李太白集卷十五CCU桃李史記に「桃李言はず、下、亦た前に見ゆ。その詳は、前に見ゆ。る。漂母自ら朕を成す」とある。CIU沙邸魯の地に在つて、CAUミ【題義】この詩は、薛九といふものが讒言せられ、その爲に、止むを得ず、魯國を立ち去るに就いて、さcc〓賦して贈つたのである。薛九の名字は、何といふか、又如何なる徑路で、さういふ事に成つたのか、ミわかその邊の事は、詩を讀んでも分らぬ。なにもの【詩意】むかし、宋人は、其性太だ愚にして、玉の何物たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしミほしよかて居たといふし、魯國の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び棄てにして東家の丘といつて居ミ上、55た位。世の中は、目くら千人であるから、折角才があつた處で、容易に認められるものではない。今、造たミで薛君は、何が故に、この地より他國に出かけるのか、一寸聞いただけでは笑ふべきことであるが、よくよおんむ글げんわうごんたあんく考へれば、まことに無理もない事である。現に、黄金は衆口に因つて消せられ、美事な玉も、暗だ中に投ずれば、劍を按じて見るといふ位で、うつかり、投げ出す譯には行かず、才があつた處で、矢ちせいな鱈に見せつけると、必ず禍を受けるものである。それから、梧桐の樹には蒺藜が寄生し、竹も實を岩で:結ばぬから、折角、鳳凰が出て來た處で、棲むべき處もなく、食ふべき物もなく、止むを得ず、羣雞と才あるものも、その處を得ざれば、と一所に成つて居るより外はないので、羣小と伍して居らねばなら30拂ひ下げの老馬を買ひつぬ。しかし、むかしから士を好むものは、決して少くないので、田子方は、い: : :福ふて、大切に飼養した爲に、窮士は、その門に來り集まつた。次に、平原君の美人は、躄の者の水を汲む두わらへきしやに、びすねん、樣子がをかしいといつて笑ひ、しかも、平原君は、躄者の約に背いて、その美人の頭を斬らざりしにひんかくだび因り、賓客は次第に門下より辭し去つた。それと氣が付いたから、平原君は、美人を斬つて覺者に詫おほいそ厚く之に禮したから、たび、三千の賓客は、又ぞろ大急ぎで其門に騙け込んで來た。かくて、毛遂とい大らcomふ樣な偉い男も、その内に居合せ、平原君が合從を約せむが爲に楚に赴きし時には、劍を按じて、つこれちっ·15かつかと楚王の前に進み出でて之に說き、遂に合從を全うせしめ、楚趙の二國は、その爲に、猶ほ存쿨でっ續することが出來た。それから、馮煖は、孟嘗君に說き、狡兎も三窟あればこそ安心であるので、是Rす非とも、さう無くては成らぬといひ、孟嘗君の爲に力を盡して、數十年間、繊芥の禍も無い樣にしはかりごとわCこみづかた。信陵君は、候贏の謀に因り、王の臥內に在る兵符を竊んで、晉鄙の軍を奪ひ、自ら將として趙〓みぶこあi iを救ひ、遂に希代の大功を成した。古人士を好むの功は、大抵かくの如く、これにつけても、讒言をE :0둘た聞いて、天晴の士を追ひ拂ふなどいふのは、以ての外の事である。唯だ春申君のみは、まことに、愚の骨頂で、その行爲も、純ならざるに因り、後に李園といふ小人の爲に首を刎ねられて仕舞つた。以玉トだこ上、平原·孟嘗·信陵·春申の四人は、戰國時代に當つて、ともに賓客を好み、四公子と稱せられた〓とたは&こ位で、死後黃泉の下に於て相會し、手を拍いて快げに話して居るであらう。そこで、何人を笑ふかとひとびとら1問へば、世の中の權勢ある人人が兎角士を好まず、從つて、大事業を仕出かすことが出來ない、送送薛九被議去書