李太集卷十六といふ、混沌相連る、これを視れども見えず、これを聽けども聞こえず」とあり、潛夫論に「太素の時、元氣窃冥、形兆未だ成らず」とあり、淮南子に「その聴明を偃せ、その太素を抱く」とある。C·熙やはらぐ。E眞人舊唐書に「天竇元年、荘子は號して南華眞人となし、文子は酸して通元眞人となし、列子は號して沖處眞人となし、度桑子は號して洞處眞人となす。その四子著すところの書、改めて眞經となす」とある。€摘辯班固の答實歳に「静を馳すること溶波の如く、藻を搞すること春華の如し」とあつて、顔師古の註に「大波を溜といふ、摘は布くなり」とある。四洛師莊子に「副墨の子、これを洛師の孫に聞く」とあつて、陸德明の音義に「副墨、以て元墨に副貳たるべきなり。洛誦、師は通、苞落して通ぜざるなきなり。崔云ふ、皆古人の姓名、或は寓言のみ、その人なきなり」とある。【九】爲金好踊躍莊子に「大冶、金を鑄る、金、動躍して曰く、我必す鎮節と爲らむと。大冶必ず以て不祥の金と爲さむ」とある。CO1五寶不詳。【三】開酌眄庭柯歸去來辭に「引 蘆籐 以自酌、兩 柯以怡顏」とあ?.呂向の註に「何は樹枝なり」とある。CII三花初學記に「漢の世、道士あり、外國より貝多子を將て來リ、嵩高西脚の下に於て、これを種う、四樹あり、衆木と異なるあり、一年三たび花さき、白色香異」とある。tはいかうあいじわかつうてんかいげん【題義】于十八の十八は例の排行で、その名字は分らない。四子とは、通典に「開元二十九年、はじげいしおだうきよせいとおだうきよめて、京師に於て崇玄館を置き、諸州に道學生徒を置くこと差あり。これを道擧といふ。擧送課試、澄おのおのにんとはかん明經と等し。京師は各百人、諸州は常員なし、老莊文列を習ふ、これを四子といふ、所、國子監かいげん:5すうげんがくだうとくおなたうくわいえうねんしやうぐわつ玄元皇帝の廟に於て、かんげんくわうていと同じ」とあり、唐會要に「開元二十九年正月十五日、崇玄學を置き、道德きやうさうじしふせいまいねんきよじんにたん눔經·莊子·文子·列子を習はしめ、習成の後を待ち、毎年、擧人の例に隨ひ、名を送つて省に至り、明經にじゆんかうしつうきふだいじんじゆんしよぶん准じて考試し、通ずるものは、及第人に准じて處分す」とある。從前文官試驗を受けるには、儒學の:げんそう進行せん,でみに限つて居たが、玄宗の中年、大に道學を標榜し、これを以て試驗を受けることが出來るやうにし) ,すうげんくわんかうしふたので、その學校の主要なるものが崇玄館そこでは、專ら四子を講習したのである。この詩は、于すうげんくわんふら十八といふものが、崇玄館に入る積りで、其擧に應して入學試驗を受けた處が、不幸にして落第し、すうざんか、ため?仍つて、嵩山に歸らむとするに就いて、これを送る爲に作つたのである。B+로そのとほ【詩意】わが祖の老子は、天地の間、猶ほ棄箭の如きかと云つたが、まことに其通りで、そのふいご上上{ , sから吹き出されて、天に屬し、下、人に屬するものが、森然として、宇宙の間に羅列して居る。달にじやうたいえこかくて、一たび、其根に歸れば、形兆わづかに成りし、調はゆる太素の狀態に復するので、萬種の生: :こちじやうたいさうぶんれつかう物は、元氣の〓和を受けて、和らいで居る。これが卽ち理想至治の狀態である。ここに、莊文列庚のこ)ゆうべんはぼき四眞人は、老子の統を傳へ、雄辯を揮ふこと、さながら波濤の如く、やがて、その會流した揚句には、よせきぜん;やうぼく時として、寂然たることなく、愈よ以てやかましく騒ぎ立てる樣なり、はては、流れて楊墨の一派を¥はんきみづいまse生じ、それが、日日窪みを成して、萬派の水を受けるやうに成つた。今、君は、洛誦から道を聞いただBさいおほごといつて、才を誇つて居る。なる程、その才は、もとより多いに相違ないが、それでは、根に歸るとにまたきんしいふ根本主義に違背したものである。又金が踊躍して、われは莫耶に成りたいといつた樣に、頻りにし〓偉がつて騒ぎ出すのは、世に處する道を得たものではないので、久客として他〓に居り、夙志蹉跎しばん둘まこんくわいらくだいたのも、尤も千萬な事である。つまり、君が今囘落第した理由は、あまり偉らく見せかけて、是非としにわんらいtsへうへんかも、試驗を通過したいといつてあせつたからである。元來道てふものは、表面に露出せぬ處價値送送子十八應四子擧落第運當山