九節、これを服すれば長生す」とあり、抱朴子に「萬精は、須らく、石上一寸九節以上紫花の者を得べし、尤も善し」とある。謝靈運の詩、新蒲含ニ葉茸、李善の註、倉顏篇に曰く、茸は草覗と。燃らば、この章は、菖蒲の花を謂つたのであらう。歲晩一年の末といふのでなく、他年の3騎白龍廣博物志に「羅式は、後模の人なり、七歲、粒を絕ち、黃精紫芝を服し、蟻層山に入る。天竺眞人、授くるに眞訣を以てし、白龍に乗じて去る」とある。やうさんじんもちろんむくわんぎてめいじ:ぶごとふしやうすうざんほきみ【題義】楊は山人だから、勿論、無官の隱士、名字等は例の如く不詳。嵩山は、前にも屢ば見えて居げんわぐんけんしすうかうざんか空んこくせいけんせいほくとうほうけんぼくあまぐわいはうざんなるが、元和郡縣志に「嵩高山は、河南府告成縣西北二十三里、登封縣北八里に在り、亦た外方山と名むしたいしつにぜうしつすうかうそうめいさばちうがく〇たかしうくわいづく。東を太室といひ、西を少室といふ、嵩高の總名、卽ち中岳なり。山の高さ二十里、周囘一百三しやうきんじんすうざんかに望、十里」とある。この詩は、楊山人の嵩山に歸るを送つて作つたのである。いうきうぢうきよに노すうざんたんじんぎょくぢよほうべん【詩意】わが悠久の住居となすべき場所は、嵩山の陽なる玉女峰であつて、そこには、長しへに一片〓とうけい:00广告かかゐrむろうそのちいせんさうひろさだいちらかいの月を留め、東溪の松の梢に挂つて居る。今、汝は其地に往つて、仙草を拾ふといふが、定めて紫法にさんさつしやうぶさだ〓らうしようせんの花、ふさふさしたる一寸九節の菖蒲を探がし出すであらう。かくて、これを服すれば、容易に昇仙たれんた子さだはくりよう法はせいてんかうゐするので、他年、ひよつとして尋ねたならば、定めて白龍に跨つて、靑天の上を飛行して居ることであらう。げんさうらうじたつじん간なと:のう달15わた寸法【餘論】嚴滄浪は「萬古宅の三字、達人の語と作して會すれば方に妙、一たび仙氣に涉れば、便ち癡·(さうらうきといつた。又五六は一に君行到此峰。餐霞駐衰容に作つてあるが滄浪は「この二句を見て、方にか廿五せんぽんに)はたがヽわかぜんしゆむらほんく本句の妙しの佳なるを知る、便ち仙凡を隔て、卽ち雅俗を分つ」といつて居る。それから、全首を評しうしんそうてんちB+Cどうぜん3)しあ달달いて、劉辰翁は「天地の間に超然たれば、以て死せざるべし、豈に獨り人の道ふを經ざらむや」といひ、送送楊山人歸當山七四一後模の人なり、七歲、粒を絕ち、黃精紫芝を服し、蟻層山に入る。天竺眞人、授くるに眞訣を以てし、白龍に乗じ
李太白集卷十六げんりうぎよひおこたんげんはん乾隆御批には「逸氣を短言に蟠し、ところにどくぜつひつちた處は、例の獨絕の筆致であらう。りうちうしぜん膳お一氣流注、自然に仙氣を帶びいよいきはんおぼ彌よ奇健を覺ゆ」といひ、:兎に角、いんしゆくた背。殷淑を送る三かいすゐとおつBr 1/3しほ海水解くべからず、江に連つて、夜、潮となる。がぜんほしよひろこしゆせんはるか俄然として浦嶼閻く、岸を去つて酒船遙なり。Proをし緣とたちうなかちやうえう別を惜んで辭を取るに耐へたり、榔を鳴らして、且つ長謠。てんめいなんちままさべんおうひるがへ天明、爾.當に去るべし、應に便風の飄るあるべし。いんしゆくた背。送殷淑三首殷淑を送る三かいすゐとおつBr 1/3しほ海水不可解。連江夜爲潮。海水解くべからず、江に連つて、夜、潮となる。(一)がぜんほしよひろこしゆせんはるか俄然浦嶼關。岸去酒船遙。俄然として浦嶼閻く、岸を去つて酒船遙なり。ここProをし緣とたちうなかちやうえう惜別耐取醉.鳴椰且長謠、別を惜んで辭を取るに耐へたり、榔を鳴らして、且つ長謠。てんめいなんちままさべんおうひるがへ天明爾當去。應有便風飄。天明、爾.當に去るべし、應に便風の飄るあるべし。【字解】5浦嶼韻會に「浦は水濱」、「嶼は海中の洲」とあり、劉淵林吳都賦の註に「嶼は澤中の洲、上に石山あるなり」とある。E電車潘岳西征賦に鳴梛属等とあつて、李善の註に「說文に云ふ、榔は高木なり、長木を以て、船を叩いて聲を爲す、魚を驚かして網に入らしむる所以なり」とある。一覽「擲は船板なり、船行けば響く、これを鳴榔といふ、駱實王の詩、鳴椰下貴洲沈佺期の詩、鳴極曉帳前、是れなり」とある。そこで、王琦は之を解し「太白の此篇の若きは、客を送る、漁を觀るに非ず、舟を停め酒を飲む、帆を挂けて長行するに非ず、謂はゆる鳴擲は、當に是れ船を擊つて、以て歌聲の節を爲すべし、猶ほ魅を叩いて歌ふの義」といつた。がんしんけいげんせいせんせいくわうりようきくんひしんけいせんせいもんじんちうりんしいんしゆくゐこゐきよぼう【題義】顏眞卿の元靜先生廣陵李君碑に「眞卿、先生の門人、中林子殷淑、遺名子章渠牟と、かつてしんけい「眞卿、せんせいもんじん先生の門人、ちうりんしいんしゆく中林子殷淑、ゐこゐきよぼう遺名子章渠牟と、【題義】かつてさいしんいうしよごえ$店長いいんしゆくしいき22采眞の游〓を接し、含一の德を聞く」とあつて、卽ちここに謂ふ殷淑であらう。この詩は、李白の般しゆくゑんかう천ととわかいんしゆく달にじえつれきとう淑の違行を送つたのであるが、何處から何處へ往つたのか、分らぬし、般淑その人の名字閱歷等も、な:さいふしやう例の如く一切不詳である。かいすゐへんくわわかかうすゐつらなゐところ÷しほ【詩意】海水の變化は、まことに分らぬものであるが、江水に連つて居る處では、夜、潮となつて、しほたいえいRFみまていしうgはいうぜん差し込んで來る。かくて、潮が盈盈として漲れば、見る間に汀洲も關くなり、酒を載せた游船も、岸〓50ところうかやうなprn는2ぶんはふないたCH3ちやうえうを隔てて遙かの處に浮ぶ樣に成る。ここに別を惜む上は、十分に醉を取るべく、船板を敲きつつ長謠とっゐよまた:して、時の移るに任かせて居る。かくて、夜が明ければ、君は此處より立ち去るべく、その折しも、おつてじゆんぶうムまむちとこへいそん追手の順風が吹いて、君の旅路も、極めて平穩であらう。ぜんばんかうじやうやしうこうはんすなはそおそうべつ:せつえんぎ上【餘論】前半は江上夜舟の景況、後半は卽ち其處に於ける送別の正意で、結二句、緣起の善いことをヨツ,ヒしょくぼう言つて、この行の無事ならむことを囑望したのである。せつ結二句、えんぎ上緣起の善いことを白鷺洲前月.天明送客囘。靑龍山後日。早出海雲來流水無情去。征帆逐吹開.送送殷淑はくろしうぜんってんめいおくかい式白鷺洲前の月、天明、客の囘るを送る。せいりようさんごはやかいうんいた靑龍山後の日、早く海雲を出でて來る。りうすんむじやうせいはん:お낱流水、無情に去り、征帆、吹を逐うて開く。
李太白集卷十六ね··わかbo sすすしゆもうさかづき相看不忍別更進手中杯.相看て、別るるに忍びず、更に進む手中の杯。【字解】【一】白鷺洲六朝事跡に「圖經に云ふ、城の西南八里に在り、周廻十五里、江寧の新林浦に在り」と記してある。【三】青龍山景定建康志に「靑龍山は、城の東南三十五里に在り、周題二十里、高さ九十丈、又深陽縣界別に靑龍山あり」と記してある。【詩意】白鷺洲前の殘月は、ussしうぜんさんげつ夜明け頃、よじ君の發程するを送り、まはつていと靑龍山後の日は、せいりようさんごあさはや朝早く、海雲を出でかいうんて、あかあかと晴を照らして來る。に流水の滔滔たるは、りうするたうたうむじやう無情なるが如く、iせいはん征帆一片、べんかべ風を逐うて開き、おひらぜんていさみやうてうくわうけい굴Beさすがに別るるにわかはるかに前程を指して飛んで行く。明朝の光景は、かくの如く、ここに相遇うて、よ달しゆちうさかづきすすLだい忍びず、因つて、もう一つといつて、手中の杯を進める次第である。isしうし【餘論】やんねん前半は殘月と暁日とを點出して、ざんげつげうじつてんしゆつ別時の光景を想像し、らじくわうげいざうざう流水征帆の二句は、その折の愁思をもうしやうてきへうしゆつ上つしうそく抽象的に表出し、仍つて、相看の二句を以て收束したのである。sすすしゆもうさかづき更に進む手中の杯。ね··相看て、わかbo別るるに忍びず、isしうしその折の愁思をつういんりようきようもとうあをつきまさむ痛飮す龍〓の下、燈靑くして月復た寒し。すゐかはくろれてもごろまたした醉歌、白鷺を驚かし、半夜、沙灘より起つ。殷淑は、仙術を學んだ人だから、これを持つて居たのであらう。つういんとうくわ燈火は漸く靑くなつて、Fisあをげつくわう月光も亦た寒げに見品つういんに痛飮龍〓下。燈靑月復寒。痛飮す龍すゐかはくろ醉歌驚白鷺。半夜起沙灘。醉歌、【字解】【一】龍節仙人の持つて居る杖で、龍が彫刻してある。【詩意】r座傍に衝き立ててある龍節の下に痛飮すれば、ほうったりようきよう;つういん【詩意】上ごだ;はくろむしろやはんころさたんたえる。やがて、醉うて歌ひ出せば、その聲、白鷺を驚かし、夜半の頃、沙灘より飛び起つた。えんつういんくわうけいたままじよじめいえいこうはん【餘論】これは、離筵痛飮の光景で、唯だ見た儘を敍したのである。燈靑の五字は明瑩、後半二句もしぜんおもむき自然に趣がある。しんちようくんめいかうざんかへ渋岑徵君の鳴皐山に歸るを送るしんこうが15あんそしやうもん岑公は相門の子、雅望、安石に歸す。えきせいみなきりようちうだいつひたこ奕世、皆藝龍、中台竟に三坼。しじん10たつたかにきうしうはく至人、機兆に達し、高く揖す九州の伯。いかんたらあひだいんりんかく奈何か天地の間にして、しかも隱淪の客となる。돌しん·ちん:よひというきんニ道を貴んで能く眞を全うし、輝を潜めて、幽鄰に臥す。げんまえづもくい品합ぎんこと元を探つて、智默に入り、化を觀て、無垠に遊ぶ。くわうぶチームいつげんりようこじん光武、天下を有し、嚴陵は故人たり。ちくやうでん福いへどさういうa s洛陽の殿に登ると雖も、巢由の身を屈せず。めいしゆしやえんけんしんわく余も亦た明主に謝し、今、偃蹇の臣と稱す。送岑徵君歸鳴皐山岑公相門子。雅望歸安石。三@ 5奕世皆變龍。中台竟三坼。(六)至人達機兆。高揖九州伯。も奈何天地間。而作隱淪客。〓貴道能全眞。潜輝臥幽都。(九) 70探元入省默。觀化遊無垠。嚴陵爲故人,光武有天下。雖登洛陽殿。不屈巢由身。余亦謝明主。今稱偃蹇臣.送送岑徵君歸鳴皐山
李太白 集卷十六たかのにばんこみくわうせい름お登高覽萬古。思與廣成鄰。高きに登つて、萬古を覽、廣成と鄰らむを思ふ。むししやう,かへしんらみ1蹈海寧受賞。還山非問津。海を贈むも擧ろ賞を受けむや、山に還るは沖を問ふに非ず。に一せいらい달たうご修げんき西來一搖扇。共拂元規塵。西來、一たび扇を搖かし、共に拂はむ元規の塵。【字解】E相門子王時の解に「按ずるに、半參感奮賦の序に云ふ、國家六葉、吾が門三相。江陵公は中書令となつて太宗を輔け、郵國公は文昌右相となつて高宗を輔け、汝南公は侍申となつて睿宗を軸け、寵光を相承し、輪粥を厳出す。武后の朝に臨むに及び、郵國公、これに由つて罪を得たり。先天中、汝南公又罪を得、朱輪翠載、夢中の如しと。按ずるに、唐書に岑文本は郵州棘陽のく、祖善方は後梁の吏部尙書、父之象は隋の部戰令、貞觀中、文本、中書令に壓官し、江陵縣子に封ぜらる。從子長倩、永淳中、兵部侍郞同中書門下平章事に累官し、垂拱中、文昌右相に拜し、郵國公に封ぜられしが、來俊臣に誣陷せられ、市に斬らる。文本の孫義、累官して同中書門下三品に至り、景雲の間、侍中に進み、南陽郡公に封ぜらる。義の兄獻、國子司業となり、弟仲期は陝州刺史、仲休は商州刺史、兄弟子姓、清要に在るもの數十人。義嘆じて曰く、物極まれば反す、以て懼るべし、と。然れども抑退する能はず、太平公主の謀に與るに坐して、その家を誅藉せらる」とある。S雅望歸安石營書に「謝安、字は安石、幼より公輔の望あり」とある。CO奕世累世、代代。三憂龍堯の時の名臣。3中台竟三坼骨書天文志に「永康元年三月、中台屋拆す、占して曰く、台星常を失へば、三公憂ふと。趙王倫、尋いで買后を廢殺し、司空張華を斬る」とある。8九州伯營書に「祖玄曰く、父は九州の伯たり、兒は五湖の長たり」とある、父は即ち桓溫。C隊淪桓譚の新論に「天下の神人五、一に曰く神仙、ニに曰く隱論」とある。〓全眞莊子に「子の道、狂狂汲汲、詐巧虚爲の事なり、以て眞を全うすべきに非ざるなりいとある。盲獸莊子に「至道の精は窈窈冥冥、至道の極は昏昏默默」とある。col遊無垠淮南子に〓、需露の野に游び、T、垠の門に出づ」とあつて、高誘の註に「無垠は形狀なきの貌」とある。【二】厳陵、廣成、蹈海皆前に見ゆ。【一二】偃寒臣宏の後換紀に「伏して、太原の周富を見る、使者三聘、乃ち肯て車に就く、陸下親しくこれを庭に見る。伏して謂せず、優蜜自ら高うし、逡巡退くを求む」とある。優塞は驕傲。CII元規塵營書に「庾亮、外膜に居ると雖も、しかも、朝廷の權を執り、すでに上游に據り、强兵を擔し、趣向するもの、多く之に歸す。王導、内平かなる能はず、常に西風塵起るに過へば、扇を擧げて自ら蔽ひ、徐に曰く、元規の塵、人を汚す」とある。しんちょうくんしんさん초みめいかうかなんふりくこんけんあ:しやう。【題義】岑徵君は岑參で、すでに前に見えて居た。鳴皐は、河南府陸渾縣に在る山で、その詳は、矢にせつめい최ししんさんめいかうざんかっれため(張、說明して置いた。この詩は、岑參が鳴皐山に歸るに就いて、これを送る爲に作つたのであるしんさんしやつもんこうえいたうねんしやあんせき글こうほきりやうしうほう【詩意】岑參は、元と相門の後裔であつて、當年の謝安石の如く、公輔の器量あるものとして、衆望そのはやだいだいみなきりようiめいしんだちうだいこさこれに歸して居る。しかし、それも其筈、代代皆變龍の如き名臣のみを出したが、中台の星が坼けて、コにこうのでまこえかくべつりつしんなおよし도武后が朝に臨むに際して罪を得て、それからは、格別立身するものが無かつたのである。凡そ至人とじらおちそいうみやぶヘまさいしきうしう稱せらるるものは、すべての事物に就いて、其機兆を見破るものであり、その上、君の才識は、九州にかういたかてんちおやさあいんりんぼよ,の伯をも高揖するに足る位であるが、如何なれば、君は天地の間に在つて、隱淪の客として、世に打みちたふとおのみなそのしん·3·5くわうさいひとつて出ぬのであるか。かくて道を貴び、これを己が身に體して、能く其眞を全うし、光彩を潜めて、いうへきちかきやうちかうぐわわたるさえうめいこり、あひだいう:へんくわみしんしんな1: ;幽僻に近い境地に高臥し、玄理を探つて、窃冥昏默の間に入り、宇宙の變化を見て、心神を無窮の域あっぜんでんよかくりたライしうやうむねくわうぶてい15/35たこんに遊ばせ、全然、この世と隔離して、道家の修養を旨として居る。むかし、光武帝が天下を有つて天しなげんしりようともだちところ:らくやうくわうきよい子と爲つた時、嚴子陵は、その友達である處から、わざわざ招かれて、洛陽の皇居まで往くことは往いせんせつちさうほきよいうiいんじゃかうせつSんつたが、依然、その節を持して、巢父·許由の如き隱者の高節を屈することなく、因つて、千古に傳せ送送岑徵君歸鳴皐山。矢
李太白集卷十六ゐそのとはいかごといつらこ円たんられて居る。君も亦た其通りで、如何に天子から招致されても、むざむざと之に應ずることは斷じていふきうせいめいかうざんき:まをそれがしじないていないので、そして、今は其舊棲たる鳴皐山に歸臥するとのことである。かく申す某も、一時は内廷にせいめいしゆほたとmえんけんけうがうしんしたりたかく高供奉したこともあつたが、尋いで、聖明の主に拜辭して、今は假蹇驕傲の臣と稱せられ居るので、のぼううえいこふかんしんせんみちまたくわうせいしたちなエリきに登つて、宇宙の永劫に亙れるを感じ、仍つて、神仙の道を學んで、かの廣成子と鄰を爲さうと思うみしえいよ,たちんかへぶつて居る。かくて、海を蹈んで死するとも、區區の榮譽を受けず、舊山に還らうと思へば、その路はわかかくべつしんおよたこつ도かたちやうあんい:さいくわい分つて居て、格別津を問ふにも及ばない。もし、他日、西の方、長安に往つて、君と再會することが달あふぎ:おんなboひうきよをあいはらおじあつたならば、一たび、扇を搖かし、かの元規の塵にも比すべき、浮世の汚穢を拂ひ除けたいと思つて居る。きtieしんちょうくんせいけいのちょうくんいみぶんく貴道能全眞の四【餘論】起首四句は岑徽君の世系を述べ、至人達機兆の四句は徵君の今の身分、そのしうやうちようくんかうせつ·みためいかうざんに、あ句は其修養、光武有天下の四句は徵君が高節を持して居ることで、今次、鳴阜山に歸ることも、其たかゐいかじ:へいせつ3·一示群じが中に含まれて居る。余亦謝明主」以下は、自己を併說し、西來一搖」属の二句を以て之を結び、爾我二てうぜんかうたふ(たきほうにん長しへに世表に立つて居たいといふ希望を述べたのである。人超然高踏、はんさんじんたいぎんは、おく范山人の太山に歸るを送るかくはくかくいだよに魯客、白鶴を抱き、余に別れて、送范山人歸太山魯客抱白鶴。別余往太山。たいざん太山に往く。初行若片雲。杳在靑崖間。へんうんりせいがいあひだあはじめ行けば、片雲の若く、査として、靑崖の間に在り。高高至天門。日觀近可攀.かうかうてんもんににつくわんちかよ高高、天門に至れば、日觀近くして攀づべし。うんざんのぞおよいづれなへ雲山望不及.此去何時還。1雲山、望めども及ばず、ここを去つて、何の時か還らむ。【字解】E白鶴一に白離に作る。抱朴子に「芝草を求めむと欲して名山に入るには、靈寶符を帶び、白犬を牽き、白難を抱き、白鹽一斗及び開山符を以て、大石の上に著く」とあり、續博物志に「陶隱居云ふ、道を學ぶの士、山に居る、宜しく白雞白犬を養ふべし」とある。して見ると、白難の方が善い樣に思はれる。3初行若片雲後漢書祭祀志に馬第伯の封禪儀記に「この朝、秦山に上り、中觀に至る、平地を去ること二十里、南向極望、観ざるなし。仰いで天關を望む、谷底より仰いで抗峰を視るが如し。その高しと爲すや、浮雲を視るが如し。その峻たるや、石壁育寝、道徑なきが如し。遙に其人を望む、端として朽兀を行くが如く、或は白石の如く、或は雪の如し。これに久しうして、白きもの移つて樹を過ぐ、乃ち是れ人たるを知るなり」とある。天門、日觀初學記に「太山記に曰く、盤道風曲して上る、凡そ五十餘盤、小天門、大王門を經、仰いで天門を視れば、穴中より天窓を視るが如し。下より、古しへの封禪の處に至る、凡そ四十里。山頂の西巖を仙人石闇となし、東巖を介邸となし、東南嚴を日觀と名づく。日觀とは、難一鳴する時、日を見る、はじめ出でむと欲す、長さ三丈ばかり」とある。はんさんじんたたえつれきとうさいわかたいざんすなはたいざんさんとうせいなんふたいあんしうきたあ【題義】范は山人で、名字閱歷等は一切分らぬ。太山は卽ち奉山、山東濟南府秦安州の北五里に在る。しにんさんじんたいざんかへ貞Rこの詩は、范山人の太山に歸るのを送つて作つたのである。もひとはんぼうこんじめいざんいし:とはっよはくけいいだよいか【詩 意】魯人范某は、今次、名山に入つて、芝草を采らむと欲し、因つて、白雞を抱き、予に別れてだいたいざんそのやまのぼとみ第一に泰山に行くとのことである。おもふに、はじめて其山に登り行くとき、遠くから見たならば、送送范山人歸太山へんうんりせいがいあひだあはじめ行けば、片雲の若く、査として、靑崖の間に在り。かうかうてんもんににつくわんちかよ高高、天門に至れば、日觀近くして攀づべし。うんざんのぞおよいづれなへ1雲山、望めども及ばず、ここを去つて、何の時か還らむ。
李太白集卷十六ぺんえづぜんあをあをだんがいほったあらよはんけんろ달·その人は、定めて雲一片者然として靑靑したる斷崖の間に在る樣であらう。かくて、五十餘盤の險路きはせうてんもんだいてんもんでみもつとっがふよなにつくわんほうし:とこるを窮め、小天門から大天門まで行くと、日の出を見るに最も都合の善い名ただる日觀峰も、咫尺の處あこう22とざん福꿀こちらに在つて、容易に攀ぢ登ることが出來るであらう。君が登山の快は、かくの如くであるが、此方からはくうんがんちう灣のぞおよ날ミまたはっかへいへば、白雲眼中に生じて、望めども及ばず、そして、一たび、此を去りし後は、又何時還つて來るおぼつかか、まことに覺束ないことである。たいざんのくわうけいざうざうけるぜんじん;ひよう【餘論】初行若片雲の四句は、泰山に登つて行く光景を想像したのであるが、專ら前人の紀行に憑:けつかくうてぢすなはそうべつこ日據したので、決して、架空的ではない。結二句は、卽ち送別の正意で、此去何時還といふのは、決しぜつほうてきはやしよくほうて絕望的ではなく、その歸期の早からむことを隔望して云つたのである。李太白集卷十七かんじぎよくわうとくおく送韓侍御之廣德韓侍御の廣德に之くを送る【字解】S縮衣前に見えたたせきじつたなんえいたが、漢書に「侍御史に纖衣直指あり、昔日繡衣何足榮。昔日、纏衣、何ぞ榮とするに足らむ。出でて奸猾を討め、大獸を治む」と今宵貰こんぜうさけto :ゆたし酒與君傾。今宵、酒を貰うて、君と傾く。あつて、顏師古の註に「衣するに縮hitとうざんげつしよくおよび衣を以てするは、これを尊寵するな暫就東山除月色。暫く東山に就いて月色を除り、(三)かんかせんめいごり」とある。C貰漢書高帝紀酣歌一夜送泉明。酣歌一夜、泉明を送る。に「つねに、王媼武負に從つて酒を實ふ」とあつて、頗師古の註に「賈は除なり」とある、除はおぎのると訓し、あとから代金を拂ふといつて、其物を買ふこと。C泉明陶淵明、かつて彭澤の令たりしを以て、これを用ひて、韓侍御に擬したのである。野客叢書に「海錄碎事に謂ふ、漏明、一学は泉明、李白の詩、多く之を用ふと。知らず、淵明を稱して泉明と爲すものは、蓋し唐の高祖の諱を避くるのみ。猶ほ、楊淵の楊泉と稱するが如し、一字泉明なるに非ざるなり。齊東野語、高祖、諱は淵、淵の字、盡く改めて泉となす。楊升菴日く、今人、泉明を改めて泉聲と爲す、笑ふべし」とある。かんじぎよにえつれき韓侍御、名字閱歷、送送韓侍御之廣惠ふしやうともに不詳、くわつとく廣德は、たうじよちし唐書地理志にかうなんせいだうせんじやうぐんくわうとくけん「江南西道宣城郡に廣德縣あり、本【題義】
