別記第百十八立入左京亮入道隆佐記十一月四日、信長二條之御殿御座候て、村井長門守を以、爲禁裏樣、大坂本願寺へ以勅定、和談之儀可被仰出候由候處、俄に庭田大納言勸修寺中納言爲勅使被差下、則御倉立入左京進入道被差副被成御下向候て、平野に被成御逗留、使者大坂へ被差遣候、種々談合出入無申計候、本願寺より被申樣子、又立入罷上、信長樣へ村井長門守宮内卿法印以申上候處、數ヶ條之申分、大略相濟、又立入罷下候、本願寺より申分者、兎角本願寺まて御免候ても、本不西國安藝森右馬守同事に被成、御あや免無之候へい、本願寺も西國より近年之芳志にて、かんにん仕候處、手前まて無事いたす事、迷惑由被申、津國こおり山に、信長御陣すへられ、津國中を燒入にいらせらるヽ處へ、則立入差こされ、本願寺被申樣申上候、然者本願寺森右馬守同事御赦めん可在之由、御返事請取、立入々道罷下、もりへの御勅使被差、可有御下向由被仰出、丹波越に旣路次すからけいこ、信長殿より被仰付申候、霜月廿六日に可有御立に相定候處、中川瀬兵へ廿四日に歸參仕候故、勅使之御下向御延引と、信長より被仰出候、其に扱きれ申候、其まヽ高つき茨木歸參申、天正六年霜月より、七年之十二月まて、せめつめられ、其內に荒木者、尼崎へ九月比有岡を忍出候、女子共をい有岡に置、其身忍出、荒木父子共い、尼崎に籠城候、有岡にい荒木久左衛門請取、籠城仕候處、惟任日向守、丹波國ことことく切あたかへ、荒木新五郞い、惟任日向守むこにて候まゝ、則日向守扱入られ、種々調共にて、有岡を明て渡可申に相究、先日向守むすめをうけとられ候、其跡に久左衛門も十一月廿八本マヽ日九日を日限さし、尼崎表へ罷出、荒木攝津守と種々調隆仕、荒木同心不申、久左衛門も尼崎をぬけて、あわ路のいわやへ舟にてのき申、跡に信長殿二條之御殿に御座候御息中將殿い、有岡表に御陣をすへられ、れき〓〓の者共、男女子共四百六十計、家を二間つくり、二間之家へ追こみ、裏表よりやきくさをこみ、火懸やきころさるヽ、其刻尼崎表に久左衛門女房をはしめ、九十七本はたものをあけられ候、こと〓〓くうつくしきいふやうきせられ、めもあてられぬ事無申計候、又京都へい荒木つのかみか女房、城の大手のたしにをき申女房にて候故、名をはだし殿と申候、一段美人にて、い名いいまやうきひと名つけ申候、一條より六條河原へ、車十二りやうにてわたされ候、其人數い出殿年廿四だし殿いもうと二人、つのかみ弟十九はう本かへ、つのかみむすめ十六御局、荒木久左衛門子十四一段の若衆、其外下々衆、妙顯寺へこしにてのほり、自せいをよみ、十二月十六日五ツ時分に、車にてわたされ候、上下京の見物、くんしゆ數あらす、涙をなかしめもあてられす、かやうのおそろしき御せいはいい、佛之御代より此方のはしめ也、源平の合戰にも、五人三人のせいはい、腹をきり申なとゝこそ承及候に、津國にて、せいはいやきうちはた物、京にての車さき、上下卅六人、以上六百人計之御成敗候か、いまやうきひ大坂にて川なう左衛門尉と申者むすめなりおとヽい三人みかくへき心の月のくもらぬは光と共に西へこそ行荒木女房ちよほたし殿廿四晴元の御內に田井源介孫共也源介孫か此內に五人有男女共にのこし置そのみとり子の心こそすて置し身のさはりともなれちよほたし殿書置も袖やぬれけんもしほ草きゝはてし身のかたみともなれちよほたし殿別記第百十八立入左京亮入道隆佐記たし殿廿四ちよほちよほたし殿たし殿