李太白集卷十七し2しうさいちやうまうゆう=こ偶ま史記の留候世家を讀んで居た。ここに、秀才張孟熊といふもの、胡人を滅すの策を胸中に抱き、ずなは15:仍つて、廣陵、卽ち揚州に赴き、高中丞に謁し、胸中を吐露して、一奇を劃せむとして居る。予は、ちやうしほうけ달ば(もとより張子房の風を喜ぶものであるから、この人の氣〓に感激し、因つて、この詩を作つて、その行を送つた。れ天【詩意】秦の始皇帝は、天下を治めること、兎角暴虐であつて、〓明の道を失つた。そこで、張良は、かんどう上に世に出で、これに對抗して、気〓の氣を吐いた。かくて、張良は、黃石公を感動せしめ、仍つて、兵I書を授けられたこともあるし、まその初、DES滄海君の處を經過して、さうかいくんけいくわそこに久しく滯留して居る内に、:壯かんら) :늘士を得、百二十斤の鐵槌を揮つて、韓の仇を報ずる爲に、始皇を博浪沙中に狙擊し、その事は、六國きに淡:ちんぺいの間に傳へられた。張良の智勇は、終古に冠として、他に比類なく、蕭何·陳平などいふ連中は、到底Fisりやうりようたがひくらべ物にならない。そこで、秦の滅後、楚漢對立の世となり、項羽と沛公とは、兩龍互に爭國しさけたけなはかうさうけんぶニおもむきth會に燃て、て、天地に風雲を動かすの趣があつた。かの鴻門の酒酣なるとき、項莊が劍舞し、隙間かんわうおじやう, Iあひだ紛えがあらば、漢王を座上に討ち取らうとした時、張良ありたればこそ、倉卒の間に於て、漢の爲に、えca紜を解くことが出來た。それから、楚漢の爭が久しく續き、九州の人民は、倒懸の苦に惱み、やがきやうかいエキューちうぶんきくわいよて、鴻溝を境界として、天下を中分した時、張良は、この機會に乘じて、是非とも、楚を亡して、天ぜつ下を統一せねばならぬといひ、程なく、その計畫が實現されたので、その英謀は、まことに、奇絕と복めいせいいいまニでん〓稱すべく、長しへに、〓芬の名聲を揚げて居る。今しも、祿山の亂、未だ平定せず、胡天の月は、天〓:しんにふ5あだきんたんム宮に進入し、三光は天文を亂し、まことに慘澹たる有樣。ここに、高中丞は、淮海に鎭撫し、談笑しえつけんて妖気を却けむとして居るから、君が一たび往いて、これに謁見すれば、きつと、幕賓として、その謀を用ひ、soやがて、國難を治めて、:殊動を天下後世に耀かすに相違ない。一千七こうせいわれは、じつさい實際、つみ罪を犯しをかつ誘いたt tゑんざいて、獄中に繋がれて居るので、かの都衍が無地に霜を降したなどいふ樣な寃罪ではなく、もとより、ぶんまの一行の涙を濃いで、なみだ玉石ともに焚くるを分として居る。づごここに、君の去るに臨み、その行を送り、何せいさうかんたしだいも言ひ得ずして、悽愴の感に堪へぬ次第である。ゆ둘【餘論】お起首より、夫子揚〓芬に至るまでは、張良の事で、その人は、李白が追慕して措かざる人こせつじつちやうしうさいであるから、その道ふところも、極めて切實である。胡月入紫微の六句は、張才才の前途を祝福し、しゆくふくいがあは15ぜいぶん我無燕霜感以下は、自己に引き當て、併せて離別の情を述べたので、卽ち送別の正文である。尋陽送弟昌峒都陽司馬作じんやうおとうとしやうどうはやう12だ〓尋陽にて弟昌峒都陽の司馬を送つて作る桑落洲渚連。滄江無雲煙。桑落洲渚連り、滄江に雲煙なし。(ニ)じんやうら台尋陽非刻水。忽見子猷船。尋陽、刻水に非ず、忽ち子猷の船を見る。送薄腸送弟昌劇部局作