李太白集卷十六何事歷衡霍.雲帆今始還. ~うんほん何事ぞ、衡霍を歷、雲帆、今はじめて還る。돈君坐稍解顏.爲我歌此篇。君坐して稍や顏を解き、我が爲に此篇を歌へ。caのぼ我固侯門士。謬登聖主筵.我、固より候門の士、謬つて登る聖主の筵。0층살きんくわでんちやうかう一辭金華殿。蹭蹬長江邊.一たび金華殿を辭し、踰蹬す長江の邊。えいし은二子魯門東.別來已經年。二子、魯門の東別來すでに年を經たり。류このうち淡いづみ둘因君此中去。不覺淚如泉。君が此中より去るに因つて、覺えず、淚泉の如きを。【字解】S關西楊伯起後漢書に「楊震、字は伯起、弘農華陰の人、少にして學を好み、經に明かに、傳覽、窮究せざるなし。諸信、これが語を爲して曰く、關西孔子楊伯起」とある。それから、震より、乘、賜を經て、彪に至るまで、四世相繼いで、太尉となつた。【三】華陰太平寰宇記に「華州華陰縣、太華山の陰に在るを以て、故に之を名づく」とある。3玉蓮華山の蓮花峰を指したのであらう。王時の解に「或は謂ふ、玉女蓮花の二峰を指して言ふと。或は謂ふ、華山記に云ふ、山頂に池あり、千葉の蓮花を生ず、これを服すれば羽化す、昌黎の詩に謂はゆる太華峰頭玉井蓮、開花十丈覇如船、玉蓮は玉井蓮を指すに似たり」とある。三街電二山の名。霍山は、太平寰宇記に「一名衡山、一名天柱山、僕の武帝、衡山遼遠、識諱皆霊山を以て南所となすを以て、故に其神を此に祭る、今土俗、皆南岳大山と呼ぶ」とある。3解顏笑ふこと。8金華嚴三輔黃圖に「未央宮に金華殿あり」と記してある。~うんほん何事ぞ、衡霍を歷、雲帆、今はじめて還る。君坐して稍や顏を解き、我が爲に此篇を歌へ。caのぼ我、固より候門の士、謬つて登る聖主の筵。살きんくわでんちやうかう一たび金華殿を辭し、踰蹬す長江の邊。えいし은二子、魯門の東別來すでに年を經たり。류このうち淡いづみ君が此中より去るに因つて、覺えず、淚달わか如何なる人か分らぬが、L ;)詩中に夫子華陰居とあるからには、はりかんはつえい矢張漢の楊震の末裔と【題義】楊燕は、しきんりようらやうえんニ見える。この詩は、李白が金陵あたりに居た頃、楊燕が南方を旅行して來りしに遇ひ、そして、その(東魯に之くを送つて作つたのである。くわんせいヒふんおとだいけんじん上たせいぜつ【詩意】關西の楊白起は、後漢の時分、音に聞こえた大賢人で、四代打續いて太尉となり、その〓絕まそのはつそん〓にくわいん2 5なる高風は、人天の間に搔き渡つた位、君は其末孫で、矢張、華陰の地に居り、門を開いて、蓮花峰わざわざ~の秀色を眺めつつあつた。然るに、何事に因つて、態態旅行を爲し、衡霍二山を經めぐり、今しも、うんほんなまurgミせつかくつく雲帆を飛ばせて還られるのか。君よ、暫く此に坐して、笑顏を見せ、折角作つて上げた此詩を我が爲こ;せいしゆ:に歌うて御覽ぜられよ。われは、固より侯門に出入するものであつたが、誤つて、聖主の知遇を得、むしき달きんくわでん一時は、大に得意であつた。然るに、一たび金華殿を辭し、都を去つて放浪してからは、この長江のBioい、づ.ふたり若いおむしご른邊に踰蹬として、今に愚圖愚圖して居る。二人の倅は、魯の城門の東に儒居し、一別以後、すでに年をおもむこ:늘おなみだいづみ꿀吉經た。そこで、今君が東魯に赴くに際し、倅どもの事を思ふと、涙が泉の如く湧き出づるを覺える程である。山글かか)はたそうべつ:【餘論】起首より爲我歌此篇に至るまでが、楊燕の事に係り、卽ち送別の正意である。爲我は一( = :に爲君に作つてあるが、その方が、意味が一層明白である。我固侯門士以下は、自己父子の事を述べじやうし달ニたので、因君此中去、不覺淚如泉の二句は、語眞にして情擊、たしかに人を動かす處があるし、かIの;くの如き構想は、これまで餘り其類を見なかつた樣である。送楊燕之東書やうえんニ楊燕が南方を旅行して來りしに遇ひ、そして、その