李太集卷十五引用して義を取る、又此に異なり、古人用事の法を窺ふべし」とある。わうきばたうじちやうろちやうろけんかほくだうきうしうなちやうろちん【題義】王琦の解に「唐時、二の長蘆あり。一は是れ長蘆縣、河北道の滄州に隸す。一は是れ長蘆鎭、わいなんだ?がふけんなんりくはっそうにふしよくきしんしうはつ6Hえんちやうる淮南道、揚州の六合縣南二十五里に在り、陸放翁の入蜀記に曰く、眞州を發し、瓜步山を過ぎ、長蘆じのとろうたふちようふくかうめんべうびsi줄おそむしい寺を望む、樓塔重複、江面渺瀰際なく、殊に畏るべし。李太白の詩に云ふ、維舟至長蘆、目送煙雲りくがふちやうろしたうとげんあてうぼう중高、是れなりと。すなはち、これ六合の長蘆を謂ふなり」とある。この詩は、當塗縣尉たりし趙某の長でんにんお蘆に轉任するを送つたのである。いまやうしうしところ품きためこぶこきてせきじん·むし【詩意】われ今揚州の市に來た處が、客を送るが爲に、小舟を漕ぎ戾した。客は、昔人が楚の太子に向つて誤つたやうに、くわうりょうなみみため〓なんほう도きてけんこれから、廣陵の濤を觀むが爲に、遠く南方へ往くとの事である。客は、縣しよくさいさうびなてうしれんじやうたまひえいふうえしの尉の職に居る。その才藻の美は、名だたる趙氏速域の壁に比すべく、その英風は、四君を凌ぐばかりしうかうひおくちやうろたうちやく合つとteたかえんうんたかくて、舟行日を送り、やがて、長蘆に到著して、舟を維ぐとき、囘顧すれば、空に高く煙雲の立ちくそうたちにしゆろうたもとまだてこいつこめたるを目送する。かくて、扇を搖かしつつ酒樓に對し、袂を捲くつて蟹を手にすれば、定めて逸きょうかぎきざきおいよお一CHE興限りなきことであらう。しかし、行く先先に於て、ひよつと予を思ひ出たならば、山に登つて、-ちやうえうこころよたび長謠を試みるが善からう。けつさく3:0しようこうはん法とじやう【餘論】この詩は、傑作を以て稱すべきものではないが、後半、維舟至長蘆以下は、極めて餘情あほんしゆつて、さすがに凡手ではない。こうはん後半、維舟至長蘆以下は、法とじやう極めて餘情あいうじんゑつもうさんすゐた出、送友人尋越中山水友人の越中の山水を尋ぬるを送る(一)けいざんPressしやかくさいよろ聞道稽山去。偏宜謝客才。聞くならく、稽山に去ると、偏に謝客の才に宜し。千巖泉瀧落.萬壑樹榮廻.がんいづみさいちくばんがくじゆえいくわい千巖、泉灑落、萬壑、樹、禁廻とうかいしんゆうよこたせいりようゑつだいめぐ東海横秦望。西陵繞越臺。東海、秦望橫はり、西陵、越臺を繞る。亡さみづうみ:さうきやうあかつきなみしろ雪山來る。湖〓霜鏡曉。濤白雪山來。湖は〓し雙鏡の曉は白くくち@ぐわつほいじょうごちやうかんさかづき八月枚乘筆。三吳張翰杯。八月 枚 乘の筆、三吳張翰の杯。このうちいつきようおほさうぽんてんだいむか此中多逸興。早晩向天台。此中逸興多し、早晩、天台に向はむ。【字解】E稽山、謝客鍾嶸の詩品に「錢塘の杜明師、夜、東南に人あり、來つて其館に入ると夢む、この夕、謝靈運、會稽に生まる。旬日にして謝玄亡ぶ、家、子孫得難きを以て、靈運を杜の治所に送つて、之を養はしめ、十五、方に都に這る。故に客見と名づく」とある。S千巖萬壑前に見ゆ。3秦望水經註に「秦望山は、州城の正南に在り、衆峰の傑たり、境を〓つて便ち見はる」といひ、史記に「秦の始皇、これに登り、以て南海を望み、平地より以て山頂を取る七里、懸發孤危、徑路險絕、蕭を擊ぢ、葛を捫し、然る後、龍く山に升る。上に草木なし、當に地週に風多きの致すところに由るべし」とある。3西陵水経註に「新江又固陵城北を徑す。むかし、范盡、城を新江の濱に築き、以て固守すべしと言ひ、これを固陵といふ、今の西陵なり」とあり、方輿勝覽に「西興渡は、瀧山縣西十二里に在り、本名西陵、吳越武肅王、吉語に非ざるを以て、改めて西興といふ」とある。CI越臺述異記に「勾賤、四方の士を延き、臺を外に作つて之に館す、今會稽山に越王臺あり」とあり、一統志に「越王臺は、舊と種山の東北に在り、越王勾踐登眺の所、宋の汪綱復た建つ、山の西麓に在り」とある。霜鏡太平御覽に「王義之云ふ、山陰道上を行く每に、鏡中に遊ぶ送送友人等越中山水