李太白集卷十五Sumめいげつどそのぶんいだこれに著さむ、老夫と明月奴とを忘るる無かれ、と。因つて、盡く其文を出し、顎に命じて之を集めしむ」べつがうわうぞくほんめいぎわうをくだれとある。そこで、題義は、別號王屋山人、本名魏萬といふものが、王屋に歸らむとするを送つて、こ、き古の詩を作つたといふのであるが、特に序を添へて、その由來を略記したのである。嵩宋の嵩は嵩山、: mなんほう.しへの宋の地に當るが故に、かく云つたのであらう。沿吳とは、汴河に浮んで、南方の吳地に下つたxも古しへの越の地に當るが故に、ゑpaこど。台越の台は、天台山、かく云つたのであらう。永嘉は、唐の郡8らをんしうかっなんとう、せつぱうざんせつかうつうししよしうせいでんけん名、後の溫州、江南東道に隸屬して居た。謝公石門は、薛方山の浙江通志に「處州靑田縣に石門山あ屋らだうしより、石蓋山の西十里に在り、兩峰對峙して、門の如く、中に洞あり、石門洞といふ、道書に謂はゆるげんかくどうてん1だいせいなんかうこく生じつるじやうたんほんりう業元鶴洞天、乃ち三十六天の第三十なり。西南の高谷に瀑布あり、泉上潭より奔流し、天壁に至る、かしんほうあひだあるえいかのしゆしやれい三十餘丈、天壁より、下潭に至る、四十餘丈、舊と榛莽の間に在り、劉朱の時に至つて、永嘉守謝霊ことこのじょ運性遊覧を好み、はじめて此洞を覓む」とある。廣陵は揚州、すると、此序の大意は王屋山人魏ひたるみあさ:萬が自ら云ふには、嵩宋より汴河を下り、必ず李白に逢はうといふので、相訪ふこと數千里にして、a놓: :しんうん遂に相見るを得ず、しかし、旅興の催す儘に、台越に遊び、永嘉を經、縉雲に至つて、謝靈運の遊'는しよう;ふいCBSへいぜい:賞した石門の勝を觀、處處歷めぐつた揚句に、揚州に於て、はじめて相逢ふを得、仍つて、平生の渴ぶんがくあいかさ且つ古しへを好み、想を慰めたと。かういふ話である。予、すでに魏萬が文學を愛し、且つ衆人とと飄浪の身跡を方外に寄せ、は殊にして、全く浮世ばなれをして居ることを嘉し、仍つて、平生の行爲を〓き述べ、この詩を作つて、贈つたといふのである。かんだいてんじやうだた上【詩意】漢代の東方朔は、もと天上の仙人が此世に墮誦したものであつて、この世を辭してからは、残りたうこ'はいぜん복달浩蕩として海なす雲を弄び、沛然として、天に乘じて遊び、獨りで何處へでも往くから、その蹤跡は:わうをくさんじんとうほうさくとんと分らない。わが王屋山人は、全く之と相似たる一かどの人物である。魏君は、すでに東方朔の近くr e둑あひだ温ラい大名を繼ぎ、その本家は、春秋の時の魂氏で、初めて聊攝二域の間に封せられ、今でも、そこが郷貫えたげんめうくわになつて居る。魏君は、天晴の才を持つて居て、或は卷き、或は舒べ、すべて其時に從つて、玄妙化たいだうにrんとご古しへの賢人と井せ傳ふべきものである。生の大道に參透せざることなく、その跡は、魏君は、年わも完さぶんしやうまちs iづかに十三にして、すでに、文史を弄び、筆を揮つて文章を草すれば、さながら綺繃を振ふが如く、딸白土その心は、魯仲連に齊しく、その雄辯は、田巴を辟易させる程である。しかし、人世の餘りに囂しくたい配のが、まわ れぎ騒しきに驚いて、〓き洛水の源を渉つて、王屋山の奥に分け入り、そして、蘭の秀を摘みつ= ;にんげんみれいきやうら,っ、名だたる洞天の門を窺つて、人間未知の靈境に徘徊して居た。兎角する内、偶然にも、中岳の稱だげつくわうどうじせんにんhある嵩山に遊び、羽客を友として翩翔し、朝に月光童子といふ仙人を攜へ、幕に玉女窓と稱する洞中ゆミこに宿し、仰ぎ見れば、名だたる鬼谷は、上の方に奥深くして何處とも知らず、俯して窺へば、名さへさんちうお下の方に會流し、&こ恐ろしき龍潭は、水聲鞋鞳と鳴り響いて居る。かくて、山中に在つて、稍や時を移いしひらねつ六弘くだしたる後、東して、汴河の水に舟を浮べて、はるばると南方に下り、三千里の長路を辭せずして、わ送王屋山人魏萬暹王屋井序五九九