別記第百七嘉吉物語はやめ、むちをすゝめ給ふほとに、程なく六月廿五日の午の刻に、はりまの國河合の堀殿の城につき給ふ。備前美作の御勢い申におよはす、國々の、大名小名のあつまり給ふ程に、七月廿四日の着到に、三千九百七騎とそあるされける、去間、御所樣の御頸をい、安國寺にて御茶毗をめされけり、諸出家數百人御供にて、御たひの儀式おひたゝし、さる程に、赤松の大膳大夫殿、白しやうそくのひたゝれをめされて、三重に床をかきて、金地のにしきのうへに御くひをすへ、御まへにかしこまりて申させ給ふ樣い、一あかまつの一門、代々天下の御用にたち、むほんのともからをゑつめて、ふたこゝろなく、奉公にくらからぬやから也、そのゆへ、とせ尊氏將軍、都のいくさにうちまけさせ給ひて、此赤松を御たのみありて、御下向ありけれい、三ヶ國の勢を率して、きの山白の城をかまへて、諸國の勢をうけとゝめて、三ヶ年間ふせきたゝかふ、もとより天下にならひなき城なれい、つひにおつる事なし、去程に寄手もちからなく引のきけり、雖然なをも御本意をとけさせ給いんとて、赤松の則村かあそくまなのゝかみ則助、二男ちくせんのかみ定則、三男權律師則祐をはしめとして、都合その勢二千八百餘騎にて、都へせめてのほるよし、都に聞えありけれい、こヽやかしこに要害をこしらへて、ふせきたゝかふといへとも、一門かたをならへ、おもてをふらてたゝかひ、十三ヶ所の難所きりあたかへ、なんなく都にせめてのほり、今すてに君となり給ふも、是あかしなから、赤松かくんかうにて候はすや、またそのゝち、德應三年の事にてあるに、南方の平家おこり、すてに河內國森口と申所に陣をとりて、同國の住人楠木の一門を大將にて、津の國の中島と雀か松原、小野のやとをかこひまはして、都にせめのほり、てんかをうちとらんとせしに、六人の諸大名は、御所樣にうらみのあさいありとて、ふせくへき手たてもなし、さて有へきにてあらされは、赤松とふやう、都みたれてかなふましとて、三ケ國の勢を率して、津の國中島に陣をとりて有しを、一方におひなして、七日七夜晝夜のあひたせめたれい、さすかに心たけかりし平家の勢も、のこりすくなにうちなされて、つひにむほんかなはすして、心よはくも又吉野のをくの、あをねか峰をさして引こもりけり、その時の御恩賞に、馬の飼料にとて、中島を我々に永代たまはりし事、これもつてかくれなし、又そのゝち明德二年正月一日の事なるに、山名奧州氏〓、これむほんを思ひたち、都をくつかへさんとて、おゝくの勢をあつめて、八幡山に陣をとり、すてに都にうつてのほりけり、さるほとに、都のさわぎ申にをよはす、さて御所樣の御勢には、先一色左京大夫殿五百餘騎にて、三條おもてにひかへらる、去程に、小林二百餘騎にて、きつさきをそろへて、おもてをふらす切てかゝりけれい、一色殿の勢も、こゝをせんとゝたゝかひけれとも、さすか小林名人なれは、御所かたの御勢をや、俄に九十餘騎打とりて、いきほひいさみてありけれは、小林にひるみて、はせむかふものもなかりける所に、あかまつか勢、東寺のよつみかとにひかへて有しか、小林なれいとて、いかほとの事か有へきとて、赤松か手勢わつかに三百騎たらすして、小林かひかへたる陣へきつてかゝり、半時計おふつかへしつたゝかひけり、去程に、又一色とのゝ勢もいきおひをなし、とつてかへして切てかゝりけり、あまりにせめたてられて、名人の小林も、多勢に無勢別記第百七嘉吉物語