李太白集卷十五鴻梅溪の水を合し、屏山を經、西北行して東港と城下に會す、故に變溪といひ、又識溪と名づく」とある。cot金華山名、元和郡縣志に「金拳は萎州金華縣北二十里に在り、赤松子得道の處」とある。【五一】赤松新江通志に「金華縣北に赤松山あり、相傳ふ黃初平、石を叱して羊と成す處、と。初平、赤松と號す、故に山、これを以て名づく。後人、これが爲に屆を立て、赤松宮と號す」とある。ctr八誅樓一統志に「八詠樓は、金華府治の西南隅に在り、舊名玄暢樓、南齊の太守沈約建つ、登臺三秋月。會圓臨春風。秋至盛衰。寒來悲ニ落桐。夕行間ニ夜〓農征聽ニ曉鴻。解釈去初市。被褐守山東。の八試詩あり」とあり、因つて樓の名となつた。しかし、王琦の說に「太白の詩より外、崔顧の沈隱候の八詠樓に題するの詩、及び殿羅の明月變溪水、〓風八詠模の句あり、八詠の名、蓋し宋に始まらず」とある。【五三】新安口断江通志に「新安江、一名〓溪、黴州に出で、歙より淳安縣界を經、嚴州府城の南に至り、變港を合せ、東、断江に入る」とある。【五四】嚴光瀨通志に「富春山は、嚴州桐鷹縣西三十五里に在り、一名嚴陵山、清麗奇絕、錦峰縮嶺と號す、前は大江に望む、乃ち漢の嚴子陵の釣處なり」とある。DiH釣臺一統志に「釣臺は、嚴州府城の東五十里に在り、東西二臺、各-高さ數百丈、漢の嚴子陵釣を垂るる處」とある。【五六】蒼嶺通志に「蒼嶺は、台州仙居縣の西北九十里に在り、高さ五千丈、周題八十里、縮雲に界し、重岡覆徑、勢に隨つて高下、その險峭峻絕、東新の最たり、行者病む」とある。【五七】吳都卽ち蘇州。(六)站蘇吳地記に「吳王圖閭、十一年、臺を姑蘇山に起し、山に因つて名と爲す、西南國を去ること三十五里、春夏遊ぶ、後、夫差高うして之を飾る、越、吳を伐ち、遂に焚かる」とある。【五九】九疑范至能の記に「客と辭臺に登る、山頂正平、助堂あり、蘇石、列坐すべし、相傳ふ、吳の故宮たりと。開產別館、その前は、湖光、松陵に接し、獨り孤塔の尖を見る。少しく北すれば、點墨一螺、崑山と爲す。その後、西山秀を競ひ、搜靑叢碧、洞庭林屋と相賓す、大約目力、百里を踰え、登高臨遠の勝を具ふ」とある。しかし、王琦は、疑を挟んで「姑蘇に登り、以て五湖を望む、自ら是れ實景。もし九疑は遠く湖廣の南垂に在り、相去ること數千里、豈に目力の能く及ぶところならむや。或は是れ想像の辭を設爲するのみ。しからざれば、その望見するところの山、その時、亦た九憂の名を冒すものあり、因つて指して詠に入るも、亦た未だ知るべからず」といひ、ひよつとすると、九龍山を指したものでは無いかといつて居る。【六〇】五湖前に見ゆ。ET橈櫂の短きもの。楚江揚子江。揚子津江南通志に「揚子津は揚州府城の南十五里に在り、一名揚子渡、唐の高宗永淳間の攝子縣なり、舊時建康に四津あり、橫江を建康の西津となし、揚子を建康の東津となす」とある。【六日】日本表李白の自註に「裘は朝卿の贈るところ、日本布にて之を爲る」とある。朝〓は卽ち安倍仲麻呂、なほ其詳は後に見ゆ。EN怡優廣韻に「怡健は前まざるなり、伯優は癡の貌」とあり、韻會に「恰健は固滯の貌」とあり、田汝成は「人の進退果ならざるを言うて怡艇といふ」といつた。【六〇】楊子雲楊利物を指す、李白に江事宰楊利物畫賛といふ一文がある。【六七】山公世說に「山季倫、〓州たり、時に出でて酣暢す、人、これが爲に歌つて曰く、山公時一醉、徑造高陽池、日暮倒載歸、酩酊無所知、復能乘ニ駿馬、例著白接龜、擧手間葛張、何如井州兒」とある。【六八】天壇一統志に「天壇山は、懷慶府濟源縣の西一百二十里、王屋山の北に在り、山峰突兀、その東を日精といひ、西を月華といふ、絕項に石壇あり、清虚小有洞天と名づく、旦に五色影あり、夜、仙燈あり」とある。すると、天壇は王屋山中の一峰である。【六九】黃河若不斷この二句は倒裝旬法で、白首相思ふことは、黃河の水の若く、終に斷絕の時なしといふ意。わうをおんつぐんけんしわうをくざんかなんわうをくげんほくあしうゐたか【題義】王屋は、元和郡縣志に「王屋山は、河南府王屋縣北十五里に在り、周圍一百三十里、高さ三ていちうせきじやうわうをくいたたいへいくわんうきわうをくざんたくしうやう十里、尙書禹貢に、底柱析城、王屋に至るとは是れなり」とあり、太平寰宇記に「王屋山は、澤州陽じやうけんなんせんきやうわうをくざんひろせういうせいきとどうてんがうf城縣南五十里に在り、仙經に云ふ、王屋山に仙宮洞天あり、廣さ三千里、小有〓虛洞天と號す、山たかちやうひろ·たいかうせきざんなちうでうこしようほとぶぜういうぐんどうそんの高さ八千丈、廣さ數百里、太行析山、佐命たり、中條古鐘、輔翼たり、三十六洞、小有は羣洞の尊ざんわうをくちうざんい50しれいきやうしんじんどうきやうめいざんどうてんふくちたり、四十九山、王屋、重山の最たり、實に不死の霊〓、眞人の洞境なり」とあり、名山洞天福地記にわうせくどうまんりせういうせいきよてんなとうとあまんおてじ「王屋洞は、周圍一萬里、小有〓虛の天と名づく、東都に在り」と記してある。魏萬は、唐詩紀事に〃まんのちな박じゃうげんはじめとうだい5くわづりよう·はくいは佐ちくcmかならたいめいスープ「魏萬、後の名は顎、上元の初登第はじめて李白に廣陵に見ゆ。白曰く、爾後、必ず大名を天下送遂王屋山人魏萬還王屋井序