李太白集卷十七するあんけんしこなくわうとくあらたぼくほん를cしたれいじおほと綏安縣、至德二載、名を廣德と更む」とある。それから、繆本には德の字の下に一の令の字が多くマにくわうとくなしわんじすよひと:なつて居る、すると、これは、矢張、廣德の令であらう。この詩は、韓侍御といふ人が外を乞うて、おくくわうとくげんれい上さんを送つて作つたのである。廣德縣令となり、その地に赴任するのま:じぎよしまさたちよくしけんしよくをきうだんたいげんにず【詩意】君は、曩に侍御史として、部下縮衣直指の顯職に居り、糾彈の大權を握つて居て、すばらおよいきほひわれわれみかくべつえいよ今えしい勢であつたが、吾吾の目から見れば、格別榮譽とするにも及ばぬことであつて、それよりも、にちけんれい二にんはうほどよろもようい는かたむ;日縣令となつて赴任される方が、餘程宜しく、ここに、酒を用意して、君と共に傾ける。かつて、東たうえんめいえ用明の色を贈り蓄へ、いう350むたらんすゐかうか古しへの陶淵明に比すべき君を送ら山に就いて、夜もすがら、爛醉浩歌して、いちうと思ふのである。せつかくべつ··こうはん↓よじやう1 350【餘論】この七絕は、格別の物ではないが、後半は、流石に餘情がある。除月色とへば、月の光をもらたおょながおんかこのかうおく貰ひ溜めて置き、つまり、夜を永くし、そして、離歌して此行を送らうと思ふといふ意である。はくうんのうたいうじんおく白雲歌、送友人白雲歌友人を送るそざんしんざんはくうんおほ楚山秦山多白雲。楚山泰山、白雲多し、ほくうんしよしよシい··〓白雲處處長隨君。白雲、處處、長く君に隨ふ。君mにtざん'君今還入楚山裏。今、遠つて入る楚山の裏、tふしたがしやうすゐわた雲亦隨君渡湘水.雲、亦た君に隨つて湘水を渡る。すゐじやうちよちいはくうん水上女蘿衣白雲.水上の女蘿、衣は白雲、:ぐわはやきみはやた早臥早行君早起.早く臥し、早く行き、君早く起て。そうしえせつしまだあん【餘論】蕭士賛の說に「この詩は、すでに前(第六卷)に見ゆ、inはつおとしょほんいまかいてい此は尾語やや拙、恐らくは、是れ初本未だ改定を經ざるもの、よかいしやくりやく仍つて、此では解釋を略すことにした。〓;おなただ首尾數語のみ同じからず、しかも、±元そん今、兩つながら之を存す」とあつて、つうぜんじなんりよういんじやうじかへおく送通禪師還南陵隱靜寺通禪師の南陵の隱靜寺に還るを送るわれきいんじやうじさんすゐしようおほ我聞隱靜寺.山水多奇蹤。我聞く隱靜寺、山水、奇蹤多しと。(一) Mらうこうたちばなうxふかはいとき)巖種朗公橘。門深杯渡松。巖には朗公の橘を種ゑ、門は深し杯渡の松。だうじんまうこだ눌ふるこほかへ道人制猛虎。振錫還孤峰。道人、猛虎を制し、錫を振つて、孤峰に還る。たじつなんりようあひきこくこうあ他日南陵下。相期谷口逢。他日、南陵の下、相期して谷口に逢はむ。送白雷歌送友人·送通禪師還南陵隱靜寺
李太白集卷十七【字解】E則公楢、杯渡松ともに題義の項に見ゆ。道人禪氏要覽に「智度論に云ふ、道を得るもの、名づけて道人と爲す。餘の出家、未だ道を得ざるものも、亦た道人と名づく」とある。C制猛虎法苑珠林に「晉の沙門子法蘭は、高陽の人なり。かつて、夜、坐禪す。成。その室に入り、因つて、牀前に講す。曹、手を以て其頭を摩す、虎。耳を奮つて伏し、數日乃ち去る」とある。三振錫沈約の法王寺碑に「鍋を撮つて輕行、祇林宴坐」とある。錫は、釋家執るところの錫杖、一名德杖、一七智杖、金環あつて之を繞り、錫鍋の聲を作し、行く時は、以て歩趨を節するものである。つうぜんじかひわかいんじやうじだかたいへい訟太平府志に〓隱【題義】通禪師は、如何なる人か分らぬ。しかし、隱靜寺は、なかなか名高い寺で、かうだうほた:へきせう鳴〓響しほうじやうじにんしやうけんとうなんりいんじやうざん一名五峰靜寺は、繁昌縣の東南二十里隱靜山に在り、寺。山に碧霄、桂月、紫氣、行道の五峯tb時くわいさんぐわんきようがりんぼくいうきじんたんせついんら、あひつたC焼きあり、寺は五峰の會に當り、崎岏拱合、林木幽奇、古淵委折、般雷地に轟く。相傳ふ、寺は杯渡禪師ししくくていきかうしんきにしょしんいげんじぐわいったの建つるところ、飛錫、定基、江神木を送り、諸神異を現ず。寺外に十里の松徑あり、傳へて云ふ、だとしゆしよくむらいは人ださうしようたからご注意딸すなはし禪師の手植と。或は曰く、寺を距つること二里ばかり、雙松對峙、勢虬龍の若きものあり、卽ち師しゅたくまたしんちえふしようじせいいいたそん〓の手澤、と。又かつて新羅の五葉松を取つて、寺西に種る、今に至つて、尙ほ存す、と。舊誌又言ふ、寺はいとたづさ:みなしんそう4またもくべいえんしやうとうEに朗公橋、杯渡〓ふるところの頻伽鳥一雙あり、皆音宋の遺跡、又木米鹽醬等の池あり、言ふ、寺をはじ〓しよぶつみなぜんりん〓むる時、諸物皆これより出づと云ふ。奮額に云ふ、江東第二禪林」とある。それから、繁昌縣は、なんたうわかんくらたうじなんりよう南唐の時南陵を析つて分置したので、唐時に在つては、なほ南陵に屬して居た。そこで、この詩は、なんりようけんつうぜんじ通禪師が南陵縣の隱靜寺に即るを送つて作つたのである。いんじやうじた〓だいがらんめづ둘ガ;【詩意】わが開くところに據れば、隱靜寺は、名だたる大伽藍だけに、珍らしい勝蹟が殊に多く、朗めづ둘ガ珍らしい勝蹟が殊に多く、;朗えぶ;公橋は巖間に種ゑられ、そして、門を深く立ちこめて、杯渡松といふのが繁茂して居る。禪師は、道ひとほふりきとえしやくにやうたニほういただきを得た人であるから、その法力は、猛虎を伏するに足るべく、そして、錫杖を振り立てて、孤峰の頂かへたなんりょうけんおいじゃあ:いたたる庵へ歸つて行かれる。他日われ若し南陵縣に出かけたならば、谷口に於て、相達ム樣に致ぜんほんいんじやうじしようがいヒで:【餘論】前半四句は、隱靜寺の勝〓を敍して、一氣呵成に出來て居る。五六は、禪師の高德を寫し、た드さいほう禮まじやう七八は、他日の再逢を期したので、極めて、餘情がある。いうじんざ友人を送るせいざんはくすゐとうじやつめぐ靑山、北郭に橫はり、白水、東城を遠る。ひ造るこの地、一たび別を爲せば、孤蓬、萬里に征く。うんおこらくじつじん浮雲、游子の意、落日、故人の情。:はんぱいな手を揮つて、玆より去る、蕭蕭として、いうじんざ送友人友人を送る靑山橫北郭。白水遠東城。)せいざんはくすゐとうじやつめぐ靑山、北郭に橫はり、白水、東城を遠る。ひ造る此地一爲別.孤蓬萬里征。この地、一たび別を爲せば、孤蓬、萬里に征く。うん浮雲游子意.落日故人情。おこらくじつじん浮雲、游子の意、落日、故人の情。(揮手自玆去。蕭蕭班馬鳴。:はんぱいな手を揮つて、玆より去る、蕭蕭として、班馬鳴く。【字解】E北郭郭は人民の聚居するところで、先づ市と見れば善い、北郭は郭北に同じ。3白水地名だともいふが、青山白水といふ熱字もあるから、ただ川と見て善からう。3東城城東に同じ。〓孤蓬處定めず飄泊することは、孤蓮の風に隨つて興轉するが如き故に云ふ。曹植の詩に、轉蓬離ニ本根一風視園長風、類此客游子、捐軀従ニ戎戎といひ、鮑照の蒸城賦孤墓自振、驚沙坐飛とあるに本づく。C蕭蕭班馬鳴詩經の蕭蕭馬鳴に本づく、蕭蕭は開暇の貌、班馬の班は別。送送友人はんぱいな班馬鳴く。
李太白集卷十七いうじん〓だため〓古屋そうべつし【題義】これは、友人の遠きに往くを送る爲に作つたので、卽ち送別の詩である。せいてんくわくほくはくすゐじやうとうめぐぶ딸べつなこ【詩意】靑山は郭北に橫はり、白水は城東を繞る。この地に於て、一たび別を爲せば、さながら、孤ほうミひるがへごと洗るとせいいうムzさだら蓬の空にるが如く、やがて、萬里の遠きに征遊するのである。浮雲は、もとより定まるなく、遊らくじつしづじんれんれんじやういかしのしかま:かこ글:故人戀戀の情、子の意、亦た此の如く、落日は將に沈まむとし、如何に忍ぶべきか。然るに、君は意브리たせうせう:ただま江正そのうまを決して、これより立ち去らうといふので、蕭蕭として馬が嘶くが、君は乃ち其馬に乘つて行くのである。しゆそうべつたいれんなりやうくわか【餘論】起首二句は送別の地、ここに對聯を爲したから、三四兩句は、別れむとすることを述べ、わそうこれなつゐそうしやじやうざと流走して之を成し、對せずして、しかも、なほ對して居る。五六は、主として、送者の情、七八はわかおもむきKitchたんたうせいゑんたたひやう+直に別るるの景、しかも、語盡きて意なほ盡きざる趣がある。國際大臣「五六、澹蕩凄遠、多多の評わうよくうんぜんかいそうべつ도こうかい를ごくじやういしんかくし:沈確士に勝れり」といひ、王翼雲は「前解は送別の地を敍し、後解は友を送るの情を言ふ」といひ、焼じんいムじんしたいはくなこのむねそうげん& : = : Eげつしゆく古人は「蘇李の贈言、唏噓の語多くして、蹶蹙の聲なし。の意、不盡に在るを知る、太白猶ほ斯旨をi失はず」といひ、乾隆御批にけんりうぎよひ「首聯は整齊、しゆれんせいせい承は流走して下り、녹りうそうくだげいれん頸聯は勁健、けいけんげつ結、せうさん蕭散のおもむき致あり、たいしやうんrefおのづかなこうけいあた大匠、斤を運せば、自ら規矩を成す」といひ、ともに肯綮に中つて居る。:送べつ別送別いくろ0斗酒渭城の邊、墟頭酔うて眠らず。ふじゆやうえふほんでう梨花千樹の雪、楊葉萬條の煙。preたLたちにおかのぞ#べんかく別を惜んで、壺爾を傾け、分るるに臨んで、馬鞭を贈る。みえいじやうしんげついた:ます看る君が頴上に去るを、新月到らば應に圓なるべし。いくろ0斗酒渭城邊。塩頭醉不眠。斗酒渭城の邊、墟頭酔うて眠らず。ふじゆやうえふほんでう梨花千樹雪。楊葉萬條煙。梨花千樹の雪、楊葉萬條の煙。惜別傾壺爾。臨preたLたちにおかのぞ#べんかく分贈馬鞭。別を惜んで、壺爾を傾け、分るるに臨んで、馬鞭を贈る。(國)みえいじやうしんげついた:ます看君頴上去。新月到應圓。看る君が頴上に去るを、新月到らば應に圓なるべし。【字解】E渭城水經註に「長安は故の威陽なり。漢の高帝、名を新城と更む。武帝の元鼎三年、別に渭城を爲る、長安の西北、渭水の陽に在り」とある。史記正義に「括地志に云ふ、感陽の故城、また渭城と名づく、雍州の北五里に在り、今の成陽縣東十五里』とあり、太平寰宇記に「故の潤城は、今の縣の東北二十二里、渭水の北に在り、即ち秦の杜郵、その城、周八里、秦は孝公より始皇に至るまで、皆ここに都す。武帝の元鼎三年、名を消城と更む。後漢には者く、地を併せて長安に入る、故に此城存す」とある。E墟頭史記集解に「章略曰く、墟は酒肆なり、土を以て隨と爲し、邊高くして鱸に似たり」とあり、漢書の註に、「如淳曰く酒家、肆を開いて客を待ち、酒鱸を設く、故に鱸を以て肆に名づく。臣瓚曰く、盧は酒瓮なり。師古曰く、二說、皆非なり。虛は賣酒の區なり、その一邊高く、形、鍛家の爐の如きを以て、故に名を取るのみ、卽ち火爐及び酒党を謂ふに非ざるなり」とある。C壹斷初學記「酌は首酒なり」玉篇「酌は美酒なり」正字通「俗、醜と呼んで尾酒となし、酥を頭酒となす」とある。三上縣名、河南遺顯用汝陰郡に在る、太平寰宇記に「穎上縣は、地、顯水の上游に枕むを以て名と爲す」とある。そうべつわかれさいいうじん竄ぜんしゆミテ【題義】送別とは、別に際して友人を送つたので、前首と同義である。あじゆうuseていごれ:おほおよろう【詩意】渭城の邊なる旗亭に於て、別の酒を酌み、やがて、一斗の多きに及び、墟頭に醉つたが、し15た元口は:5 :ここほこうかし、離愁に堪へかねて、遂に眠らない。時しも春の最中、梨の花は、千樹に綻びて、さながら、雪送送別し雪
李太白集卷十七Rifはだえだでうでうなび: &わかれと見まがふばかり、柳は葉を抽き出し、萬條の枝の裊裊と靡く樣は、煙に似て居る。そこで、別を惜定わかるはおくいんで、壺中の美酒を傾け、さて愈よ手を分つといふ時には、饒として、馬鞭を贈つた。今しも、細い:がんじやうすうじつ新月がほのめいて見えるが、これから、君が頴川の岸上に往き著く頃には、すでに、十數日を經過し、:00志かくなんぎしたがこの月も、きつと圓くなるであらう。旅は、兎に角難儀なもので、從つて、手間が取れ易いから、精精氣を付けて行くが善い。わ法正숲【餘論】滄浪詩話に「太白の詩、斗酒渭城邊、墟〓醉不眠は、乃ち〓參の詩、誤つて編入す」とある、〓ぶんゑんえいくわしんさんきだい사王琦は之を承けて「按ずるに、文苑英華、亦た此詩を以て岑參の作となし、題を送楊子」といひ、岑はやせ亦た之を載す」集といつて居る。して見れば、最早、疑を挟む餘地も無いので、無論、岑參の詩で一八月、どうじだい3줄あやまある。しかし、同時代の人で、その風調も、時に相近いものがあるから、かくの如く誤られまたげんすうらうぜんれん55こんじんるのであらう。それから、又嚴滄浪は前聯を評して「今人これを爲さば、卽ち村學究の課聯と成らむ」:といつたが、これは尤も至極と思はれる。江上送女道士諸三〓遊南嶽せいなんがく江上にて女道士褚三〓の南藏に遊ぶを送る頭戴蓮花巾:ごあつちよだうしおつ、吳江の女道士、頭に蓮花巾を戴く。頭戴蓮花巾:吳江女道士。€だいあめ〓霓衣不濕雨。特異陽臺神。霓衣、雨に濕はず、特に陽臺の神に異なり。急1ふんいう눔足下遠遊履.凌波生素塵。足下遠遊の履、波を凌いで、素塵を生ず。嶽。〓見魏夫人。にんち:ま+じん尋仙向南仙を尋ねて南嶽に向ふ、應に見ゆべし魏夫人。【字解】【一】蓮花巾太平御覽に引ける登眞隱訣に「太元上丹靈玉女は、黨華芙蓉巾を戴く」とある。E陽臺神巫山の神女が且に朝雪となり、暮に行雨となり、朝朝幕暮、陽臺の下といへること、すでに前に見ゆ。3遠遊履洛神賦に踐遠滿之文展、曳ニ露結之輕番、凌波波徵步、羅模生塵とあつて、呂向の註に「遠避は履の名、水波の上に步す、塵を生ずるが如きなり」とある。三魏夫人南岳魏夫人傳に「醜夫人は、晉の司徒劇陽文廉公舒の女、名は華存、字は賢安、幼にして道を好み、靜默恭謹、志、神仙を慕ひ、眞を味ひ、玄に耽り、冲擧を求めむと欲し、氣液を吐納し、攝生夷靜、世に住すること八十三年、管の成帝咸和九年、歲甲午に在るを以て、太乙元仙、動車を遺して來り迎ふ。夫人、乃ち劍に話し、形を化して去る。位、紫虚元君領上眞司命南岳夫人たり、秩を仙公に比し、天台大霍山を治めしめ、洞臺中、下訓を主り、道を來じて〓授す」とある。それから、當に仙となるべきもの、男を眞人、女を元君といふとのことである。ちょだうしせい달わかご:0ミ【題義】女道士褚三〓は、如何なる人か分らぬ。唐代に於ては、老子を以て其祖となし、厚く之を尊15かだうけうほ=だうくわんちょだうしやゐふんおほなんがく且つ道〓を保護した爲に、道觀が非常に殖え、ぶそして、女道士も隨分多かつた。南嶽は卽ち衡崇し、ぎんかうざんけんほしいこ山、今の湖廣衛州府衝山縣の西北三十里に在つて、衡陽縣及び長沙府の界に接して居る。この詩は、ちよだうし:せいかうざんあそ實揚子江上に於て、女道士の褚三〓といふものが、衡山に遊ぶのを送つて作つたのである。いただいしやうちよだうしさ꿀Co能しへ【詩意】吳江の女道士褚三〓は、頭に蓮花巾を戴き、虹の如き衣裳は、雨に遇つても濡れず、送江上送女道士補三〓遊南嶽だいあめ〓霓衣、雨に濕はず、特に陽臺の神に異なり。1ふんいう눔足下遠遊の履、波を凌いで、素塵を生ず。にんち:ま+じん仙を尋ねて南嶽に向ふ、應に見ゆべし魏夫人。能しへ
李太白集卷十七やうだいsだ一ざんしんでよ34Hことおも行きL足下には遠遊の文履を踐み、ゑんいういくら陽臺の雲を起した巫山の神女とは、甚だ異なつた趣がある。それから、たみ波を凌いで歩すれば、しめほ素塵を生ずるが如く見える。そぢんしやう꿀何は兎もあれ、なにと道を得た人であるから、みらぇ달じんじやう尋常の女ちよばんちかうさんむかかちいたはぜんぜんちがこんじたたら性とは、全然違つて居る。今次、仙を尋ねて、南はるかに衡山に向ふさうであるが、彼の地に至らかなら5上じんむにそのみちっだんしんきやうaば、必ず魏夫人に遇ひ、愈よ其道に就いて、一段の進境を見ることであらう。ぜんほんちよだうしふうほうこうはんゑんいう11けつまつなんがくてんしゆつだ【餘論】前半四句は、女道士の風貌、後半四句は、遠遊に及び、結末には、南嶽を點出して、題意をまった全うしたのである。だ題意をいうじんしよくいおく送友人入蜀友人の蜀に入るを送る見說蠶叢路。崎嶇不易行。さんそういつやす見るならく蠶叢の路、崎嶇として行き易からず。·じんめんだ:はらそしやう山從人面起。雲傍馬頭生.山は人面より起り、雲は馬頭に傍うて生ず。芳樹籠秦棧:春流遠蜀城。Cはうじゆしんさんしゆんりうしよくじやうめぐ芳樹、秦棧を籠め、春流、蜀城を遠る。さだにはじたくんべいと升沈應已定。不必問君平; 6しようちんまさすで升沈、應に已に定まるべし、必ずしも、君平に問はず。【字解】【一】見說見聞するといふことで、ここでは略ぼ聞說と同じで、必ずしも李白が業に經過したといふことではない。E蠶叢古しへの蜀の君主の名、前に見ゆ。3凸四甚だしきこと。三芳樹春樹。CI掩翳する。〓くんべいと君平に問はず。秦棧蜀の棧道は、秦の時、はじめて開いたから、秦棧といふので、三才圖會に詳記して「蜀に入るものは、寶雞より始むべし。寶雞は、古しへの陳倉縣なり。縣の南門を出づれば、渭水を渡り、十五里にして、益州鎭に至り、又十里にして、山を登れば棧道に入る。水の絕ゆる處には、棧を崖壁の間に挿み、山に編し、木を架し、下は白水江に臨み、又鳳嶺に上る、上下五十里、陳倉に抵る、路喰順、わづかに單人を容る、西行二百里、四十五里ばかりにして、その嶺に至り、復た下ること十里にして寺あり、樹石蒼翠鎗落、棧中第一の絕勝なり」とある。C蜀城卽ち成都。〓升沈浮沈に同じ。〓君平漢の嚴通、字は君平、屢ば前に見ゆ。しいわやくいうじんさせんしよくちおく【題義】詩意を考ふるに、これは、友人が左遷されて、蜀地に往くのを送つて作つたのである。! nことしよくちおもし달·しよくつうみち【詩意】君は今左遷せられて、遠く蜀地に赴くさうで、人の語るを聞けば、かの蜀に通ずる路は、崎うていマ, 2.〓かうざんとつこつたちかうじんめんぜん嶇高低、なかなか行き易くないといふことである。仰ぎ見れば、高山突兀として、直に行人の面前にそaはくうんもうもう:中へんしやうくらゐ:たか聳え、俯して瞰れば、白雲濛濛として、乘つて居る馬の頭の邊から生する位。山は、あくまで高く、た云%だうちうずゐぶんなんぎミおあひだまたみこうけい谷は、あくまで深く、君の道中も、隨分難儀な事と思はれる。しかし、その間には、又觀るべき風景ょうじゆうつさうしたいらいさんだうえんえいしゃんりうせんゑんにれて;)もあるので、芳樹鬱蒼として、秦時以來の棧道に掩翳し、春流潺湲として、成都を繞つて流れるから、みづか少しは、なぐさただしんじやうしょうちんえいじとくたに前ミこれを見たならば、自ら慰むるに足るであらう。但し、一身上の升沈榮辱に至りては、こん;こいうめいえきしやげんくんべいかた以て、天の數が、ちやんと定まつて居るから、かの有名なる易者の最君平に問ふにも及ばない。されissいたおほしよくちうふうけいあてだいば、君も、さばかり心を痛めずに、氣を大きくして、蜀中の風景でも見て、樂むのが第一であらう。じxくわんコゐしやいそうべつせいぶんな【錄論】見說の二字は、前六句を一貫し、結二句では、慰藉の意を述べ、それで、送別の正文を爲しぜんれんしひとしんじやう:かはこうれんちようせんこうれいうりやうあひたいて居る。と六前聯は、至險至深の狀を極めた代りに、後聯は、穣織工麗、それで兩兩相對して、愈よ面送送友人入蜀
