李太白集牛十五みづうみしづごいはるいたはなeもとながし詩内、ないしんりん後新林浦、金〓りこの湖に沈み、時あつて浮び出で、春に至れば、花を開いて滿湖に流ると、りようのつきくもてあそまきんりようあひちかしいうじんぽうひとあそ陵月の句を玩べば、この地は、當に、金陵と相近かるべし」とあり。この詩は、友人某の梅湖に遊ぶ安を送つて作つたのである。:はいこゅそのかうれかのちき【詩意】君は、これから梅湖へ行くさうで、ここに其行を送るのであるが、やがて、彼地に著したな〓たし内ところなおはいくわteみらば、處の名にし負ふ梅花の開くを見るであらう。その時は、使に託して、われに一枝を贈らるべく、しんりんはさだ愚圖愚圖して居て、ぐづム折角の紅芳を散らして仕舞つてはならぬ。せつかくこうはっし:かくて、暫らく新林浦を過ぎ、定め:がんたminしよをしおんしんた$音信絕さんりよう上われをして、て、金陵の月に酔ふであらうが、その時も、亦た雁に託する一封の書を惜んで、ゑつやうまななこゆること、さながら朝越のやうたといふ樣な想を爲きしめぬやうにして貰ひたしょこうはうなこうだんきんりよう【餘論】ぜんだん前段、ばいこ梅湖に至るときは、いた一枝を寄せて紅芳をして歇ましむる無かれといふ。後段、金陵にいたがんしよをしにらまいどなながれんぞくもじま둘至りては、一雁の書を惜んで、胡越の想を爲さしむる勿れといふので、連續して類似せる二つの事をれんげつheたた聯結して、一首に敲き上げたのである。こてんぢくじあそお(崔十二の天竺寺に遊ぶを送るむ:とうゑつKてんちくじ還た聞く天竺寺、夢想、東越を懷ふ。まいねんかいじゆし記してしうげつ30毎年、海樹の霜、桂子、秋月に落つ。送崔十二遊天竺寺還聞天竺寺.夢想懷東越; (三)毎年海樹霜。桂子落秋月。送君遊此地。己屬流芳歇。まこのちあそまりうはうやに君が此地に遊ぶを送る、すでに流芳の歇むに屬す。@待我來歲行。相隨浮溟渤まわらいさいゆあひしたがあいぼつうか待て我が來歲行き、相隨つて、溟渤に浮ぶを。【字解】S天竺寺題義の條に見ゆ。S東越杭州は春秋の時、越に屬し、そして、東方に當るが故に東越といつたので、史漢に東〓を稱して東越といへるとは、異なつて居るから、混同してはならぬ。g桂子落秋月成淳臨安志に「舊俗、傳ふるところ、墜桂子、唯だ天竺素より之あり、唐の天寶中、寺前の一子、樹を成す、今月桂峰あり。刺史白居易の詩に云ふ、宿因月桂落、辭爲海梅開註に云ふ、天竺、かつて、月中に桂子あつて落つ、と。又東城桂の詩に云ふ、子隨本從ニ天竺寺、裡盤今在國関城、註に云ふ、舊說、杭州天竺寺、毎歲秋中月桂子あつて墜つと。又刺史虛公輔の詩に云ふ、遠容偏求月桂子、老僧不誌石蓮花」とある。三溟南溟は溟海、渤は散海、矢張、大海と見れば大差は無い。かんじゆんりんあんしてんぢくじよかうしようせつひらいほう.えせんむにぼんそうゑ【題義】咸淳臨安志に「天竺寺は、餘杭の勝利なり、飛來峰は武林の奇慮なり。晉時、梵僧慧理、こすなはりやうじゆうれいしいされとしとこたミいたしやくかゐんおの山を指し、乃ち靈鷲の一小嶺、知らず、何の年か飛び來つて、此に至るといひ、錫を挂け、院を置:ほんきやう:かいくわうちほふししんくわんひろゆうたてんぢくじ33せつき、初め翻經といふ。隋の開皇中、法師眞觀、これを廣め、改めて天竺寺となす」とある。王琦の說にあんかうしうてんなくじじやうてんかくじせきしんてんおくかん日だうよくぜんじいR in「按ずるに、杭州天竺寺に三あり、上天竺寺は、石音の天福間より創し、道翊禪師、異木を得、刻してだいし以て大(なごゑっこむつ33 :これほうてんぢくくわんおんかんきやうゐんぢ士像と爲し、吳越の忠懿王、その地に卽き、佛廬を創して之を奉じ、天竺觀音看經院と號するちうてんぢくじ:たいへいこうこくそわんねんさまごゑつわうはうしやうぜんじだうぢやうきうしっなもの、是れなり。中天竺寺は、宋の太平與國元年より創し、吳越王、寳掌禪師の道場舊址に卽いて改せんすうじゃゐんがうかてんぢくじ:かいくわうちう:しんくわんほふしAほんきやうゐん建し、崇壽院と號するもの、是れなり。下天竺寺は、隋の開皇中より創し、眞觀法師、慧理、翻經院かしけんみなみてんぢくじがうじやうちうじみなたういごたはじめに卽いて改建し、南天竺寺と號するもの、是れなり。上中二寺は、皆唐以後建つるところ、その始、送送崔十二遊天竺寺六一三