李太白 集卷十六のひんかう貧交に贈る、さんがく臨行贈貧交,一尺重山岳.行くに臨んで、一尺、山岳よりも重し。相國齊晏子しやうこくせいあんしかう行を贈つて言に及ばず。최보贈行不及言.相國齊の晏子、託陰當樹李.二いん表:れなむ:けん忘憂當樹萱。陰を託する、當に李を樹うべく、憂を忘るる、當に萱を-にたじつちやうろくみていはうきうおんれ他日見張祿。綿袍懷舊恩。他日、張祿を見ば、綿袍、舊恩を懷はむ。樹うべし。【字解】5横海峰抱朴子に「寸鮒は牛跡の水に遊び、橫海の巨鱗を貴ばず」とあり、謝世基の詩に、偉哉橫海瞬、壯矣垂天翼とあろ。3鼎湖黃帝が鼎を饒た處、その詳、前に見ゆ。その地は、弘農郡の胡城縣である。3寶鏡太平廣記に「黃帝、十五鏡を歸る、その第一、横徑一尺五寸、滿月の數に法るなり」とある。又路史には、十二鏡となし、羅苹の註に「十有二次に廳じ、得る者あるに隨つて、以て日蝕を占し、刻分差なし」とある。E丹經抱朴子に「黃帝、王屋に勝つて、丹經を授かる」とあり、路史に「黃帝、駕を王屋に囘し、石面を啓き、玉笈を發し、九鼎飛壹神丹訣を得たり」とある。C軒后黃帝軒轅氏の略。魯縞魯國に產する白絹。F五線王琦は謙を以て兼の誤だらう、そして五兼は卽ち五匹だといつた。束は鄭玄の周禮註に「十個を東となす」とある。唐制に、帛は十端を東としたので、五匹の儘では、東を成さぬ。〓晏子晏子春秋に「曾子、將に行かむとす、晏子、これを送つて曰く、君子は人に贈るに軒を以てするも、言を以てするに若かず」とある。Car樹李說苑に「桃李を樹うるもの、夏は休息するを得、秋は其實を得」とある。c()樹萱詩の國風に、焉得ニ發草、言樹之背とあつて、毛傳に「嚴草は、人をして憂を忘れしむ」とある。三一張祿史記に「范誰、すでに秦に相たり、秦、號して張藤といふ、而して、魏知らず。秦の東韓魏を伐たむとするを聞き、須買を秦に使す。范雖、これを聞き、微行を爲し、敵衣間步して邸に至り、須賈を見る。〓、意、これを哀み、留めて與に坐し、飮食せしめて曰く、范叔一寒、ここに至るか、と。乃ち一締砲を取つて以て之に賜ふ」とある。締砲は卽ち麁砲、どてら。ろたんえんしうこうのうぐんくわくしうかなんだう:じやうしうぐわんちいじやうしうししべつがした【題義】魯郡は、竟州弘農郡の號州で、河南道に屬し、もと上州である。元來上州の刺史別駕の下ちやうしにんじゆほんちやうしいげんさんじくわん꿀コめいには、長史一人あつて、從五品である。長史といへば、今の縣參事官の如きものであらう。劉は、名ヒふしやうしりうぼうろそんちやうしこうのうちやうしえいてんかうおく字ともに不詳。この詩は、割某が魯郡の長史から、弘農の長史に榮轉したるに因つて、その行を送るたのつが爲に作つたのである。たぱいみづたた一五うみわうぜつやうたいぎよい【詩意】むかし、魯國に於ては、唯だ一杯の水を湛へたると同じく、海を橫絕する樣な大魚を容れるでせつかくもしやうだいせいじんでしまろことが出來ず、折角、孔子の樣な大聖人が出て來ても、これを用ひずに仕舞つた。孔子さへ、魯國の달そんけいくちゐじんじやう달おいなほさら〓ところ人に尊敬されなかつた位であるから、尋常の人に於ては、猶更の事で、こんな處へ往つては、とてもまろにあ。:5おほひとはかはくぎよくごと遣り切れない。されば、君の魯郡に在るや、矢張、多くの人から馬鹿にされ、白玉を以て一斗の粟にかわうごんしやくたきぎか干わざわざたかへいこう:廉いものを態態高く買はされて、まことに閉口して居た。換へ、黃金を以て一尺の薪を買ひ、かくて、licもくえふくだ달55かはる門を閉づれば、木葉はらはらと下り、わが身一つの秋は、早くも來て、世は今しも春でないといふこまusうけたまはまこんくらいにしむかえいてん古とを覺つたといふ位。承れば、君は、今囘西に向つて、榮轉されたといふことで、その地は、ていことくわうていちうざうはうきやうあをごけつつてんさづたんけいしへの鼎湖に鄰つて居る。おもへば、黃帝の鑄造した寶鏡は、蒼苔に包まれ、天から授けられた丹經せんあいまいぼつくわうていてんのとせうしんはいひげひげは、塵埃に埋沒して仕舞つた。しかし、黃帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀ぢ、やがて、髯がねおといぜんけいあい를ざいのつおい拔けて、地に落されたといふことで、依然として、惠愛を留め、そして、千歳の後に於ても、どうやふうぞくじゆんりやうまげんじんそんざいみとろ〓くわうてい:こうのうてんにんら、風俗は純良である。君は、賢人の存在を認めぬ魯郡から、黃帝の遺跡たる弘農に轉任されたる送送魯郡劉長史運弘農長史