李太白集季十このこてんせつらうじふくてうきんたいふほんでんし拉このじやう仍つて、其子典を設郞に拜し、曾子を朝散大夫本郡司馬となし、以て侍養を伸べしむ」とある。それつかさどけだつうてんくわうたいしひんかくよにんてうごじじうきかん用そ太子、およしひんかく云じやうしから、通典に「皇太子賓客四人、調護侍從規諫を掌る、賓客の事あらば、上齒たり、蓋ししやう:つとしかんちう:さつ象を四皓に取り、資位閑重、その流、雜ならず」とある。古きやうこみづせいは安定今ままおこ;【詩意】鏡湖の水は、澄み切つて、〓波を淺はして居る。君は其地に歸休されるといふので、舟にIb達いつきようさだおほにめいきちやくのらに乘つて、湖水を渡つて行かれるが、逸興定めて多きことであらう。かくて、愈よ四明に歸著せし後、ちうつさんいんだうし꿀しよかんのうま古しへの王逸少を學び、わういつせうまなくわうてい山陰道士の如きものに遇つたならば、書に堪能なる君は、黃庭の一經を寫しださいはくがかて、道士の白鵝に換へることであらう。わういつせうぜんばんめいきちやくりよきようこうはんきちやくのらミい以て之に【餘論】前半は四明に歸著するまでの旅興、後半は歸著せし後の事を云つたので、王逸少をのうしよrunちょしたis比したのは、ひとしく能書の譽あるからである。それから、むかし王義之が道士の爲に寫したのは、黃鹿ていきやうまたべつだうとくきやうばつ始めて黃くわうていきやうはく庭經だといひ、又別に道德經だといふ說もある。そして、庭經といつたのは、李白の此詩だいぶ5ろんたやかくそうしよせいせいしにたいはくしなどだといふので、大分議論がやかましくつて居る。野客叢書に「西〓詩話に曰く、太白の詩、山しんじよあんいうぐんだうとくきやうこだうしがか陰道士如相見、應寫黃庭換白鵝上と。晉書を按ずるに、右軍は道德經を寫して、道士の鷄に換ふ、さんいんだうしがぐんいうそん出こたうこくはつくわうていきやうみるに曰く、りうくんくわうてい鵝羣を以て右軍に獻じ、黄庭に非ざるなり。僕、陶穀の跋せる黃庭經を觀山陰道士劉君くわうていうやうしよこミまくわうていいたいはくあやまりこ黃庭經を書せむことを乞ふ。これ是れなりと。穀、亦た黃庭と謂ふは、太白の誤を承くるに非ざるくわうろちよくしはいせいゆしまたいは〓道士難換黃庭經、又曰を得むや。黃魯直の詩、爲君寫就黃庭了、不博山陰道士鵝、梅聖兪の詩、それけだ蓋しほたあやまりあるひい논ただうしがこいしミく、黃庭換白鵝と。皆、この謬を承く。或は謂ふ、晉史、但だ道士の鵝羣と言ふのみ、知らず、穀、なにっつだうしりうくんしぼくしんてふわんげんこ元何を以て、その道士劉君たるを知るや。僕、晉帖を考ふるに、獻之に劉道士〓〓亦復歸也とあり、乃inべいげんしやう논くわうそくわうていきやうくわんりくてうじんしたうこくはついさんいんち此に據るなからむや。米元章の書史、黃素黃庭經一卷、これ六朝人の書、陶穀跋して云ふ、山陰だうしりうくんがu :)いうぐんけんくわっていきやうしよすかはむと道士劉君、鵝羣を以て右軍に獻ぜむとし、黃庭經を書せむことを乞ふ、これ卽ち是れなり。晉史にためだうとくきやううつ:せんあひおくほくしがかん式載す、爲に道德經を寫さば、當に羣を擧げて相贈るべしと。李白の詩、賀監を送るに、山陰道士如相いよじんひくわんうていきやうくわんがきやうな滋味わら見、應 黃 黃 庭 操 鵝 鶏と云ふに因り、世人、遂に黃庭經を以て換〓經と爲す、甚だ笑ふべきなくわうはくしとうくわんよろんよくわうていしんてふつたいつせうしんな装ふんウチリひり。黃伯思の東觀餘論、世、黃庭眞帖を傳へて、逸少の書と爲す。僕、かつて之を考ふるに非なり。あんたういんきよしんかうよくしんけんろんじやうせいしんきやうしまついしんあいていこうねいねんなんがくぎ+じんさづてい按ずるに、陶隱尼眞話買異檢論上〓眞經始末に云ふ、皆の哀帝輿事二年、南岳魏夫人授くるところの弟ちやうしやうくんつくうついだこでんちやうしきよくんきじゃうけいえんつた:とこうふれいじ以て護軍長史許君及の子上計掾に傳へしむ。えん子、司徒公府長史楊君、隸字を作つて寫し出し、撮、以こくわうみんニみん:こうもくつたのわうこうせんひそかこうつせつかうわたにて子黃民に付し、民、以て孔默に傳へ、後、王興先に竊に之を寫さる。はじめ、浙江を濟り、風に遇りんへうたくわうていびこん大けだこのきやう(あんいつせうしんぼくうて淪漂し、惟だ黃庭の一篇、存するを得たり、と。蓋し此經なり。僕、按ずるに、逸少は、音の穆ていしようへいねん3)おちらとし歲たしんいうのらねん는혼すなはあいていこうねいねん帝昇平五年を以て卒す。この年、辛酉に在り。後二年、歲、甲子に在り、卽ち哀帝の興寧二年、くわうていよごとおていつせうあらかじこれしょ〓またあんち。ろんしよへうはじめて、黄庭を世に降す。安んぞ、逸少、豫め之を書するを得む。又按ずるに、梁の虞龢の論書表さんいんどんじやうそんErだうし·しいいはひさかじやうこうたいうつほっけんそに云ふ、山陰曇破村の養鶏の道士、義之に謂つて曰く、久しく、河上公の老子を寫さむと欲す、維素はや¥ひとよしよ上え2みづかsiだうとくきやうりやうしやうしよ薩そん早く辦ず、しかも人の能く書するなし、府君、もし能く自ら屈して、道德經兩章を書せば、便ち華送六五五