巻十六【字解】【一】天柱漢書に「廬江郡瀧縣、天性山南に在り」といひ、三國志に「濫中に天柱山あり、高崚二十餘里、道險狹、步徑わづかに通ず」とあり、一統志に「霍山は廬州府六安州の西南九十里に在り、一名衡山、一名天柱。漢の武帝、南巡して盛唐に至り、南岳衝山の遣阻なるを以て、乃ち岳神を霍に移して祀る、又南岳山と名づく。山頂に天池、龍湫、風洞、岳井、試心崖、凌霄樹あり」と記してある。S海門成淳臨安志に「海門は仁和縣の東北六十五里に在り、山あり、赭山といふ、龕山と對峙し、漸、その間に生ず」とあり、輟耕錄に「浙江の口、兩山あり、その南を龜山といひ、その北を赭山といふ、蓋し江海の會に峙つ、これを海門といふ」とある。g披装者論衝に「延陵の季子、出でて遊び、路に遺金あるを見る。夏五月に當つて、裘を抜いて薪するものあり。季子、覇者を呼んで曰く、彼の地の金を取れ、と。采薪者、鎌を地に投じ、目を賦らし、手を拂うて、言つて曰く、何ぞ子居るの高く、視るの下く、儀貌の壯、語言の野なるや。吾、夏五月に當り、表を披いて薪す、豈に金を取るものならむや、と。季子これを謝し、姓氏を請ひ問ふ。薪者曰く、子は皮相の士なり、何ぞ姓氏を語るに足らむや、と。遂に去つて顧みず」とある。おつかうしう上かうぐんかうたんとうだうてろ片ろかうぐんわいなんだうだゐはいだいポート【題義】唐時の杭州は餘杭郡で、江南東道に屬し、廬州は廬江郡で、淮南道に屬して居た。裴大の大はいかうだい〓おにしかうしうぶいはいだいたくあらたろかうちやうしほは排行第一、澤は、其名であらう。この詩は、杭州に於て表大澤といふものが、新に廬江の長史に補赴低するのを送つて上にんiせられて、作つたのである。ろし)せいかうなてんちうざんとほそびいまかうしうぶ君の行く廬州に於ては、【詩意】西江の地に名だたる天柱山が遠くに聳えて居るし、今居る杭州は、すなはいにとうゑつかいもんふかりやうちかくぜついまいおやあい卽ち古しへの東越で、海門深く、兩地の隔絕することは、言ふまでもない。君は、今、親に對する愛れん〓はうこくこころうれこうじたのわたくしかへりていゐたのしみす戀の情を割いて、行く報國の心を憂へしめ、つまり、公事の爲には私を顧みず、庭關の樂を棄て,ㅊこころねらうかうふうらくじつふ:て、于役しやうといふ、その心根は、まことに見上げたものである。折しも、好風は落日を吹き、流すゐちやうぎん元まぜんとしゆくふくえんりようしなつおら水は長吟の聲を引き、さながら、君の前途を祝福するやうである。むかし、延陵の季子は、夏の五月あつかはごろもゐおえひろところみごと源수合に、厚い裘を著て居るものに向ひ、金を拾へといつた處が、見事に一本遺りこめられたことがあるそうめいけんしやじ달くびなせいしやま=ので、いかに聰明の賢者なりとも、これを自負して、人を見縊つては成らぬので、爲政者たる君に向じもうこくしだいつては、この一事を特に忠告する次第である。じさんぜんっがんれん123かせいてきでところだいだいりやうくきんみつ【餘論】これは純然たる五律で、領聯が聊か一氣呵成的に出來て居る處から、第一第二の兩句を緊密るれんめいくくわうけいじんぶつおくさうじやうけいゆうがふめうに對した。好風の一聯は名句で、この光景に因つて、その人物を臆想すべく、つまり、情景融合の妙けつまつ1たくかいまししうけつはふがある。結末は、一歩を拓開したので、亦た一種の收結法である。だいだいりやうくきんみつ第一第二の兩句を緊密じやうけいゆうがふめうつまり、情景融合の妙はりようかうべつれ漏陵行、別を送るはりようていかうかうきみおくはすゐなが君を送る漏陵亭、滿水流れて浩浩たり。2む:こじゆ上に無花の古樹あり、したしやうしんしゆんさう下に傷心の春草あり。〓しんびとgろ秦人に向つて路岐を問ふ、いわうさんなんとう15云ふ是れ王榮南登の古道と。灞陵行.送別こ送君灞陵亭.濔水流浩浩.上有無花之古樹。下有傷心之春草。我向秦人問路歧。〓云是王粲南登之古道送獨陵行送別六六九