李太白集卷十五じやうせい달そばだてうげうはうくわうほくねくわうほうで城西に獨り峙つて居て、岩蟲の勢は、四方荒漠の外に拔き、軍川の會流するを曠望することが出來こころみろうじやうたながてんちくわつぜんひらなみupp Perせつせいいたる。試に樓上に立つて眺めやれば、雲卷くとき、天地豁然として開け、波は遙に連つて、浙西に至れかははばま切はちひちつしんあんかうこうたかたつば、河幅が愈よ大きくなる。そして、亂流は相聚まつて、新安江口に注ぎ、北の方には、嚴子陵の釣をこちらおとにThてうだいせいてんへきうんらした早瀨が、彼處かとばかり指點せられる。子陵の釣臺は、晴天の碧雲の中に彷彿として見え、はるだごさうれいあけたいなんゆうくわいけいdeし古しへの吳都たかに、蒼嶺と相對して居る。南方會稽の遊も、これで一先づ濟んだ處から、次第に、し: : :のほ135あひだでんざん名る蘇州の方に來り、やがて、姑蘇の遺墟に上つた。すると、煙の棚引く間に、羣山の影ほの見え、五ゆほうたうさいがいミきはこころいよいca湖の水は、溝蕩として、さながら際涯なきが如く、目を極むれば、心愈よ遠く、まして、今古を俯ぎやうこうほうかんたひちやうたんかう選かちめぐ仰すれば、興亡の感に堪へず、悲歌して長嘆するばかりである。かくて、楚江の濱に楫を廻らして、*さめづにつほんかはごろもふうほう愈よ上陸したる後、鞭を揮つて、揚州に遣つて來たが、身には、珍らしい日本の裘を著し、その丰親かうぜんふせんふうぜんと55くわうりようおい上はうもんは、昂然不羣、はるかに風塵を脫出して居る。時しも五月で、この廣陵に於て、子を訪問して吳れたいろいろはなし1。づ.づ달めいくわいちよくせつあので、色色話をした。魏君は、愚圖愚圖した人ではなく、まことに、明快直截、逢つて見ると、まゆくわい14あひだしあひだたいうぜいえこんことに愉快で、日ごとに、水石の間に一所に遊んだ。その間唯だ五諸侯に遊說はしたが、百金の產をいたtぶっげんかたみ:はなはかうねいさいだに致さなかつた。わが友の楊利物といふものは、絃歌を以て民を治め、甚だ〓名があつて、江事宰びくわんかうじやういつしひと古しへの山季倫と華すべき人物である。えといふ微官に居るが、その高情逸思は、その人は興に乘じて2まなせいふくまい一たび來たことがあるが、子が君を愛するを知つて、少からず敬服して居た。君は、何時又ここに來ろうだい◎やくぞ! $ :かず:ざいあひだるか、仙人の居る樓臺に往くといふ約束もあらうし、その東窓に翳せる綠玉の樹も、君の不在の間でうえだ눅またてんだんさんかひとびとなんちだい焼わらだに、三五條の枝を生じたであらう。又天壇山下の人人は、汝の歸ること甚だ遲きを笑つて、浮世に墮(第はやかた115ゑんべつ落したと言ひ囃して居るかも知れぬ。それにつけても、早く歸る方が善いが、予は、遠別を爲すを惜ほうぜんかなしえしらがあたまかか!ぶくわうかるづけつみ、茫然として心に悲むを禁じ得す、今より後、白髪頭を抱へて、君を思ふことは、黃河の水の決しだんぜつinて斷絕せぬが如くであらう。しふちういうすうきだんらくわかむたへうしゆつ【餘論】この詩も、集中有數の長篇である處から、王琦は、特に段落を分ち、一一大意を標出して居る。すなはいたぶんL魏萬の文を愛し、古を好み、しかも、に卽ち起首より因窺洞天門に至るまでは、王屋に隱居することを美いたすうそうあひと글じよ「あ楽滋滋鮮しても電敷ふ論」ともよくは、その営業より当地るよこふえいか一しんうんきんくわしよめい永學より逸與吾額對に无るまでは、その台州よお海になんで、水邊徧ねく縉雲·金華の諸名あそ둘じいたいた勝に遊ぶの事を敍し、稍稍來吳都より且知我愛君に至るまでは、その姑蘇より廣陵に至つて柵a술じ·五〇か、あひわかじょ見るの事を敍し、君來幾何時より白首長相思に至るまでは、その山に還つて相別るるを敍したので、だんちくせつぜん30みだぶんしようじやうひどうけんっうぎよひ段落は、截然として、決して紊れて居ない。嚴滄浪は「一篇記遊の文、勝情飛動す」といひ、乾隆御批にかれ口じよぶんさは「彼の述ぶるところに就いて、鋪敍文を成し、その曲折に因り、緯するに佳句を以てし、大に、帆ヒョーてんみづいたまへんちうさんすゐしぜんふうけい湘に隨つて轉じ、水到り、渠成るの〓あり」といつて居る。篇中の山水自然の風景を敍した處は、李せんぢやうほと:00にんほたじふんがう白獨特の擅場で、殆んど、他に比類なく、且つ他人の話を敍して、必ずしも、境地と分毫の差なきを送送王屋山人親萬遞王屋井序