李太白 集卷十七飄然欲相近。來遲香若仙.人乘海上月.帆落湖中天。〓一觀無二諾。朝歡更勝昨。爾則吾惠連.吾非爾康樂朱絨白銀章。上官佐都陽。松門拂中道。石鏡廻〓光。搖扇及千越。水亭風氣涼.與爾期此亭。期在秋月滿。時過或未來.兩〓心已斷.吳山對楚岸。彭蠡當中州。相思定如此.有窮盡年愁。へうぜんあひちかほつたおそ本ラせんごと飄然、相近づかむと欲す、來る遲く、杏として仙の若し。달かいじやう;ほにうてん찰人は海上の月に乘じ、帆は湖中の天に落つ。考うささ、ま觀二諾なく、朝歡更に昨に勝れり。佐々匿けいれんわれ佐々にかうらくら爾は則ち吾が惠連、吾は爾の康樂に非ず。しゆふつはくぎんほやう朱絨白銀の章、上官は都陽に佐たり。しようもんちうだうはちせいくわう松門中道を拂ひ、石鏡、〓光を廻らす。3かんゑつおよすゐてい高すや扇を搖かして、干越に及び、水亭、風氣涼し。跨このていしうげつa爾と此亭に期し、期は秋月の滿つるに在り。あるひ(三七五)ねた時過ぎて、或は未だ來らず、雨間心すでに斷ゆ。ごさんがんほうれいたい吳山、楚岸に對し、彭蠡、中州に當る。さだ끌じんねんな煌相思、定めて此の如く、盡年の愁を窮むるあり。相思、【字解】S桑落洲太平寰宇記に「桑落洲は、舒州宿松縣西南一百九十四里に在り。江水、はじめ、部陵より分派して九となり、ここに於て合流す、これを九江口といふ、この洲と江州尋陽縣と、中流を分つて界となす」とあり、一統志に「桑落州は、九江府城の東北に在り、江を過ぐる五十里、むかし、江水泛漲し、一桑を此に流す、因つて名づく」とある。E子献船王子猷、船に乗じて、刻濁に往き、戴安道を助ひしこと、前に見ゆ。3無二諸季布の事、前に見ゆ。三惠連宋書に「謝惠連、幼にしてオ悟あり、しかも、輕薄、父方明に知られず。靈運、かつて、始事より會稽に至り、方明に遣り、惠連を過視し、大に相書賞し、方明に謂つて曰く、阿連、才悟かくの如し、而して、尊、常兒と作して之を退す」とある。CI朱誠絨は緩、卽ち印組。S白銀章章は印章。E上官凡そ官に除せられて任に到る、これを上官といふ。20佐司馬は州の佐職、刺史の次席なるが故に云ふ。【九〓松門江西通志に「松門山は、南昌府城の西北二百十五里に在り、都湖の東に枕み、西岸悉く松を生じ、遙に望めば門の如し、故に名づく。上に石鏡あり、人を照らすべし。謝康樂の詩、攀崖照ニ鏡鏡、牽葉入ニ松門、是れなり」とある。C·O干越太平寰宇記に「干越渡は餘干縣西南一百二十步に在り、津吏を置いて主守し、四時絕えず。干越亭は餘干縣の東南三十歩に在り、屹然孤立、古今遊ぶもの留題章旬多し」とあり、江西通志に「干越亭は、饒州府餘干蘇羊角山に在り。文公談苑に云ふ、前に養琶洲を歐、後に思禪寺に枕む、林黃森藝、千峰秀を競ふ、唐初張彥俊建つ」とある。CII彭盡通鑑地理通譯に「彭蠡は江州薄陽縣に在り」といひ、括地志に「縣の東南五十里に在り」といひ、六典註に「一名宮亭湖、南康軍星子縣南、江州彭澤縣西に在り」といひ、地理志に「豫章郡彭澤縣西に在り」といひ、郡縣志に「都昌縣西六十里に在り、薄陽縣と湖を分つて界となす、萬貫に揚州彭蠡既請、卽ち江漢匯するところの澤、江西江東の諸水を合せ、豫章繞州南康軍三州の地に跨る」とある。は;たぐんめいすなはぜうしうそじやうしうはにんじゆほん【題義】都陽は、唐時の郡名、卽ち饒州、江南西道に屬し、上州であつて、司馬一人從五品である。ぞくていしやうどうはやうぐん12一にんれてこの詩は、族弟昌嗣といふものが、都陽郡の司馬となつて赴任するを送つて作つたのである。ていしよれんこうみづさうかうべうまんうんえんだ【詩意】桑落洲は、汀渚連亙し、ここでは、九派の水が合流するから、滄江渺漫として、雲煙も起らじんやうえんけい:し建ず、一望ただ碧水のみである。淨陽は、刻溪に非ざれども、忽ち子猷の舟を浮べて來り訪ふものがあへうぜんこあひちかいそつた。かくて、驅然として、此方からも之を迎へ、やがて相近づかむとするも、その來ること遲くし送薄陽送弟昌峭都陽司馬作