別記第百七嘉吉物語れと、此事京都にきこえしかは、やかて討手をさしむけられしほとに、河內國太子にてつひに腹をそきられける、抑木の山白旗の城い、天下ふそふの名城なりといへとも、主の運命つきぬれい、つひにあへなくおちにけり、さて山名右馬頭殿い、赤松入道のくひと、安積か頸とをとつてのほられけり、あまたの軍勢ともをはうたせ給ひしかとも、上洛のいきほひいるいもなし、さて頸實撿あつてのち、則五條河原にかけらるへしとありしかば、諸大名達のひやうちやうには、すてに天下の御敵なるを、河原にかけられん事あかるへからすとて、三條の西の洞院に、梅檀の木をほりたてヽ、獄門の形をつくり、一の木には赤松入道のくひ、二の木には安積かくひをそかけられけり、さて左のかたい京極殿、右の方は六角殿のたまはりにて、大名小名着到をつけて、都合一萬三千騎、番をおきて頸のけいこをし給ふい、誠に前代未聞の有樣也、此物語をみきかん人は、眞實のおもひをして、奉公を仕るへし、就中普廣院殿は、地藏菩薩の化身にてまし〓〓ける故に、善惡ともはけしき將軍にて、おいしましける、むかしより天下に弓取おほしといへとも、此赤松ほとのたけき人い、たくひなかりしとそ聞えける、嘉吉物語右壹卷以大學本再校了明治三十五年一月近藤圭造長祿記目錄畠山義就都落至若江城事交野業平事宇治十貼義就軍兵四十二人井若黨等七十二人討死事義就於嶽山籠城事聖德太子法隆寺建立事壬子四月十日於金胎寺諸國軍兵責寄事十五日金胎寺籠勢於藏山被加事寛正四年癸未三月十五日嶽山沒落入高野山事井高野緣起事五月粉河合戰事義就於吉野北山沒落事甲申畠山政長管領事乙酉花御覽事長祿記去長祿四年庚辰九月十八日、公方樣ヨリ伊勢兵庫助飯尾下總守兩使ニテ、畠山右衛門佐義就ニ、早々屋形可開、遲々セハ猶背上意被仰出、義就被仰樣ニハ、更以無緩怠何謂雖不存、至今子細雖申上、御耳ニ入ルヽ輩不可在、所詮先在國シテ、靜ニ嘆キヲ可申上トテ、既ニ可打立給御用意在ル、御心中左コソ被思召ケント、上下申沙汰シキ、去程ニ須屋甲斐庄ト云荒者共ハ、屋形ニ可懸火ト云、義就被仰ニハ、面々儀尤ニテ侍レ共、火ノ手ヲ上ケハ、イトヽ上意ニ敵對申ナント可申沙汰、其上次郞政長トテモ非他家、義就カ政長ニ替ル迄也、亦屋形ヲ燒拂テモ、幾程敵ノ弱リ肝要ニモ不在トテ、自燒ヲシ不給、去程ニ明レハ十九日辰別記第百八長祿記目錄