李太白集卷十五:てんぢくじなおうてんぢくじきたいかてんぜくしにてんせくじい亦た天竺寺の名なし、唐の天竺寺は、乃ち今の下天竺なり」とある。この詩は、崔十二の天竺寺に遊:こぶを送つて作つたのである。またてんぢくじなな時に2/4承ないうすゐ【詩意】又しても、天竺寺といふ名を聞けば、夢寐の間にも東越の地を懷ふので、その地は、幽邃を·ぶつじEおいまいねんかいへんLにかつらみ極めて、まことに佛寺たるにふさはしい。その寺に於ては、毎年、海邊の木に霜の降る頃、桂の實がなか一たきみ萬あそじせつわるりうはうしほ月の中から降るといふことである。唯だ君が此地に遊ぶのには、稍や時節が惡く、流芳すでに凋み、: 1/なかくべつふうけいじにんよらいねん秋も末に成つて、格別の風景もないと思はれるのが遺憾である。しかし、子は、來年、その地に往つまたいかいだよていみそのつもとうりうて、君とともに、大海に乘り出す豫定であるから、君も、其積りで、しばらく逗留して待つて居て貰ひたい。せんほくかごそのきようおくところさくしやほんしよくべつけん【餘論】この詩は、淺薄ではあるが、一氣呵成に、其胸臆を抒べた處に、作者の本色が瞥見される。にてんせくじい崔十二の天竺寺に遊きたいかてんぜく乃ち今の下天竺なり」とある。しこの詩は、せんほく淺薄ではあるが、かご一氣呵成に、そのきようおくところ其胸臆を抒べた處に、さくしやほんしよくべつけん作者の本色が瞥見される。この詩は、やうさんじんてんだいかにおく楊山人の天台に歸るを送るたてんだいぷとうかうみちてうこつ客に天台を思ふあり、東行、路超忽。なみ4せつかうあり1なあきらにー濤は落つ浙江の秋、沙は明かに浦陽の月。こんいう1 & aゑつだ今遊、方に楚を厭ひ、昨夢、先づ越に歸る。送楊山人歸天台行路超忽。客有思天台。東濤落浙江秋。沙明浦陽月。Cu今遊方厭楚。昨夢先歸越. (四)へいしよくくわん?じりようしん且つ乘燭の歡を盡す、なはつ且盡秉燭歡.無辭凌晨發。辭する無かれ凌晨に發するを。我家小阮賢。部竹赤城邊。わいせうげんえたけせきじやうBE我が家、小阮の賢、竹を剖く、赤城の邊。しじんおほ최官燭未曾然。くねんしふくいまかっ詩人多見重。詩人多く重んぜらる。官燭未だ曾て然やさず。(九)きようとこん둘はんかい広もよほ興引登山展。情催泛海船。興は登山の展を引き、情は泛海の船を催す。石。如如可度。攜手弄雲煙。せきげうわたておきでうんえんろう石橋もし度るべくんば、手を攜へて、雲煙を弄せよ。【字解】S超忽遠き貌。E浙江元和郡縣志に「新工は、杭州錢塘縣の南十二里に在り。莊子に新河といふ、蓋し、その曲折に取つて名と爲す。江濤、毎日、晝夜再び上り、常に月の十日、二十五日を以て最小とし、月の三日、十八日を最大とす。小なれば、水、漸く涵ること、數尺に過ぎず。大なれば、濤湧いて、高さ敷丈に至る。毎年八月十八日、數百里の士女、ともに舟人漁子の溝に派り濃に觸るるを見る、これを弄濤といふ」とある。3浦陽會稽志に「浦陽江は、源.婺州の浦陽に出で、北流一百二十里、諸豐縣溪に入り、又東北流し、峽山より直に臨浦灣に入り、以て海に至る、俗、小江と名づけ、一名錢〓江」とある。乘燭歡古詩十九首に晝短苦ニ長い何不乗燭遊とある。3小阮阮籍の姪阮成、後人仍つて姪を小阮といふ。王琦の說に「文獻通考、唐の李嘉祐、別名從一、趙州の人、天寶七年の進士、祕書正字袁台二州刺史となる、善く詩を爲り、綺靡婉屋、齊梁の風あり、時に以て吳均何週に比すと云ふ。唐詩記事、李嘉祐は、上元中、かつて台州刺史となり、大層の間、袁州に劇とし、嚴維、劉長國、冷朝陽と友とし善し。嘉祐、從叔陽冰を送り、從第軒及び姪端に寄するの筒あり、蓋し三子の族なり」とある。すると、この小阮は李嘉祐であらう。剖竹割符を裂いて刺史となること。F赤城前に見ゆ。〓官燭官より給せらるる蠟燭。C登山展謝靈運の用ひたもので、前に見ゆ。ci泛海營書に「謝安、かつて孫綽等と海に泛ぶ。風起り、浪湧き、諸人竝に懼る、安、吟噛自如たり、丹人、安を以て悅ぶとなし、猶は去つて止まず、風、轉た急なり。安、徐に曰く、かくの如きは、將に何にか歸らむとすると。送送楊山人歸天台