別記第百二十四七番小島新五郞病の床下に在し故肩興に助られ籠りし時大手の門の扉に小島若狹守男新五郞十八歲因病氣柳瀨表出張せさる也只今籠いたし忠孝を全すと書付たり八番吉田藤兵衛尉息藤十郎いまた二十にもみたさりし者なれい父退度思ひ再三出よと諫けれとも是のみ父の命に背きても苦しからさる事成とて父の櫓に籠りにけり籠城を心さし出ぬる折ふし祖母も共に泣悲みとめ侍りしを父をともなひ歸らんとあり〓〓敷云しかい必左もあれよとて遣しぬ忠孝〓め侍る者よとて心ある人いうらやみ又い感しけり九番大屋長右衛門尉是い柴田彌右衛門か子也けり父い宵に籠歸らされい母並兄弟共を山中へ能に送り其後籠り父に其旨〓しかい滿足してけり此外數十人常々櫓なとに在し者共其所を守り果ぬ然に立蕃之內落て浮名を流すも有又世俗の口號侍りし文荷齋德庵志摩守三人の法師武者とたはむれしか共德庵い利家の人質を盜出其便をまうけ侍りしか共又左衛門義理を違し者なりと思はれぬかゝるにや色外に顯れ其便りもいたつらに成後い洛下に心ならす有しか地下人さへあれい如此の者也とて諸人の舌頭にかゝり果し也中村與左衛門尉ハ匠作本マ同〓に生長し弓馬の二道をたしなみし者なれい馬上の弓五十騎付侍りしなり然るに寄よき射手あまためし連射させつゝ其功をあらはして切腹してけり評曰其比迄い人心義ありて歷々の切腹其名いと香しく有し也此以來何の最期に如此〓き事共や有秀吉すき間をあらせす追討にせよと下知し給へい素より望所也其日に府中邊迄討たれい漸日暮ぬ其夜い府中脇本邊立錐之地もなく陣取にけり北庄表被寄陣事翌日廿二日北庄へおし寄らるゝ勢の次第堀久太郞を先手として其次取出〓〓の番手の次第に任せ打候へと定給ふ掟之事一進退何事も母衣之者〓使番次第可守其法事一濫妨すへからさる事〓酒家に入ましき事一まはらかけすましき事一勝利にほこるへからさる事一合戰を心に備へ夜討の用意可有事右之條々無相違可相守此旨者也と五六十通調させ給ふて夜半以前に觸給ふ鷄の聲あきりけれい堀久太郎はや立出北の庄へおし行ぬ其次誰々と如御定うち行路邊之在々放火せしかは烟明かたの雲と亂れあひて空い霧の海と成朝日を障にけり北庄の城頓の事なれい二三の丸のみ人數賦を沙汰し惣搆の事い中々かヽへ見んともせす諸卒の妻子共貴となく賤となく便に隨ひ南より北きたより南にさまよふ形勢見る目さへにまとひぬ夫に別れ子にをくれなとしかゝる上に流牢の身と成住なれし處をかちはたしにて離れ行心の內おし量にさへ涙落ぬ先手の勢備へ設け北庄の城をくる〓〓と引卷四方を一度に燒立しかい煙宇宙に滿々として空に知られぬ雲幾重共なくをほ