李太白集卷十七かうけい白い、なほ前聯に就いて、王翼雲は「山從の二句、是れ上の崎嶇不易行の五字を承く、好景として45げんさうらうがんれんいしやうひよくはん老上ちこうれん會する勿れ」といひ、嚴滄浪は「頷聯、意象偏反乃ち高奇を見る」といひ、後聯に就いて、王翼雲はなはだこうかいこ놓:は「前解、甚しく蜀道の崎嶇を言ふ、後解、友の蜀に入るを言ひ、亦た崎嶇すでに過ぐるより說く」けつまつわうよくうんしようちんげつしようちんどうがふといひ、結末七八兩句に就いて、王翼雲は「七八、升沈を借問して、結と爲す。升沈は、人の遇合にわらる글'くんべいげんじゆんげん5うせいとだ漢の嚴遵の字、高低あり、行路に上下あるが如きなり。君平は、嚴トを以て成都の市に隱る、高士いまいうじんけんこしようちんさだなり、今友人險を渉つて以て成都に至れば、崎嶇すでに經歷して過ぐ、すでに、升沈定まるあるを知にだんてま00ぜんしゆけんりうぎよひっせいらば、必ずしも更に君平に決せず」といつた。なほ全首の總評として、乾隆御批には「これ五律の正でふけいくわつだいまof大しがん:宗なり。李夢陽曰く、疊景は意必ず二、關大は半ば必ず細、極めて詩家の微指を得たり。この詩、領れんじちょうせんしこくだうまだふうけい聯は次句に承接し、語意奇險、五六は穩纎、領聯は蜀道の難を極言し、五六、又風景の樂むべく、以けつほんあんしようちおほて征夫を慰むるを見る、これ兩意なり、結翻案、更に勝致饒し」といつてある。送趙雲卿白玉一杯酒。綠楊三月時。春風餘幾日。兩鬢各成絲。趙雲卿を送るはくぎよくばい55ま:白玉一杯の酒、綠楊三月の時。しゅんよう:春風幾日を餘す、兩鬢各絲を成す。: :い燭を乗つて、唯だ須らく飮むべく、竿を投する、また未だ〓たもし潤川の獵に逢ば、猶ほ帝王の師たるべし。遅からず。けだへんしやかさ蓋し編者重ねて入:秉燭唯須飮。投竿也未遲.た如逢渭川獵。猶可帝王師。もし潤川の獵に逢ば、〓〓くわんない【餘論】王琦の說に「この篇、十一卷内贈錢徵君少陽の詩と一字の差異なし、いは子れて、未だ刪らず」とあるから、一切省略することにする。ごかく李靑の華陽川に歸るを送る4/4꿀伯陽は仙家の子、容色、靑春の如し。じつげつれいとうひこちら밖に日月、靈洞に祕し、雲霞、世人に辭す。:せいはくTE心を化して、精魄を養ひ、凡に隱つて、た:千年の別を作す莫れ、歸り來つて城郭ごかく送李靑歸華陽川李靑の華陽川に歸るを送る4/4伯陽仙家子。꿀容色如靑春。伯陽は仙家の子、容色、靑春の如し。じつげつれいとうひこちら日月祕靈洞。雲霞辭世人。밖に日月、靈洞に祕し、雲霞、世人に辭す。化心養精魄。隠几省天眞。三:せいはくTE心を化して、精魄を養ひ、凡に隱つて、天眞實たり。@莫作千年別〓歸來城郭新。た:千年の別を作す莫れ、歸り來つて城郭新なり。【字解】E伯陽伯陽は卽ち老子。列仙傳に「老子、姓は李、名は耳、字は伯陽、陳の人なり、殷の時に生ま周の柱下史となり、轉じて守藏史となり、八十餘年を積む」とあり、史記に「二百餘年、時に隱君子と稱す」とある。3精魄江淹の詩に隱治駐精魄」とある。3隱儿莊子に「南郭子〓、几に隱つて坐す」とあつて、陸總明の音義に「隱は憑るなり」とある。城郭新丁令感の歌に、去家千年今始歸、城郭如故人民非とある。送送趙雲卿,送车青歸華陽川天眞實たり。新なり。
李太白集卷十七らしちんだうげうほうしんぜん55【題義】李靑は如何なる人か分らぬが、詩意を考ふると、いづれ道〓を奉じて、神仙の術を學んで居달さわやうせんくううんようしようりやくくわやうすゐる人と見える。胡三省の通鑑註に「華陽川は、號州華陽山南に在り」といひ、雍勝略に「華陽水は、かんもうふはうじやうけんせいぎうとうざん当せうほん漢中府褒城縣西二十五里に在り、源は牛頭山に出で、南流して漢水と合す」とある。蕭本に、南葉陽せんあいくわやうせんだぎ(川とあるは、斷じて誤である。この詩は、李靑といふものが、華陽川に歸るを送つて作つたのである。こPに15ようほうがんしよくわかわかせいしゅん3【詩意】老子に比すべき君は、矢張、仙家の子であつて、その容貌顏色は、若若しくして、靑春の壯ねんおじつげつれいどう:シ*じんじしぜん年と同じである。日月は、靈洞の中に祕して、終歲かがやきわたり、雲霞は、世人に辭して、自然にべつしゆ:やうひとわかへいぜいしうやうけつくわほんしん:せいはく別趣があるが、これは、君の樣な人でなくては分らぬ。君は、平生修養の結果、凡心を化して精魄をてんしんねんねじやうくわく養ひ、凡に憑つて沈思しつつ、天眞を蘊んで居る。むかし、丁令威は、千年の後、歸つて來て、城郭やっときうじつこたんたたんはや新にして、舊日に似ざるを嘆じたが、かくては、一別の後、再び逢はぬことに成るから、もつと早くきつとさいくわい歸つて來て、屹度再會を爲したいものである。はくやうどうせいCAひ. cひつきふぜんれんぐわいかいけいきやうこうれんないしん【餘論】伯陽は、同姓の故を以て比擬したので、例の筆法である。前聯は、外界の景況、後聯は内心しうやうけつまつおいていれいるこきたしゆはくやうあひたいしぜんかうけつこうなの修養、結末に於ては、丁令威を倩ひ來り、起首の伯陽と相對して、自然の好結構を成して居る。しやていw舍弟を送るにはくがく吾が家の白額の駒、送舍弟吾家白額駒。遠別臨東道ゑんべつ遠別、とうだうのや東道に臨む。たじつさうし달:ま他日相思一たび君を夢む。:うしゆんさう應に池塘、春草を生ずるを得べし。たじつさうし달:ま他日相思一夢君.他日相思一たび君を夢む。:うしゆんさう應得池塘生春草.應に池塘、春草を生ずるを得べし。【字解】E吾家白額刷魏志に「曹休、間行して、北に歸り、太祖に見ゆ。六輯、左右に謂つて曰く、これ吾が家の千里の胸なり」とある。王琦の解に「吾が家の白額駒は、卽ち吾が家の千里の駒の意、面して、改めて李氏の事を用ふるのみ」とある。管書に「武昭王、諱は暠、字は玄盛、姓は李氏、漢の前將軍廣の十六世の孫なり。かつて、太史令郭黁及び其同母弟宗蘇と同宿す。雲、起つて蘇に謂つて曰く、君、當に、位、人臣を極むべし、李君、國土の分あり、家に關草馬あり、白額駒を生ず、これ其時なり、と。呂光の末、京兆の段業、自ら涼州の牧と稱し、傲煌の太守孟敏を以て沙州刺史となし、玄盛を效穀令に署す。敏、等いで卒す。護軍郭謙等、玄盛、過穀にして惠政あるを以て、推して燉煌太守となす。支盛、初め之を難んず。宗蘇、玄盛に言つて曰く、君、郭響の言を忘れたるか、白額駒、今生す、と。支慶、乃ち之に從ふ」とある。E池塘生春草謝雲運、夢に從弟惠連を見て、この五字を得た、すでに前に見ゆ。しやていまたじうていp.ゑんいうご〓【題義】舍弟とはあるが、卽ち從弟であらう。その名は分らぬ。これは、從弟某の遠遊を送つて作つたのである。かなんまにはくがくくこうねんす位りつしん【詩意】汝は、吾が家の白額駒と稱すべく、後年には、素晴らしく立身するに相違ない。そして、今、ゑんべつとうだうのなんぢおおたじつさうし날なんぢゆめ遠別せむとするに際し、東道に臨んで汝の行を送るのである。他日相思の極、一たび、汝を夢に見たしやれいうんけいれんこどうじじ〓計きつとなんならば、かの謝靈運が惠連を夢みて、同時に、池塘生春草」の五字を得たと同じく、われも、屹度汝おかぎれたの御蔭で、名句を得るに相違ない。送含舍弟またじうてい卽ち從弟であらう。p.その名は分らぬ。ゑんいうご〓從弟某の遠遊を送つて作つこれは、
李太白集卷十七にじじiどうせいじんかうしよ【餘論】白額虎は、李暠の故事で、例の如く、同姓人の典を用ひたのは、その巧處である。それから、ぞくていにじえ位れいくわつ池塘生春草は、族弟に關する故事で、これも用ひ得て極めて靈活である。要するに、この詩の妙は、theすんてつひとi±おこの兩故事を巧に融合して運旋した處に在るので、寸鐵人を殺すが如きは、正に一奇格を推すべきものである。ヒ送別、書の字を得たりthreしうかう:水巴、南天遠く、舟行、虛に在るが若し。せんじんかんきよ遷人、佳興を發し、吾子、聞居を訪ふ。- :류日落ちて歸鳥を看、潭澄んで躍魚を羨む。L L聖朝、賈誼を思ふ、應に降すべし紫泥の書。ヒ送別得書字送別、書の字を得たりthreしうかう:水色南天遠。舟行若在虛.水巴、南天遠く、舟行、せんじん遷人發佳興。吾子訪問居。遷人、佳興を發し、吾子、- :日落看歸鳥。潭澄羨躍魚.日落ちて歸鳥を看、こ聖朝思賈誼。應降業泥書。聖朝、賈誼を思ふ、【字解】【一】聖朝思賣誼漢書に「賣誼、長沙王の太傅となる。後歲餘、帝、泥は、重書を封ずるに用ふるので、これは詔書をいふ。その詳、前に見ゆ。달えんかうまわかあん【題義】この詩は、人の遠行を送る時、何かの句を分つて韻をした處が、ぶ(仍つて、之を作つたといふのである。帝、誼を思うて之を徵す」とある。3紫泥書紫,李白は書の字を取りあて、造は〓in a :【詩意】遠く南天を望めば、水色渺渺として、舟の行くは、さながら太虛に在るが如く見える。君はせんかくおぼ不幸にして、この景色に對して、き遷客となつたが、覺えず佳興を催し、そして、特に吾が聞居を訪は〓: b BASHれたのは、まことに嬉しい。やがて、日落つれば、塒を指して歸り行く鳥が見え、淵が澄んでは、そ2 145ち2おのおのたくtel ;こに勢よく躍る魚が羨ましい。この鳥や魚などは、各託するところがあつて、その栖に安んじてよニばおよかうたん居るので、君は之を見ると、おのが一身、却つて之に及ばぬといつて、浩嘆するであらう。しかし、こと늘;いだごくだ聴明の天子は、日ならずして、賈誼の如き逸才ある君の事を思ひ出され、紫泥の詔書を下して、屹度に、召し還されるであらうから、くよくよせずと、しばらく耐らへて、その時の來るのを待つて居るが書い。じつけいかうめうおな:【餘論】起二句は實景で、描寫極めて巧妙である。前聯、遷人吾子は、同じ人を指して、稍やくどいにやうであるが、一氣呵成に出來て居て、別に一格を爲して居る。後聯は、魚鳥の其處を得たるに因つせんじんニか:て、遷人の身の上に反襯し、そして、賈誼を倩ひ來つて收束し、亦た極めて切實である。れ、麴十少府を送るうごくわいに〓秋の興を發し、因つて、呉會の吟を爲す。かうしん海色を斂め、流水、江心を折く。送麴十少府三試發〓秋興。因爲吳會吟。碧雲斂海色。流水折江心。送送別得書字·遂麴十少府試碧雲、
李太白集卷十七奪われえんりよういんりくか1我有延陵劍。君無陸賈金。我に延陵の劍あり、君に陸賣の金なし。かんなんF·Fなちうちやうなんふか艱難此爲別。惆悵一何深.艱難、ここに別を爲す、惆悵、一に何ぞ深き。【字解】3吳會會は會稽、前に數ば見ゆ。S長期間延陵の季子、將に、西、管に聘せむとし、寶劍を帶びて、徐君を過ぎしこと、前に見ゆ。3陸賣金漢書に「陸買、五男あり、越に使せしところの棄中の裝を出し、千金に賣つて其子に分ち、子ごとに二百金、生產を爲さしむ」とある。にたえつれきわかしほうけんゐきくばう出〓【題義】麹十の名字関歷は分らぬ。この詩は、某縣の尉たる麴某を送つて作つたのである。せいしうにハしきようおのづンほつじよよごくわいらし〓まこのかうご【詩意】時しも〓秋の頃、詩興自ら勃如たるに因り、吳會に因める詩を作つて、君の此行を送らう:へきうんひろかいしふく:りうすゐしうちやうよボかうしんよサコと思ふ。折から、碧雲のび廣がりて、海色を斂め、流水は、秋漲の餘勢、すさまじく、江心から曲折ほんちうあひだたずせいさうおもひなしんちうきみちして奔注する。この間を旅すると、さすがに、悽憎の想を爲すであらう。われには、心中君に贈るをほんそういしよくしみんぱいちくかえにん君なそくち許せし延陵の劍あれども、えんりようは、猶ほ奔走に衣食して、子息等に分配する陸買の金とてはない。されリトルないうきよいておのづかので詳もうちやうねんいよいホたば、ここに別を爲すに際して、浮世の艱苦、自ら除き難く、惆悵の念愈よ深きに堪へぬ。じしやけいめいせいうらうがんれんうんするげんじょ듈:むにれんすつ【餘論】碧雲流水の十字は、寫景明観であつて、嚴滄浪は頷聯、雲水卷舒の狀を寫し、必ず斂折のじちはうづつたヒ: +たまさしちうおのづかしゃうほふげんた二字を須ゐて、方に合す。他字は、待つ能はざるなり。當に知るべし、句中自ら正法眼あり、只だとしんこの6cmなのみならけいれんじたさんしやいでPro具足を求むるを。新を好み、怪を作す、皆野狐なり」とある。頸聯は、自他を分寫し、以下、この別はなはくゆゑんどくしやちうちゃうおのづかきんむねだいたいおいきょくせつの太だ苦なる所以を述べたので、讀者も亦た惆 悵自ら禁ぜざるの思がする。大體に於て、紆餘曲折、われえんりよういん我に延陵の劍あり、かんなんF·Fな艱難、ここに別を爲す、りくか1君に陸賣の金なし。ちうちやうなんふか惆悵、一に何ぞ深き。延陵の季子、將に、西、管に聘せむとし、寶劍を帶びて、徐君を越に使せしところの棄中の裝を出し、千金に賣つて其子に分ち、言盡きて意盡きざるの趣がある。おもむきちやうしうさいえつおく送張秀才謁高中丞井序かうちうじようsee또張秀才の高中丞に謁するを送る、〓に序余時繫尋陽獄中。正讀留侯傅。秀才張孟熊。蘊滅胡之策。將之廣陵謁高中丞。余喜子房之風。感激干斯人。因作是詩以送之.とじんやうくちうつなりうこうでんしうさいちやうようゆうめつさつつ:【訓讀】余、時に尋陽の獄中に繋がれ、正に留候傳を讀む。秀才張孟熊、胡を滅するの策を蘊み、將くわうりようかうちうじょうえつよしぼう;よろここのひとかんげきこのし、に廣陵に之いて、高中丞に謁せむとす。余、子房の風を喜び、斯人に感激し、因つて、是詩を作り、9)おく以て之を送る。秦帝淪玉鏡。留侯降氣氣。しんていぎよくきやうしづりうこうふんうん〓秦帝、玉鏡を淪め、留侯、気〓を降す。感激黃石老。くわうぜきらうかんげきさうかいくんげいくわ經過滄海君。黃石老を感激し、滄海君を經過す。さうしきんつゐあだはう壯士揮金槌。報讐六國聞。ミ壯士、金槌を揮ひ、讐を報じて六國に聞こゆ。簿ちゆうしうこくわんせうちん智勇冠終古。蕭陳難與羣。bそんがた智勇、終古に冠たり、蕭陳、與に羣し難し。送りやうりょうさうとうひらく兩龍爭鬭時。天地動風雲。ふううん2兩龍爭鬭の時、天地、風雲を動かす。送送張秀才謁高中丞井序しんていぎよくきやうしづりうこうふんうん〓秦帝、玉鏡を淪め、留侯、気〓を降す。くわうぜきらうかんげきさうかいくんげいくわ黃石老を感激し、滄海君を經過す。さうしきんつゐあだはうミ壯士、金槌を揮ひ、讐を報じて六國に聞こゆ。ちゆうしうこくわんせうちんbそんがた智勇、終古に冠たり、蕭陳、與に羣し難し。りやうりょうさうとうひらくふううん2兩龍爭鬭の時、天地、風雲を動かす。
李太白 集卷十七もミけたげなはちやうけん:さうそつかんふんと酒酣舞長劍。倉卒解漢紛。酒酣にして、長劍を舞はしめ、倉卒、漢紛を解く:ほじたうけんこうこういかせい: p.宇宙初倒懸。鴻溝勢將分.宇宙、初めて倒懸、鴻溝、勢將に分れむとす。えいぼう틀きぜつふうしせいふんあ英謀信奇絕。夫子揚〓芬。英謀、信に奇絕、夫子、〓芬を揚ぐ。九にBeしびいくわうてんもんみだ胡月入茶微。三光亂天文。胡月、紫微に入り、三光、天文を亂る。かうこうわいかいこんだんせうえうふんしりぞ高公鎭淮海。談笑却妖氣。高公、淮海に鎭し、談笑、妖気を却く。たいとぼくちう發と之かんしゆくんおおい採爾幕中畫.〓難光殊動。爾が幕中の畫を採り、ぶ雖を戡して、殊動を光かす。*えんさうかんぎよくせきともせうふん我無燕霜感。玉石倶燒焚。我に燕霜の感なく、玉石倶に燒焚。づつ立大そそのぞつひなに但漉一行淚。臨歧竟何云。但だ一行の淚を灑ぎ、岐に臨んで竟に何をか云はむ。【字解】【一】玉鏡尙書帝命驗にノ果、玉鏡を失ひ、その囃虎を用ふ」とあつて、鄭玄の註に「玉鏡は、〓明の道を謂ふ」とある。【ニ】留侯張良、後、留に對ぜられし故に云ふ。E黃石老張良、地上の老人に過うて、兵書を受けしこと、前に見ゆ、老人は卽ち黃石公。E治海君留侯世家に「東、倉海君に見え、力士を得、鐵椎重さ百二十斤を爲る。秦皇帝東遊するや、良、客と秦皇帝を博浪沙中に租擊し、誤つて副車に中つ」とある。3蕭陳蕭何と陳平。C兩龍爭國時鴻門の會を指す。3舞長創史記に「鴻門の會、范增出でて項莊を召し、謂つて曰く、若、入つて、前んで書を爲し、毒學らば、請うて劇を以て舞ひ、因つて、沛公を坐に擊つて之を殺せ、と。莊、入つて毒を爲し、壽學つて曰く、軍中以て樂を爲すなし、請ふ創を以て舞はむ。項王曰く、諾、と。項莊、劍を拔いて起つて舞ふ。項伯、亦た創を拔いて起つて舞ひ、常に身を以て沛公を翼蔽す」とある。〓鴻溝ミけたげなはちやうけん:さうそつかんふんと酒酣にして、長劍を舞はしめ、倉卒、漢紛を解く:ほじたうけんこうこういかせい: p.宇宙、初めて倒懸、鴻溝、勢將に分れむとす。えいぼう틀きぜつふうしせいふんあ英謀、信に奇絕、夫子、〓芬を揚ぐ。にBeしびいくわうてんもんみだ胡月、紫微に入り、三光、天文を亂る。かうこうわいかいこんだんせうえうふんしりぞ高公、淮海に鎭し、談笑、妖気を却く。たいとぼくちう發と之かんしゆくんおおい爾が幕中の畫を採り、ぶ雖を戡して、殊動を光かす。*えんさうかんぎよくせきともせうふん我に燕霜の感なく、玉石倶に燒焚。づつ立大そそのぞつひなに但だ一行の淚を灑ぎ、岐に臨んで竟に何をか云はむ。勢將分史記に「眞の四年、項王、漢と約し、天下を中分し、鴻溝以西を割いて漢となし、鴻溝よりして東を楚となす。項王、すでに約し、乃ち兵を引いて、解いて東歸す。漢、西に歸らむと欲す。張良陳平、說いて曰く、漢、天下の大半を有し、諸侯皆これに附く。楚、兵罷れ、食盡く、これ天、楚を亡ぼすの時なり。如かす、この飢に因つて、遂に之を取らむには。今釋てて學たず、これ謂はゆる虎を養うて自ら患を遺すなり、と。漢王、これを聽るす」とある。〓紫〓天宮。CO1三光日月屋辰。CII数勝つ、克つ。tit蒸霜感太平御覽に「郵衍、蕪の惠王に事へて忠を盡す、左右、これを讀す、王、これを繫ぐ、天を仰いで哭す、夏五月、天これが爲に霜を降す」とある。【一三】玉石書の胤征に「火、見岡に炎ゆれば、玉石俱に焚く」とある。ちやうしうさい上ちやうまうゆうあざなならびえつれきとうわかかうちうじよう)はかうてき【題義】張秀才は、進士の張孟熊であるが、その字井に閱歷等は分らない、高中丞は、卽ち高適。くたうじよかうてきほっかいしう달ちょっとたいふおかんげんじやうくわうしよねうa)ぶんちん舊唐書に「高適は、渤海蓚の人なり。諫議大夫となり、氣を負うて敢言す。上皇、諸王を以て分鎭す。:せついんえいわうはんおよしゆくそうろんかんそめ示はか1)適、切諫すれども聽かれず。永王叛するに及び、肅宗、その論諫素あるを聞き、召して之を謀る。適かうとうがいシえいわうかならい둑ニスト一したんやうしう因つて、江東の利害を陳じ、永王必ず敗れむといふ。上、その對を奇とし、適を以て、御史大夫揚州だいととくふちやうしわいなんせつとしみことのかうとうせつとしらいてんほんとこひかうわいらんたひら大都督府長史淮南節度使を兼ねしめ、詔して、江東節度使來環と本部の兵を率ゐて、江淮の亂を平あんしうche :わたえいわうやぶて〓ときく:ちにたいりやくいこうめいつとげしむ。安州に會す。師、將に渡らむとして、永王敗る。適、喜んで王霸の大略を言ひ、功名を務め、せつず돋きたなんああるこのお·にんしいえじつすだいじんかろ節義を尙び、時の多難に逢ひ、安危を以て己の任となす。然れども、言,その實に過ぎ、大臣に輕んりうこうでんし:だいりうこうせいかじへんしようぜらる」とある。留侯傳は、史記世家第二十五で、本と留候世家であるが、傳といつたのは、變稱でだいいしんしちやうぼうとちうじようかうてきえつtheはつていったい、ある。題の意は、進士張某が御史中丞高適に謁せむが爲に、發程するに就いて、これを送るといふのじよいせつめいいまじんやうごくちうつなで、序は、稍や詳しく、その意を說明したのである。予は、今しも、尋陽の獄中に繋がれて居るが、送送張秀才謁高中丞丼序
