李太白集卷十七いうじん〓だため〓古屋そうべつし【題義】これは、友人の遠きに往くを送る爲に作つたので、卽ち送別の詩である。せいてんくわくほくはくすゐじやうとうめぐぶ딸べつなこ【詩意】靑山は郭北に橫はり、白水は城東を繞る。この地に於て、一たび別を爲せば、さながら、孤ほうミひるがへごと洗るとせいいうムzさだら蓬の空にるが如く、やがて、萬里の遠きに征遊するのである。浮雲は、もとより定まるなく、遊らくじつしづじんれんれんじやういかしのしかま:かこ글:故人戀戀の情、子の意、亦た此の如く、落日は將に沈まむとし、如何に忍ぶべきか。然るに、君は意브리たせうせう:ただま江正そのうまを決して、これより立ち去らうといふので、蕭蕭として馬が嘶くが、君は乃ち其馬に乘つて行くのである。しゆそうべつたいれんなりやうくわか【餘論】起首二句は送別の地、ここに對聯を爲したから、三四兩句は、別れむとすることを述べ、わそうこれなつゐそうしやじやうざと流走して之を成し、對せずして、しかも、なほ對して居る。五六は、主として、送者の情、七八はわかおもむきKitchたんたうせいゑんたたひやう+直に別るるの景、しかも、語盡きて意なほ盡きざる趣がある。國際大臣「五六、澹蕩凄遠、多多の評わうよくうんぜんかいそうべつ도こうかい를ごくじやういしんかくし:沈確士に勝れり」といひ、王翼雲は「前解は送別の地を敍し、後解は友を送るの情を言ふ」といひ、焼じんいムじんしたいはくなこのむねそうげん& : = : Eげつしゆく古人は「蘇李の贈言、唏噓の語多くして、蹶蹙の聲なし。の意、不盡に在るを知る、太白猶ほ斯旨をi失はず」といひ、乾隆御批にけんりうぎよひ「首聯は整齊、しゆれんせいせい承は流走して下り、녹りうそうくだげいれん頸聯は勁健、けいけんげつ結、せうさん蕭散のおもむき致あり、たいしやうんrefおのづかなこうけいあた大匠、斤を運せば、自ら規矩を成す」といひ、ともに肯綮に中つて居る。:送べつ別送別いくろ0斗酒渭城の邊、墟頭酔うて眠らず。ふじゆやうえふほんでう梨花千樹の雪、楊葉萬條の煙。preたLたちにおかのぞ#べんかく別を惜んで、壺爾を傾け、分るるに臨んで、馬鞭を贈る。みえいじやうしんげついた:ます看る君が頴上に去るを、新月到らば應に圓なるべし。いくろ0斗酒渭城邊。塩頭醉不眠。斗酒渭城の邊、墟頭酔うて眠らず。ふじゆやうえふほんでう梨花千樹雪。楊葉萬條煙。梨花千樹の雪、楊葉萬條の煙。惜別傾壺爾。臨preたLたちにおかのぞ#べんかく分贈馬鞭。別を惜んで、壺爾を傾け、分るるに臨んで、馬鞭を贈る。(國)みえいじやうしんげついた:ます看君頴上去。新月到應圓。看る君が頴上に去るを、新月到らば應に圓なるべし。【字解】E渭城水經註に「長安は故の威陽なり。漢の高帝、名を新城と更む。武帝の元鼎三年、別に渭城を爲る、長安の西北、渭水の陽に在り」とある。史記正義に「括地志に云ふ、感陽の故城、また渭城と名づく、雍州の北五里に在り、今の成陽縣東十五里』とあり、太平寰宇記に「故の潤城は、今の縣の東北二十二里、渭水の北に在り、即ち秦の杜郵、その城、周八里、秦は孝公より始皇に至るまで、皆ここに都す。武帝の元鼎三年、名を消城と更む。後漢には者く、地を併せて長安に入る、故に此城存す」とある。E墟頭史記集解に「章略曰く、墟は酒肆なり、土を以て隨と爲し、邊高くして鱸に似たり」とあり、漢書の註に、「如淳曰く酒家、肆を開いて客を待ち、酒鱸を設く、故に鱸を以て肆に名づく。臣瓚曰く、盧は酒瓮なり。師古曰く、二說、皆非なり。虛は賣酒の區なり、その一邊高く、形、鍛家の爐の如きを以て、故に名を取るのみ、卽ち火爐及び酒党を謂ふに非ざるなり」とある。C壹斷初學記「酌は首酒なり」玉篇「酌は美酒なり」正字通「俗、醜と呼んで尾酒となし、酥を頭酒となす」とある。三上縣名、河南遺顯用汝陰郡に在る、太平寰宇記に「穎上縣は、地、顯水の上游に枕むを以て名と爲す」とある。そうべつわかれさいいうじん竄ぜんしゆミテ【題義】送別とは、別に際して友人を送つたので、前首と同義である。あじゆうuseていごれ:おほおよろう【詩意】渭城の邊なる旗亭に於て、別の酒を酌み、やがて、一斗の多きに及び、墟頭に醉つたが、し15た元口は:5 :ここほこうかし、離愁に堪へかねて、遂に眠らない。時しも春の最中、梨の花は、千樹に綻びて、さながら、雪送送別し雪