李太白集卷十七田嶺二なり、九眞都廳嶺三なり、臨賀萌渚嶺四なり、始安態成嶺五なり」とある。その他、種種の說もあるが、この邊の處が一番釋當であらう。3衡山前に見ゆ。三九疑元和郡縣志に「九疑山は道州延唐縣の東南一百里に在り、九山相似て、行く者疑盛す、故に名づく」とある。3安西楊齊賢の說に「唐の安西大都護府、初め西州に治し、後、徒つて高昌の故地に治し、又徒つて龜茲に治す、而して、故府複た西州交河郡たり」といひ、王時は「文義を按ずるに、安西の字、疑ふらくは訛、指して、隴右道安西大都讓府となす、悉らくは未だ是ならず」といつた。0疇昔普日に同じ、すでに前に見ゆ。E紫芳紫芝に同じ。四黃髪爾雅に「黃髪は、壽なり」とあつて、郭璞の註に「黃髪は、髪落ちて更に黃なるものを生ず」といひ、邪昺の疏に「舍人曰く、黃曇は、老人髪白くして、更に黃なるなり」とある。C集夷葉父と伯夷。C11楚狂子列仙傳に「陸通といふものは、楚狂接奥を云ふなり、養生を好み、棄盧木實及び燕菁子を食ふ。諸名山に游び、蜀の峨眉山上に在り、世世これを見る。數百年を歴て、仙し去る」とある。かうせいは一いかうぜいしやうけんもんるゐじうひiぎる+けだ【題義】江西は、矢張、今の江西省の地である。藝文類聚に引ける羅浮山記に「羅浮とは、蓋し總稱、'ざんざんさんがつたいぞうじやうほくらけん룡羅は羅山なり、浮は浮山なり、二山合體、これを羅浮といふ。增城·博羅二縣の境に在り。舊說、羅浮둘ちゃけいいしんめいしんきんしゆさうは高さ三千丈、七十二石室、七十二長溪神明·神禽·玉樹·朱草あり」と記してある。この詩は、かうぜいないうじんぼう6 +ざんれ(っ江西に於て、友人某の羅浮山に遊ぶを送つて作つたのである。それから、君王の句を見ると、その友じんてうしんお り人は、元と朝臣の籍に居たものと思はれる。けいかうみづむわかきうぎI :すなはTほしょま【詩意】桂江の水は、五嶺を分ち、衡山は、九疑を朝せしめ、その先が、卽ち羅浮の境である。君のこきやうあんせい:とE故〓は、遙に安西であるのに、流浪して、これから、何處へ往かうとするのであるか。明湖の水は、ば: 11〓澄み切つて、その色、さながら愁ふるが如く、洲渚は秋になると、寒げな氣色も晦くなつて見える。せんざん:くわうはつ君は、むかし、仙山に入つて、紫芝を采らむことを願つて居たが、すでに、黃髪の期を過ぎて、念よらうじん·lとこヒざいへん老人に成つて仕舞つた。そこで、君王も、特に注意して、その疎散の性癖を縱にせしめ、自在に雲こほ쿨まかなま"堅に住することを許して、巢父·伯夷の如き君の情思に叶ふ樣にされた。そこで、君は、それから羅浮こたこわれかへが加山に往かれるとのことであるが、同時に、吾は、蜀に歸つて、峨眉山中に休息したいと思ふ。羅浮ともうかんくうくわつたきほし:達ゆふへっみ:ねんご峨眉とは、中間空闊、相去ること萬里、朝の霞夕の月を見るにつけて、遙に相思の念を動かすばかま·りである。君、もし、髪の狂生と云はれた當年の陸通の樣な人に遇つたならば峨眉山中の瓊樹には、ごちいbはやし芳枝が茂つて、まことに善い處であるから、早く此に來て、吾と一所に住んだが善いと、さう云つて吳れろ。ぜんぽん六あつにがにんな【餘論】前半は羅浮へ行くこと、君王の二句は、この行の所由を述べ、爾去の四句は、爾我二人を對: a立せしめ、如尋楚狂子」の二句は、峨眉に陸通の故跡あるに因つて、さういふ人に言づてをして吳れおぼろといつて收束したので、いささか、餘情あるを覺える。せんしうしやてうろうかうしよしゆくうん宣州の謝朓樓にて校書叔雲に餞別す듣昨日の日、留【字解】C宣州謝朓樓。錢別校書叔雲。:棄我去者昨日之我を棄てて去るものは、送宜州謝院樓議別校書叔雲C長風萬里陸機の