李太白集卷十七斗酒滿四筵。歌嘯宛、溪湄、155 (一四君攜東山妓。我詠北門詩。貴賤交不易.恐傷中園葵。白玉石昔贈紫騮駒。今傾同歡萬斛酒.未足解相思。此別又千里.秦吳沙天涯。(一七)月明關山苦.水劇隴頭悲。借問幾時還.春風入黃池.無令長相思.折斷綠楊枝。かせうゑんさいといえんみ斗酒、四筵に滿ち、歌嘯す宛溪の湄。はとうざん·たづさほくもんしえい君は東山の妓を攜へ、我は北門の詩を詠す。せんまじはりかちうゑんちくまちこそ貴賤、交〓、易はらず、中園の葵を傷けむことを恐る。おくはくぎよくさかづきもちし:むかしは紫驅の駒を贈り、今は白玉の巵を傾く。くわんおなまんごくもいた歡を同じうす萬解の酒、未だ相思を解くに足らず。べつまたしんごてんがいこの別又千里、秦吳、天涯に渺たり。くわんざんくみづはげりようとうかたし月明かにして關山苦、水劇しくして隴頭に悲む。かへもあんないくわうちしやもん借問す、幾時か還る、春風、黃池に入る。ちやうさうしりよくやうえだせつだん長相思をして、綠楊の枝を折斷せしむるなかれ。【字解】【一】劉越石晉書に「劉理、字は越石、少にして〓閉の目を得たり、范陽の祖納と倶に雄豪を以て名を著はす」とある【二】横吹曲劉現に扶風歌九首あるが、その横吹曲は、今逸して傳はらない。或は胡笳を吹いたことだといふが、それでは、適切でなC難鳴世說註に「膏陽秋に曰く、祖述、劉現と倶に雄豪を以て名を著はす。年二十四、現と同じく、司州主簿に辟さる。情好綱繆、被を共にして發ぬ。中夜、難鳴を聞き、倶に起つて曰く、これ惡聲に非ざるなり」とある。三樓煩將史記に「將ゐるところの卒、樓煩將五人を斬る」とあつて、李奇曰く、樓煩は縣名、その人、騎射を善くす、故に以て射士に名づけて樓煩となし、その美稱を取る、未だ必ずしも樓煩の人たらざるなりと。3羽林兒漢書に「羽林は送從を掌る、武帝の太初元年に置く、名づけて建章警騎といひ、後、名を羽林騎と更む」とある。E捍吳越王琦の解に「上元中、宋州の刺史劉展、兵を擧げて反す、その黨張景超·孫待封、攻めて蘇湖を陷れ、進んで、杭州に逼り、溫晁·李蔵用に破らる。劉副使、時に亦た兵間に在りて、功、錄せらることを得ず、故に統兵捍ニ與越、豺虎不敢窺、大勳竟莫鼓、巳過秋風吹の旬あリ」とある。+C季公季廣深を指す、舊唐書に「上元二年正月、溫州刺史季廣琛、宣州刺史となり、断江西道節度使に充てらる」とある。戎幕節度使の幕府。CO台司三六、七C'I北國上書奏事の徒の謂る處。三二鳴驅北史に鳴膓〓路、盛列ニ關備とあり、章懷太子の後漢書註に一は騎士なり」とある。ct1宛溪江南通志に「寧國府城の東に在り」と見ゆ。CII東山玆謝安の事、前に見ゆ。CID北門毛裏詩傳に「北門は仕へて志を得ざるを刺るなり、言ふは、衞の忠臣その志を得ざるのみ」とある。C11恐傷中園葵古詩に採奏莫傷根、傷根葵不生、結交莫養費、蓋貧交不成とある。CHI白玉巵漢書の註「應郡曰く、巵は飮酒の禮器なり、古しへ角を以て作り、四升を受く。顔師古曰く、巵は飮酒の圓器なり」CTI隴頭郭仲彥の秦川記に「醜山は、東西百八十里、山嶺に登つて、東、秦川を望む、四五百里、極目泯然、山東の人、行役し、此に至つて顧贈するもの、悲思せざるなし。故に歌うて曰く、醜頭流水、分離四下、念 我行役、驅然頭野、登高望遠、涕零變隨とある。CAI黄池胡三省の通鑑註に「宜州當塗縣に黃池鎭あり」といひ、一続志に「黃池河は、太平府城南六十里に在り、東固城河に接し、西,蕪湖縣に接す。河は、大江に入り、南、黃池償に至り、北、宣城縣界に至る」といひ、江南通志に「黃池河は、池州當塗縣南七十里、事國府城の北一百二十里に在り、一名玉撰、郡の東南の水、皆ここに聚まる、大江に出で、河心分界、南、宣城に屬し、北,當童に屬す」とある。せんじやうまへ絶をたうじよくわんしせつとし七혼にんどうせつとふくし【題義】宣城は、前に數ば見えて居た。副使は、唐書百官志に「節度使の下、副使一人、同節度副使にんまたあんぶしくわんさつしだんれんしほうぎよししたみなふくしにんせんじゅうおい十人あり、又按撫使、觀察使、團練使、防禦使の下、皆副使一人あり」とある。この詩は、宣城に於りうぼう:ちやうめんせいじやうれミ:にえつれきとな12て、副使劉某が公事の爲に長妄に西上するのを送つて作つたのである。劉の名字閱歷等は、例の如く送宣城学劉副使入秦