別記第百七嘉吉物語堺のうらにあかりつく、それよりも伊勢の國にくたりて、國司をたのみ給ふ處に、いつしかこゝろかはり給て、なさけなくも、國司は手勢三百騎はかりにて、彥二郎殿のおはします所へ押よせられけり、その時彥二郞殿い、たのみてきたるかひもなく、うらかへり給ふこそくちをしけれ、さらいさいこの一合戰して、こゝろよく腹をきるへしとて出たち給ふを、御ともの人々申すやう、御最後の出たちは、尤さる事にて御座候へ共、もし自然いふかひなき雜ひやうの手に御かゝり候ない、くちおしかるへし、たヽ〓〓すみやかに、御腹めされてあかるへしと、いさめ侍けれい、けにけに是も〓とはりなりとて、年十九と申に、つひに御腹めされけり、御さいこの御時、一首の歌にたのむ木のかけに嵐のふきくれはまつのみとりもちりはてにけりまた御ふみをあそばして、菊童丸に給はりて、室の津に御手をかけ給ける、おもひ人のかたへ遣し給ふ、さて〓〓ゆみやとる家にむまれぬれい、かく有へき〓とといおもひさためたる事にて候へ共、いまさら御なこりおしうこそ候へとあそはして、おくに一首のうた有ちりはつる松のみとりの木末より花のすかたをおもひこそやれとあそはしてつかいされけれは、おもひ人、此御ふみを見て、さめ〓〓となきかなしみつヽ、いたいしや、なさけとひとしきみとりのかみをそりおとし、あいしはおこなひ侍りしか、我なから世になからへは、もし秋風にふきかへされて、葛の葉のうらめしき身ともなりなは、草のかけにて、なき人の見給いん〓ともはつかしかるへきとて、年十七と申にい、室の入江に身をなけて、つひにはかなくなりにけり、その時一首のうたをよまれけり、うき〓とのまさりもやせん世にすまいいのちのありてなにゝかはせん扨も赤松殿い、御曹司のおち給ひし時、その御うしろかけを見おくりて、あいしはたもすみ給ひしかとも、つひに大勢の中へまきれ入給へは、さすか親子のわかれをかなしみつヽ、御袖をかほにおしあてゝ、なみたにむせひ給ひけり、そのゝち安積をめされて、城のうちの體は、いかやうに有候とゝひ給へい、あつみ申やう、城中には御勢もなく候、いまい御はらめされ候へしと申けれい、入道殿、さてい心得たりとて、先東にむきて手をあはせ、伊勢天照大神へ御いとまこひを申されけり、さて又やはた山のかたを禮し給て、南無八幡大菩薩、入道にたゝ今腹をきりすまさせ給へと、きせいをなし、又西にむかひて、南無や西方極樂世界の彌陀修覺、われらたとひ極重の惡人なりとも、彌陀い超世のちかひおいしませは、かならす我等を安養世界にむかへさせ給へと、たなこゝろをあはせて、ふかくきせいをなし、御とし六十一と申には、つゐに御腹をめされけり、むねとの御一門六十九人、おなし座敷になみいて、みな〓〓腹をきられけり、さる程に、安積は此人々のあかいともを、とりひそめてのち、城中に火をかけて、腹をきらんとあたりしか、何とかおもひけん、こさくらおとしのよろひをきて、おなし毛の五まいの甲の緒をしめ、八尺あまりのあらえの長刀つゑにつき、みなみむきやの勢樓にあかり、大音あけて申やう、是い赤松とのゝ御內に、安積と申て、かたしけなくも、普廣院とのゝ御くひをたまはりたるものにて候か、今まていのちなからへて、たひ別記第百七嘉吉物語