別記第百七嘉吉物語の御頸を給て、名を末代にとゝめはやと存するなり、乍去我々か事は庶子の事なり、萬事い貴方の御はからひたるへし、よく〓〓御思案にて、一門にもひらう、有へしとのたまひけれい、御曹司あはらくい返事もなし、良ありてのち、助殿にむかひてのたまひけるい、仰尤やすき所なし、乍去思ひわけたるかたもなし、一門をたすけんとすれは、三代そうおんの主君の御命をたまいらん事、天命もいかゝなり、きみをかなしみたてまつれい、我一門一家たちまちにほろひぬへし、かなしき哉や、前生の宿因、おしからさるい我命也とのたまひて、あんしわつらひしか、よしちからなし、提婆かあくも觀音の慈悲、盤特か愚癡も、文珠の知惠と承いれい、善有いあくあり、すないち仰にしたかひ申さんとて、御座敷立給びて、御一門の人々に、宇野柏原ならひに喜多野浦上の一族、安積中村彈正をめしよせ給ひて、此事を御たんかう有しに、我も〓〓うつたつ兵、數百人ありけれとも、大勢は叶ましとて、物のくして、御座敷に御出ある人々にい、先赤松の彥二郞との、同左馬助殿、御內かたにい、浦上の四郞、安積中村の彈正、そのほか大かうの兵廿一人御供申て、御前に參る、助殿は右の御手にとりつき給、彥二郞殿い、左の御手にとりつき給ふ、其時御所樣、こいそも何事そと仰られしかい、助殿、かまへて〓〓御恨有へからすと申され、かたしけなくも、御頸をい安積給はりて、御狩衣の袖につヽみ奉り、大門小門さしかため、彥二郎殿を大將にて、喜多野浦上安積彥五郎をはしめとして、大剛の武者七八十人、御座敷の御供の大名に、切てかゝりけれとも、かねてより、御なさけなききみにてましませい、心をよせす、みな〓〓おちゆかせ給ふ、赤松方にも、さすか敵にてもなかりけれい、おひにかし給ふ、時刻うつしていとて、彥二郞殿左馬助殿、みな御きせなかをぬきおき給ひて、おもての廣緣にふき皮あかせ、大門ひらき、うつてむかひなは、腹きらんと仰られて、御一門に、ならひに若黨百三十六人、ひとつ座しきになをりて、御曹司助とのをはしめとして、我先に腹を切らんと、思ひ切たるいきほひい、ほうわうの羽つかひもかくやとおもひふられたり、然共諸大名い、一人も赤松殿のいきほひにおそれて、うつてにむくへき了簡いなくして、めん〓〓の覺悟をこそめされけり、去程に、赤松の一門、かくて有へき事ならす、うつてもなく敵もなし、さらい國へ下るへし、急きみな〓〓用意せよとて、御みつから酌をとり、さけをすゝめ給ひて、よろこひの中のなけき、なけきの中のよろこひとて、やかて屋形に火をがけ給へい、さすか薨をならへし、玉の宮殿樓閣も、一度に煙とたちあかりけれい、赤松の一門、都合其勢三百八拾九騎にて、馬をはやめてうち給ふ、先陣は浦上の四郞宗安、二番常陸彥五郞殿、三番い赤松伊豫守、四番い赤松大膳大夫殿の御輿、五番にい安積、靑黃糸の腹まきに、同し毛の五枚甲の〓をしめ、ひやくたんみかきのすねあてに、くり毛なる馬にのり、かたしけなくも、將軍の御頸をさゝけて、笑を含て下りけれい、心なきものともい、あらさてこりの御ありさまや、あれをみよとて、さゝやきわらふもあり、又いあらあさましの御事やとて、涙をなかすものも有、人の心ほとまち〓〓なる物はなかりけり、さて一門みな〓〓御供申て、六番には彥二郞御曹司、七番い左馬助殿、八番い能登守、九番ハ喜多野兵庫、十番い中村彈正、都合其勢七百餘人、西の洞院をくたりに、馬を別記第百七嘉吉物語