李太白集卷十五し、常に謹んで之を遇す。長桑君、亦た肩〓の常人に非ざるを知るなり。出入十餘年、乃ち扁論を呼んで、私に坐し、間に與に語つて日く、われに葉方あり、年老いて、公に傳與せむと欲す、公濯らす毋れ。局鶴曰く、敬んで諾す、と。乃ち懷中の藥を出し、局鶴に與へて飲ましむ、是れ上池の水を以てす、三十日、當に物を知るべし、と。乃ち悉くその禁方の書を取つて、盡く局歸に與へ、忽然見えず、殆んど人に非ざるなり。局鵠、その言を以て、藥を飮み、三十日、垣を視るや、一方人を見、これを以て痢を視、盡く五臟癥結を見、特に診脈を以て名と爲すのみ」とある。【三】五蔵心肝脾肺腎を併稱す。3全牛莊子に「庖丁曰く、はじめ、臣、牛を解くの時、見るところ、牛に非ざるものなし、三年の後、未だ嘗て全牛を見ざるなり、今の時に方り、臣,神を以て遇うて、目を以て視ず」とある。三寝麟臺左傳に「西、大野に狩す、叔孫氏の車子鉏商、麟を得たり、以て不詳となし、以て虞人に屬ふ。仲尼、これをててくく麟なりと。然る後、これを取る」とあり、史記正義に「括地志に云ふ、護麟堆は、〓州飯野縣東十二里に在り。國都城記に云ふ、鉅野故城の東十里、澤中に土臺あり、廣輪四五十步、俗に獲麟堆といふ、魯城を去ること三百餘里ばかり」とあり、一統志に「捜麟臺は、鉅野縣東南五十里に在り、卽ち西狩獲麟の所、後人ここに於て臺を築く」とある。ことしはうじゆつ탈しトほうぜんしとえんせいかいじやうとうに555ったしんせん【題義】方士は方術の人、史記の封禪書に「燕齊海上の方士、その術を傳ふ」とある。すると、神仙むらう:さほんぎのちはうぎすなはいじゆつをさ달の術を修むるものを指したのが、本義であるが、後には、方技、卽ち醫術を修むる人をも言つたのでもちろんいじゆつしんせんれんたんはふたうしよきんせつくわんけいたうじよちしがなんある。勿論、醫術と神仙鍊丹の法とは、當初、緊接なる關係があつたのである。唐書地理志に「河南だううんしうとうへいでんしいかてうそうとうへいおく道に鄆州東平郡あり」と記してある。この詩は、醫家の超更といふものが東平に往くのを送つたので、ふちめいじけいれきとうれい[さいわか叟の名字經歷等は、例の如く、一切分らない。ちやうさう달へんじやくせんせいいじゆつたちしよう갈날もうねんまた【詩長桑といふ人は、扁鵲の先生で、醫術の開祖と稱すべき人、その人は、老年になると、愈よそのぎたつげやうげんどうし달ぎう=にみわちやうどはうていねん其技に達し、すべて病源を洞視し、人の五臟でも、すつかり個個に見分けることが丁度、庖丁が三年に:ぜんぎうみ:いまでうそう날ちやうさうひyeことごとつたの後、未だ嘗て全牛を見ざるなりといつた樣である。今超叟といふ人は、長桑の祕訣を悉く傳へたとしく〓なにちひたなとうへいはう正に、これから、方士に從つて、愈よ其技を〓磨せむが爲に、東平の方へ往くとのことである。かくかんぶん豚丼くわくりんだいすろあいこうま¥2えところためこうして、獲麟臺を過ぎたならば、そこは、魯の哀公の時、麟を獲た處で、その爲に、孔子が感憤しゆんじうつくくらゐなめひこうしとむらそ:えんじやうづつして春秋を作つたといふ位であるから、わが爲に、是非、孔子を弔つて吳れろ。ここ祖席の筵上、別かなみだむななが兼ねて古しへの事を思ふと、굴さんぜんを念ひ、清然として、涙が空しく流れる。たれおもしろぜん方士に切實であるが、しせつじつ【餘論】前四句は、後四句は、誰にでも流用が出來るので、さばかり、面白くぜんたいぶ〓あいさつもない。全體に於て、あまりの氣乘りがせぬやうで、いはば、通り一べんの挨拶に過ぎぬものであらう。かんじゆんはいせいこうきうほやまかへた送韓準。裴政.孔巢父還山.韓準·表政·孔巢父の山に還るを送る獵客張兎買。れふかくとしはりようこかカニ不能挂龍虎。獵客、兎置を張るも、龍虎を挂くる能はず。せいうん달にぎだこん所以靑雲人。高歌在巖戶。·靑雲の人、高歌して、巖戶に在る所以。韓しんえいげんBLUせいしん〓さ韓生信英彥。裴子含〓眞。信に英彥、表子、〓眞を含む。しうしゆつふしたし孔侯復秀出。倶與雲霞親こうこうま孔侯、復た秀出、ともに雲霞と親む。送送韓準表政孔葉父置山六二三六二三