李太白 集卷十五毛公一挺劍。楚趙兩相存。·(0)孟嘗悅狡兎。三窟賴馮煖。信陵奪兵符。爲用候生言。春申一何愚。刎首爲李園。に一賢哉四公子.撫掌黃泉裏。借問笑何人。笑人不好士。(爾去且勿喧。桃李竟何言. (一五) (一六)沙邱無漂母。誰肯飯王孫。まうこう2げんていそにふたあひそん毛公、一たび劍を挺し、楚趙、兩つながら相存す。まうしやうあっとよろこsふうげん孟嘗、狡兎を悅び、三窟、馮煖に賴る。とうたいへいふ昭ためこうぜいげん信頼、兵符を奪ひ、爲に侯生の言を用ふ。レゆんしんなんぐふんしゆゑんた春申一に何ぞ愚なる、刎首、李園の爲めなり。せんかなこうしたなごころ고くわうせん賢なる哉、四公子、掌を撫す黃泉の裏。しやもんなんびとわち달あわら借問す、何人を笑ふか、人の士を好まざるを笑ふ。佐くかかまびすなかたうりつひ唯い爾去つて、且つ喧しうする勿れ、桃李竟に何をか言ふ。3へうぼたれあわうそんはん沙邱に漂母なく、誰か肯て王孫に飯せむ。【字解】3宋人不辨玉宋人が蒸石を参重したことで、すでに前に見ゆ。3東家丘文選五臣註に「善人、孔子の聖人たるを知らず、乃ち曰く、彼の東家の丘なるもの、吾、れを知れりと。言ふは、孔子を輕んずるなり」とある。C·黃金銷衆口國語に「衆口金を鎌す」とあつて、章昭の註に「蝶は消なり。衆口の毀るところ、金石と雖も、猶ほ之を消すべきなり」とある。しかし、太平御覽には風俗通を引いて「衆口金を鎌す。俗說、ここに美金あり、衆人咸な共に詆皆して、その不純を言ふ、金を賣るもの、その售れむことを欲し、因つて、取りて煖燒し、以て眞を見はす、これを衆口金を蝶すといふ」とある。三白壁竟離投史記に「明月の珠、夜光の壁、暗を以て人に道路に投ずれば、人、劇を按じて相断せざるものなし、何となれば、因なくして、前に至ればなり」とある。C梧桐、綠竹鄭康成の毛討箋に「風風の性、梧桐に非ざれば棲まず、竹實に非ざれば食はず」とある。C田家養老馬淮南子に「田子方、老馬を道に見、喟然として志あり、以て其御に圓うて曰く、これ何の馬ぞや。其御曰く、これ故の公家の畜なり、老罷して用を爲さず、出して之を驚ぐ。曰く、少にして其力を貪り、老いて其身を棄つ、仁者は爲さざるなりと。東帛以て之を贖ふ。罷武、:れを聞いて心を師するところを知る」とある。5蛾眉笑覽者史記に「平原君の家樓、民家に臨む。民家に覺者あり、盤散行いて汲む。平原君の美人、樓上に居り、望み見て、大に之を笑ふ。覽者、門に至り、笑ふ者の頭を得むことを請ふ。平原君、これを諾し、しかも終に殺さず。居ること歲餘、實客門下舍人、引き去るもの過半。平原君、これを怪み、問うて其故を知り、壁者を笑ふ美人の頭を斬り、自ら門に造り、監者に進めて因つて謝す、門下乃ち復た稍稍來る」とある。〓駿奔駿は大、もしくは疾の義。CHC毛公史記に「秦、趙の郡耶を國む、平原君、敦を楚に求め、門下、文武備具するもの二十人を揮んで、之と與にす。十九人を得たり。毛遂、自ら薦む。楚に至つて、從を定むれども、決せず。氏玉、歷階して升る。楚王、怒つて之を叱す。毛遂、劍を接じて前んで日く、王の遂を叱する所以は、楚國の衆を以てなり。今、十步の内、王、楚國の衆を侍むを得ず、王の命は、遂の手に懸れり。楚の强を以て、天下能く當るなし、白起は小豎子のみ、一戰して郡野を擧げ、再戰して夷酸を焼き、三戰して王の先人を辱しむ、これ百世の怨、趙の差づるところ、合從は楚の爲にして趙の爲めに非ざるなり。王曰く、唯唯、まことに先生の言の如し、謹んで社稷を奉じて以て從はむ、と。平原君、すでに從を定めて歸る。楚、春申君を將として趙を敦はしむ」とあり。tc1孟嘗悅狡兎戰國策に「馮煖、孟嘗君に謂って日く、狡兎に三窟あり、僅に其死を免るるを得るのみ。今一窟あり、未だ枕を高くして臥するを得ざるなり。11/2ふ、君の爲に復た二窟を鑿たむ、と。西、梁に遊んで、其王を說くや、梁王、使者をして、孟嘗君を聘せしめ、使三反す。齊王、これを聞き、太傅を遺して、君に謝せしむ。馮煖、孟嘗君に謂つて曰く、順はくは、先王の榮器を請ひ、宗廟を薛に立てよ、と。廟成るや、量つて君に報じて曰く、三窟、すでに成る、君、はじめて枕を高くして樂を爲せ、と。孟嘗君、相たること數十年、纖芥の禍なきは、馮煖の計なり」とある。E1信陵奪兵符前に見ゆ。CII春申一何愚史記に「李園、妹を以て春申君に獻ず、娠めるあり、而して後に、之を考烈王に納れ、國王を生む。圖、盜をして春申君を殺さしめ、以て口を滅し、楚の政を事にす」とある。CT1黄泉左氏傳の註に「天玄地黄、泉は地中に在り、故に黃泉といふ」とあり、論衝に「その死するや、これを黃泉の下に葬る」とあ送送薛九稜議去魯大豆乳