別記第百七嘉吉物語ねんくわんしてのち、抑赤松殿の御内に、安積とてたひ〓〓のかせんに、高名あたる兵の、たヽ今腹をきるをみおきて、心あらん侍者のちの手本にせよといふもあへす、腹十もんしにかきゝり、腹わたをつかみ出し、矢くらの下へなけおとしけり、あかれとも、大剛のものなれは、いまた死なす、又本の城へかへり、入道殿の御座ありし所に火をかけ、入道殿の御跡をまくらとして、みつからとゝめをさして、やけ死にけり、そのヽち城中のこる所なく火をかけて、雜兵いみな〓〓落行けり、其時山名右馬頭とのゝ郞等とも、炎の中へはしり入て、入道殿の御くひと、安積かくひとり侍るよしきこえしかとも、誠の頸にて有かなきかを人あらさりけり、さるほとに、赤松左馬助殿い、水田の城に御入有よし聞えけり、天下の御敵となる助殿にてこそあれとて、京勢はやかて水田の城へをしよせけり、左馬助殿い申に及す、浦上四郞喜多野兵庫をさきとして、一騎當千の兵十人はかり有けるか、すこしもさわくけしきなく、さかもりしてそゐたりける、かくてはかなふましとて、京勢の中よりも、石見勢七百餘騎、おめきさけんてかゝりけるか、すてに一二の木戶をうちやふり、三の木戶まて面もふらす切ていりけり、城にはもとより覺悟のまへなれい、左馬助殿大將にて、浦上四郞喜多野兵庫まつさきにすゝんて、究竟の兵一度にきつて出、けふいはみせわ大勢とは申とも、かないすして人數あまたうたせつヽ、三町はかり引ありそき、大息ついて居たりけり、石見の彈正近宗、石見守の御前に參りて、此城と申い尊氏將軍の御こもりありし時、かたしけなくも天照大神を勸請し給へは、つねの城にいかいるへし、その上天下に弓取おほしといへとも、此ものともいすくれたる名人とものあつまりたれい、平城なりとも、率爾にはおつへからすと申て、いろ〓〓の調儀していたりける所に、左馬助殿、尊氏將軍よりたまはつたる龍よろひを着し、同し毛の五枚甲の〓をしめ、打て出下知し給ふやふ、唯今さいこの太刀うちなれい、めん〓〓敵にうしろを見せす、こゝをせんとゝあひたヽかうへしとありしかは、浦上四郞喜多野兵庫、その外くつきやうの兵六十人はかり、かけ出てきつてまいるに、おもてむくへきやうなき、助殿の手にかけて、十三騎うち給ふ、浦上四郞か手にかけて十三騎、喜多野兵庫も十六騎うちとりけり、其外の人々も、二三人つゝうつほとに、矢庭に百騎はかりうたれしか、さしもにたけき石見守殿も、あきれてこそはゐ給ひけれ、近宗申やう、かくるも引もおりにより候へい、ひとまつ御ひきにて、人馬のいきをつかせらるへしと有けれは、すないちはるかの山の麓まて引のき給ふ、近宗は雜兵よりもあとに引さかつて、下知をしつゝうちけるを、左馬助殿み給ひて、三人はりに十三束三伏とつてうちつかひ、よつひきしほりはなたれけれい、近宗かおめ〓〓とひかへたるむないたを、つヽといとをし、同しき郞等源兵衛かきたる甲の吹返しを、いとをして、あまる矢か楯にたちければ、人々きもをけし、みな〓〓ちり〓〓にそなりにける、大剛の近宗もたヽ矢一すしにて、草葉の露ときえにけり、さる程に左馬助殿い、手に立てきもなかりけれい、其れよりもつくしの松田とのをたのみておち行、又それより高麗國にわたり給て、〓水の將軍とあふかれ給ひしかとも、ひたち殿を世にたて申さはやとて、また日本にかへり給ふ、錐ふくろに脫するならひなれい、つゝむとす別記第百七嘉吉物語