へ足はやなる者を遣し五郞左衛門尉當城爲加勢只今着陣候急き歸られ候へと云やりけれい桑山立歸りて是へ御加勢あらんとい夢にも知らすして退侍る也是よりい申合隨分可盡粉骨をと云し時長秀申合せんといおかしく思ひしか共其方立歸り被申しに因て下々力を得候と有しかい桑山重て言葉ハなかりけり長秀其近邊在々處々へ五郞左衛門尉こそ只今賤ヶ嶽の城へ加勢として入たるそ安堵せよと觸取出〓〓の城々へも力を付しかい味方千騎萬騎のきほひといかやうの事なりとヽつときほひ出けり評曰信長公御在世之時い築田柴田瀧川丹羽等かいる〓〓軍の前後を勤しか今度も丹羽心かけ信篤かりし働也不破彥三佐久間久右衛門か陣へ夜半比より松明美濃路よりの海道峰々に夥しく見へ其といなしに物さはかしく成出しかい下々起よ其用意せよと聲々にあきりけれとも昨日終日戰ひ疲れあか〓〓いらへ事をもせさりし也去共物になれたるい此けしきいたゝ事にあらさるへしと其樣急なるも有玄番允陣中も彌さはき立退なんとひしめき立出しかとも十九日夜節處を窘歩し來り晝い終日戰ひ暮したり目さす共知ぬよるの道小篠か上の露諸共に落まろひ起てい倒れたをれてい起上り急きしかせめて月をよすかにせんとのゝゑる內廿日の夜の月山の端にのほれい聊道あるへ有南方の勢い兼支度を調へ敵退ない付んと待得し事なれいいまた陣拂もせさりし內にはやひしと付て見へたりけり原彥次郞安井左近も賤岳を押へ有しか漸々仕拂て一手に成し時玄番今日の殿も此兩人を賴入と云しかは委細意得候と領掌し跡に打けるか鐵炮十挺五六張宛一町〓〓に伏置是迄引取下知次第うてよと有しか共敵すき間なく引付かゝり來て鐵炮をたに打兼る計に急なりけり原と安井と立代り〓〓殿せんと堅約して一二度いさも侍れともこはき殿にや有けん安井い引取て退しにより原一ゑして前後に目をくはり左右に下知し退しか靑木勘七郞原勘兵衛長井五郞右衛門豐島猪兵衛鷲見源治郞鷲津九藏毛屋新內なと引返してい突倒し突退けゝれい敵もさつと引にけり靑木い其中にて行年おとる程に跡をい我にまかせよとて二三度引かへし鑓を合せ突のけしか何れも鍵を以たゝき合けるに靑木計引ぬき引抜突しかい敵思ふ程にい付さりけり如此六七人の兵共歸し合せあまたゝひ戰し故後ハ原が勢にいまたいさりし也柴田三左衛門尉い三千餘騎の勢を率し賊ヶ嶽の岑筋なる堀切を前之日越つゝ南に向て勢を備へ敵勢をおさへ有けるが兄の玄番允一萬五六千の勢をやう〓〓にして志津岳の北なる山へ引上余呉の海邊よりおし上る勢を押へ有しか三左衛門方へ我勢いはや難なく引退し也急き是迄引取候へと使者兩度に及しかはさらい玄番允と一手にならんとせし處秀吉卿い夜の明るを待かね木本をまたほのくらきにおし出し志津岳の城の南に御旗を立させられ弓鐵炮の頭分共に堀きりのこなたなる勢い只今配引取と見へしそ急きはせ付討せよ〓〓と使番母衣之者を以被仰付しかい心得候と云もはてすひしと引附堀切より引上け候を懸渡しにねらひすましうたせしかい時の間に手負二百人餘り打出しけり敵い此手負をのけんとせしに勢の次第も亂れ右往左往なるを御旗元より御覽して小性とも法度をゆるすそ引付て手柄をせよや〓〓と御身を捫み下知し給ひしか