李太白集卷十七し2しうさいちやうまうゆう=こ偶ま史記の留候世家を讀んで居た。ここに、秀才張孟熊といふもの、胡人を滅すの策を胸中に抱き、ずなは15:仍つて、廣陵、卽ち揚州に赴き、高中丞に謁し、胸中を吐露して、一奇を劃せむとして居る。予は、ちやうしほうけ달ば(もとより張子房の風を喜ぶものであるから、この人の氣〓に感激し、因つて、この詩を作つて、その行を送つた。れ天【詩意】秦の始皇帝は、天下を治めること、兎角暴虐であつて、〓明の道を失つた。そこで、張良は、かんどう上に世に出で、これに對抗して、気〓の氣を吐いた。かくて、張良は、黃石公を感動せしめ、仍つて、兵I書を授けられたこともあるし、まその初、DES滄海君の處を經過して、さうかいくんけいくわそこに久しく滯留して居る内に、:壯かんら) :늘士を得、百二十斤の鐵槌を揮つて、韓の仇を報ずる爲に、始皇を博浪沙中に狙擊し、その事は、六國きに淡:ちんぺいの間に傳へられた。張良の智勇は、終古に冠として、他に比類なく、蕭何·陳平などいふ連中は、到底Fisりやうりようたがひくらべ物にならない。そこで、秦の滅後、楚漢對立の世となり、項羽と沛公とは、兩龍互に爭國しさけたけなはかうさうけんぶニおもむきth會に燃て、て、天地に風雲を動かすの趣があつた。かの鴻門の酒酣なるとき、項莊が劍舞し、隙間かんわうおじやう, Iあひだ紛えがあらば、漢王を座上に討ち取らうとした時、張良ありたればこそ、倉卒の間に於て、漢の爲に、えca紜を解くことが出來た。それから、楚漢の爭が久しく續き、九州の人民は、倒懸の苦に惱み、やがきやうかいエキューちうぶんきくわいよて、鴻溝を境界として、天下を中分した時、張良は、この機會に乘じて、是非とも、楚を亡して、天ぜつ下を統一せねばならぬといひ、程なく、その計畫が實現されたので、その英謀は、まことに、奇絕と복めいせいいいまニでん〓稱すべく、長しへに、〓芬の名聲を揚げて居る。今しも、祿山の亂、未だ平定せず、胡天の月は、天〓:しんにふ5あだきんたんム宮に進入し、三光は天文を亂し、まことに慘澹たる有樣。ここに、高中丞は、淮海に鎭撫し、談笑しえつけんて妖気を却けむとして居るから、君が一たび往いて、これに謁見すれば、きつと、幕賓として、その謀を用ひ、soやがて、國難を治めて、:殊動を天下後世に耀かすに相違ない。一千七こうせいわれは、じつさい實際、つみ罪を犯しをかつ誘いたt tゑんざいて、獄中に繋がれて居るので、かの都衍が無地に霜を降したなどいふ樣な寃罪ではなく、もとより、ぶんまの一行の涙を濃いで、なみだ玉石ともに焚くるを分として居る。づごここに、君の去るに臨み、その行を送り、何せいさうかんたしだいも言ひ得ずして、悽愴の感に堪へぬ次第である。ゆ둘【餘論】お起首より、夫子揚〓芬に至るまでは、張良の事で、その人は、李白が追慕して措かざる人こせつじつちやうしうさいであるから、その道ふところも、極めて切實である。胡月入紫微の六句は、張才才の前途を祝福し、しゆくふくいがあは15ぜいぶん我無燕霜感以下は、自己に引き當て、併せて離別の情を述べたので、卽ち送別の正文である。尋陽送弟昌峒都陽司馬作じんやうおとうとしやうどうはやう12だ〓尋陽にて弟昌峒都陽の司馬を送つて作る桑落洲渚連。滄江無雲煙。桑落洲渚連り、滄江に雲煙なし。(ニ)じんやうら台尋陽非刻水。忽見子猷船。尋陽、刻水に非ず、忽ち子猷の船を見る。送薄腸送弟昌劇部局作
李太白 集卷十七飄然欲相近。來遲香若仙.人乘海上月.帆落湖中天。〓一觀無二諾。朝歡更勝昨。爾則吾惠連.吾非爾康樂朱絨白銀章。上官佐都陽。松門拂中道。石鏡廻〓光。搖扇及千越。水亭風氣涼.與爾期此亭。期在秋月滿。時過或未來.兩〓心已斷.吳山對楚岸。彭蠡當中州。相思定如此.有窮盡年愁。へうぜんあひちかほつたおそ本ラせんごと飄然、相近づかむと欲す、來る遲く、杏として仙の若し。달かいじやう;ほにうてん찰人は海上の月に乘じ、帆は湖中の天に落つ。考うささ、ま觀二諾なく、朝歡更に昨に勝れり。佐々匿けいれんわれ佐々にかうらくら爾は則ち吾が惠連、吾は爾の康樂に非ず。しゆふつはくぎんほやう朱絨白銀の章、上官は都陽に佐たり。しようもんちうだうはちせいくわう松門中道を拂ひ、石鏡、〓光を廻らす。3かんゑつおよすゐてい高すや扇を搖かして、干越に及び、水亭、風氣涼し。跨このていしうげつa爾と此亭に期し、期は秋月の滿つるに在り。あるひ(三七五)ねた時過ぎて、或は未だ來らず、雨間心すでに斷ゆ。ごさんがんほうれいたい吳山、楚岸に對し、彭蠡、中州に當る。さだ끌じんねんな煌相思、定めて此の如く、盡年の愁を窮むるあり。相思、【字解】S桑落洲太平寰宇記に「桑落洲は、舒州宿松縣西南一百九十四里に在り。江水、はじめ、部陵より分派して九となり、ここに於て合流す、これを九江口といふ、この洲と江州尋陽縣と、中流を分つて界となす」とあり、一統志に「桑落州は、九江府城の東北に在り、江を過ぐる五十里、むかし、江水泛漲し、一桑を此に流す、因つて名づく」とある。E子献船王子猷、船に乗じて、刻濁に往き、戴安道を助ひしこと、前に見ゆ。3無二諸季布の事、前に見ゆ。三惠連宋書に「謝惠連、幼にしてオ悟あり、しかも、輕薄、父方明に知られず。靈運、かつて、始事より會稽に至り、方明に遣り、惠連を過視し、大に相書賞し、方明に謂つて曰く、阿連、才悟かくの如し、而して、尊、常兒と作して之を退す」とある。CI朱誠絨は緩、卽ち印組。S白銀章章は印章。E上官凡そ官に除せられて任に到る、これを上官といふ。20佐司馬は州の佐職、刺史の次席なるが故に云ふ。【九〓松門江西通志に「松門山は、南昌府城の西北二百十五里に在り、都湖の東に枕み、西岸悉く松を生じ、遙に望めば門の如し、故に名づく。上に石鏡あり、人を照らすべし。謝康樂の詩、攀崖照ニ鏡鏡、牽葉入ニ松門、是れなり」とある。C·O干越太平寰宇記に「干越渡は餘干縣西南一百二十步に在り、津吏を置いて主守し、四時絕えず。干越亭は餘干縣の東南三十歩に在り、屹然孤立、古今遊ぶもの留題章旬多し」とあり、江西通志に「干越亭は、饒州府餘干蘇羊角山に在り。文公談苑に云ふ、前に養琶洲を歐、後に思禪寺に枕む、林黃森藝、千峰秀を競ふ、唐初張彥俊建つ」とある。CII彭盡通鑑地理通譯に「彭蠡は江州薄陽縣に在り」といひ、括地志に「縣の東南五十里に在り」といひ、六典註に「一名宮亭湖、南康軍星子縣南、江州彭澤縣西に在り」といひ、地理志に「豫章郡彭澤縣西に在り」といひ、郡縣志に「都昌縣西六十里に在り、薄陽縣と湖を分つて界となす、萬貫に揚州彭蠡既請、卽ち江漢匯するところの澤、江西江東の諸水を合せ、豫章繞州南康軍三州の地に跨る」とある。は;たぐんめいすなはぜうしうそじやうしうはにんじゆほん【題義】都陽は、唐時の郡名、卽ち饒州、江南西道に屬し、上州であつて、司馬一人從五品である。ぞくていしやうどうはやうぐん12一にんれてこの詩は、族弟昌嗣といふものが、都陽郡の司馬となつて赴任するを送つて作つたのである。ていしよれんこうみづさうかうべうまんうんえんだ【詩意】桑落洲は、汀渚連亙し、ここでは、九派の水が合流するから、滄江渺漫として、雲煙も起らじんやうえんけい:し建ず、一望ただ碧水のみである。淨陽は、刻溪に非ざれども、忽ち子猷の舟を浮べて來り訪ふものがあへうぜんこあひちかいそつた。かくて、驅然として、此方からも之を迎へ、やがて相近づかむとするも、その來ること遲くし送薄陽送弟昌峭都陽司馬作
李太白集卷十七えうぜん:しんぜん쿨ひとかいじやう〓동こ〓かて、香然たる樣は、さながら神仙の如くである。すでにして、その人は海上の月に乘じて來り、帆影:ち)쥬psoたうちやくaおやだくにんにちわんせんじつは湖中の天に映つて見え、漸く到著した。そこで、一たび相逢うて二諾なく、今日歡を爲せば、前日:〓おなんぢすなはわげいれんbませつたんこためかうらくにも勝つて居るやうに思はれる。汝は、卽ち吾が惠連であるが、吾が才、拙にして、汝の爲に康樂たむたちしゆじゆざんいんは遺憾である。いおあらたしにんること能はざることは、まことに今や、汝は朱綬銀印を佩び、新に司馬に任ぜられて、はやう一は:ふうげいしようもんざんもうだうあた都陽の地に赴任するとのことであるが、都陽は、風景の善い處で、松門山は、その中道に當り、そしけうげうせいくわうはんえい1きかんゑつと〓すゐていて、石鏡は皎皎として、〓光を反映し、扇を搖かしつつ、干越渡に往けば、そこには、水亭があつて、6:00술短なんちやくそくおいふたたBissニ風氣殊に涼しさを覺える。ここに、汝と約束して、干越亭に於て、再び相見やうと思ふので、その期みに16ちうしう$は、秋月の滿つる頃、卽ち仲秋の十五夜にしたい。かくて、その時が過ぎても、ひよつと往かなかつなにじだたのなんぢわれやうきやうおいたがひだんちやうおもひたならば、何か事故の起つた爲で、汝と我と、兩〓に於て、互に斷腸の想を爲すであらう。ここより$ご澁がんあひだはうれいこ:に眺めやれば、此方の吳山は、遠く其方の楚岸に對し、その間には、彭盡の湖水があつて、これを隔てへいせいさうした글きはじやうたて居る。されば、平生の相思は、定めて此の如く、終年の愁を窮めて、長しへに、情に堪へぬことである。しおとうとじんやう(に도じ·あくわん【餘論】起首八句は、弟の薄陽に來るまでの事を敍し、一觀無二諾は、相逢うて歡を盡したることはやう12:おたおいさいくわいを述べ、朱紋白銀章の六句は、都陽の風土を思ひ、與爾期此亭以下は、他日その地に於て再會しやそうべつせいぶんうといふ意を述べ、送別の正文としたのである。じ·あくわん相逢うて歡を盡したることたおいさいくわい他日その地に於て再會しやかうしよしゆくうん校書叔雲に饒すせうねんはくじつBigsかせうしゆがんき少年、白日を費し、歌笑、朱顏を矜る。たちますでしゆんぶうか知らず忽ち已に老い、喜んで春風の還るを見る。じゃんをしかくわんなはいくわいおや別を惜んで、且つ歡を爲し、徘徊す、桃李の間びせいざん花を看て美酒を飮み、鳥を聽いて晴山に臨む。ばん歩ちくりんなき갈むなくわん晩に向つて、竹林寂たり、人なくして空しく關を閉づ。餞校書叔雲ミ少年費白日歌歌矜朱顏.不知忽己老。喜見春風還;惜別且爲歡.徘徊桃李間。看花飮美酒〓聽鳥臨晴山。〓〓C向晩竹林寂。無人空閉關。【字解】【一】費白日歲月を徒消すること。E竹林寂管書に「阮威、任達にして拘はらず、叔父籍と竹林の游を爲す」とある。Ec閉關門を閉づる、江淹の恨賦に閉關却搭、塞門不仕とある。かうしよらうをこゑんかうはなむけミ【題義】これは、校書郎の職に居る〓父の李雲といふものの遺行を儀して作ったのでせうねんむ六さいげつにつせきか:こうがんつやつや른わか【詩意】少年の頃には、無益に歲月を徒消し、日夕歌笑しつつ、紅顏の豔豔しく、わが年の尙ほ若いこつぜんwしゆんぶうかへ味はな六九六ことを矜つて居た。かくて、忽然として、すでに老境に向ひしをも知らず、春風歸り來り、花の再び:君の行を送らむとし、わかれこくわん咲き出でたのを喜んで居た。ここに、別を惜むが爲に、しばらく、歡を爲し、thたけなはた、あひだはいくわいはなびbち1本折から、花正に酣なる桃李の間を徘徊し、やがて花を看つつ、美酒を飮み、のどけき鳥の聲を聞きついお絶しとかん:ひ:さびつ、晴れた山の景色を見下ろして樂んで居る。兎角する内に、日將に暮れなむとすれば、竹林も淋し送〓汶書叔雲任達にして拘はらず、叔父籍と竹林の游を爲す」と
李太白集卷十七しゆくふ훈レ날レかたな'んとくわが叔父は旣に去つて仕舞ひ、あたりに人なく、仕方が無いから、むなしく門を閉ぢたので、ましんせきおもひたことに、岑寂の想に堪へぬ。げんさうらうくむらっこんじやくむげんじやうたいっまたけつまつおちけつ【餘論】嚴滄浪は起四句を評して「今昔無限の情態、この四句に盡く」といひ、又結末を評して2結いもつと漢大じやうきやう、くわんたうがだいいをさ:矜東、造かむなる意最も幽、許多の情境を收め盡し、極めて極めて寛宕、すでに雅且つ異、儀遺の詩、これを第なけんりうぎよひぜんべん15:らくらくふ一と爲す」といひ、乾隆御批には、全篇を評して「落落として風致あり」といつた。'んとむなしく門を閉ぢたので、날あたりに人なく、レかたな仕方が無いから、くまわうかうれんきんせい式王孝廉の觀省するを送るはうれいてんぢこにつぺんあ彭盡、天と合し、姑蘇、日邊に在り。しんわいかいしよく;かうれんはこほつ親を寧せむとして海色を候し、孝廉の船を動かさむと欲す。えうてうせいかうてんとんゑんしうつらな窈窕、晴江轉じ、參差、遠軸連る。ちやうせんにさうしちうやとうちう相思、晝夜なく、東注、長川に似たり。わうかうれんきんせい式送王孝廉覲省王孝廉の觀省するを送る(一)はうれいてんぢこにつぺんあ彭蠡將天合。姑蘇在日邊。彭盡、天と合し、姑蘇、日邊に在り。寧親候海色.欲動孝廉船。しんわいかいしよく;かうれんはこほつ親を寧せむとして海色を候し、孝廉の船を動かさむと欲す。えうてうせいかうてんとんゑんしうつらな窈窕晴江轉。參差遠岫連。窈窕、晴江轉じ、參差、遠軸連る。ちやうせんに相思無晝夜。東注似長川。さうしちうやとうちう相思、晝夜なく、東注、長川に似たり。【字解】【一】彩票江西志に「郵陽湖は、南昌府城の東北一百五十里に在り、卽ち禹貫の彭蠡なり、一名宮亭湖、一名揚淵湖、南昌饒州南康の三郡に勝り、上流諸水を合して入る、周圍數百里、圖さ四十里、長さ三百里、春夏の間ごとに、江漢水濕れば、彭蠡の本、觀として流るるを得すして、逆同倒積、遂に巨浸を成し、淵渺數百餘里、復た畔岸なし。二水漸く消するに遠べば、彭蠡の水、はじめて大江に出で、南岸に籠つて行き、二水と顔顏して毒に趣る」とある。3姑蘇楊齊賢の解に「姑蘇は蘇州吳郡、その東日出の地に近きを以て、故に日邊といふ」とある。3·事親歸つて親を訪ふ。三孝廉船世說に「張憑、孝廉に擧げらゐ、都を出でて、その才氣を負ひ、必ず時彥に參せむといひ、劉尹に脂らんと欲す。〓里及び同じく擧げられしもの、共に之を笑ふ。張、遂に到に詣り、〓言日を彌り、因つて留宿す。曉に至つて、劉日く、且つ去れ、正に卿を取つて共に撫軍に贈るべし、と張.船に遣る。同侶、何處に宿せしかを問ふ。張笑つて答へず。須臾にして、眞長、傳を遣し、張季廉の船を覓めしむ、同侶惋愕す」とある。かうれんわうほうかおやえねつceちふしゃうレ孝廉王某の歸つて親に觀せむとするを送つたのである。【題義】この詩は、王の名字等は不詳。それし2カメイわうかうれんVII :をおやこtあから、詩に因つて考へると、王孝廉は、今郡陽に居り、そして、親は姑蘇に在るものと見える。ほうれいこ:べうまんてんがつモ治につしゆつたちらBieいく【詩意】彭蠡の湖水は、渺漫天と合し、そして、姑蘇は遠く日出の邊に在つて、相去ること幾千里、すなは:こちら:いまおやごかいしよくへいをん;これが卽ち君の行く手の路である。君は、今親を省せむとして、海色の平穩ならむとするを候し、そかうれんはらいよいしゆつほつ:たびちおいえうてうざいかうxして、孝廉の船を移して、愈よ出發せむとして居る。これから先の旅路に於て、窈窕たる晴江は、幾てんせつとゑんしうたいながひPakすゐこくけへいゑんたびか轉折してうねり、參差たる遠岫は、一帶長く延いて連り、水國の景色は、あくまで、平遠であまささうしねんちうやべつたひがしむかちやうせんる。かくて、君の去りし後、わが相思の念は、晝夜の別なく、絕えず、東に向つて、さながら長川とおな同じである。っがんれんりうすゐ。¥ところおもしろけいれんりくてう【餘論】これは五律であるが、領聯は流水の對をなし、一氣に下つた處が面白い。頸聯は、なほ六朝ううそんの風味を存して居る。それがんれんりうすゐ。領聯は流水の對をなし、¥ところおもしろ一氣に下つた處が面白い。けいれん頸聯は、りくてうなほ六朝送遺王李廉顏省
李太白 集半十七=む。おなとぱき同吳王送杜秀芝擧入京吳王と同じく杜秀之の擧にに入るを送るしうさいなんへんべんわつくわいや秀才何翩翩。王許囘也賢.秀才、何ぞ鬭翩たる、王は許す囘也の賢。暫別廬江守。將遊京兆天;たごうしゆ:けいてうこん暫く廬江の守に別れ、將に京兆の天に遊ばむとす。らくじつあかんえんい秋山宜落日。秀水出寒煙。秋山、落日に宜しく、秀水、寒煙出づ。u aに温がんせうま欲折一枝桂。還來雁沼前。一枝の桂を折らむと欲す、歸り來る雁沼の前。【字解】C郡名、卽ち應州で、淮南道に隸屬して居る。E京兆通典に「雍州、開元三年、改めて京兆府となす、凡そ周·秦·漢·音·西魏·後周·隋より我が唐に至るまで、竝に帝都たり」とある。CO一枝桂管書に「都読曰く、臣,賢良に擧げられ、對策天下第一たり、猶ほ桂林の一枝、崑山の片玉のごとし」とある。E雁沼西京雜記に「梁の孝王、兎圓を築く、國中に雁池あり、池間に鶴洲鬼渚あり、その諸宮親相連り、延五數十里、奇果異樹、瑰禽怪獸、畢く個はる。王、宮人賓客と、其中に弋釣す」とある。こわうふしやう33いあんしだい: :むしunぎ【題義】吳王は不詳。王琦の說に「按ずるに、詩題、當に是れ、杜秀才の擧に赴いて京に入るを送る3 :しさいあやまり:と는なるべし。芝の字、疑ふらくは譌とある。すると、芝は才の誤であらう。この儘ならば、杜秀芝を달せいめいみほかしゆしうさいまぜんせつ人の姓名と見る外はないが、詩中起首に秀才とあるから、矢張、前說が確當であらう。とへんべんさいじんごおつ示けんおな【詩意】杜秀才は、翩翩たる才人であつて、わが吳王も、之を以て顏囘の賢と同じであるといつて、としうさいhitろおつたいしゆわかちやうあんゆやこでひどく褒めそやされて居る。その杜秀才が暫く廬江の太守に分れ、長安の都に出かけるといふので、あつゆれこうのいらB b :59しうざん홍天晴功名の途が開けるのは、まことに目出たい事である。時しも、七八月の頃、秋山は夕日を受けて、さいすゐゑ글ちやうかうろづかんえんひだゑんけいさうばうまきつとりんちうし彩翠畫の如く、長江の水からは寒煙を蒸し出して、遠景は、蒼茫として居る。君は、屹度、林中一枝あつくしゆつしんがんの桂を折るといつたやうに、對策第一で擧げられるに相違ないが、ここが、出身の地であるから、雁:ひだいばたふたたごいつおひきたて,沼に比すべき、この池臺に歸つて來て、再び吳王の御引立を受けるが善からう。れんな글しやけいきはめいせいげんさうらうけいれん【餘論】五六の一聯は、例の如く、寫景極めて明觀である。そこで、嚴滄浪は、これを評して「頸聯ぶくするぼくじんこをしは一幅の水墨、前後副はざるは、惜むべし」といつた。けいれんこれを評して「頸聯洞庭醉後、送終州呂使君果流澧州かうしうくんかうれいしうルおく洞庭の醉後、絳州の呂使君果が澧州に流さるるを送るせきべつU 1)딸てんがいたらあ昔別若夢中。天涯忽相逢。昔別、夢中の若し、天涯、忽ち相逢ふ。しうげつやぶ;ほしいまま담洞庭破秋月。縱酒開愁容。洞庭、秋月を破り、酒を縱にして、愁容を開く。こ品ぎよくじえんべいりやうかうりよう贈劍刻玉字。延平兩蛟龍。劍を贈つて、玉字を刻す、延平の兩蛟龍三三まぶ?とおよがんくわいほう送君不盡意。書及雁廻峰。君を送つて、意を盡さず、書は及ぶ雁廻峰。【字解】延平兩效龍管の雷煥が掘り出した劇で、後に其子が之を佩び、延平津を渡ると、躍つて水に入り、送同吳王送杜秀芝擧入京·洞庭醉後送終州呂使君果流澧州七八一延平津を渡ると、躍つて水に入り、七八一化して飽とな送
李太白集卷十七つたといふので、その詳は、前に見ゆ。【二】雁廻峰方奥勝覽に「願廻峰は、衡陽の南に在り、雁、ここに至つて過ぎらず、春に通うて囘る、故に名づく。或は曰く、峰勢、雁の囘るが如し」とあり、湖廣志に「同雁峰は、衡州府城の南里許に在り。相傳ふ、雁、街陽に過ぎらず、ここに至つて囘ると。然れども、聞く、桂林の間、尙ほ雁聲ありと。この說の非なるを知る。或は謂ふ、峰の形勢、雁の囘轉する者の如しと。是なり。南岳は周環八百里、廻雁を首となし、岳麓を足と爲すといふ」とある。にがくしうか【題義】湖廣志に「洞庭湖は、河岳州の西南に在り、八百里に綿跨す」とある。絳州は、卽ち終郡、え2太守、は上ル날おせうほんお(東道に隸屬して居る。呂使君といふ上は、卽ち刺史の職に居た人で、名は杲、蕭本には果に作おれいしうつてある。もと似寄つた字だから、他に傍證なき限りは、いづれとも決定することは出來ない。澧州またれいやうどんは、澧水の陽に在つて、又澧陽郡といひ、山南東道に隸屬して居たので、京師の東南一千八百九十三え芒とりよぼうえんいん里に在る。この詩は、洞庭附近に於て、舊の絳州刺史呂某に遇ひ、仍つて、宴飮を爲し、醉後、そのれいしうへんたくき?澧州に貶調せられるのを送つて作つたのである。【詩意】むかし、君に別れたのは、なんねんまへ何年前であつたか、今から思へば、いぷむ夢中の如く、글しかも料らざりばんり萬里の天涯に於て、ま:どうていこじやうamき、偶然、君に逢はむとは。折しも、洞庭湖上には、秋月さし上り、この上もない上ひしまほしいままじつ善い景色であるから、酒を縱にして、愁容を開かむことを務めた。君に贈るに他物なく、幸ひ延平sか11津に於て兩龍に化したといふ彼の名創に比すべきものがあるから、これに字を刻し、記念として捧呈がんかうやういくわいがんほう日二することにしやう。聞けば、雁は衡陽以南に行かず、:〓廻雁峰といふ山さへある位、今後は、手紙を託だするものも無いから、この心中を殘らず話し出さうといふので、送別の際、その〓しきも、洵に止むを得ぬ次第である。たうていせんきんBriendsがんくわいほう1こ【餘論】この詩は、到底淺近を免れないが、延平の故事と雁廻峰とを倩ひ來つて、のは、さすがに、才の慧を觀るべきものである。;渺として盡し難送別の際、そのた:おもむきt多少の趣を添へたかうやうだcafe E與諸公送陳郞將歸衡陽。〓序諸公と陳郞將の衡陽に歸るを送る、〓に序仲尼旅人。文王明夷苟非其時。聖賢低眉況僕之不肖者。而遷逐枯槁。固非其宜。朝心不開。暮髪盡白.而登高送遠。使人增愁。陳郞將義風凛然。英思逸發。來下曹城之榻。去邀才子之詩.動〓興於中流。泛素波而徑去。諸公仰望不及。連章祖之.序慙起予。〓冠名賢之首。作者嗤我。乃爲撫掌之資乎.ぶんわう운せいけんまゆいはぼく世) :【訓讀】仲尼は旅人、文王は明夷。苟くも其時に非ざれば、聖賢眉を低る。況んや、僕の不肖なる者:出し方をや。しかも、遷逐枯槁、もとより、亦其れ宜なり。朝心開かず、幕髪盡く白し。而して、登高送ゑん물はじけふうりんぜん1/2遠人をして愁を增さしむ。陳郞將、義風凛然、英思逸發、來つて、曹城の榻を下し、去つて、才子選與諸公送陳郞將歸衡陽井序七八三
