李太白集卷十六不假築長城。大賢在其間。(國)戰夫若熊虎。破敵有餘開。(一五)張子勇且英。少輕衞霍孱。(た)投軀紫髯將.千里望風顏。(t)勗爾效才略。功成衣錦還。ちやうじやうきづかたいげんあひだあ長城を築くを假らず、大賢その間に在り。アイスゆうこ별でこよかん戰夫、熊虎の若く、敵を破つて餘聞あり。せう高いくわくせんちやうし張子、勇にして且つ英、ゆつかかろ少にして輕んず衞霍の屏なるを。しぜんふうがんの とみま軀を投ず紫髯の將、千里、風顏を望む。たいとこさいりやくいたられにしきここ爾を勗む、才略を效し、功成らば、錦を衣て還れ。【字解】【一】壽陽太平寰宇記に「壽陽城は、便水に臨み、北に八公山あり、山北は卽ち淮水、東管より今に至るまで、常に要害の地たり」とある。CO苻堅百萬衆十六國春秋に一、兵を遣し、道を分つて膏に意す。秦王苻堅、遂に長安の戌卒六十餘萬、騎二十七萬を發す。骨、謝石を以て征討大都督となし、謝玄を前蜂都督となし、衆八萬を督して之を拒がしむ。劉牢之、精兵五千を帥ゐて、洛潤に趨き、直に水を渡り、秦の前鋒梁成を擊つて之を斬る。石等、水陸權いで進む。堅、壽陽城に登つて望見するに、管兵の部陣嚴整なり。又八公山の草木を望見して、晉兵となし、憮然として懼るる色あり。秦兵、肥水に逼つて陣す。玄、人をして謂はしめて曰く、陣を移して小しく都き、我が兵をして渡るを得せしめ、以て勝負を決せば可ならむか、と。堅、晉兵に聽るし、半ば渡るとき、これを覺めむと欲し、兵を磨いて却かしむ。秦兵、退いて、復た止むべからず。朱序、陣後に在つて、呼んで曰く、秦兵敗る、と。達に潰ゆ。玄等、勝に乘じて追擊す。秦兵大に敗れ、走るものは、風聲鶴唳を聞いて皆以て管兵至るとなす。堅、狼狽して長安に歸る」とある。3八公山江南通志に「八公山は、壽州城北五里、淝水の北、淮水の南に在り、漢の淮南王安、その實客八公と偶に此山に登つて仙を學ぶ。今山に淮南王廟あり、安及び八士の像を圖す。山、八公を以て名づくるは、蓋し此に本づくとある。E熊皮三國志に「劉備、梟雄の姿を以て、關羽·張飛·熊虎の將あり」とあり、江表傳に「戰つて熊虎の如く、軀命を惜まず」とある。衣舘る。賣し收警の如虎如貌、如熊如」ののに本づく。C屏懦別なること。8紫髯將孫權をいふ、前に見ゆ。G衣舘南史に「柳慶遠、出でて雍州刺史となる。帝,新亭に錢し謂つて曰く、病、錦を衣て〓に還る、朕西顧の憂なし」とある。たうじよちわいなんだうじゆしうじゆしゆんぐんちうととくふわいなんぐんてんほうそわんねんなあらた【題義】唐書地理志に「淮南道に壽州あり、壽春郡中都督府、本と淮南郡、天寶元年名を更む」とあ3せつあんじゆしゆんなせんごくレそせいかかうれつわうおこしじゆしゆん:る。王琦の說に〓按ずるに、壽春の名は、本と戰國よりす。史記楚世家、考烈王、都を壽春に徒す。:いはじゆしゆんみなみじゆしうじゆしゅんけんゐじゆやうtとうしんだつうてんたうしん正義に曰く、壽春は南壽州壽春縣に在りと。是れなり。壽陽の名は、東管より起る。通典、東晉、ていくわうごいみな으うじゆしゆんむたっじゆやうぎしゆん.やうふしゆんムやうおよしゆんな鄭皇后の諱を以て、壽春を改めて壽陽といひ、宜春を宜陽といひ、富春を富陽といひ、凡そ春と名づとごとinあらたカライじゆしゆんなたいはくじゆやうけだきうめいしふようくるものは、悉く之を改む。唐時、壽春と名づけ、太白壽陽を用ふるは、蓋し舊名を襲用するのみ」にちくきよ將軍けだしさくいんこれを幕府いへいもんあはゐちやうといつた。それから、幕府は、史記索隱にㄱ凡そと謂ふは、蓋し兵門合せて帷帳をぼくさいかういはしゆつせいしやうすゐただしゆゑ놓古しへ出征して將帥たり、ぐんかへPじやうしよほくえき施す、故に幕府と稱す。崔浩曰く、軍、還れば罷む、理、常處なし、幕奔+し·K 12しちやうえうじゆしゆんちうざいを以て府署となす、故に幕府といふ」とある。すると、この詩は、張遙といふものが、壽春に駐在すしやうやんぼくかみ)ためじゆしゆんでっごためる將軍の幕下に身を投ぜるが爲に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る爲に作つたのである。じゆしゆんてんけんなんほうそくわんもんよこたゐ2.げんまんhば【詩意】壽春は天險で、南方楚地の關門として横はつて居る。むかし、苻堅は、百萬の衆を率ゐて、かうなんBinこうざん〓〓ごといきほひすさまくらゐ江南を擧げむとし、遙に八公山を隔てて、ここに陣取つた。その勢は、まことに凄じい位であつたとうしんは,ちやうじやうサゴさいはひしやげんしやせき굴たいけんそのあひだをかせんが、東音の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄·謝石の如き大賢が其間に居り、麾下の戰送送張遙之壽陽幕府