李太白集卷十七げんりぎよひてんきうとところくわんけいていちょうaすうご,はうくわつである。乾隆御批に起,奇氣あり、轉漕を說く處、關係の鄭重なるを見るを得、數語の内、包括だんいたちんしけんくわつま:いじんそうげんyえそうべつじやうけいならびせい頗る廣く、닿古人贈言の義を得たり。送別の一段、情景竝に到り、沈〓軒豁、大家に非ざれば、未だやすよぜんげんあひまとくしやまじんたき此あり易からず」といつたが、子の前言と相待つて、讀者の宜しく尋釋すべきものである。ちよようぶしやうおく送儲邕之武昌儲進の武昌に之くを送るくわうかくせいろうもやうかうほんり둑黃鶴西樓月。長江萬里情.つ黃鶴西樓の月、長江萬里の情。しゆんぶうとむな:ぶしやうじやう春風三十度。空憶武昌城.春風三十度、空しく憶ふ武昌城。佐々れ、phながたさかつきふくをしいまかたむ送爾難爲別.街杯惜未傾。爾を送つて、別を爲し難く、杯を衝み、惜んで未だ傾けず。Park戦は·おはんしうら湖連張樂地。山逐泛舟行。湖は連る樂を張るの地、山は逐ふ泛舟の行。っせい諾謂楚人重.詩傳謝朓〓。煮いそひとおもししやてう諾は謂ふ楚人重しと、詩は傳ふ謝眺の〓。@さうらうcきよくよいたうか滄浪吾有曲。寄入棹歌聲。滄浪、吾に曲あり、寄せて入る棹歌の聲。【字解】【一】黃鶴樓前に數ば見えて居たが、潛確居類書に「黃鶴山は、武昌府城の西南に在り、俗、蛇山と呼ぶ、一名黃鶴山、むかし、仙人王子安、黃鶴に騎して此に憩ふ。地志に云ふ、黃鶴山蛇行して西し、江に吸はる、その首隆然、黃鶴樓ここに枚む、其下は卽ち黃鶴磯」とある。張樂地洞庭湖を指す、莊子に「黃帝、成池の樂を洞庭の野に張る」とあるに本づく。3諾謂雙人重史記に「楚人の諺に曰く、黃金百斤を得るは、季布の一諸を得るに如かず」とある。ミ謝朓前に數ば見えて居た、南史に「謝腕は、文章〓單、五言詩に長ず、沈約常に云ふ、二百年來、この詩なきなり」とある。謝脫が內史となつて赴任した宣城は、江に〓して、卽ち武昌の下流である。CO治浪水の名、漢水が劑山の東に至つて、治浪の水となるので、つまり、武昌の上流に當つて居る。かの楚辭に見えたる、曾浪之水〓兮、可以灌我我一渝浪之水濁兮、可以以灌ニ我足といふ漁父の歌は、卽ち其地に圖係してゐるのである。ぶしやうがくしうぞくけんかうなんせいだうれいぞく【題義】せいほくかうすゐひんたいもどうていこ武昌は鄂州の屬縣で、つらな江南西道に隸屬し、西北は江水に瀕し、南は洞庭湖に連つて居る。こちよようひとぶしやうおもむれつちふようおやませえつれきとうの詩は、〓儲置といふ人が武昌に赴くを送つて作つたのである。Eさいふ儲〓の字や閱歷等は、例の如く一切不しやう詳。くわうかくろうとうっreがんかちやうかうぼんりながれの【詩意】さきに、吾、黃鶴樓頭の月に嘯いて、眼下に長江萬里の流を望んだが、その景の壯關なる、けいさうくわつ平生の快事、へいぜいくらいじこれに過ぎたるものは無く、今でも忘れ兼ねて居る。いわすしかし、おいし首を囘らせば、はしゅんおう春風すでととそうそう*むないきやうたいりうに三十度、)ぶしやう鳥兎勿勿として、我を待たず、おここに空しく異〓に滯留し、かの樓の在る武昌の地を懷ふまこんくわい喜っわれわかしののみである。:君が、今囘かの地に赴かるるに就いて、吾は、別るるに忍びず、酒が盡きて仕舞へば、たちまはつていいち*六さかづき君は忽ち發程するが故に、(bしばしなりとも引き留めて置きたいと思つて、ま杯を口にくはへた儘、じつゐくらゐそもそふしやうふうけいようじんぶつおほかんすゐと飮まずに居る位。抑も、武昌の地たるや、風景も宜しく、人物も多い。漢水の支流は、しっむかし、6黃どうせいしうかう÷みなや帝が樂を張つた洞庭に入り、ま舟行の經るところは、皆山つづきで、行けども行けども、盡きない。かこのちの季布は、6ひと光大はょ此地から出たもので、しよう千金を貰ふよりも、その人の一諸を得た方が善いとさへ稱せられ、送送精邑之武昌