李太白集卷十七らしちんだうげうほうしんぜん55【題義】李靑は如何なる人か分らぬが、詩意を考ふると、いづれ道〓を奉じて、神仙の術を學んで居달さわやうせんくううんようしようりやくくわやうすゐる人と見える。胡三省の通鑑註に「華陽川は、號州華陽山南に在り」といひ、雍勝略に「華陽水は、かんもうふはうじやうけんせいぎうとうざん当せうほん漢中府褒城縣西二十五里に在り、源は牛頭山に出で、南流して漢水と合す」とある。蕭本に、南葉陽せんあいくわやうせんだぎ(川とあるは、斷じて誤である。この詩は、李靑といふものが、華陽川に歸るを送つて作つたのである。こPに15ようほうがんしよくわかわかせいしゅん3【詩意】老子に比すべき君は、矢張、仙家の子であつて、その容貌顏色は、若若しくして、靑春の壯ねんおじつげつれいどう:シ*じんじしぜん年と同じである。日月は、靈洞の中に祕して、終歲かがやきわたり、雲霞は、世人に辭して、自然にべつしゆ:やうひとわかへいぜいしうやうけつくわほんしん:せいはく別趣があるが、これは、君の樣な人でなくては分らぬ。君は、平生修養の結果、凡心を化して精魄をてんしんねんねじやうくわく養ひ、凡に憑つて沈思しつつ、天眞を蘊んで居る。むかし、丁令威は、千年の後、歸つて來て、城郭やっときうじつこたんたたんはや新にして、舊日に似ざるを嘆じたが、かくては、一別の後、再び逢はぬことに成るから、もつと早くきつとさいくわい歸つて來て、屹度再會を爲したいものである。はくやうどうせいCAひ. cひつきふぜんれんぐわいかいけいきやうこうれんないしん【餘論】伯陽は、同姓の故を以て比擬したので、例の筆法である。前聯は、外界の景況、後聯は内心しうやうけつまつおいていれいるこきたしゆはくやうあひたいしぜんかうけつこうなの修養、結末に於ては、丁令威を倩ひ來り、起首の伯陽と相對して、自然の好結構を成して居る。しやていw舍弟を送るにはくがく吾が家の白額の駒、送舍弟吾家白額駒。遠別臨東道ゑんべつ遠別、とうだうのや東道に臨む。たじつさうし달:ま他日相思一たび君を夢む。:うしゆんさう應に池塘、春草を生ずるを得べし。たじつさうし달:ま他日相思一夢君.他日相思一たび君を夢む。:うしゆんさう應得池塘生春草.應に池塘、春草を生ずるを得べし。【字解】E吾家白額刷魏志に「曹休、間行して、北に歸り、太祖に見ゆ。六輯、左右に謂つて曰く、これ吾が家の千里の胸なり」とある。王琦の解に「吾が家の白額駒は、卽ち吾が家の千里の駒の意、面して、改めて李氏の事を用ふるのみ」とある。管書に「武昭王、諱は暠、字は玄盛、姓は李氏、漢の前將軍廣の十六世の孫なり。かつて、太史令郭黁及び其同母弟宗蘇と同宿す。雲、起つて蘇に謂つて曰く、君、當に、位、人臣を極むべし、李君、國土の分あり、家に關草馬あり、白額駒を生ず、これ其時なり、と。呂光の末、京兆の段業、自ら涼州の牧と稱し、傲煌の太守孟敏を以て沙州刺史となし、玄盛を效穀令に署す。敏、等いで卒す。護軍郭謙等、玄盛、過穀にして惠政あるを以て、推して燉煌太守となす。支盛、初め之を難んず。宗蘇、玄盛に言つて曰く、君、郭響の言を忘れたるか、白額駒、今生す、と。支慶、乃ち之に從ふ」とある。E池塘生春草謝雲運、夢に從弟惠連を見て、この五字を得た、すでに前に見ゆ。しやていまたじうていp.ゑんいうご〓【題義】舍弟とはあるが、卽ち從弟であらう。その名は分らぬ。これは、從弟某の遠遊を送つて作つたのである。かなんまにはくがくくこうねんす位りつしん【詩意】汝は、吾が家の白額駒と稱すべく、後年には、素晴らしく立身するに相違ない。そして、今、ゑんべつとうだうのなんぢおおたじつさうし날なんぢゆめ遠別せむとするに際し、東道に臨んで汝の行を送るのである。他日相思の極、一たび、汝を夢に見たしやれいうんけいれんこどうじじ〓計きつとなんならば、かの謝靈運が惠連を夢みて、同時に、池塘生春草」の五字を得たと同じく、われも、屹度汝おかぎれたの御蔭で、名句を得るに相違ない。送含舍弟またじうてい卽ち從弟であらう。p.その名は分らぬ。ゑんいうご〓從弟某の遠遊を送つて作つこれは、