李太白集卷十六:いにゑいかい글ぜうしやはくやうひしあるはまはさい。彼は、さながら、古しへの衞〓の如く、小車を白羊に牽かせて、市中を得意に乘り廻して居ることであらう。しよゐはなはだ드いかそうかうせいめんい,くじゃそはくきん【餘論】六月の二句は、暑威の甚しきを敍し、以下六句は送行の正面、我家以下の四句は、序に伯禽きんきやうはくきん줄焼しもう焼きてんりんあつを尋ねて近況を知らせて呉れろといふ意。伯禽の事は、屢ば詩中に見え、さすがに、李白の天倫に厚しじやうぷき至情を想はしめる。しあるはまは市中を得意に乘り廻して居るぜうしやはくやうひ小車を白羊に牽かせて、やうさんじんすうざんにれ楊山人の嵩山に歸るを送るぎよくぢょほうわれはんこたすうやう我に萬古の宅あり、嵩陽の玉女峰。出たん1とかとうけいまつあ長く一片の月を留め、挂けて東溪の松に在りはなしじょうなんぢぜんさうひろしやうぶ爾.去つて仙草を援へば、菖蒲、花紫茸。さいほんたしょおとせいてんはくりようき歳晩、或は相訪はば、靑天、白龍に騎せむ。やうさんじんすうざんにれ送楊山人歸嵩山楊山人の嵩山に歸るを送るぎよくぢょほう嵩陽玉女峰.われはんこたすうやう我有萬古宅。我に萬古の宅あり、嵩陽の玉女峰。出たん1とかとうけいまつあ長留一片月。挂在東溪松。長く一片の月を留め、挂けて東溪の松に在りはなしじょう爾去援仙草。菖蒲花紫茸。なんぢぜんさうひろしやうぶ爾.去つて仙草を援へば、菖蒲、花紫茸。CELさいほんたしょおとせいてんはくりようき歲晚或相訪。靑天騎白龍。歳晩、或は相訪はば、靑天、白龍に騎せむ。【字解】5玉女峰登封縣志に「太室二十四峰、玉女峰あり、峰北に石あり、女子の如し、上に大篆七字あり、人、能く議るなし」とある。【三】援拾ふ。3菖蒲神仙傳に「嵩山石上の菖蒲、一寸九節、これを服すれば長生す」とあり、抱朴子に「萬精は、須らく、石上一寸九節以上紫花の者を得べし、尤も善し」とある。謝靈運の詩、新蒲含ニ葉茸、李善の註、倉顏篇に曰く、茸は草覗と。燃らば、この章は、菖蒲の花を謂つたのであらう。歲晩一年の末といふのでなく、他年の3騎白龍廣博物志に「羅式は、後模の人なり、七歲、粒を絕ち、黃精紫芝を服し、蟻層山に入る。天竺眞人、授くるに眞訣を以てし、白龍に乗じて去る」とある。やうさんじんもちろんむくわんぎてめいじ:ぶごとふしやうすうざんほきみ【題義】楊は山人だから、勿論、無官の隱士、名字等は例の如く不詳。嵩山は、前にも屢ば見えて居げんわぐんけんしすうかうざんか空んこくせいけんせいほくとうほうけんぼくあまぐわいはうざんなるが、元和郡縣志に「嵩高山は、河南府告成縣西北二十三里、登封縣北八里に在り、亦た外方山と名むしたいしつにぜうしつすうかうそうめいさばちうがく〇たかしうくわいづく。東を太室といひ、西を少室といふ、嵩高の總名、卽ち中岳なり。山の高さ二十里、周囘一百三しやうきんじんすうざんかに望、十里」とある。この詩は、楊山人の嵩山に歸るを送つて作つたのである。いうきうぢうきよに노すうざんたんじんぎょくぢよほうべん【詩意】わが悠久の住居となすべき場所は、嵩山の陽なる玉女峰であつて、そこには、長しへに一片〓とうけい:00广告かかゐrむろうそのちいせんさうひろさだいちらかいの月を留め、東溪の松の梢に挂つて居る。今、汝は其地に往つて、仙草を拾ふといふが、定めて紫法にさんさつしやうぶさだ〓らうしようせんの花、ふさふさしたる一寸九節の菖蒲を探がし出すであらう。かくて、これを服すれば、容易に昇仙たれんた子さだはくりよう法はせいてんかうゐするので、他年、ひよつとして尋ねたならば、定めて白龍に跨つて、靑天の上を飛行して居ることであらう。げんさうらうじたつじん간なと:のう달15わた寸法【餘論】嚴滄浪は「萬古宅の三字、達人の語と作して會すれば方に妙、一たび仙氣に涉れば、便ち癡·(さうらうきといつた。又五六は一に君行到此峰。餐霞駐衰容に作つてあるが滄浪は「この二句を見て、方にか廿五せんぽんに)はたがヽわかぜんしゆむらほんく本句の妙しの佳なるを知る、便ち仙凡を隔て、卽ち雅俗を分つ」といつて居る。それから、全首を評しうしんそうてんちB+Cどうぜん3)しあ달달いて、劉辰翁は「天地の間に超然たれば、以て死せざるべし、豈に獨り人の道ふを經ざらむや」といひ、送送楊山人歸當山七四一後模の人なり、七歲、粒を絕ち、黃精紫芝を服し、蟻層山に入る。天竺眞人、授くるに眞訣を以てし、白龍に乗じ