李太白集卷十七せいきよう2そはうかたたきしよこうがやうほう:れんしやうの詩を邀ふ。〓興を中流に動かし、素波に泛んで徑に去る。諸公仰望すれども及ばず、連章これを祖오だ子を起すを慙づ、は店めいげんしゆくわんさくしやわれに法庭ぶしやうしなとす。序、輒ち名賢の首に冠す。作者我を嗤ふ、乃ち撫掌の資と爲すか。衡山蒼蒼入紫冥。かうざんさうさうしいい衡山蒼蒼として紫冥に入り、【字解】【一】衝山方奥勝覽に下看南極老人星。下に看る南極老人星。「南岳、一名衡山、衡山縣西三十里(に在り、蒼.山を以て罫に名づく」廻廳吹散五峰雪。くわいへうふcaほう廻懸吹き散す五峰の雪。とあり、湘中記に「度、斗衝に應じ、むつろひ往往飛花落洞庭。6どうてい최往往、飛花、洞庭に落つ。位、離宮に値る、故に衝山といひ、又霍山と名づく」とあり、南岳記に:がくひいかくごと氣〓嶽秀有如此。氣〓く、嶽秀でて、此の如きあり、」「衝山は、朱陵の霊臺、太虛の寶洞、らうしやうかむ上、異軫を承け、萬物を針纏す、故に郞將一家拖金紫。郞將の一家、金紫を拖く。衡山と名づく。下、離宮に關し、火郷もんぜん食客×うんした門前食客亂浮雲。ふ門前の浮雲を亂し、を統攝す、故に南岳と號す。赤帝、そ(五)世人皆比す孟嘗君。じんみなひまうしやうくんの嶺に館し、祝融その陽に宅す、軒世人皆比孟嘗君.轍に違び、潜霍二山を以て副とす」江上送かうじやうかうおくはくへき行無白璧。江上、行を送つて白壁なし。とあり、長沙記に「衝山、軒翔登拔九のぞちうちやったんわか千餘丈、尊卑參差七十二峰、巖洞溪臨歧惆悵若爲分。歧に臨んで惆悵、若爲して分れむ。潤泉石の勝、その中に交錯す。又數十洞、十五巖、三十八泉、二十五溪、九池、九潭、六源、八橋、六井、三井、三角、これ最も著はるるもの。七十二峰、最も大なる【字解】【一】衝山方奥勝覽に「南岳、一名衡山、衡山縣西三十里に在り、蒼.山を以て罫に名づく」とあり、湘中記に「度、斗衝に應じ、位、離宮に値る、故に衝山といひ、又霍山と名づく」とあり、南岳記に「衝山は、朱陵の霊臺、太虛の寶洞、上、異軫を承け、萬物を針纏す、故に衡山と名づく。下、離宮に關し、火郷を統攝す、故に南岳と號す。赤帝、その嶺に館し、祝融その陽に宅す、軒轍に違び、潜霍二山を以て副とす」とあり、長沙記に「衝山、軒翔登拔九千餘丈、尊卑參差七十二峰、巖洞溪潤泉石の勝、その中に交錯す。又數これ最も著はるるもの。七十二峰、最も大なる六井、三井、三角、もの五、視融、紫蓋、言害、石麻、天柱、而して、祝融、最高となす」とあり、水經註に「湘水、又北して街山麻東を徑す、山は西南に在り、三峰あり、一は紫蓋と名づけ、一は石廳と名づけ、一は容峰と名づく、容峰最も竦條と爲す。遠くより之を望めば、蒼蒼として天を醒す。故に羅舍云ふ、望めば陳雪の若し、〓露素朝に非ざるよりは、その條を見ず。丹水、その左に湧き、醴泉、その右に流る。山經、これを胸睡山といふ、南岳と爲すなり」とある。【二】南極老人星史記の天官書に「狼の北地に大星あり、南極老人といふ、老人見はるれば治安、常に秋分の時を以て、これを南郊に候す」とあり、晉書に「老人の一星、弧南に在り、一に南極といふ、常に秋分の旦を以て最に見はれ、春分の夕にして丁に沒す。見はるれば治平にして主毒品」とある。C1廻旋風。三金紫陸機の謝平原内史表に懷金推〓とあり、後漢書に「聖恩横に加はり、猥りに金紫を賜ふ」とあつて、章情太子の註に「漢官儀に日二千石は、金印紫綬なり」とある。C孟害君史記に「孟嘗君、薛に在り、諸侯の賓客を招致す。及び亡人の罪あるもの、皆孟書君に歸す。孟嘗君、業を舍てて厚く之を通す、故を以て、天下の士を傾く。食客數千人、貴賤となく、一に文と等し」とある。5遺行無白壁呂氏春秋に「邸成子、魯の爲に膏に聘す、衞を過ぐ、右宰穀臣、止めて之を筋し、酒酣にして、之に送るに腱を以てす」とある。くわんしさゆうゑいにエたしさいうしゆつふみたらうしやうまたほんくわん【題意】唐書百官志に「左右十四衞、及び太子左右六率府、皆郞將あり、乃ち五品官なり」とある。かうやうたうじぐんのいすなはかうしういうなんせいだうらうしやうちんぽう当衡陽は唐時の郡名、卽ち衡州で、江南西道に隸屬して居た。この詩は、諸公とともに、郞將陳某の衡:ば" (しんCにふしやう生たi陽に歸るを送つて作つたのである。陳の名字閱歷等は、例の如く不詳。それから、序の大意は-孔したびびとしうせいだうとほんそうぶんわうふんめいまじうじゆんだいてんまぬか子は旅人で、終生、道途に奔走し、文王は、内、文明にして、外、柔順、それで、やつと大難を免れ순そのときえぜいけんまたおとほi 1. :た。苟くも、其時を得ざれば、聖賢でさへも、眉を低れて、苦んで居るので、まして僕の如き不肖のせんちくこあもつとばんころひら:ぷことごとしん者は、遷逐の厄に遭うて、形容枯槁するも、尤も千萬な事で、朝に心開かず、暮に髪が盡く白くなる送輿諸公送陳郎將歸衛陽井序
李太白集卷十七ヒまたあやまりたか2ゑんじんおくむにはな: (固非の非の字は亦の誤であらう)そして、高きに登り、遠人を送れば、愈よ以て、愁を增すばかり。もんらうしやうひとふうりんぜんえいしいつゆつ決たいさうじやうおろitとうりうゆここに、陳郞將といふ人は、義風凛然、英思逸發、來つて撮を曹城に下して、暫く逗留し、去るに臨きとしこせいきようちうりうごそは:店はつていしみて、才子の詩を求められた。しかる後、〓興を中流に動かし、素波に浮んで、愈よ發程して仕舞つ崇しよこうなごきげやうぼうおよよあいあいLぶんのを作つて之を送(た。諸公は、名殘を惜んで、これを仰望するも及ばず、仍つて、銘銘に詩だの文だこのじよらうしやう上だ;かんたんでつた。予の此序は、郞將をして「予を起すもの」といふ樣に感歎せしめることの出來ないのは、まこはづめいけん店とら365志taあつばれさくしやわれけいべつとにお愧かしいが、名賢の初に冠して、第一に置かれて居る。されば、天晴な作者は、吾を輕蔑し、にてたたcざいれうみあひ觀つて手を的いて美ニ材料とするであらう-先づかういふ意味合でかうざん3さうたかおほぞらこいただきのきやくかなんきよくらうじんせいa【詩意】衡山は、蒼蒼として、高く大空に聳え、その頂に登れば、脚下に南極老人星が見える。ぶそしせんぶうほう?はくせつふとわうわうはな12へんべんひるがへどうていこ:おて、旋風は、五峰に積れる白雪を吹き飛ばし、往往、それが花の如く、片片と飄つて、洞庭湖中に落ひたるぎひいたかIちんらうしやうかこんじきんいんふところしじゆちる。一天氣〓く、岳の秀でて高きこと、かくの如く、陳郞將の一家は、今次、金印を懷にし、紫綬をおそのちせうもんぜんま食客が畢がり來つて、むらきた帶びて、其地に歸住せられるとのことである。かくて、その門前に於ては、さ二んみだ굴·じんみならうしやう&っ古しへの孟嘗君に比して居る。まうしやうくんひかうじやうおいながら浮雲を亂るが如く、世人は、皆郞將を以て、今、江上に於て、おつ君の行を送るに際し、ごせんべつはくへきたあやにくなろたもうちやう餞別として白壁を贈りたいが、生憎、それが無いから、政路に立ちて、惆悵のむらわかちら餘、分れ兼ねて脚〓して居る。しはにこおもしろほうきうせうbボけんりうぎよひ【餘論】この詩は、破題が極めて面白く、奇峰九霄を凌ぐの〓がある。そこで、乾隆御批にも「起、ほうきうせうbボ奇峰九霄を凌ぐの〓がある。けんりうぎよひ乾隆御批にも「起、そこで、しようせいほしいままいか勝勢を擅にす」といつて居る。それより以下は、よじやうあけいほつか餘情は有るが、さして警拔ではない。りうちやう流暢ではあるが、かくべつ글格別の事はなく、けつまつ結末、いささこうはんぐわんけんぶちうじょうしゆくB ;ごく送趙判官赴點府中丞叔幕趙判官が黔府中丞〓の幕に赴くを送る〓(いくしくせいうんろまじはり"わうごんつ廓落靑雲心。結交黃金盡.廓落たり靑雲の心、交を結んで黃金盡く。ふうきかあひわす달たらまみづかわら富貴翻相忘。令人忽自哂。富貴、翻つて相忘れ、人をして忽ち自ら哂はしむ。びんまうおやださたもふたたかへがた蹈蹬鬢毛斑。盛t時難再還。蹈蹬、鬢毛斑に、盛時、再び還り難し。巨源咄石生。何事馬蹄間。ょげん* :なにごと12ごあひだ巨源、石生を咄す、何事ぞ馬蹄の間Uよくらながむご、とうざん...ほつ綠蘿長不厭。却欲還東山。綠蘿長く厭はず、却つて、東山に還らむと欲す。11,ろましはいいふかうだうこ君爲魯曾子。拜揖高堂裏。君は、魯の曾子たり、拜揖す高堂の裏。叔繼趙平原.偏しゆくっへいげんだとあいしゆおん承明主恩。叔は繼ぐ趙の平原、偏に明主の恩を承く。も(ヘ)ふうさうとくざおせいぜつゆうはんこん風霜推獨坐。旌節鎭雄藩。風霜、獨坐を推し、旌節、雄藩を鎭す。虎士秉金鐵.蛾眉開玉尊.こしきんゑっとが:ええじ虎士、金鍼を乗り、蛾眉、玉尊を開く。さいたかBriss rかいりんちうげん才高幕下去.義重林中言。才高くして幕下に去り、義は重し林中の言。送送趙判官赴醫府中承叔幕
李太白集卷十七水宿五溪月。霜啼三峽猿. (一三)東風春草綠.江上候歸軒。tな보こゆしゆくロ水には宿す五溪の月、霜には啼く三峽の猿。とうふうしゆんさうみどりかうじやうけんis東風春草綠に、江上に歸軒を候す。【字解】E廊藩空寂に同じ。3跗證困頓に同じ。2.巨源咄石生膏書に「山濤、字は巨源、河内慵の人なり。州、部に辟して、河南從事たらしむ。石變と共に宿す。濟、夜起つて、聖を蹴つて日く、今何等の時にして眠るか、知る、太傅臥する何の意ぞ。鑒日く、宰相は、三たび朝せす、尺一の令を與へて第に歸る。卿、何ぞ慮るや。濤曰く、咄石生、馬蹄の間に事なきか、と。傳を投じて去る、未だ二年ならず、曹爽の事あり」とある。〓却欲道東山管書に「謝安、朝寄を受くと雖も、然れども、東山の志、始末溢らず、毎に言色に形はる」とある。B魯曾子史記に「曾參は、南武城の人、孔子、以て能く孝道に通ずとなし、故に之に業を授けて、孝經を作る」とある。0趙平原平原君の事、前に見ゆ。CE獨坐漢時、御史中丞は、司蘇校尉、尙書令と會同し、席を專にして坐することを得た。〓旌節舊唐書に「天寶中、緣邊察戎の地、八節度使を置く。命を受くるの日、れに旌節を賜ひ、これを節度使といふ、以て軍事を事制するを得、外任の重きこと比なし」とあり、新唐書百官志に「節度使辭するの日、雙旌雙節を〓ひ、行けば、節を建て、六纛を竪て、境に入れば、州縣、節樓を築き、迎ふるに鼓角虎士有力の士を以てす」とある。C乗金鐵乘は執る。CII林中言音書に「阮成、任達にして拘はらず、叔父籍と竹林の遊を爲す」とある。CII水宿舟中に宿すること。Cit五溪通典に「對中は古しへの蠻夷の國、春秋戰國、皆楚の地、秦の惠王、對中の地を欲し、武關外を以て之に易ふ、卽ち此なり。通じて之を五淺といふ。註に云ふ、五鴻とは、西·辰·巫·武·沅の五溪を謂ふなり」とある。CIT三峽號宜都記に「黃牛灘より、東、西陵の界に入り、峽口に至る、一百許里、山水紆曲、兩岸高山重峰、日中夜半に非ざれば、日月を見ず、絕壁或は千許丈、その石、彩色形容、像類するところ多し。林木高茂、略ぼ盡き、冬春猿鳴、至つて清く、山谷響を傳ヘ冷冷絕えす、謂はゆる三峽、これ其一なり」とあり、白帖に「荊州記に曰く、巴東三峽謨長鳴、三聲に至つて、聞くもの涙を番れざるなし」とある。CII歸軒南寳書に「凡そ車の幡あるもの、これを軒といふ」とある。そうはんぐわんむにえつれきふしやうステけんちうたうじょちけんしうげんちうぐんか늘督府、【題義】趙判官は、名字関歷、ともに不詳、點府は點中で、唐書地理志に「黔州點中郡、下都けんあんどんてんほうどわんねんなあらたちうじようしゆくはんぐわんしつくふちうじよう달本と黔安郡、天寶元年、名を更む」とある。中丞叔は、判官の叔父で中丞であつた人。そして、このちうじよう달さくふおたてうこくちんてんほうちうウルトととくほんくわんげい中丞は、趙國珍といふ人であらうといふことである。册府元龜に趙國珍、天寶中、黔府都督本管經珍、ぶりやく國なんほうこ놓せおはよねんちうげんしき略等使となる。武略あり、南方の地形を習知し、五溪に在ること凡そ十餘年。中原、師を興す。たけんちうほうきゃういもりつ謎けんちうせつとしさうか唯だ點中の封境のみ、虞なし」とあり、通鑑に〓點中節度使趙國珍は、本と群牁の夷なり」とあつて、せいシテべつぶじうしうほんしうてうくんだう胡三省の註にまけんなんせつとこくちんはうりやく「趙國珍は、群洞別部充州の螢曾趙君道の裔。楊國忠、劍南節度を兼ね、國珍、方略あけんちうとそヲ" :上ねんてんかま品るを以て、黔中都督を授け、五溪を護ること十餘年。天下方に亂る、その所部、ひとり寧し」とある。げんぷちうじようすなはそのひとちうじようけんがんしはんでわんてうほうしゆくふ謂はゆる點府中丞は、卽ち其人で、中丞は、その兼衝であらう。この詩は、判官趙某が、その叔父たびんちうじようてうこくちんほくちうむなおく?る點府中示超國珍の幕中に赴くを送つて作つたのである。なうじつせいうんここめざしいまくうせきがうけつはいまじはりfなっしきわうごん【詩意】君は、曩日靑雲の志今や空寂として遂げず、世の豪傑輩と交を結ぶ爲に、頻りに黃金こんせん늘なし豬くの人は、갈を散じて、やがて囊中一錢を留めぬやうに成つて仕舞つた。しかし、富貴になると、む云:おとてなけいはくかげん달わらほど。かしの事を忘れて丸で相手に成らず、その輕薄さ加減は、人をして哂はしめる程である。かくて、君こんとんぽんけせいねんわかままたかへこくかといありさまは、困頓して、鬢の毛も斑になり、靑年の若い時は再び還らず、刻下、まことに失意の有樣である。さんたうすきかんしかはていあひだにでむかし、山濤は、石鑒を叱りつけ、馬蹄の間に事なからむやといつて、急いで出かけたといふが、こはんたいしやあんい鹿t 15りよくらわかへとうざんぶれと反對に、謝安は、世に出でて大に用ひられし後とても、情を綠蘿に忘れかねて、却つて東山に還送送趙判官赴醫府中承叔幕
李白集卷十七츠かれ示じ:きふたん; : usらうとして居た。要するに、彼も一時、此も一時、君も曩には急難に赴いたが、今では、早く故國にに현きみそうしん:かうかう달かうだうちうしんはいいふ歸りたいと思つて居る。おまけに、君は、魯の曾參の樣な孝行の人で、高堂の中に於て、老親に拜揖こたおういそきみしゆくふへいげんくんおなへいぜいひんかくあいせむとし、仍つて、今次の行を急がれるのである。君の叔父は、趙の平原君と同じく、平生賓客を愛かsだうだうたいくわんらうじようけんがん:し、且つ明主の知遇を受けて、堂堂たる大官となり、中丞の兼衝あれば、席を專らにして居ることもでせつとせいせつぐんじゃんせいその上、たゆうはんちんぶ出來るし、節度使として、旌節を賜はり、軍事を專制して、雄藩を鎭撫して居られる。かくひ:ここきんゑつえいぞわい1がびじんひらちやうらうじて、貔虎の勇士は、金鐵を執つて、營外を守り、蛾眉の美人は、玉樽を開いて、帳中に侍して居る。まかうさい三つほくちうと〓ゆるせき꿀しゆくてつ君の高才を以て、その幕中に投じ、加ふるに、阮威の阮籍に於ける如く、叔姪の義があるから、そのけんちう言ふまでもない。みちしうちうしゆく3 :優遇されることは、その、點中に行く道すがら、舟中に宿して、五溪の月を眺め、I出陰セッよしうせいぜんた三峽の間に猿の叫ぶを聞かば、霜ふる夜、旅愁悽然として、堪へられないかも知れぬが、やがて、東いたしゆんさうみどりまたかへ$かうじやう風吹き至つて、春草綠なる頃、又歸つて來て欲しいので、その時は、江上に於て、君の車の來るのを待ち受けて居やう。·いたてうはんぐわんえらかうしよいん格【餘論】起首より拜揖高堂裏に至る十二句は、趙判官の今次の行を爲す所因を詳しく述べ、叔繼趙平ううううよう둘uきつとおほいにんよう原より義重林中言にる八句は、趙中丞の事を主とし、やがて、判官が行けば屹度大に任用されるといてんCSさいくわいたすなはいふ意、水宿五溪月の四句は、今の旅中の苦より一轉して、他日の再會に及んだので、卽ち送別の正ぶん文である。りくはんぐいんはけふ出陸判官の琵琶峽に往くを送る〓あこくしうふ~ 1/8 iゑんへつら水國秋風の夜、殊に遠別の時に非ず。ちやうあんむiいづれ長安、夢裏の如し、何の日か是れ歸期。りくはんぐいんはけふ出送陸判官往琵琶峽陸判官の琵琶峽に往くを送る水國秋風夜.殊非遠別時。〓あこくしうふ~ 1/8 iゑんへつら水國秋風の夜、殊に遠別の時に非ず。ちやうあんむiいづれ長安如夢裏。何日是歸期。長安、夢裏の如し、何の日か是れ歸期。【字解】S水國水邊の地。【三】歸期歸來の期日。形びきやうちよみなおんりつほうよしようらんBはけん上ざんたいしよくかうみなみあらE +【題義】方與勝覽に「琵琶峽は、巫山對蜀江の南に在り、琶琵の如し。この〓の婦女、皆音律をは2にんれ、こ曉る」とある。この詩は、陸判官といふ人が、琵琶峽附近に赴任するを送つて作つたのである。かんがいひゑんべつすゐきやう5せいふうふわた遠別を爲すに於ては、【詩意】水〓の地に西風吹き渡る秋の夜は、さなきだに、感慨を惹くもので、だちやうあんぶじょE pr愈よ以て堪へられない。むかし、長安に於て相遇ひしことは、さながら夢の如く、今、ここに別を爲ま伊さいくわいがたたべつなせば、君は、何日歸られるか、再會、豫期し難く、從つて愈よ離別の愁を增すばかりである。げんさうらうしかんけいpisoんだほか講してごみじか【餘論】この詩は、簡警にして、妙味、文字の外に在りといふべく、嚴滄浪は、これを「語短rながごんぜつあうきやうちやうしようあんたいはくく、意長く、是れ五言絕妙の境地」といつた。別に楊升庵は「太白の詩、天山三丈雪、豈是遠行時、またいはへんげんまうしよくかんそう又曰く、水國秋風夜、殊非遠別時と。豈是、殊非、二字を變幻し、愈よ出でて愈よ奇。孟蜀の韓琮はふの詩、晩日低霞綺、晴山遠畫眉、靑靑河畔草、不是望〓時、亦た太白の句法を祖とす」といつて送送陸判官往琵琶峡七九一
李太白集卷十七居る。うとうへいかへ式梁四の東平に歸るを送るぎよくこびLちそうべつしくわんな玉壺、美酒を挈へ、送別、强ひて歡を爲す。たいくわたんせいっchrほんろかた大火、南星の月、長男北路難し。いんわう二ていぶんするすゐかんだ般王、負鼎を期し、汝水、垂竿を起す。とうざんそわはむんしやあん:たか東山の臥を學んで、參差、謝安を老いしむる莫れ。うとうへいかへ式送梁四歸東平梁四の東平に歸るを送るぎよくこびLちそうべつしくわんな玉壺挈美酒。送別强爲歡。玉壺、美酒を挈へ、送別、强ひて歡を爲す。大火南星月。長郊北路難。たいくわたんせいっchrほんろかた大火、南星の月、長男北路難し。(1)いんわう二ていぶんするすゐかんだ殷王期負鼎。汝水起垂竿。般王、負鼎を期し、汝水、垂竿を起す。參差老謝安.とうざんそわはむんしやあん:たか莫學東山臥。東山の臥を學んで、參差、謝安を老いしむる莫れ。【字解】S大火六經天文編に「夏氏曰く、仲夏の月、初昏の時、大火、南方正午の位に見はる」とある。殷王史記に「阿奮、湯を干さむとして由なし。乃ち有華氏の勝臣となり、鼎俎を負ひ、進味を以て、湯に說いて王道を致す」とあり、越絕書に「伊尹、鼎を負うて、殷に入り、遂に湯を佐けて、天下を取る」とある。3汝水春秋正義驛例に「汝水は、秦山薬蕪縣の西南に出で、濟北を經、東平須昌縣に至つて濟に入る」とあり、行水金艦に「遂征記に云ふ、泰山郡の水、皆汝と名づく。今縣是に五汝あり、皆源別にして流同じ。其源山の汝水は西南流し、乾封縣治の南を經、縣を去ること三里、又西南流すること九十里、〓州中都縣に入る。接ずるに、五汝とは、北汝、小汝、柴汝、半汝、其一は經流なり」とある。三參差齟齬すること。CO謝安東山に高臥せしこと、前に見ゆ。りやうeはいかうめいじえつれきわかとうへいおろどんめいまたうんしうかなんだう【題義】梁四の四は例の排行、その名字閱歷は分らぬ。東平は、唐時の郡名、卽ち鄲州で、河南道にめいじえつれきわかその名字閱歷は分らぬ。とうへい東平は、おろどんめい唐時の郡名、またうんしう卽ち鄲州で、かなんだう河南道に【題義】れいぞくしりやうぼうそのきやうりとうへいかへおく隸屬して居た。この詩は、梁某の其〓里東平に歸るを送つて作つたのである。·よくこびLi 153〃まかうおくためさかづきすすレくわん【詩意】玉壺に美酒を盛り、それを挈へて出で、ここに、君の行を送るが爲に、杯を勸め、强ひて歡:いたいくわほしなんほうせいごちっなつなかきたe笑をする。今しも、大火の星が、南方正午に位置する月で、夏の最中であるから、これから、北に向たへいげんたたびこんなんいあんいんたういうぜいひ、一帶の平原を橫ぎつて旅をするのは、なかなか、困難であらう。むかし、伊尹は、殷湯に遊說せためごとん과れづりにんこれちかネむが爲に、鼎を負ひ、料理人といふ觸れ込みで、之に近づいたといふことであるが、君も、いつまでこきやうくすぶうんするさをたぎよてうaだみことふううんさいくわい달も、故〓に燻つてばかり居らず、汝水に竿を垂れる漁釣の身より起つて、見事に風雲に再會し、がこうめいたよしやあんとうざんかうぐわきぐづ.づ를こころぎどの功名を立てるが善いので、謝安が東山に高臥したのを學んで、愚圖愚圖して居る内に、時と志そむな될くしと齟齬して、空しく老い朽ちて仕舞ふやうな事があつてはならぬ。ぜっほんそうべつせいぶんこうはんそのひとしやうたいしよ:ばくわんしやうふた示か【餘論】前半は送別の正文、後半は其人の將來に囑望し、規戒と勸奬と兩つながら之を兼ねて居る。;いうじんおく江夏に友人を送るJaてんすゐうんきうまおくくわうかくろう雪は點ず翠雲〓、君を送る黃鶴樓。Catぎよくうふるにとていわうし書類、玉羽を振ひ、西に飛ぶ帝王の州。ほうらうかんなにゑんいうぎ鳳に琅玕の實なし、何を以て遠遊に贈らむ。七九三江夏送友人雪點。翠雲〓。送君黃鶴樓。黃鶴振玉羽。西飛帝王州。こま鳳無現〓實。何以贈遠遊送送梁四歸東平·江夏送友人
