其外の堂とものつりかねを敵共鐵炮之玉に鑄申候二十八社之馬塲に在之大きなる松木とも皆燒拂申候一內裏領之領主に本條殿と申御公家中寺村に御入候國吉籠城めされ候近衛殿御舍弟之よし一永祿九年之八月下旬に越前之勢多佐田村へ押寄山東〓之稻共苅取かりくら山に付城を大勢徘徊いたし候一粟屋五右衛門家勝侍百姓共に彼是五百人にて岩出山へ出張敵攻懸り候はヽ大石大大弓鐵炮にて打落し通し申間敷とのたくみをいたされ候然る處に敵大勢山上表へ押懸申候粟屋越中其時天主へ上り見おろし被申候へい敵山上より攻よせ候い腰越坂を押切兩方一度にせむへしとの巧と見へたり左樣に候はヽ大事にて候間五右衛門にいそき本城へ引取候得と被申遣候五右衛門も功者之侍にて皆々引連本城へ被歸候勝久被申候い敵共間近くよせ候て付入せんとおほゆるそと被申候處如案付入申候味方の勢い城へ入敵い水尾筋の城下に在之候百姓共の小屋なとへ大勢むら〓〓として入腰越坂尾筋より攻懸候處を城より火矢にて射申候得者折節雨の後にてあめり火付不申候勝久手つから火矢を射被申候二の矢に而小屋に火付申候其時敵小屋より出申處を城より突て出申候敵も跡より大勢押懸申候故跡へも不被返難儀いたし候兩脇之方い手を立たる如くきら〓〓にはき立候て自由ならす城よりい大勢切て出申候故こやの瓦にて暫戰候へい城方い高見より見おろし敵い下より見上て戰候故ほとなく山上表へ引返し申候を弓鐵炮大石なとにて追打にいたし候敵佐田邊へ皆々引退申候其時こやの尾にて討取申候首數三十六城方にハ手負數多在之候得共太田村の百姓二人ならていうたれ不申候首ともを山上表にかけならへ申候一永祿十年迄かりくら山の付城に敵共大勢徘徊して在之候一同十一年八月中旬に大勢重而攻來り坂尻浦の山道より木野村を通り味方にも椿峠より敵攻よせ候はんと評諚いたし候得n左いなくして桑山村へ通り候定て熊谷大膳を可攻かとて色々に談合いたし候一熊谷大膳も籠城內々より支度いたし候近邊の地侍にい相田村に山中武邊藤井村に山片下野上野村に熊谷蓮西橫渡村に香川半兵衛熊谷甚内氣山村に熊谷平右衛門岡村兵作其外地侍共龍城いたし大石大木共引のほせ用意仕候敵も弓鐵炮少々打かけせむるていにもてなし日暮候而敵小濱へよせ武田孫八郞殿に朝倉太郞左衛門半田又八色々にたはかり孫八郞殿を同心して越前へ歸候熊谷大膳粟屋越中兩人共に義景に一味同心致し候得と再三御使參候熊谷も越中もたとへ敵に御成候共義景にい一味仕事思不寄御事と致返事終に談合不申兩人共に孫八郎殿越前へ一味被成候事無念に被存候一武田孫八郞殿越前へ御越候てより若狹之地侍共心々に見へ申候此趣義昭公へ致注進候へい驚給ひて丹羽五郞左衛門を旗頭に御下被成候一永祿六年より同十二年迄七年の間義景勢いろ〓〓に方便をかへ攻來候ゆへ國吉の城も致退屈候田地に出くる稻共苅取候故兵粮につまり候はんかと存春になれい山々の葛の根を