李太白集卷十七【字解】E則公楢、杯渡松ともに題義の項に見ゆ。道人禪氏要覽に「智度論に云ふ、道を得るもの、名づけて道人と爲す。餘の出家、未だ道を得ざるものも、亦た道人と名づく」とある。C制猛虎法苑珠林に「晉の沙門子法蘭は、高陽の人なり。かつて、夜、坐禪す。成。その室に入り、因つて、牀前に講す。曹、手を以て其頭を摩す、虎。耳を奮つて伏し、數日乃ち去る」とある。三振錫沈約の法王寺碑に「鍋を撮つて輕行、祇林宴坐」とある。錫は、釋家執るところの錫杖、一名德杖、一七智杖、金環あつて之を繞り、錫鍋の聲を作し、行く時は、以て歩趨を節するものである。つうぜんじかひわかいんじやうじだかたいへい訟太平府志に〓隱【題義】通禪師は、如何なる人か分らぬ。しかし、隱靜寺は、なかなか名高い寺で、かうだうほた:へきせう鳴〓響しほうじやうじにんしやうけんとうなんりいんじやうざん一名五峰靜寺は、繁昌縣の東南二十里隱靜山に在り、寺。山に碧霄、桂月、紫氣、行道の五峯tb時くわいさんぐわんきようがりんぼくいうきじんたんせついんら、あひつたC焼きあり、寺は五峰の會に當り、崎岏拱合、林木幽奇、古淵委折、般雷地に轟く。相傳ふ、寺は杯渡禪師ししくくていきかうしんきにしょしんいげんじぐわいったの建つるところ、飛錫、定基、江神木を送り、諸神異を現ず。寺外に十里の松徑あり、傳へて云ふ、だとしゆしよくむらいは人ださうしようたからご注意딸すなはし禪師の手植と。或は曰く、寺を距つること二里ばかり、雙松對峙、勢虬龍の若きものあり、卽ち師しゅたくまたしんちえふしようじせいいいたそん〓の手澤、と。又かつて新羅の五葉松を取つて、寺西に種る、今に至つて、尙ほ存す、と。舊誌又言ふ、寺はいとたづさ:みなしんそう4またもくべいえんしやうとうEに朗公橋、杯渡〓ふるところの頻伽鳥一雙あり、皆音宋の遺跡、又木米鹽醬等の池あり、言ふ、寺をはじ〓しよぶつみなぜんりん〓むる時、諸物皆これより出づと云ふ。奮額に云ふ、江東第二禪林」とある。それから、繁昌縣は、なんたうわかんくらたうじなんりよう南唐の時南陵を析つて分置したので、唐時に在つては、なほ南陵に屬して居た。そこで、この詩は、なんりようけんつうぜんじ通禪師が南陵縣の隱靜寺に即るを送つて作つたのである。いんじやうじた〓だいがらんめづ둘ガ;【詩意】わが開くところに據れば、隱靜寺は、名だたる大伽藍だけに、珍らしい勝蹟が殊に多く、朗めづ둘ガ珍らしい勝蹟が殊に多く、;朗えぶ;公橋は巖間に種ゑられ、そして、門を深く立ちこめて、杯渡松といふのが繁茂して居る。禪師は、道ひとほふりきとえしやくにやうたニほういただきを得た人であるから、その法力は、猛虎を伏するに足るべく、そして、錫杖を振り立てて、孤峰の頂かへたなんりょうけんおいじゃあ:いたたる庵へ歸つて行かれる。他日われ若し南陵縣に出かけたならば、谷口に於て、相達ム樣に致ぜんほんいんじやうじしようがいヒで:【餘論】前半四句は、隱靜寺の勝〓を敍して、一氣呵成に出來て居る。五六は、禪師の高德を寫し、た드さいほう禮まじやう七八は、他日の再逢を期したので、極めて、餘情がある。いうじんざ友人を送るせいざんはくすゐとうじやつめぐ靑山、北郭に橫はり、白水、東城を遠る。ひ造るこの地、一たび別を爲せば、孤蓬、萬里に征く。うんおこらくじつじん浮雲、游子の意、落日、故人の情。:はんぱいな手を揮つて、玆より去る、蕭蕭として、いうじんざ送友人友人を送る靑山橫北郭。白水遠東城。)せいざんはくすゐとうじやつめぐ靑山、北郭に橫はり、白水、東城を遠る。ひ造る此地一爲別.孤蓬萬里征。この地、一たび別を爲せば、孤蓬、萬里に征く。うん浮雲游子意.落日故人情。おこらくじつじん浮雲、游子の意、落日、故人の情。(揮手自玆去。蕭蕭班馬鳴。:はんぱいな手を揮つて、玆より去る、蕭蕭として、班馬鳴く。【字解】E北郭郭は人民の聚居するところで、先づ市と見れば善い、北郭は郭北に同じ。3白水地名だともいふが、青山白水といふ熱字もあるから、ただ川と見て善からう。3東城城東に同じ。〓孤蓬處定めず飄泊することは、孤蓮の風に隨つて興轉するが如き故に云ふ。曹植の詩に、轉蓬離ニ本根一風視園長風、類此客游子、捐軀従ニ戎戎といひ、鮑照の蒸城賦孤墓自振、驚沙坐飛とあるに本づく。C蕭蕭班馬鳴詩經の蕭蕭馬鳴に本づく、蕭蕭は開暇の貌、班馬の班は別。送送友人はんぱいな班馬鳴く。