別記第百七別記第百七嘉吉物語のためしとおほしめし、あくあんひるかへして、一佛淨上の緣と成、おなしく佛果にいたり給ふへし、すてに觀見法界なれい、見佛聞法の德、なとかなからん、草木國土悉皆成佛ときく時は、いつれの輩か、佛果にいたらさらんや、けにたのもしき御事なり、せん世の業因にて、今はかくの〓とく御入候とも、來世にては、佛果にいたり給へとそ申されけるさるほとに、都よりは山名修理大夫殿大將にて、細川讃州その外諸大名、都をうつたつて、赤松たいしのために下給ふ、あかまつ方にも、おもひさためたる事なれは、今さらさわくへき事にもあらすとて、書寫坂本にまし〓〓けるか、あまりに平要害なれはとて、木の山白はたの城をこしらへて、亂杭さかも木くるまひしをうゑたて、ほりよこほり重々にこしらへて、まことにおひたゝしきふせいなり、さるほとに、あか松かた、あなたこなたへ、勢つかひせられけり、但馬へい、赤松龍門寺殿を大將にて、上原備後守をあひそへ、都合そのせい一千餘騎をさしつかはす、又一谷口蟹坂へい、常陸の彥五郞殿大將にて、都合その勢八百餘騎さしつかはす、丹波の三草口へい、能登守殿國祐を大將にて、五百餘騎さしつかいす、その外口々つまり〓〓に關をすへ、要害をこしらへて、よせくる敵をまちかけたり、さるほとに、京勢細川讃州、伊豫のかうの殿、あきの武田殿、その外の御勢八萬三千八百餘騎にて、八月十二日、すてに一谷口まてつき給ふ、本よりおもひさためたる事なれい、あかまつ方には、常陸の彥五郞殿を大將にて、こゝをせんとゝふせきたゝかひけれい、よせての勢七十三きうたれて、蟹坂をいひきしりそき、人丸塚に陣をとる、赤松方には、わつかに人八騎うたれけり、さる程に此よしを書寫坂本においします、大膳大夫殿にちうふん申されけれは、入道殿申されけるやうn、いさや一黨達、京勢我々をたいちのために下たれとも、さしたる事いよもあらし、いはらの御所を御供申、よせくる勢をけやふり、すくに都へうつてのほるへしとのたまひて、やかて着到をつけ給へは、都合その勢二萬七千餘騎にて、坂本をうちたちて、明石蟹坂につき給ふ、去程に、坂本の御勢をまたすして、浦上四郞中村彈正、夜まきれに、敵の城にきつていりけり、天命にてや有けん、ともうちをして、赤松方の勢三十八騎うたれけり、此事をやかて赤松大膳大夫殿にちうあん申けれは、おほきに腹をたて、やかて人丸塚におしよせて、七重八重にとりまはし、一度に時をつくりけるい、帝釋修羅のたゝかひも、かくやと思ひあられたり、さるほとに、細川のさぬきのかみ、伊豫のかうの殿、あきの國の武田との、こゝをせんとゝたゝかひ、けふあかまつかたの勢も、こゝをせんとゝたゝかふて、せめけるほとに、京方の勢三百餘騎うつとりけり、あかまつかたにも二百餘騎うたれけり、あかりといへとも、赤松方は大勢とはいひ、能兵ともなれは、いきをくれすせめけるほとに、京勢かなはすして、すてに腹をきら本ノマヽなしていひとなくようしをもててますは、細川さなるから、あるあかうの殿申されけるは、上意なれいかなはす、一色これまてまかり下たりといへとも、さら〓〓わたくしのいこんなし、御免あらは降參申、隨分忠節をいたすへしと、いろ〓〓こんはう有けれは、赤松運のきはめにてや有けん、手に入たる敵をさしおきて、降參の上は、まつ〓〓陣をひけやとて、又蟹坂へひきのきて、いくさの僉儀をせられげるところに、天命のか別記第百七嘉吉物語