佐林國吉之城粟屋越中以下籠城次第一永祿七年九月上旬に越前勢夥敷佐田おもてへおしかけ參候右之通山東耳の庄初〓地侍不殘百姓共國吉の城へ籠城至候越前勢共寳春寺の上中山に付城をこしらへ山本〓の畑に出來稻大豆粟大根等に至迄苅取付城又い寳春寺大田村に大勢徘徊して有之候一伏見か嶽の下より敵兵山に登り高見より弓鐵炮にて夥敷打かけ申候得共城のまはりにい大木多くありて天主よりたかくあけり申候故敵のうちかけ申鐵炮大木の枝に當り候而木いおれ候得とも城へい少もあたり不申候一坂尻浦之上の山へ敵共大勢上り候而鐵炮多くうちかけ色々に方便をかへ攻申候得者城にも晝夜油斷不仕候一永祿八年八月中旬まて敵共大勢佐田太田に徘徊して山東〓之田地とも皆々あらし申候同八月下旬越前よりまた夥敷押寄申候故城にも隨分やうかいきひしくいたし坂尻浦々上の山に道をつくり敵共大勢耳之庄西〓へ押懸田地とも皆川取候て色々あはれ申候城にい小勢にて候故おもふやうにも不成候大勢の敵とも目の下に見おろし居申候樣々方便をめくらし城を落し申樣々と攻かけ候て田地迄刈取迄以城にもあくみい(居也下同)申候一同九月下旬に粟屋豐後守山東十郞麻生紀伊守山東上野田邊彌六郞我々致談合候者加樣に敵共目前にて我々知行分之田畑共皆あらし敵の自由にさせ申事無念候夜に入油斷仕候處へ大勢押寄付城へ火をかけ追散可申と致談合粟屋勝久に此由申候へ者彌可然との儀にて評議究候一同九月廿七日夜半時分に山東上野粟屋豐後に侍三十人百姓共取聚引つれふきたより太田村へまはし申候一山東權之介長澤右馬丞侍分三十人百姓とも二百餘引連一の瀨より山崎池のわきへ向候一山東十郞麻生半右衛門田邊彌六我々侍五十人百姓二百人にて萬願寺山よりあつ〓〓と上り瓦筋より付城へ忍ひよせ彌太郞右衛門九郎と申もの二人城へ忍ひ入見候得い敵共大勢臥候てい申候を踏越とおり大かまの下に在之火を取おもふやうに付申候折節あらし吹申候故程なく燒出申候我々引つれ候二百人之もの共時々聲をあけ候得者ふきたよりまはり候勢いちの庄より廻候勢とも同く関を合候て弓鐵炮をうちかけ申候城にい申候敵共一人も不殘谷へ皆逃をち申候油斷之處へ俄に攻入申候故敵も周章騷太田表にて懸合おつゝおいれつもみ合戰敵い大勢にて候得共油斷いたし候折節付城にい火かゝり三方よりのときの聲弓鐵炮にておもふまゝに懸合候故敵い周章武具共過半取落し候朝倉太郞左衛門い小はせ谷より打越半田又八い坂尻谷より打越一人も不殘逃かへり申候扨耳之庄西〓より押取申候兵粮とも寳春寺に積置候を國吉之城へもたせ申候一今度太田表にてうち取申候敵ともの首五十餘味方うたるゝものい侍分にい大西加左衛門彼是三人百姓六人其外手負あまた在之候一義景勢山東〓にて燒亡いたし候堂寺山上村に萬願寺の藥師堂正福寺佐田村に古き堂寺松本寺常(帝カ)釋寺觀音堂北田村之藥師堂是いいにしへ行基菩薩之御建立所也二十八社之鐘