李太白卷十六うちうかんりやうれんじよけい吉じつじためないようじうじつ【餘論】これは五律で、中間兩聯が敍景、卽ち實事である爲に、內容が充實したやうに見える。それはくきどうせいゆるら)てんせいたくわんようしゆだんけつまつへんていくかんじやうから、白起は、同姓の故を以て點醒したので、例の慣用手段である。結末二句は、邊庭苦寒の狀を述じうぐんしやつと旨げんさつらう涼Mいなべて、從軍者を勗め勵ましたので、嚴滄浪が「千載、生氣あり」といつたのも、主として、これが爲である。ちやうしうさいじうぐんおく張秀才の從軍するを送るたちsとは2〓は六駁、猛武を食ひ、驚馬の羣に從ふを恥づ。てうちやうめいけう별一朝長鳴し去り、矯として龍の雲を行くが若し。さうしゑんりいだこころざしせいふんとそん壯士、遠略を懷き、志は世紛を解くに存す。しうぞくたド。せいけいいづくあへわか周粟、猶ほ顧みず、齊珪、安んぞ肯て分たむ。見いだかうだうじ:まとす霍冠軍。劍を抱いて高堂を辭し、將に投ぜむちやうさくか:港ねいしんじよふんかへ長策、河洛を掃はば、寧親、汝墳に歸れ。:りんかくLたし當に千古の後をして、麟閣に奇動を著さしむべし。送張秀才從軍六駁食猛武.秘從。篤馬羣。(三)一朝長鳴去.矯若龍行雲。壯士懷遠略;志存解世紛。間粟猶不願。齊珪安肯分. @ (六)抱劍辭高堂。將投電冠軍。まi長策掃河洛。寧親歸汝墳。當令千古後.麟閣著奇勳。【字解】C六駿詩の國風に關有六駿とあつて、C毛傳に「絞は馬の如く、鋸牙、虎約を食ふ」とあり、孔頴達の正義に「即畜に云ふ、駛は馬の加く、鋸牙、虎約を食ふ」とあり、郭璞は山海經を引いて「獸あり、腋と名づく、白馬の如く、黑尾鋸牙、音,戯の如く、虎的を食ふ」とある。然らば、この獸は駭と名づけるだけ、それを六胶といつたに就いて、王肅は「六と云ふは、見るところに據つて言ふなり」といつた。北史に「强華原、兗州刺史となる。これより先、州境數ば延歌あつて暴を爲す。華原、政に臨んでより、州の東北七十里、甑山中、忽ち六肢あり、猛獸を食ふ、感な化感の致すところと爲す」とある。【三】猛式猛虎に作るべき答であるが、唐では、虎の子を諱み、常に武の字を以て之に代へた。3爲馬爲は鈍馬。三周粟猶不順史記に「伯夷叔寶、義として周の粟を〓はず」とある。C-齊珪謝靈運の詩に弦高恊ニ育師「仲連却」車軍、臨 組年不線、對珪事肯分とあつて、李善の文選註「史記に曰く、平原君、善速を封ぜむと欲す、連、肯て受けず」とある。王琦の解に「左太冲の詠史の詩に曰く、臨組不昔緣、對珪不肯分、仲速の文に據るに、分珪の事を見ずと雖も、古しへ、語を分つ、皆その語の輕重に隨うて、これに珪壁を賜ひ、執つて以て瑞信と爲す。今仲連、齊起の封語を受けず、その肯て珪を分たざるを明かにするなり」とある。魯仲連は、はじめ、趙の平原君から封土の事を言ひ出されたのであるから、一體ならば、趙珪といはねばならぬ處である。E當冠軍史記に「霍去病、剩姚校尉となり、封ぜられて冠軍候となる」とある。3事親揚子法言に「孝は寧親より大なるはなし」とある。0汝墳詩の國風に遵彼汝墳」とあり、鄭康成の周禮註に「水涯を墳といふ」とあつて、汝墳とは汝水の遲をいふ。後漢書郡國志に「汝陰、本と胡國」とあつて、その註に「詩に謂はゆる汝墳なり」とある。又塵奉傳贊に「二應克聰、亦表汝墳」とあつて、凡そ汝水の演は皆汝環といふのである。CO麟閣すでに前に見ゆ。こくしほ논つうしようおろいちやうほうにこた글ふしやうし【題義】國史補に「進士、通稱、これを秀才といふ」とある。張某の名字は、例の如く不詳。この詩しんしちやうぼうじうぐんれ?は、進士張某の從軍を送つて作つたのである。はく출:しと12むれしたがは【詩意】敗は、猛虎をさへ食つて仕舞ふもので、駑馬の羣に從つて、のそのそして居るのを愧づるこいてうちやうのいこころはうはしけうけう;とは、言ふまでもない。かくて、一朝長鳴して、その志ざす方に走り去るを見れば、矯矯として、龍遠送張秀才從軍ちやうほうにこ張某の名字は、た글ふしやう例の如く不詳。しこの詩と12むれしたがは駑馬の羣に從つて、のそのそして居るのを愧づるここころはうはしけうけう;その志ざす方に走り去るを見れば、矯矯として、龍