李太白集卷十七はなくわいかげあひかへりかんかうながれ徘徊相顧影。涙下漢江流.徘徊、影を相顧み、涙は下る漢江の流。【字解】E翠雲表宋玉の圖賦に醫水日之華、披二翠雲之義とある。翠色の皮衣であらう。3黃鶴樓鄂州に在つて、經に「費文樟、仙を得、黃鶴に駕して此に憩ふ」とある。3琅玕實竹の實、前に見ゆ。かうかがくしうかうなんせいだうまついうじんえん【題義】江夏は唐時の郡名、卽ち鄂州で、江南西道に屬して居た。この詩は、江夏に於て、友人の遠ふぅご、行を送つて作つたのである。ほくふうすゐうんかはくわうかくろうのぼまゑんいうおく【時意】北風さむく、雪がちらちら舞つて、翠雲の皮に點ずるとき、黃鶴樓に上つて、君の遠遊を送まくわうかくa도そのはねにし쿨ちやーあんます黃鶴が見事な其初を奮つてに飛ぶが如く、つた。君は、これから、長安に赴くのである。鳳に比すたいとたけへいぜいう見;まゑんいうでべき吾は、食ふべき竹の實さへも無く、平生飢に苦んで居る位であるから、ここに、君の遠避を送らそうていあはいくわい!かげた、製550くだかんかうながれこうとしても、贈呈すべき物だになく、徘徊して、互に影を顧み、覺えず、淚下つて、漢江の流に注ぐばかりである。くわういく: hひほうちょうきうきやうべつさらしんじやうこうはん【餘論】黃鶴を以て友に比し、風を以て自ら擬し、その窮境別更に苦なる眞情を抒べたので、後半四すみなみが官たが36句、墨と涙と相和して流るるを疑ふばかりである。かんかうながれ涙は下る漢江の流。はなくわい徘徊、かげあひかへり影を相顧み、3黃鶴樓鄂州に在つて、まつ江夏に於て、いうじんえん友人の遠この詩は、きうきやうべつさらしんじやうその窮境別更に苦なる眞情を抒べたので、こうはん後半四おうは:都昂の巴中に謫せらるるを送る送都昂謫巴中(一)瑤草寒不死.移植滄江濱東風灑雨露。會入天地春。予若浦庭葉。波波送逐臣。思歸未可得。書此謝情人. : :品し,さうかう瑤草、寒くして死せず、移し植う滄江の濱。とうふう·僕装東風、雨露を灑ぎ、會ま入る天地の春。꿀なみ上ちくしん予は洞庭の葉の若く、波に隨つて、逐臣を送る。ニ%いin노歸るを思うて、未だ得べからず、此を書して、情人に謝す。【字解】E瑞草江淹の詩に瑞草正翕絶とあつて、李善の註に「玉芝なり」とある。王琦は說を爲して「接するに、詩家、瑤草を用ふ、珍異の草を謂ふのみ、未だ必ずしも、專ら玉芝を指して言はず」といつたが、いかにも尤もである。3洞庭葉楚辭に渦庭波兮木實下とある。3かいあんやうしがくし上たにげんげんDreamけいてうせうるん【題義】王琦の解に「按ずるに、羊士諤の詩集に詩あり、題して云ふ、乾元の初、嚴黃門、京兆少尹へんうんぬんう:〓より巴州刺史に貶せらる、云云と。詩下註して云ふ、時に都詹事昂、拾遺より〓化の尉に貶せらる。くわうもんとしふし름÷かうくわいとな6黃門年三十餘、且つ府主たり、郡と意氣友とし善し、詩を賦して高會し、文字猶ほ存す、と。又李華の;じぶんしやうおこんぐんさいせいし楊琦曹集の序に、刑部侍郞長安の孫公遂、文章の冠を以て考功員外郎となり、羣材を精試す。君、南のうちやうもしけいてうこうぜんらうやがんしんげいか측りうほう3:陽の張茂之、京兆の杜鴻漸、瑯琊の顏眞卿、蘭陵の蕭頴士、河東の柳芳、天水の趙驛、頓邱の李琚、てうせんになんやうじやうざんえんぼうはんやうちやうなんようかうへいさ趙郡の李專、李頑、南陽の張階、常山の闇防、范陽の張南容、高平の都昂等と連年登第す」とある。ちゆうかうへい달むつとめいししたと元:3せいくわるすると、郡昂は、高平の人で、當時の名士として知られ、はじめ、詹事に任じ、後に拾遺より清化尉送送鄙昂讀巴中七五五
李太白集卷十七ん~たおほかた글かうせん出に貶せられたので、巴中に謫せらるといふのも、大方その事であらう。この詩は、都昂の左遷を送つ〓て作つたのである。めづ총:だいかい選んうつ【詩意】世にも珍らしい瑤草は、寒氣に遇うても、枯死せず、やがて、大海の濱に移し植ゑられたかニTC ; 100 :天地の春に入つて、E *こまら、東風は、雨露を酒いで、之を養ひ、その内に、花を開くに相違ない。君は、§;いせんたくむたしさうほんめかへ丁度、この草の樣なもので、今しも、遷誦せらると雖も、聖主は、必ず恩惠を垂れ、早晩召し還して、cafeはんくだ〔レ大に任用されることであらう。これに反して、子は、洞庭に下る落葉の如きもので、波に隨つて漂ひゑんかうおく15ちやうあんかへたうていptながら、ここに逐臣の遠行を送り、まことに窮苦の極、早く長安に歸りたいと思つても、到底、願のいうじやうめぐみこしだい通りにならず、この詩を書して、有情の人に寄せ、せめては、その汲引の惠を乞ふ次第である。줄じ= a x【餘論】前半は都昂の事、後半は自己の身の上を敍して、これに反〓せしめたので、まことに、悲痛さんたんち'てんぷうしたが一慘澹の至である。嚴滄浪は「予若 洞庭葉、隨波送逐臣、これ等の落句、天風に從つて吹き來ることみづがおほかんちうせいしんま飄忽、自ら覺えず、乃ち玄中に入る」といひ、又「氣意〓深、逐臣を送るに比して更に切」といつた。集卷十七た巴中に謫せらるといふのも、かうせん出この詩は、都昂の左遷を送つおほかた글大方その事であらう。おみ江夏に張丞を送るB.しめの別れむと欲して、心に忍びず。行くに臨んで、情更に親む。江夏送張丞欲別心不忍。臨行情更親.〓;かたむ'げんだ袋酒傾無限月.客醉幾重春。酒は傾く無限の月、客は醉ふ幾重の春。藉草依流水攀花贈遠人. :りうする草を藉いて、流水に依り、花を攀ぢて遠人に贈る。ち··君が此より去るを送り、in送君從此去。廻首泣迷津。首を廻らして迷津に泣く。【字解】S無限月無限の月光。3藉草孫綽の天台山賦に稀萎妻之繼草とあつて、李善の註に「草を以て地に薦いて坐するを禧といふ」とある。ただCCゑんかう최く切【題義】これは、江夏に於て、張丞の遠行を送つて作つたのである。但し張丞の名字等は、ー多分らぬ。しので往あひおほ【詩意】別れむと欲して、心に忍びず、君が急よ出かけるといふ場合に、情更に親むを覺えた。かく〃げんげつくわうたし:三五しゆんくわうリットて、無限の月光に對して、酒を傾けると、君は層層として正に濃かなる春光に醉はれる。その間:またはなまじベたがひま草を藉いて流水に傍ひ、又花を折つて旅する人に贈り、互に去りがてにして居る。かくて、君の此處おっ、:꿀はうくわうさだたげより去るを送りし後、首を廻して、我が生、さながら津に迷ふが如く、彷徨定めなきを嘆き詫ぶるのみである。Lふらか〓よじゃうひとおほ【餘論】この詩は、平淺を免れぬものであるが、後半四句は、流石に、餘情人を移すを覺える。;かたむ'げんだ袋酒は傾く無限の月、客は醉ふ幾重の春。:りうする草を藉いて、流水に依り、花を攀ぢて遠人に贈る。ち··君が此より去るを送り、in首を廻らして迷津に泣く。孫綽の天台山賦に稀萎妻之繼草とあつて、李善の註に李善の註に「草を以て地に薦いてただ但し張CCの名字等は、ゑんかう최くの遠行を送つて作つたのである。切ーこれは、張丞丞ふらか平淺を免れぬものであるが、〓流石に、よじゃうひとおほ餘情人を移すを覺える。後半四句は、送江夏送張丞
李太白集卷十七賦得白鷺鷲。送宋少府入三峽KSはふごく白鷺鵞を賦し得て、朱少府の三峽に入るを送るニいくる5는つきあきらしうすゐさむ白鷺拳一足。月明秋水寒。白鷺、一足を拳にし、月明かにして秋水寒し。三날cress注灣しくんだんw人驚遠飛去。直向使君灘。人は驚く、遠く飛び去つて、直に使君灘に向ふを。【字解】3挙拳の如く縮めて居る。S使君灘水經註に「江水、東、羊腸虎臂灘を經。楊亮、益州刺史となり、此に至??舟覆へる。その波瀾に懲り、蜀人今に至るまで、猶ほ之を名づけて使君灘となす」とあり、太平寰宇記に「使君灘は、高州の東二里、大江の中に在り、むかし、楊亮、益州に赴任す、行船、ここに至つて覆沒す」とあり、一統志に「使君灘は、〓州夷陵州の西一百十里に在り」と見ゆ。そうせうふめいじわか오まみそうせうふ出÷にん【題義】朱少府の名字は分らぬ。三峽は、前に屢ば見えて居た。これは、宋少府の三峽に赴任するをaさいはくろじだいふそうべつ;送るに際し、白鷺鶯を題とし、これを賦して送別の意を寓したのである。:ちぢきこた;た:つきあきらようよう【詩意】白鷺は、一足を縮めて拳の樣にし、他の一足で立つて居るが、折しも、月明かにして、溶溶しうすゐさむシ澁やうりやうふねしづくんだん;たる秋水、いとも寒げに見える。その鷺が遠く飛び去り、むかし楊亮の舟が沈んだといふ使君灘の方な少しも、たいひとおどろわうじ:へ直に向つて、恐懼の態なきは、見る人をして、驚かしむるばかり。君は、王事監きことな打ちはほか少しも艱危を憚らす、しくんだんせふかうげんをかしんさだしといつて、使君灘は固より、峡江の險を冒して行かれるが、鬼神も、定めて加護することであらう。そうせうふ出÷にん宋少府の三峽に赴任するを屋かいしやく上の如くに解釋して餘意あるものとせざる限り、:【餘論】じやうはんも但ぶくくわつぐわ글文字と成つて仕舞ふ。し、上半は、一幅の活畫の如く、L )思古調」といつてある。にんそうべつただしくわんけいこの詩は、送別に對して何等の關係なき聞ぜんしゆけんりうぎよひそして、全首に就いて、乾隆御批には奇かうとうぎ二季の江東に之くを送る1cはつ(けいれんあた初めて强中を發して作り、詩を題して惠連に與ふ。おほじつ죽けんおよ多く慚づ一日の長、二龍の賢に及ばざるを。せいさいうんあたなんぶうc훔ほつ西塞、中路に當り、南風、船を進めむと欲す。うんほうゑんかいはんえいせいせんかか雲峰、遠海を出で、帆影、〓川に挂る。,けつざうしよ禹穴藏書の地、匡山種杏の田。おつ6 T÷遲つ爾が早く歸旋するを。ぶこの行、倶に適あり、かうとうぎ送二季之江東二季の江東に之くを送る〓1cはつ(けいれんあた初發强中作.題詩與惠連。初めて强中を發して作り、詩を題して惠連に與ふ。€おほじつ죽けんおよ多慚一日長.不及二龍賢。多く慚づ一日の長、二龍の賢に及ばざるを。西塞當中路。南風欲進船。せいさいうんあたなんぶうc훔ほつ西塞、中路に當り、南風、船を進めむと欲す。うんほうゑんかいはんえいせいせんかか雲峰出遠海。帆影挂〓川。雲峰、遠海を出で、帆影、〓川に挂る。禹穴藏書地。国山種杏田. ,けつざうしよ禹穴藏書の地、匡山種杏の田。むおつ6 T÷此行倶有適.遲爾早歸旋。遲つ爾が早く歸旋するを。ぶこの行、倶に適あり、【字解】三强中謝靈運に登臨海崎、初發ニ張中、與從とる詩がある。劉履は「强中は地名、今罅山の下に强口あり、疑ふらくは卽ち此ならむ」といつた。三二龍世說に「諸子徵、許子將兄弟を見て曰〓、平奥の淵に二龍あり」とある。E西塞郡川に在つて大江に臨む斷礪であつて、馬當と共に江中の險處と稱せられて居る。3萬穴太平御覽に「九土文活略に送賦得白鷺鷲送宋少府人三峽·达二季之江東七九九
李太白集卷十七曰く、會稽山に一石穴あり、委曲す、黃帝書を此に〓す、禹、これを得たり」とある。C匡山種杏田匡山は卽ち廬山、廬山記に「医續、麿を山に結ぶ、故に匡廬山と號す」とある。神仙傳に「董奉、豫章廬山の下に這つて居り、田を種ゑず、人の爲に病を治め、亦た錢を取らず、重病癒ゆるものは吝五株を栽ゑしめ、輕きものは一株、かくの如きこと數年、計、十餘萬株を得、として林を成す」とある。【六】歸旋二字、ともに歸る。詩の小雅に、言施言歸、復我我族とあり、謝靈運の詩に、三載期ニとるるふたり示かうとうぶつく【題義】二季とは、二人の季弟で、それが江東に行くのを送つて作つたのである。しやれいうんEちやうちうはつしぞくていけいれんチニ【詩意】むかし、謝靈運は、初めて强中を發するとき、詩を作つて、その族弟惠連に與へたといふが、いまちやうどかんce둘··なんちらせいらいさいせつわれも、今丁度、そんな感じがする。われは、一日の長を以て、汝等の上に居るが、生來才拙にして、なんぢけんおよ168しだいなんぢちかうとう二龍に比すべき汝等の賢に及ばざるは、まことに慙愧すべき次第である。これから、汝等は、江東に倍ちよつとほね向つて舟で行くのだが、カせいういざんちうろあたなんぶうなつ혹を西塞山は、その中路に當り、南風の折から、船を進めるには、一寸骨が折れ:ほうせいなゑんかいニbほかげせせんかかいうにわつさだる。眺めやれば、峰勢を爲す雲は、遠海の上に湧き出で、帆影は、〓川に挂り、四顧ただ空濶、定めりよしうぜめきん155くわいけいうけつむにていわう上すどうくつて旅愁の悽然たるを免れぬであらう。しかし、會稽には禹穴といつて、太古の帝王が書を藏した洞窟ろざんとうほう·あんや,まだところけんつつがあるし、廬山には、董奉の遺跡として、杏を種ゑさせた山田があつて、これ等の處は、見物するだなんぢらこのかうさだほ늘はやだ:けの價値がある。そこで、汝等の此行、定めて適意の事あるべきも、われは、早く歸り來らむことをかげんも6待つて居るから、いい加減に切り上げて來て貰ひたい。品じんぶつCy一七七りよちうみしとうがいgおい【餘論】起首四句は二季の人物、次の六句は今次の旅中に見るべき勝〓を述べ、結二句に於て、そのgおい結二句に於て、そのはやかへきたしよくぼう早く歸り來らむことを囑望したのである。かうぜいいうじんらiおく江西にて友人の羅浮に之くを送るけいすあれわかかうざんきうぎてう桂水、五嶺を分ち、衡山、九疑を朝せしむ。きやうくわんあくせいきうらう:ら〓關安西眇たり、流浪、將に何くにか之かむとする。そしよくめいここしうしよわた§素色、明湖を愁へしめ、秋渚、寒姿晦し。ちうせきし15くわうはつ疇昔紫芳の意、すでに過ぐ黃髪の期。くんわうそさんほしいままうんがくこじか君王、疎散を縱にせしめ、雲壑、巢夷に借す。たんた1 Poいたがい爾去つて羅浮に之き、我、還つて峨眉に憩ふ。ちうくわつみちばんりか用はるかあひおも中關、道萬里、霞遙に相思ふ。tきやうしちけいじゆはうしもし楚狂子を尋ぬれば、瓊樹に芳枝あり。かうぜいいうじんらiおく江西送友人之羅浮江西にて友人の羅浮に之くを送る桂水分五嶺.衝山朝九疑。けいすあれわかかうざんきうぎてう桂水、五嶺を分ち、衡山、九疑を朝せしむ。〓關眇安西きやうくわんあくせいきうらう:ら流浪將安之。〓關安西眇たり、流浪、將に何くにか之かむとする。そしよくめいここしうしよわた§素色愁明湖。秋渚晦寒姿。素色、明湖を愁へしめ、秋渚、寒姿晦し。き疇昔紫芳意.己過黃髮期.もちうせきし15くわうはつ疇昔紫芳の意、すでに過ぐ黃髪の期。雲壑借巢夷。くんわうそさんほしいままうんがくこじか君王縱疎散。君王、疎散を縱にせしめ、雲壑、巢夷に借す。たんた1 Poいたが爾去之羅浮。我還憩峨眉。い爾去つて羅浮に之き、我、還つて峨眉に憩ふ。ちうくわつみちばんりか用はるかあひおも中關道萬里.霞月遙相思。中關、道萬里、霞遙に相思ふ。(一〇) tきやうしちけいじゆはうし如尋楚狂子。樹樹有芳枝。もし楚狂子を尋ぬれば、瓊樹に芳枝あり。【字解】E桂水通典に「桂州臨桂縣に離水あり、一名桂江、水源に桂多く、雜樹を生ぜず」とある。3五嶺漢書に「南、五嶺の戌あり」とあつて、頗師古の註に西、衡山の南より、東海に窮まる、一山の限のみ、而して、別に名を標すれば五あり」とある。裴氏の廣州記に「大庚、始安、臨賀、桂陽、揭陽、これを五嶺となす」とあり、郵德明の南康記に「大庾嶺一なり、桂陽騎送江西送友人之到浮八〇一
李太白集卷十七田嶺二なり、九眞都廳嶺三なり、臨賀萌渚嶺四なり、始安態成嶺五なり」とある。その他、種種の說もあるが、この邊の處が一番釋當であらう。3衡山前に見ゆ。三九疑元和郡縣志に「九疑山は道州延唐縣の東南一百里に在り、九山相似て、行く者疑盛す、故に名づく」とある。3安西楊齊賢の說に「唐の安西大都護府、初め西州に治し、後、徒つて高昌の故地に治し、又徒つて龜茲に治す、而して、故府複た西州交河郡たり」といひ、王時は「文義を按ずるに、安西の字、疑ふらくは訛、指して、隴右道安西大都讓府となす、悉らくは未だ是ならず」といつた。0疇昔普日に同じ、すでに前に見ゆ。E紫芳紫芝に同じ。四黃髪爾雅に「黃髪は、壽なり」とあつて、郭璞の註に「黃髪は、髪落ちて更に黃なるものを生ず」といひ、邪昺の疏に「舍人曰く、黃曇は、老人髪白くして、更に黃なるなり」とある。C集夷葉父と伯夷。C11楚狂子列仙傳に「陸通といふものは、楚狂接奥を云ふなり、養生を好み、棄盧木實及び燕菁子を食ふ。諸名山に游び、蜀の峨眉山上に在り、世世これを見る。數百年を歴て、仙し去る」とある。かうせいは一いかうぜいしやうけんもんるゐじうひiぎる+けだ【題義】江西は、矢張、今の江西省の地である。藝文類聚に引ける羅浮山記に「羅浮とは、蓋し總稱、'ざんざんさんがつたいぞうじやうほくらけん룡羅は羅山なり、浮は浮山なり、二山合體、これを羅浮といふ。增城·博羅二縣の境に在り。舊說、羅浮둘ちゃけいいしんめいしんきんしゆさうは高さ三千丈、七十二石室、七十二長溪神明·神禽·玉樹·朱草あり」と記してある。この詩は、かうぜいないうじんぼう6 +ざんれ(っ江西に於て、友人某の羅浮山に遊ぶを送つて作つたのである。それから、君王の句を見ると、その友じんてうしんお り人は、元と朝臣の籍に居たものと思はれる。けいかうみづむわかきうぎI :すなはTほしょま【詩意】桂江の水は、五嶺を分ち、衡山は、九疑を朝せしめ、その先が、卽ち羅浮の境である。君のこきやうあんせい:とE故〓は、遙に安西であるのに、流浪して、これから、何處へ往かうとするのであるか。明湖の水は、ば: 11〓澄み切つて、その色、さながら愁ふるが如く、洲渚は秋になると、寒げな氣色も晦くなつて見える。せんざん:くわうはつ君は、むかし、仙山に入つて、紫芝を采らむことを願つて居たが、すでに、黃髪の期を過ぎて、念よらうじん·lとこヒざいへん老人に成つて仕舞つた。そこで、君王も、特に注意して、その疎散の性癖を縱にせしめ、自在に雲こほ쿨まかなま"堅に住することを許して、巢父·伯夷の如き君の情思に叶ふ樣にされた。そこで、君は、それから羅浮こたこわれかへが加山に往かれるとのことであるが、同時に、吾は、蜀に歸つて、峨眉山中に休息したいと思ふ。羅浮ともうかんくうくわつたきほし:達ゆふへっみ:ねんご峨眉とは、中間空闊、相去ること萬里、朝の霞夕の月を見るにつけて、遙に相思の念を動かすばかま·りである。君、もし、髪の狂生と云はれた當年の陸通の樣な人に遇つたならば峨眉山中の瓊樹には、ごちいbはやし芳枝が茂つて、まことに善い處であるから、早く此に來て、吾と一所に住んだが善いと、さう云つて吳れろ。ぜんぽん六あつにがにんな【餘論】前半は羅浮へ行くこと、君王の二句は、この行の所由を述べ、爾去の四句は、爾我二人を對: a立せしめ、如尋楚狂子」の二句は、峨眉に陸通の故跡あるに因つて、さういふ人に言づてをして吳れおぼろといつて收束したので、いささか、餘情あるを覺える。せんしうしやてうろうかうしよしゆくうん宣州の謝朓樓にて校書叔雲に餞別す듣昨日の日、留【字解】C宣州謝朓樓。錢別校書叔雲。:棄我去者昨日之我を棄てて去るものは、送宜州謝院樓議別校書叔雲C長風萬里陸機の
