とて則其沙汰に及へり其上信忠卿御二男も岐阜に御座候へい覺束なし唯是をも御供致さんとて安土山へ入まいらせけり定十五六日ケ間に濃州一國平均に相隨へ又長濱へ立歸り北國按への城々普請等丈夫にいとなみ立鐵炮之玉藥武具以下兵粮馬の飼ひに至る迄籠置來春い早々此表へ可有出勢と約し臘月廿三日歸陣に及ひ其夜い安土に宿陣し若君へ歲暮の御祝義として御小袖十重銀子二千兩進上あり其下付々の面々にも悉く沙汰に及ひしかは中々忠義正しき人なりと感しつヽ用ぬる事いとおびたヽしかくて廿六日至山崎寳寺之城に歸陣せしめ越年之祝義例年に越へ目出度事有廿八日にい今度濃州表出勢之傍輩衆へ小袖十銀子百枚樽肴十荷宛〓其家中の組頭何れも不殘小袖二重宛使者を相添へ今度寒天之節苦勞の段喜ひ入趣いとねんころに盡されけり評曰如此武略兼備り萬はかの行事下坂の車のことくなるい天下の大器也然共義士なる傍輩なれいいまた君臣の義に及いす斯其勞を謝する事時を違へす有し也不破彥三原彥次郞云けるい佐久間玄番允か驕今さへ不大方よとて內々の腹立ふかゝりしとかや秀吉如此諸人の勞を報謝し下民を憐給ひしかい此人の爲ならいいかなる疲勞も物の數ともせす可抽大功と思ひ籠さるいなかりけり評日大志有人n大人小人の心を取事身にかへても勤へき事也秀吉卿い其身にかへて仕給ふ故諸人の心秀吉の爲に在て其身にあらす然るに寄て忠功を抽んと思ふに實有て毎事はかの行事水の流るゝかことし相順ふ人々の云けるい今年いいかなる年にや有しやらんと至備中參陣せしより爾來一日片時も休足の間なしかく有てい身も世もあられん物かと大あくひして年を越んと沐みなとせし處に明日元旦飯後より播州姫路へ下向有へきの條其用意油斷有へからさる旨觸にけり各承り悔けるい責て元日をい安くあらせ給はん事なるに是い急なる事なりとてつふやきつゝ其用意とせよ角せよと也熟去し年の內の事共を思ふに二月中半木曾の深雪を凌き信忠卿甲信兩國亂入し武田勝賴父子を亡せしか又夏い將軍御父子逆臣明智か爲に弑せられ給ひ樣々の事共移り替るに人の心も何とのふ靜ならす世間の事さま物さはかしう成て上下安き事なかりし年も夢の間に暮て天正十一年元旦の祝義物ことに改り漸々半日春の心地してとや角やとのヽあるうちに午後より姫路へ下向お給ふへきなれい猶今年も忙敷有へき前表かと思はれ豫め安き心もなかりし夜半計に姫路へ着せ給ふて二日い悉くゆるやかに有へしと樽看或は銀子或い八木なと相添給ふてけり左も無く共去し年中之勞をも忘れなんに是い目出度事にておはしますよとて朝より夜半に及て爰もかしこもうたふ聲々遊々として萬歲をよいふ目出度かりける年の始也秀吉い休息もし不給還て心に勞を盡し右筆二三輩召てたれかれ年々の恩祿或い馬太刀小袖或八木馬之飼料等記し立見給へい八百六十餘人に及へり則それ〓〓の奉行十人計被仰付五日のうちに仕廻可申旨急也其御隙二日の午刻に明しかは朝餉祝し給ひて休み給ふかゆり若大臣の軍にあつかれ熟睡せられしにも越たり傍人笑止に思ひ侍りて云凡人のきこん