か左右に隨ひ屋裏へ入しかは野村刀脇さしを大崎に渡し密かに申上候いんとやはら立寄さヽやきけるい山路將監心を變して候明朝御茶を申數寄屋にて御邊を奉討本山の城へ柴田勢を引入むとの事に相極りたる由云けれい木村實さもあらんと覺へたりさらい只今逆寄に寄可討果と有しを野村承り先病氣の由被仰遣相延明朝御仕かけ候いヽ同類不殘被打果候はんやと指圖せしに尤なりとて山路方へ俄に虫さし出痛候間明朝い參るましき旨使者を遣しけれい扨い此事推量有し也反忠を心許なく思ひ密談の者誰彼とよふに野村勝次郞そ居さりけり反忠此奴なんめり時刻移りない惡かりなんと長濱の宿所に母や妻子共有しをは山路か甥と奮臣二人つかはし船にて早々退候へ財寳等に少も相かまはす片時もはやく退候へと出し其身い密談之者三人同道し鷄の聲初て聞へし折節落にけり將監か陣所ひそ〓〓とさわき出たる由野村か宿より告知らせける間即かくと隼人佐に申けれいすい退たる物にこそとてくる〓〓と引卷尋ぬれは如案見へさりけり在長濱母なとからめに馬上五六騎遣しみれいはや船にて忍ひたりとなん番船の者も熟眠して在しを山路將監か母の乘たる册の權番船の碇の綱にあたりしかは十艘の番船一度にゆられ出是い如何樣なる舟か通るにこそとて聲々にのゝしり出けれい案の〓とく不知船見へつるに因て追かけ舟をとめ見れい山路か母妻子共也彼是七人番船へ取のせこき戾り隼人佐使者共に渡し侍りけり評曰惡逆無道なる者天にくみ給ふに因て山路か母なとか乘たる舟番船の睡を覺しぬる事天心嚴なる事默識すへし呼恐哉山路か妻子共七人秀吉へ上奉り謀反の樣子委く木村申上しかは見せしめの爲なる條急き張付に懸て將監めに見せよと被仰けれい隼人の佐いとゝ腹あしき人てい有卵月十六日柴田か陣取近う逆張付にかけて山路是を見よ〓〓と高聲によいはり瞳と鯨波を擧てとよめきにけり痛しや夢にも知らぬ事に七人の者共に憂目をみせ耻を與る事後代萬人の舌頭に絕さらん事も偏に將監か無道故也能々勘かへみるに謀反をし侍りて行末の目出度いなかりけり織田三七殿與秀吉及鉾楯事信孝いかゝい思召けん舊冬秀吉と和睦の契約を變しられ柴田瀧川と仰合され敵の色を立氏家内膳稻葉伊與守か領分の在々處々放火有之由注進有しかは秀吉卿舊冬岐阜を可攻平之所信長公の御厚恩忘れかたく存知及助宥候し今又斯約を變し自業得果なれい不及思惟事なりとて至濃州令出馬可打果と卯月十七日曉天に長濱を立て同日玄の刻大柹に著陣翌日十八日の早天に氏家稻葉か勢を以て信孝の御分領悉く放火し十九日にい至岐阜押寄可攻千と支度侍りしか共夜半より雨夥く降出小止みもなけれい其日い止にけり斯る處に廿日の午刻佐久間玄番兄弟不破彥三原彥次郞德山五兵衛尉上方取出〓〓の要害をい丈夫にをさへ置余語の海を左になし廻り來て中川瀨兵衛か要害を打圍み息をもくれす攻候旨飛脚倒來せしかは秀吉驚きもし給いて扨い得大利事思ひの外はやかるへきそかち立の士二百人之內道に得たるを五十人撰出しつゝ急き長濱に至て廿人い松明を持せ出我行先道通山の峰々に百姓を追出しともし立させよ卅人n長濱近邊の地下人共に酒食馬の飼ひをこしらへ持