李太白集卷十七日不可留.亂我心者今日之日多煩憂。c長風萬里送秋雁。對此可以酣高樓。写蓬萊文章建安骨.中間小謝又〓發。倶懷逸興壯思飛.欲上靑天覧日月。抽刀斷水水更流.擧杯銷愁愁更愁.人生在世不稱意。い明朝散髪弄扁舟。卷十七詩に長風萬里擧、慶雲敷嵯峨とあるに本づく。3醋酒を樂むこと。CO蓬萊後漢書賣章傳に「この時、學者、東觀を稱して、老氏の蔵室、道家の蓬萊山となす」とあり、章簡太子の註に「東觀の經籍多きをいふなり、蓬萊は海中の神山仙府たり、■經祕錄、竝に皆在り」と見ゆ。3建安骨東漢建安の末、孔〓、王榮、徐幹、劉禎、廳揚、阮瑀、及陳琳、び曹氏父子あり、作るところの詩、世、これを建安體といひ、風骨道上、最も古氣饒しと稱ぜられて居る。B小謝王琦の註に謝惠達として、鍾嶸の詩品を引いてあるが、惠連と謝勝樓とは、何等の關係もない。この小謝は、謝朓を指したものに相違ない。5散髪科頭に同じ。頭髪を枕らず振り亂して居ること。むべからず。iあだ我が心を亂るものは、今日の日、煩憂おほ多し。ちやうふうばんりれ長風萬里、秋雁を送り、示ま:此に對して、以て高樓に酣なるべし。交章"けんあんう蓬萊の建安の骨、中間の小謝、又〓發。六ともに逸興を懷うて、壯思飛ぶ、aじつげつ靑天に上つて、日月を覽むと欲す。かたなみづたるまなが刀を抽いて水を斷たば、水、更に流れ、じょ愁る。w ch杯を擧げて愁を銷せば、更に愁ふっじんせい上人生、世に在つて、意に稱はざれば、へんしう明朝、散髪、扁舟を弄せむ。今日の日、煩憂酣なるべし。盛ん。樓は、せんじやう【題義】謝朓樓は、卽ち疊嶂樓で、江南通志に事國府郡治の後に在り、卽ち謝朓、宣城んい太守たりし時の高齋の地、一名北樓、亦た謝公樓と稱す。唐の咸通間、刺史獨孤霖、改建して、今のま1名に易ふ」とある。校書叔雲は、前にも見えて居た。この詩の題は、一に陪待御叔華なノ〓歌歌に作つヒ:· ·S : 2 i語1.8てあるさうで、侍御の官に居た枚父の事事と共に權に登つて作つた歌といとことに李華は、卽せんぢやうredおいち古戰場を弔ふの文を以て千古に稱せらるる文人である。この儘ならば、宣州の謝公樓に於て、校書2れ〓郞たる叔父李雲の遠行を送つて作つたのである。u一たび去つて復た歸らざるものは、【詩意】われを棄てて去り、卽ち昨日といふ日であるし、わが心しyを亂して、煩憂多からしむるものは、今日といふ日である。つまり、昨日までは、叔父と共に、詩酒をたりしみふたただこんにち徵逐、樂を共にしたが、その日は、再び回すべからず、そして、今日は、別離に際して、わが心をちゅうしう: 3法も:秋天の上には1せいがん上さの愁へしめる次第である。時しも、長風萬里より來り、征雁を吹き送り、さなきだに物,ふうけいなぶんかたむきようたけなはおよ悲しき時節であるから、高樓の上に於て、この風景に對し、十分に酒を傾けて、興酣なるに及ばねはいしゆつ롯だいぶんしやうばならぬ。むかし、七子の輩出せし建安の世は、まことに詩の盛な時代で、風骨道上、蓬萊の文章をに:ひ以て目せられて居た。それから、今日に至る、その中間には、この樓の舊主人たる謝胱といふ人があ1方のぼつて、その才思、〓壯發越、宜しく、步を建安に接すべきものである。そこで、予は、此樓に登つて、おぼ:せいてんじつげつ當年の逸興を追懷すれば、覺えず、壯思飛騰し、この浮世を離れ、高く靑天に登つて、日月を覽る樣宜州謝脫接議別校書叔言
李太白集卷十七かんしやてうおしへの人で、上〓示いところあな感じがする。しかし、謝朓は、われと世を隔て、いくら之を思つた處で、遇ふことでかたな。ぬす水は遙よ流れるので、だながさいげっ늘そのも出來ない。そこで、刀を拔いて水を切れば、歲月の駐め兼ねたるは、先づ其とさかづき36 56 t :はてつひこれ通り。それから、杯を擧げて愁を消さむとすれば、愁更に愁へて、まことに果しなく、遂に之をのでこじんこんじんい除くことは出來ない。古人すでに見るべからず、そして、今人にも容れられず、つまり、この世に在ぞんぶん:でしかたみやうにちさんぼつ:へんしう;とつて思ふ存分の事が出來ぬとならば、どうにも仕方がないから、明日は、散髪の儘、扁舟を弄し、遠かうかいこのだほかく江海の上に乘り出すより外はない。きしせんつつせいぶんしたしやてうろうのほっかんがいにむ【餘論】起首四句が餞別の正文、その下は、謝朓樓に登つたに就いての感慨で、しかも、有意無意のおとやせんべつれんくわんところおもしろりうしゆけいさいくわいてつたう:間に、餞別と聯關して居る處が面白い。されば、劉須溪は「崔嵬跌宕、正に起一句に在り、不前Vたほつてうぜんどくりつよたいつぎ意とは、絕たむと欲するをいふ」といひ、つまり、超然獨立、この世と絕つといふ意である。次に吳しやうきまめいゑんへんくわいだためいゑんはうせうおすえゆうちなん昌祺は「亦た明遠より變化し出し來る」といつたが、明遠は鮑照の字で、これは、かの行路難の中の瀉水量平地。各自東西南北流。人生亦有命、安能行歎復坐愁。酌酒以自寬。擧杯斷斷歌路難。心非木石豈無感。呑聲脚躅不敢言。しゆごあはげんりうぎよひえうじゃうへうじゆいつきよううんび2 @の一首などを思ひ合せて、言つたのであらう。なほ乾隆御批には「遙情聽堅、逸興雲飛、杜甫の謂は示千載にして下、なしゆっんがんいじやうしんせんきいゆる飄然思不羣のもの、此なり。猶ほ酒間岸異の狀を見る、眞に仙才なり」といつた。せんじやうりうふくししん穴宣城にて割副使の秦に入るを送るますなはりうゑつゆうがうたうじちんこ君は卽ち劉越石、雄豪、當時に冠たり。せいせいわうすあきよくかうがいふは妻〓橫吹の曲、慷慨扶風の詞。:とうやくけいめいちしり虎嘯、騰躍を俟ち、雞鳴、亂離に遭ふ。かはんりたこSur〓しゆんは千駿馬を市ひ、萬里、王師を逐ふ。まじはりむすろうはんちじじうえに交を結ぶ樓煩の將、侍從、羽林の兒。こすごゑっごとあへ3.8兵を統べて吳越を捍ぎ、豺虎、敢て窺はず。たいくんは生しうふう大勳、竟に敍するなく、すでに秋風の吹くを過ぐ。AB ;りんぜんえいしお鐵を乗る、季公あり、凛然として、英姿を負ふ。;よかじうほくまのぞじたらむに深きを寄す、且つ戎幕、重きを望む、必ず台司。かんげきぜんだくコ つじうわうふたフリッ感激、然諾を一にし、縱橫、兩つながら疑ふなし。ふくそうほくげつばあいしうたちまにし伏奏、北關に歸り、鳴騎、忽ち西に馳す。れつしやうaえいれうくをし列將、咸な出でて祖し、英寮、分離を惜む。八〇七宣城送劉副使入秦君卽劉越石。雄豪冠當時; (三)凄〓橫吹曲。慷慨扶風詞。15虎嘯侯騰躍。雞鳴遭亂離。千金市駿馬。萬里逐王師。結交樓煩將。侍從羽林兒. @ (六)統兵捍吳越。〓虎不敢窺。大勳竟莫敍.已過秋風吹。秉鉞有李公禀然負英姿。寄深且戎幕.望重必台司。感激一然諾。縱橫兩無疑(〇)伏奏歸北闕。鳴騶忽西馳。列將成出祖。英寮惜分離。送宜城送到副使入秦
李太白集卷十七斗酒滿四筵。歌嘯宛、溪湄、155 (一四君攜東山妓。我詠北門詩。貴賤交不易.恐傷中園葵。白玉石昔贈紫騮駒。今傾同歡萬斛酒.未足解相思。此別又千里.秦吳沙天涯。(一七)月明關山苦.水劇隴頭悲。借問幾時還.春風入黃池.無令長相思.折斷綠楊枝。かせうゑんさいといえんみ斗酒、四筵に滿ち、歌嘯す宛溪の湄。はとうざん·たづさほくもんしえい君は東山の妓を攜へ、我は北門の詩を詠す。せんまじはりかちうゑんちくまちこそ貴賤、交〓、易はらず、中園の葵を傷けむことを恐る。おくはくぎよくさかづきもちし:むかしは紫驅の駒を贈り、今は白玉の巵を傾く。くわんおなまんごくもいた歡を同じうす萬解の酒、未だ相思を解くに足らず。べつまたしんごてんがいこの別又千里、秦吳、天涯に渺たり。くわんざんくみづはげりようとうかたし月明かにして關山苦、水劇しくして隴頭に悲む。かへもあんないくわうちしやもん借問す、幾時か還る、春風、黃池に入る。ちやうさうしりよくやうえだせつだん長相思をして、綠楊の枝を折斷せしむるなかれ。【字解】【一】劉越石晉書に「劉理、字は越石、少にして〓閉の目を得たり、范陽の祖納と倶に雄豪を以て名を著はす」とある【二】横吹曲劉現に扶風歌九首あるが、その横吹曲は、今逸して傳はらない。或は胡笳を吹いたことだといふが、それでは、適切でなC難鳴世說註に「膏陽秋に曰く、祖述、劉現と倶に雄豪を以て名を著はす。年二十四、現と同じく、司州主簿に辟さる。情好綱繆、被を共にして發ぬ。中夜、難鳴を聞き、倶に起つて曰く、これ惡聲に非ざるなり」とある。三樓煩將史記に「將ゐるところの卒、樓煩將五人を斬る」とあつて、李奇曰く、樓煩は縣名、その人、騎射を善くす、故に以て射士に名づけて樓煩となし、その美稱を取る、未だ必ずしも樓煩の人たらざるなりと。3羽林兒漢書に「羽林は送從を掌る、武帝の太初元年に置く、名づけて建章警騎といひ、後、名を羽林騎と更む」とある。E捍吳越王琦の解に「上元中、宋州の刺史劉展、兵を擧げて反す、その黨張景超·孫待封、攻めて蘇湖を陷れ、進んで、杭州に逼り、溫晁·李蔵用に破らる。劉副使、時に亦た兵間に在りて、功、錄せらることを得ず、故に統兵捍ニ與越、豺虎不敢窺、大勳竟莫鼓、巳過秋風吹の旬あリ」とある。+C季公季廣深を指す、舊唐書に「上元二年正月、溫州刺史季廣琛、宣州刺史となり、断江西道節度使に充てらる」とある。戎幕節度使の幕府。CO台司三六、七C'I北國上書奏事の徒の謂る處。三二鳴驅北史に鳴膓〓路、盛列ニ關備とあり、章懷太子の後漢書註に一は騎士なり」とある。ct1宛溪江南通志に「寧國府城の東に在り」と見ゆ。CII東山玆謝安の事、前に見ゆ。CID北門毛裏詩傳に「北門は仕へて志を得ざるを刺るなり、言ふは、衞の忠臣その志を得ざるのみ」とある。C11恐傷中園葵古詩に採奏莫傷根、傷根葵不生、結交莫養費、蓋貧交不成とある。CHI白玉巵漢書の註「應郡曰く、巵は飮酒の禮器なり、古しへ角を以て作り、四升を受く。顔師古曰く、巵は飮酒の圓器なり」CTI隴頭郭仲彥の秦川記に「醜山は、東西百八十里、山嶺に登つて、東、秦川を望む、四五百里、極目泯然、山東の人、行役し、此に至つて顧贈するもの、悲思せざるなし。故に歌うて曰く、醜頭流水、分離四下、念 我行役、驅然頭野、登高望遠、涕零變隨とある。CAI黄池胡三省の通鑑註に「宜州當塗縣に黃池鎭あり」といひ、一続志に「黃池河は、太平府城南六十里に在り、東固城河に接し、西,蕪湖縣に接す。河は、大江に入り、南、黃池償に至り、北、宣城縣界に至る」といひ、江南通志に「黃池河は、池州當塗縣南七十里、事國府城の北一百二十里に在り、一名玉撰、郡の東南の水、皆ここに聚まる、大江に出で、河心分界、南、宣城に屬し、北,當童に屬す」とある。せんじやうまへ絶をたうじよくわんしせつとし七혼にんどうせつとふくし【題義】宣城は、前に數ば見えて居た。副使は、唐書百官志に「節度使の下、副使一人、同節度副使にんまたあんぶしくわんさつしだんれんしほうぎよししたみなふくしにんせんじゅうおい十人あり、又按撫使、觀察使、團練使、防禦使の下、皆副使一人あり」とある。この詩は、宣城に於りうぼう:ちやうめんせいじやうれミ:にえつれきとな12て、副使劉某が公事の爲に長妄に西上するのを送つて作つたのである。劉の名字閱歷等は、例の如く送宣城学劉副使入秦
事太白集卷十七ふしやう不詳。:どうせいちなみりうふつせきひだいじんぶつせい くわん【詩意】君は、同姓の因ある彼の劉越石に比すべき大人物であつて、その雄豪は、一世に冠として、たへいぜいした'わうする他に比類なき位、平生、詩賦を善くし、感慨を託した詩を多く作つて、世上に流傳して居るが、橫吹せいせいかうがいじんしんと曲の凄〓なる、扶風詞の慷慨なる、ともに人心を激盪せしめる。たとへば、虎が嘯いて、騰躍を待つ;ひさたまたけいめいzしゆんはほねが如く、久しく屈伏して居たが、會ま亂離の日に過ひ、雞鳴を聞いて起ち、むかし千金で駿馬の骨をかやうらわうこうでねんれしたばんり准わた買つたといふ樣に士を好む王候に出合ひたいと念じつつ、王師に從つて、萬里の遠きを渉つた。かくろうはんしやうたたたひとびとまじはり等またえことあたて、樓頰將と綽名される勇力の人人と交を結び、又羽林の兒として、天子の送從に當ることに成つしづとかく=あぞくしやう敢〓た。兎角する內、外に出で、劉展の亂を切り靜めて吳越の地を禦ぎ、豺虎に比すべき賊將どもも、そのさやひ〓ならふおて其境を伺ふことなく、まことに大した功動を著はしたが、不幸にして、採錄せられず、むなしく1 1きくわうちん달ゑつちこ秋風の吹き過ぐる儘に成つて仕舞つた。ここに、季廣環といふ人は、斧鉞を執つて、節度使となり、りんぜん;じう凌く上:のほぢうにん凛然として英姿を負ひ、戎幕の中に在つて、深い恩旨を寄せられ、やがて、三公の位に上つて重任をしやうかしんちいほうせいよきみすなは引受けむことを囑望せられ、上下ともに信賴して、その威望聲譽は、すばらしいものである。君は乃かんげきぜんだく出いだ:るなしんにんち季公の知に感激して、然諾を一にし、縱橫の計を出して、兩つながら疑ふことなく、互に信任して、촌たじやうせいうこ少しも間隙が無い。じ〓仍つて、今次その命を受け、北闕に歸つて、刻下の狀勢を伏奏せむとし、愈よ長あんむか;だむかはつてい노安に向はむとし、騎士を揃へて、しづしづと練り出して、西に向つて發程することに成つた。そこで、ほくちうしよしやうひといニせんそうなんどうれう三、をし幕中の諸將は、齊しく出でて之を儀送し、英武の聞こえある同僚どもは、ともに、別離を惜んだ。そざじやうゑんげいrecorden→だうえんに於ては、せうこゑ二にぎ斗酒、座上に澄れむとし、の祖道の籠宛溪の邊に於て、歌笑の聲、賑はしく打興じて居る。ちょっ;東山に於ける謝安の風流に擬し、とうざんしやあん·われたちうしんいまもその時、君は、妓を攜へて、我は、北門の詩を詠じて、忠臣未だ其こころぎしBissおむししんせい,せんら글づかは志を得ざることを竊に悲んだ。げにや、眞正の交は、貴賤、等を異にするも、決して渝らざるべゑんちうあふひあたねし: :いまたく園中の葵を采るに當つて、その根を痛めてはならぬ。むかしは、紫驢の馬を贈つたが、今は唯だはくぎよくさかづきたらりやうがいへんくわかた白玉の巵を傾けるばかり、これも、我が境涯の變化、まことに、致し方も無いことである。かくて、あんまんつくもたくわんきようはじたいまへいぜいさうし달同じく、萬解の酒に對して歡興を縱にするも、未だ平生相思の苦を解くに足らず、ここに、一たわか~ :しんtこてんがい:び別るれば、忽ち千里を隔て、君の行く秦と我が居る吳とは、天涯に懸け離れて居る。折しも、この=くわんざんおい吳地に於ては、ふづはげ月明にして、關山に冴えわたつて居るが、かの秦地に於ては、隴頭の水が烈しく激みづして、悲しげに聞こえるであらう。やがて、春風媚〓として、黃池の水に吹き入らむとするに際し、まいいんしん:あひおもみどりuやうりう君は、何日ここに還られるであらうか。いつまでも、音信なくして、長く相思ふの極、綠に煙る楊柳中に둘との枝を折斷して、その蹄るを待つやうな事の無いやうにして貰ひたい。へんぶくPながちつじょせいぜん【餘論】この詩は、篇幅は稍や長いが、秩序整然として居る。起首より已過秋風吹に至るまでは、じんぶつこうげふとiさ一にえ割副使の人物功業を敍し、乗銀有季公の四句は、季廣環の事を挿入し、感激一然諾の四句は、今にせいじやうぜんべんちうしんいいいい次副使の西上を述べて、全篇の中心となり、列將咸出祖の四句は、祖麓の光景、君攜東山妓の八句送宣城送到副使入藥八
李太白集卷十七じこ··わんけいべつりおは、自己と割副使との關係より別離に及び、はやしよくばう早からむことを囑望したのである。りやうちくわうけいへいじよかおう兩地の光景を竝敍し、且つ其歸期のいか此別又千里以下は、けいせんせくていじゆんに淫川にて族弟錞を送るげいせんじやくやは涇川三百里、若耶、これを見るを養づ。むたへきざんりやうへんこちじ錦石、碧山を照らし、兩邊の白鷺驚。かきやうおまえせかくかうや佳境、千鶴間客行、歇む時なし。きんかうはしたりょうやうし上に琴高の水あり、下に陵陽の祠あり。せんにんmめいげつむなじん仙人、我を見ず、明月空しく相知る。われなにごとろ:おすた我に問ふ何事か來ると、盧敖、幽期を結ぶ。ほうざんゆうひつ:しうふくだしi蓬山、雄筆を振ひ、縮服、〓詞を揮ふ。かつこしうしよくはつさうもくえいじ江湖、秀色を發し、草木、榮滋を含む。:おけいんんじょしよう酒を置いて、惠連を送り、吾が家、白眉と稱す。涇川送族弟錞淫川三百里。若耶羞見之.錦石照碧山。兩邊白鷺鷲佳境千萬曲。客行無歇時。注)上有琴高水。下有陵陽祠。仙人不見我。明月空相知。15問我何事來。盧敖結幽期。蓬山振雄筆。〓服揮〓詞。江湖發秀色。草木含榮滋。も置酒送惠連。吾家稱白眉。6 (九)愧無海嶠作。敢闘河梁詩. (0)見爾復幾朝。俄然告將離。中流漾級、鶴.列岸叢金覊.歎息蒼梧鳳.分棲瓊樹枝.〓晨各飛去。飄落天南垂望極落日盡.秋深嗅猿悲.寄情與流水。但有長相思:はかいけう:じかかりやうし愧づ海嶠の作なきを、敢て關かむや河梁の詩。佐々にみいくてうがぜんしやうり爾を見る、復た幾朝、俄然として、將離を〓ぐ。ちうりうさいィきおおきにつつん12 t中流、綵鷁を漾はし、列岸、金覊叢がる。たんそく:ほうわかけいじゆえだ歎息す蒼梧の風、分れて棲む瓊樹の枝。せいしんおのおのとへうらくてんなんすゐ〓晨、各飛び去り、飄落す天の南垂。のぞみきはらくこつつあきふかあいゑんかなし望極まつて、落日盡き、秋深くして、瞑猿悲む。둑よりうすゐあたたちやうきうし情を寄せて、流水に與ふるも、但だ長相思のみあり。【字解】E湮川卽ら湮溪、淫縣の西南一里に在つて、唐時は宜城郡に隸屬し、源は石埭より出で、流れて南陸の宜城を經、蕪湖を諭えて、大江に入る。【二】若耶獨の名、前に見ゆ。C琴高水即ち琴溪、江南通志に「琴溪は、事國府涇縣に在り、源は事國諸山より出で、溪頭水と合し、西、琴高山下を過ぎ、乃ち琴溪と名づく、傳ふ是れ琴高、鯉を控するの地」とある。三陸陽祠一統志に「望仙亭は、陵陽山中峰の半に在り、相傳ふ、漢の寶子明昇仙の地と。唐の天寶問建つるところの仙壇宮あり、陵陽祠は、卽ち仙壇宮なり」とある。3盧效仙人の名。5〓服繡衣、ともに前に見ゆ。CE白眉馬氏五常、白眉最も良し、亦前に見ゆ。〓海嶠謝靈運に登ニ海海崎與ニの弟あり、前に見ゆ。CC河梁詩李陵の蘇武に與へし詩に、講手河梁上、避子幕何之とある。河梁は橋。又魏書に「中山王熙の鄰に鎭するや、知友才學の士、冀翻、李琰、李神偶、王師兄弟、斐敬憲等、成な河梁に錢し、詩を賦して別を告ぐ」とある。C1)將離吳均の詩に有客告將離、贈言重蘭蘭とある。CI絲鴻送涇川送熊弟錞
李太白集卷十七縞は水島、その像を船首に畫く。【三】瑾樹枝前に見ゆ。【一三】南垂垂は頤、卽ち邊。せんじやうぐんおいぞくていりじゆんゑんかうm〓きじ놓【題義】この詩は、宣城郡の湮溪に於て、族弟李鎔の遠行を送つて作つたのである。李白の自註に「時ろま、へんちうに、盧校書、序を草し、常侍御、詩を爲る」とあつて、その事は、篇中にも見えて居る。けいぜんrienおよさんすゐせいゑんじやくやけいおよ【詩意】涇川の流は三百里の長きに及び、山水〓遠、かの勝名ある若耶溪も、とても及ばぬといつて、んなりやうへん1たこれを見るを羞づる位、五彩爛然、錦の色を爲せる石どもは、碧山に映じ、兩邊には白い鷺が飛び起はいがふ濃持ちかきやうたにいくくわい,つて、その配合は、極めて鮮かで美しい。かくて、佳境は溪中處處に在つて、溪は幾囘となく迂曲し、ときんげい5ここを尋ね行くと、休息する時も無い位、上流には琴溪といつて、奉高が鯉に乘つた遺蹟があるし、とうしめいしようせん;其幽栖を出て、吾に逢ふこ下流には、寶子明昇仙の跡なる陵陽の祠がある。仙人は、とも無かつたが、めいげつPro出明月のみは、空しく相知つて居るらしく、吾に向つて何事に因つて來たかと問ふ樣であつたから、ころですせんにんテんをして置いたから、れに答へて、吾は、盧敖といふ仙人と約束それで、態態來たのであるといつた。かうしよ? 2お言じやうじぎよ指その時盧校書は、序を作らむとし、蓬萊の祕府に限れる雄筆を振ひ、常侍御は、繡衣を著ける尊貴のせいしふうぶつはつえいじ身を以て、〓詞を揮つて、一篇の詩を作られた。かくて、江湖の風物は、秀色を發し、草木も、榮滋じょだい意よ光彩を增しくわうさし노けいれん녹を含んで、た次第である。ここに、置酒して、我が家の惠連とも稱すべく、又馬氏use aぞくていりじゆんゑんかうおくわれれいうん五常中の白肩にも比すべき族弟李每の遠行を送るのであるが、愧づらくは、吾に靈運の才なければ、:き海嶠に登臨したといふ樣な佳作を拈出し得ざれども、河梁送別の詩だけは、決して、缺かしはせぬ。再び汝に逢ふのは、なんち何時とも分らず、かグ俄然として、ぜんここに別を爲すのは、わかれまことに、傷心に堪へぬこか:推出がんじやうとである。かくて、中流には、形鶴を舷頭に飾つた避勅を浮べて遊び戯れて居るものの、岸上には、た'むらがはつていで;はやわうごん黄金の手綱をつけた馬が簇つて、いつでも、發程の出來る樣に、早くも用意が整つて居る。われとわかじ,汝とは、梧桐に棲む鳳凰に比すべきものであるが、いつしか、そこを去り、分れて瓊樹の枝に棲み、それだに久しからず、달〓晨に乘じ、せいしんおのおのと各、飛び去つて、天の南陲に飄落せむとして居る。なんすら眺めやる彼方せいりやうまんもくわかれ옴a秋は急よ深くして、六別を爲すに堪には、夕日も見えなくなり、猿は日暮に悲み、まことに凄凉滿目、こ海·上いへぬ。どこまでも、君に從つて行くやうにとて、情を流水に寄せたものの、依然として長く相思うて、この恨ば決して盡くることがない。の八句は族弟李置酒送惠連【餘論】起首八句は淫川の風物、仙人不見我の八句は勝遊の興會かんがいき·〓ん錞の餞別、歎息蒼梧風以下は別離に就いての感慨、寄情與流水」といふのは、數ば前にも見え、ど常用の套語と成つて居る位で、これだけは、あまり有り難くもない。しようざんいんしゆく五松山にて殷淑を送るちゃんとなんぢい秀〓、江左に發し、風流、若を奈何。五松山送殷淑秀色發江左。風流奈若何。送五松山送殷淑
