李太白 集卷十五一一げうしせうさつみづ堯祠笑殺五湖水.堯祠笑殺す五湖の水、ててして歸らずんばあらず。恒いいたせうすゐむなかるに言ふ、これは是れ我が高陽池、と。至今憔悴空荷花。今に至つて憔悴す空しく荷花。故に時人これが爲に歌うて曰く、山(二〇)佐々にせいしんおかわれとうゑつ爾向西秦我東越。爾は西秦に向ひ、我は東越、公出何去、往至高陽池、日暮倒載ミ灣えいしうガきんけつ歸酩町無所知と。酩酊は醉の甚暫向瀛洲訪金闕。暫く瀛洲に向つて金闕を訪ふ。しきこと。171竹林七子阮籍、らんでんたいはく香康、向秀、藍田太白若可期。藍田太白、もし期すべくんば、山藩、到伶、阮成、王よためさうさいせきじやうフ戎魏の嘉平中、竝に河南山陽に居爲余掃灑石上月。余が爲に掃灑せよ、石上の月。リ、共に竹林の遊を爲し、世に竹林の七賢と號した。(2)明治何延之の國亭始末紀に「蘭亭は、音の右將軍會稽内史瑯耶の王義之書するところの序なり。晉の程帝永和九年幕春三月三日を以て、山陰に官達し、太原の孫統、孫綽、廣漢の王彬之、陳郡の謝安、高平の郡曇、太原の王蘊、釋支遁、丼に其子凝之、散之、操之等、四十有二人と祓禊の體を山陰の蘭亭に修し、毫を揮うて序を製し、樂を興して書し、意蘭紙、鼠鬚筆を用ひ、遺孀動他、絕代更に無し」とある。じくれ五湖太湖。【二〇】東越會稽。C三瀛洲金園前に見ゆ。CIT藍田太白太平寰宇記に「藍田山は、藍田縣西三十里に在り、一名玉山、一名覆車山。郭綠生の遙征記に云ふ、山形、履車の象の如きなり、と。按するに、後魏風土記に云ふ、山崩方二里、仙聖遊集の所、劉雄鳴、道を此に學ぶ、下に祠あり、甚だ嚴、漏水の源、ここに出づ」とあり。■書編に太白山は、廊縣の東南に在り、■中の諸山、これより高きはなし、上に鐵鑄山神牌三あり、湫池あり、三伏とももたた水水山崩常に積雪あつて消えず、盛夏、これを視れば、猶ほ馴然、故に太白を以て名づく。鬼谷あり、卽ち、鬼谷子、蘇藥に搏圖の術を授くる處」とある。まへおなはし上せんげうしおいげんれいとうくねちやうあんど【題義】この詩は、前と同じ場所なる魯郡の堯祠に於て、縣令竇華といふものの、長安に歸るを送つげんれいとうくね縣令竇華といふものの、ちやうあんど長安に歸るを送つ【題義】この詩は、·だしお달:たのである。竇華は、前に任城六父を送る詩中にあつた寶公かとも思はれるが、その人の事は分らなドルじら)를きうびやうはじたい。そして、この詩は、題下の自註に「時に久病初めて起つて作る」とある。c institutingなにふんじん古しへの犁眉關にも比すべき名馬に鞭つて出かけやうと思ふが、びひでふわびやうきbyc【詩意】朝に、何分、病氣の揚句で*らたしたでむしうびしうじたの1今しも、ある爲に、鞭を擧ぐるにも力が足らず、馬をかけさせることが出來ない。無理に、愁病を扶とかくきんおそびinげうしみなゐむかけて、何處へ往くかといへば、角巾を戴き、ことさらに微服して、堯祠の南に向ふので、そこには、じますえだながだとうめいふせんえんからげうしあたり邊に於ては、しにつくれう寶明府の儀筵が開かれるからである。その堯祠の柳の枝が長く枝垂れて、日光さへも見くらゐたんせつきやうこじんむかさもんなが噴き出でて、きんさな乙えぬ位、石門から流れる水は、金沙潭と成つて居る。そこで、絕境を指して、故人に向げまたかくべつなさんくわうすゐしよくあひえいあをまたひ、なんと、この景色は、又格別では無いか、山光水色相映じて、藍よりも靑いといつた。堯祠のべうちうおいわうわうさんけいしやつづるたたそわんちいげうむしんさんけいしやなに廟中に於ては、往往、參詣者が來て、鼓を敲く。元來、堯は、無心であるのに、參詣者は、何を苦ねべうぜんせじんとひざまづたらんで、そんな眞似をするのであるか。その廟前には、二個の石人が脆いて居るし、そこら邊には、港글をんなあつまいにちか50じんこうし卷ぎんあん五分子花の如き女が聚まつて、毎日、歌舞を爲し、まことに賑かである。貴人公子輩は、銀較に跨り、補ほんわうちいしやばはやしit G4いきほひSchff穀を轉じて、しきりに往來し、そして、その車馬は、林を簸ひ、石に蹶くやうな勢で、遙に聞けふうらい違たなびけむりいろときどるめいめつみづば、風雷の鳴るやうである。眺めやれば、遠くに棚引く煙や、空翠の色は、時時明滅し、水に泛んでゐはくおうとたみにてめしあからんかん居る白國が飛びあつ時は、さながら雪の飛んだやうに見える。それから、丹塗りの亭子は、赤い欄干をまそのしたくわんてんにあをにしきしやくふかisじら繞らし、其下には、碧流がぐるりと環轉し、早瀨は、靑錦を展べたやうである。百尺の深き淵は、洞送督郡堯祠送寶明府薄華還西京달:その人の事は分らな