李太白集卷十七しつひかにに仲文了不還。獨立揚〓波。仲文、了に還らず、獨立して、〓波を揚ぐ。휴たいぜん載酒五松山.頽然白雲歌。酒を載す五松山、頽然たり白雲の歌。ちくげつわたばんり造品uf中天度落月。萬里遙相過。中天、落月度り、萬里、遙に相過ぐ。C四)미をしたおそ撫酒惜此月。流光畏蹉跎。酒を撫して、此月を惜み、流光、蹉跎たらむを畏る。明日別離去。連峰鬱嵯峨。明日、別離し去らば、連峰、鬱として嵯峨たらむ。【字解】3江左江南に同じ、前に見ゆ。【二】仲文晉書に「殷仲文は、南豐校尉顏の第なり、少にして才藻あり、容貌に美なり」とある。【二】撫酒酒を傾ける。E蹉跎人意に反して、早く過ぎ去ること。おい楊齋賢の解にせんしうなんりよう【題義】「五松山は、宣州南陵に在り」としてある。この詩は、五松山に於て觴詠しついんしゆく달ゑんかうれ、なぶっ、般淑といふ人の遠行を送つて作つたのである。淑は名であらうが、その字や〓貫·閱歷等は、例1の如く一切不詳。はつせいたんそふうりうたうだい【詩意】秀絕なる風色は、江南に發生し、時節柄、その間を遊歷して居る汝は、まことに、風流當代いんちうぶんまごくわんさいとうようほうふた古しへの殷伸文に比すべき君は、に冠たるものである。才藻容貌、兩つながら美にして、故〓に還らせちゅうせいはきましようざんうともせず、獨り行歌しつつ、〓波を揚げむばかり。ここに、君を送るが爲に、酒を載せて五松山に業たいぜんはくうんただちくげつななめれうくわく至り、頽然として、白雲の歌を唱へ出せば、落月斜に中天を渡り、はるかに、萬里の寥廓を過ぎて行つひかにに仲文、了に還らず、獨立して、〓波を揚ぐ。휴たいぜん酒を載す五松山、頽然たり白雲の歌。ちくげつわたばんり造品uf中天、落月度り、萬里、遙に相過ぐ。미をしたおそ酒を撫して、此月を惜み、流光、蹉跎たらむを畏る。明日、別離し去らば、連峰、鬱として嵯峨たらむ。明日、容貌にもき:この月の画に落つるを惜み、:とくのが見える。酒を傾けつつ、流光蹉跎たり易く、兎角人意に副はないざんねん:のが、いかにも殘念である。かくて、明日愈よ別れて仕舞へば、連山鬱然として聳え、君の去程を岩遮つて、何處へ往つたか、影だに見えぬことであらう。さ:いんちうぶんこじIbに;た【餘論】殷淑を送るが故に、般仲文の故事を用ひたのは、例の慣用の手段で、後には、唯だ東坡のみこそのせんいしやぜんげんさうらうが最も之を善くした。それから、劉須溪は「これ其淺易なるもの、意亦た灑然たり」といひ、嚴滄浪へんしやうしうとくはふちうだ亦た稍や異なり」といつた通り、글〓は「篇章秀特、順流して下るを作さず、已法中に於て、この詩は、まみ卽ち時に一奇を試みて、熟套を避けむことを企てたもので、さすがに、その苦心の痕が見える。かうほ山さいしんまいふ處を觀ると、李白は、すべてが不用意に出でたるに非ずして、なかなか、細心の工夫を著けたものである。えれ崔氏昆季の金陵に之くを送るはうかおもし放歌、東樓に倚り、行子、曉發を期す。おとた?秋風、江を渡つて來り、吹き落す山上の月。L主人、美酒を出し、燭を滅して〓光を延く。八一七送雀氏昆季之金陵放歌倚東樓。行子期曉發。秋風渡江來.吹落山上月。こ主人出美酒。滅燭延〓光。送遺崔氏昆季之金陵
李太白集卷十七二崔向金陵。安得不盡觴。水客弄歸棹。雲帆卷輕霜。扁舟敬亭下.五兩先飄揚峽石入水花。碧流日更長。思君無歲月。西笑阻河梁。こきんりようむかぢさきかづき?入二崔、金陵に向ふ、安んぞ觴を盡さざるを得む。するかくなつろううんほんけいさう水客、歸棹を弄し、雲帆、輕霜を卷く。へんしうけいていりやう1へうやう扁舟、敬亭の下、五兩、先づ〓揚。すゐくわいながcうさら峽石、水花に入り、碧流、日、更に長し。さいげつかりやう:ちいせうんで君を思うて、歲月なし、西笑、河梁を阻つ。【字解】【一】延〓光劉鑠の詩に羅帳送ニ秋月とあつて、呂向の註に「延は引なり」とある。E敬宜州宣城縣に在り、壓ば前に見ゆ。D五兩郭璞の江賦に規五兩之動靜」とあつて韻會に「続は、船上、風を候するの羽、楚人、これを五兩といととある、卽ち風見の仕掛。三西笑長安の話を聞けば西に向ひて笑ふといふので、前に見ゆ。但し、ここでは、友の居る方をいふので、長安ではない。いしきやうだいきんりよう〓くくほんしゃやさいちゃうするていほ【題義】これは、崔氏兄弟の金陵に往くを送つて作つたのである。一本に「秋夜崔八丈の水亭にて崔ご〓しおつこジャだじゅただいつ二を送る」に作つてあるが、詩中に二崔とあるから、ここに揭げた題の方が正しい樣である。じゅ放歌して、かうろう上こんせきせんへついph (よ:みやうにちあかつきはや【詩意】高樓に倚り、今夕は、餞別の意を十分に盡すが善いので、君は、明日の曉早くはつていよういゐましうふうり)かうこさんじやうざんげつ發程せむと用意して居られる。その時しも、秋風は颯として江を度つて來り、やがて、山上の殘月を望せいりやうかんなしゆじん:いだ主人は美酒を出し、とうくわる吹き落し、まことに淒涼の感に堪へぬであらう。ここに、燈火を吹き消して、月せいくわうひいえんいんひたいさいしきやうだいきんりようむかの〓光を引き入れ、そして、宴飮を催したので、今しも、崔氏の兄弟が金陵に向ふとのことで、どうさかづき?たもしわせさけ君の行く途すがら、〓:ふなびとたうろう:して、杯を盡して酒を傾けぬ譯には行かぬ。それから、舟人は、歸棹を弄し、雲ゐほかげしもおをかうてんくうくいいいんんちかかすみ능井にまがふ帆影は、霜を帶び、折しも、江天空關、やがて、敬亭山の近くにさしかかると、風見の鳥へうやうじゆんぶう〓てけふちうかたなみはななかみていていたいかうおよびが飄揚して、順風に乘じて行くことが出來る。峡中の巖石は、浪の花の中に見え、亭亭たる大江の流theすながaべつごつねきみおいっ<べつまひたしきは、碧に澄んで日ごとに長く見える。別後常に君を思うて、何時といふ區別もなく、君の話を聞けば、わらひがほCHかりやう~すいくわいムかんさすがに、笑顏を催すが、河梁を阻てて、再會の期なきが遺憾である。そうていくそうべつせいぶんかうちうみと【餘論】起四句は總提、主人出美酒の四句は送別の正文、水客弄歸棹の六句は渡江中見るところトミニさうしさかんしうそくけんりうぎよひの景色、思君無歲月の二句は別後相思の殷なることを述べて收東としたのである。乾隆御批にはひつじつうせうきうおのづかたいはくほんしよく筆情蕭爽、自ら是れ太白の本色」といつてある。登黃山凌畝臺。送族弟深陽尉濟充汎舟赴華陰。くわうざんりようcurのぞくていりつやうゐせいじうn 2たんむおく黃山の凌敵臺に登り、族弟深陽の尉濟充が舟を汎べて華陰に赴くを送るEこらん1ほうかうしやううんげい鸞乃鳳之族。朝翔紫雲霓. tし鶯は乃ち風の族、翱翔す紫雲霓。おにしいはやく文章輝五色。雙在瓊樹棲。しよくならけいじゆ文正、五色を輝かし、雙んで、瓊樹に在つて棲む。送登黃山凌陽尉濟充汎舟赴華陰
李太 白集卷十七一朝各飛去。鳳與鸞倶啼(四)炎赫五月中。朱曦煠河堤。(玉)爾從汎舟役。使我心魂悽。CAR七秦地無草木。南雲喧鼓擊。君王減玉膳。早起思鳴雞。(一〇漕引救關輔。疲人免塗泥。宰相作霖雨。農夫得耕犁。こま靜者伏草間。羣才滿金閨。空手無壯士。窮居使人低。11送君登黃山。長嘯倚天梯。(一小舟若鳧雁。大舟若鯨鯢。開帆散長風舒卷與雲齊。(日入牛渚晦.蒼然夕煙迷。IVおのおのとさほうらん릅な朝、各、飛び去り、鳳と鷺と倶に啼く。えんかく(55きかていしやく炎赫、五月の中、朱議、河堤を燦す。佐々たはんしうえずしたがわれしんこんせい爾は汎舟の役に從ひ、我をして、心魂悽たらしむ。たいさつもくなんうんこへいかまびす秦地、草木なく、南雲、鼓輩喧し。とんわうぎよくぜんばさうきあいけいぶ君王、玉膳を減じ、早起、鳴雞を思ふ。さういんくねんぼひじんとていホテル;漕引、關輔を救ひ、疲人、塗泥を免る。さいしやういく9,かうれい宰相、霖雨と作り、農夫、耕型を得む。せいしやさうぃんさそんさいきんけいみ靜者は草間に伏し、羣才、金閨に滿つ。くうしゆさうしきうきよ달す空手、壯士なく、窮居、人をして低からしむ。またくくわうぎんのぼきますてんていよ君を送つて黃山に登り、長質、天梯に倚る。せうしう+がん〔たいしうけいげいi小舟、覺雁の若く、大舟、鯨鯢の若し。但ひらちやうふうゑじょげんくひと帆を開いて、長風に散じ、舒卷、雲と齊し。ひぎうしよくらさうぜんせきえんまよ日入つて牛渚晦く、蒼然として夕煙迷ふ。(一六)さうしいつく秀らくやう相思在何許。杳在洛陽西。にし相思、何許にかある、杏として洛陽の西に在り。【字解】E鷺乃風之族張事の禽經註に「覺は風風の亞、はじめて生まるれば、鳳に類す、久しければ五彩慶島す」とある。E翱翔淮南子の高誘註に「鳥の高く飛び翼上下するを翩といひ、直刺して動かざるを翔といふ」とある。3瓊樹風の棲食するところの樹、前に見ゆ。【ヨ】朱囃太陽。C)汎舟役左傳に一六、ここに於て、粟を晉に輪し、雍より絳に及ぶまで相權ぐこれを命じて汎舟の役といふ」。〓秦地無草木王琦の解に「舊唐書、天寶六載五月より雨ふらず、秋七月乙西に至り、旱を以て宰相臺寺府縣に命じ、繁囚死罪決杖配流の徒以下を錄して特免す。度寅、はじめて雨ふる。九載三月、時に久しく旱、制して西嶽を封ずるを停む。五月庚寅、旱を以て囚徒を錄す。壹し、天寶の時、京師の旱、史に見ゆるもの二あり、未だ此詩何年に作るかを詳にせず」とある。C喧鼓擊雨乞の太鼓の音騷がしきを云ふ。後漢書に「その旱するや、公卿官長、次を以て零禮を行うて、雨を求め、反つて朱素を拘し、社は朱鼓を伐つ」とあり、春秋繁露に「雨を求むるには、神山神淵を開いて薪を積み、夜は鼓を撃ち譟いで之を焼く」とあり、文章正宗に「神農求兩書、祈つて雨ふらざれば、薪を積み、鼓を擧つて、神山を賛く」とある。四鳴鶏民飢の誤だらうといふこと。CTO漕引漕は水運。CO)開輔國中と三輔、三輔は右扶風左馮翊京兆尹。ここ作霖雨書の說命に「もし歲大旱すれば、汝を用ひて霖雨と爲さむ」とある。(3)食間金馬門。CHI天棒天にも届く椰子。III小舟若臭雁宣都記に「俯して大江に臨めば、榮帶の如く、舟を視ること島雁の如し」とある。CIU牛渚通奥に「宣州當塗縣に牛〓磯あり、亦た之を采石といふ、險固守るべき處」とある。C14洛陽西卽ち華陰を云ふ。やうせいくんだたいはくじ:すなはいまたいへいくわうぎんじやう【題義】楊齊賢の解に太白の自註に、時在當塗とあり、卽ち今の太平なり」とある。黃山は、城:うけうだいそのうへたいへいふLくわうんんぐんち%あたか품やましよげつ北に在り、凌畝臺は其上に在る。太平府志に「黃山は、郡治の北五里に在り、高さ四十丈、山は初月ㄹきうつんうこうにはとりareま〓きうざんなこそうかうぶひしよりきうおよりよートうだい形の如し、舊傳、浮邱公、難を此に牧す、亦た浮邱山と名づく、上に宋孝武の避暑離宮及び凌畝臺の送登黃山凌献臺送族第深陽財濟充況舟赴華陰八二一さうし相思、いつく何許にかある、秀らくやうにし杏として洛陽の西に在り。
李太白集卷十七くはうそうにふしよくき:ほうわうだい꿀きさんてんin遺址あり」といひ、陸放翁の入蜀記には凌献臺は、正に鳳凰臺の類の如し、特に山巓に因つて之をいchu ?そうわたいとな面勢虛曠、:ふんあいみなみいいんきうせいしよほうのぞ爲る。宋の高祖の營むところ、高く気埃の表に出づ。南靑山、部山九井の諸峰を望む글かうちうそうざんあひたいとうりやうせいりやうほと1/3に、凡席に在るが如し。稍や西すれば、江中に二小山相對す、東梁西梁と云ふなり。北戶は和州のしんじやうのぞけだ〃hyに新城に臨み、樓櫓歷歷として辨ずべし。蓋し、江を絕つてより和州に至る、わづかに十餘里」とある。けんあいかうなんとうだうくわいんぐんめいすなはくわしうくわんないだうな深陽は宣州の縣名で、江南東道に隷して居る。華陰は郡名で、卽ち華州、關內道に隸して居る。このこうけうだいのほせいじう;さんねん詩は、黃山の凌歡臺に登り、漂陽尉たりし族弟李濟充といふものが舟を汎べ、穀物を運搬して華陰におもむこ、く赴くのを送つて作つたのである。なんぢらんわれほうらんほうししよくうんげいおほぞら【詩意】汝は鬱、吾は風に比すべく、そして、鶯は元と風の族であつて、紫色の雲霓の棚引ける大空ぶんさい2 , :しよくらんぜん目を射るばかり。こんほうあひならの上に朝翔し、その羽毛の文彩は、五色爛然として、そして、鶯と鳳とは、相竝んけいじゆおのおのとわかれかなし름で、瓊樹の上に棲んで居た。しかし、一朝にして、各飛び去り、風と鷺と、別を悲んで、共に泣い559かくかく今しも、たうじつかは$めちはんしうて居る。五月の暑い盛りで、赫赫たる紅日は、河の堤に照りつける。この時、汝は汎舟、卽かうえりしたけせいぜんさきごろち穀物運搬の行役に從つて、旅行をするといふので、わが心魂をして、懐然たらしめる。先頃より、ちやりあんふきん定むたるおはまつたこL長安附近一帶、古しへの秦地は、大ひでりで、草木も全く枯死した位、そこで、南雲に向つて、雨乞こくんわうぎよくぜんaxまいにちさうきじんみん:창なんほうの太鼓を騷がしく敲き立て、君王も、玉膳を滅じ、毎日早起して、人民の飢餓に迫れるを思ひ、南方はんにふくわんは: , :とだつ25から水路で米穀を搬入して、關輔を救ひ、飢ゑ疲れて居るものをして、塗泥の苦より脫せしめむと欲またさいしやうちきうさいにんあた이그すたかうさく大つねせられ、又宰相は霖雨となつて、救濟の任に當り、農夫をして再び耕作するを得せしめたいと常に心んGranびとミに念じて居られる。今しも、靜者の流なる世すて人は、草間に匿れて居るが、羣才は、要って金馬た;ひとただいなにごと大門に伺候し、朝廷にも人が無いのではない。但し、空手では如何な壯士でも、何事をも爲し得ず、窮いへどル示居すれば、人をして氣が滅入る樣にならしめるので、英偉の士ありと雖も、十分に之を登庸しなけれさいのう55号でこんにもきみ空くわうざんのほちやうせうてんていば、その才能を發揮せしめることが出來ない。今日、君を送るにつけて、黃山に登り、長嘯して天梯まなじりBなが:がんごとおほ一ねiに倚り、やがて皆を決して、はるかに眺めやれば、小舟は覺や雁の如く、大舟は鯨鯢の如く、そしちやうふうおくはじよけんゐじけ·ねらし를て、各帆を張つて、長風に送られて散點し、その帆を舒卷するとき、或は行き、或は止まり、しか±날팔ぼつ〓こ오も、遠くに在るから、雲と齊しく見える。兎角する内に、日は沒して、牛渚の邊、ほの暗くなり、夕〓さうぜんほうがんため: :ふねふねも煙が蒼然として、望眼爲に迷はむとする。君の舟も、かの大舟小舟に交つて、はては、見えなくなる:0と:むかえうぜんまらくやうEが、その折しも、わが相思の心は、何處に向ふかといへば、査然として、君が目ざして行く洛陽の西に飛んで行くのである。にんしうぞくがんていおろ;ば【餘論】壹風を以て兩我二人に比した處は、衆俗を眼底に見下す樣な氣慨が一朝各飛去より使いたモxたいかん我心魂悽に至るまでは、今次の行を述べ、秦地無草木より農夫得:耕翠)に至るまでは、關中の大旱はらしうおCっかんがいいおほひとより、汎舟の行役に及び、その愈よ勉むべきをいひ、靜者依章間の四句は、感愼の意、覺えず、人をえんちよしん12して低徊せしめる。送君登黃山の十句は、延行、神に入り、別後の光景を述べて、復た餘麺なきもの送登黃山凌献臺送旅第深陽尉濟充汎舟赴華險
李太白集卷十七げんりぎよひてんきうとところくわんけいていちょうaすうご,はうくわつである。乾隆御批に起,奇氣あり、轉漕を說く處、關係の鄭重なるを見るを得、數語の内、包括だんいたちんしけんくわつま:いじんそうげんyえそうべつじやうけいならびせい頗る廣く、닿古人贈言の義を得たり。送別の一段、情景竝に到り、沈〓軒豁、大家に非ざれば、未だやすよぜんげんあひまとくしやまじんたき此あり易からず」といつたが、子の前言と相待つて、讀者の宜しく尋釋すべきものである。ちよようぶしやうおく送儲邕之武昌儲進の武昌に之くを送るくわうかくせいろうもやうかうほんり둑黃鶴西樓月。長江萬里情.つ黃鶴西樓の月、長江萬里の情。しゆんぶうとむな:ぶしやうじやう春風三十度。空憶武昌城.春風三十度、空しく憶ふ武昌城。佐々れ、phながたさかつきふくをしいまかたむ送爾難爲別.街杯惜未傾。爾を送つて、別を爲し難く、杯を衝み、惜んで未だ傾けず。Park戦は·おはんしうら湖連張樂地。山逐泛舟行。湖は連る樂を張るの地、山は逐ふ泛舟の行。っせい諾謂楚人重.詩傳謝朓〓。煮いそひとおもししやてう諾は謂ふ楚人重しと、詩は傳ふ謝眺の〓。@さうらうcきよくよいたうか滄浪吾有曲。寄入棹歌聲。滄浪、吾に曲あり、寄せて入る棹歌の聲。【字解】【一】黃鶴樓前に數ば見えて居たが、潛確居類書に「黃鶴山は、武昌府城の西南に在り、俗、蛇山と呼ぶ、一名黃鶴山、むかし、仙人王子安、黃鶴に騎して此に憩ふ。地志に云ふ、黃鶴山蛇行して西し、江に吸はる、その首隆然、黃鶴樓ここに枚む、其下は卽ち黃鶴磯」とある。張樂地洞庭湖を指す、莊子に「黃帝、成池の樂を洞庭の野に張る」とあるに本づく。3諾謂雙人重史記に「楚人の諺に曰く、黃金百斤を得るは、季布の一諸を得るに如かず」とある。ミ謝朓前に數ば見えて居た、南史に「謝腕は、文章〓單、五言詩に長ず、沈約常に云ふ、二百年來、この詩なきなり」とある。謝脫が內史となつて赴任した宣城は、江に〓して、卽ち武昌の下流である。CO治浪水の名、漢水が劑山の東に至つて、治浪の水となるので、つまり、武昌の上流に當つて居る。かの楚辭に見えたる、曾浪之水〓兮、可以灌我我一渝浪之水濁兮、可以以灌ニ我足といふ漁父の歌は、卽ち其地に圖係してゐるのである。ぶしやうがくしうぞくけんかうなんせいだうれいぞく【題義】せいほくかうすゐひんたいもどうていこ武昌は鄂州の屬縣で、つらな江南西道に隸屬し、西北は江水に瀕し、南は洞庭湖に連つて居る。こちよようひとぶしやうおもむれつちふようおやませえつれきとうの詩は、〓儲置といふ人が武昌に赴くを送つて作つたのである。Eさいふ儲〓の字や閱歷等は、例の如く一切不しやう詳。くわうかくろうとうっreがんかちやうかうぼんりながれの【詩意】さきに、吾、黃鶴樓頭の月に嘯いて、眼下に長江萬里の流を望んだが、その景の壯關なる、けいさうくわつ平生の快事、へいぜいくらいじこれに過ぎたるものは無く、今でも忘れ兼ねて居る。いわすしかし、おいし首を囘らせば、はしゅんおう春風すでととそうそう*むないきやうたいりうに三十度、)ぶしやう鳥兎勿勿として、我を待たず、おここに空しく異〓に滯留し、かの樓の在る武昌の地を懷ふまこんくわい喜っわれわかしののみである。:君が、今囘かの地に赴かるるに就いて、吾は、別るるに忍びず、酒が盡きて仕舞へば、たちまはつていいち*六さかづき君は忽ち發程するが故に、(bしばしなりとも引き留めて置きたいと思つて、ま杯を口にくはへた儘、じつゐくらゐそもそふしやうふうけいようじんぶつおほかんすゐと飮まずに居る位。抑も、武昌の地たるや、風景も宜しく、人物も多い。漢水の支流は、しっむかし、6黃どうせいしうかう÷みなや帝が樂を張つた洞庭に入り、ま舟行の經るところは、皆山つづきで、行けども行けども、盡きない。かこのちの季布は、6ひと光大はょ此地から出たもので、しよう千金を貰ふよりも、その人の一諸を得た方が善いとさへ稱せられ、送送精邑之武昌
李白太集卷十七しやてうかニせんじやうだこせいれいしこんにちった謝朓は、その下流なる宣城に內史となり、〓麗の詩は、今日なほ傳はつて居る。部さきに其地に遊55あそさうらうみづのでしいあつ:それを寄せて權歌の中に入れ、よもび、滄浪の水に臨んで、いくらも詩を作つたが、今、それを以て、君まこのかうお、おの斯行を送らうと思ふ。ごんはいりつじこそういうyそうべつっそのちさじんぶつじょ【餘論】これは五言排律で、起四句は自己の會游、次の六句は送別に就いて其地の風土人物を敍し、げつじきうきよくおよしゆえいせうりやうくさくじうつるな注結二句は自己の舊曲に及んで、起首と映照せしめたのである。起兩句は、錯揉して對を成し、極めておもしろよりやうくさんたいけんりうぎよひけんぴつ;めれつしにぎよ面白く、仍つて、三四兩句を散體にしてある。乾隆御批には「健筆、空を凌ぐ、列子の風に御して行れいぜんまたしんとくせんふうはふる)たいちやうりつたいはくが如く、冷然として善きなり」とあり、又沈德潜は「古風の起法を以て、運して長律を作る、太白てんさいじょうぼくかか15しかの天才、繩墨に拘はらざること、乃ち爾り」といつた。昭和三年五月十七日印昭和三年五月二十日發刷行發編續國譯漢文大成文學部第二帙【非賣品】輯行者兼國民文庫刊行會東京市神田區小川町一番地鶴田久作東京市本郷區西片町十番地有所權作著右代表者印刷者渡邊一郞東京市小石川區西古川町廿五番地印刷所中外印刷株式會社東京市小石川區西古川町廿五番地電話神田六五五番三三八番振替東京一八五七二番309 65發行所國民文庫刊行會

