別記第百二十四別記第百二十四へい余呉琵琶の兩湖を直下にして比良伊吹の二山を異坤に見渡し其眺望に至てい又たくひあらさるへしされは君か世の今い遠津國の人々も此山に登りて遊覽し給ふ事日々になん侍の力山されい新べんおれらしち取自称地理の次謂議論太人ものなれいあれとも此岳の麓に住ぬれい此戰あらかしめあらていと此あたり里々の何かしか秘藏くれかしか記錄とて賤ヶ嶽合戰實錄といふ有ひそかに是を借求(得〓)て閱するに其文に詳略いあれと何れも一體にして元一人の著述せる物ならんかしと覺ゆ且百年の後に作せるやうなる事もあなり又此邊に流布せる物なから返て地理に合さる事も侍りて實錄といへるもいふかしき事のみ多かりき彼世上に行れる大閣實記大閣眞顯記を始として北國太平記其外書々に此合戰の次第を著すといへとも何れも其意不同にして何れか是何れか非なる事を知らす近比繪本大閣記てふ物を出し專世に行る此うち賤ヶ嶽の段著述の節著者〓工等此山に登り地理をうかゝひ又此邊の實錄なといへるをも能聞正し彼も取是も捨すして著せる物なれい其面白き事是に及ふ物あらし賤岳を夜軍に取なし七本鍵の相手を定めしい眞顯記を元とし此邊の實錄といふによれる成へしおのれある時とある書林か許にて此戰ひの事なと語り出侍るに書林か曰爰に大閣記といへる一著書あり然共其文體花やかならされい是を見んといふ人あらねい紙魚の腹肥しぬるとて投出せるを見るに實記眞顯記の類ひにあらす尤古文にして實々敷事とも多かりき且著者の名い小瀨甫庵と記り小瀨甫庵い賀州の儒生にして信長の祐筆太田和泉守牛一といふ者の友なりしとかや其時代の人にして述之れい印刻の時代もまた古く奮記といひつへし是等や實錄ともいふへきかされと上にいへる書々とい戰ひの次第尤異なる事ありて又いふかし或日淺井郡高田といへる里に渡邊何かしありて此許に遊ひ侍る事ありあるしの曰子は賤岳の麓なれい地理い元よりにして古實も聞侍らんまゝ語り候へと有しにおのれ彼不審のあらましを有のまゝに語り侍れい主曰子か祖先に渡邊勘兵衛といふ者有て秀吉卿に隨ひ奉りそこ爰の戰塲に赴しあらましも自筆して殘せる物有とて一帖を見せ給へり其中先賤ケ嶽の戰を見るにはすかに紙三ひら計なれとも其趣意甫庵か述る處と符節を合すかことくおのれ爰に至て大に嗟歎して甫庵か大閣記の實なる事を知る是より彼書々を用す專此書を信用し則其中第五第六のふた卷を拔寫して私に賤嶽合戰記と外題し上下のふた卷となし人々にも風聽し侍るい愚なる心のひかみなつめるかも此程あつまなるはらからの許より申おこせるいやことなき御方より賤嶽地理の圖合戰の次第記せる物望み給へるまゝ日あらすも書寫し越へきよし申おこせるにさらい能筆持給へる人に助け給はらいやとそこ爰賴み侍れと誰か是を助んといふ者なけれいせんすへきやうなくおのれらか見る甲斐なき筆にて寒夜のともし火をかゝけて寫終りぬまゝ脫字誤字いくらもあらんまゝよく是を察し能是を考へ給へかし何事も山〓か寫せし物よと見ゆるし給ひて不能を憐み給へかし猶くはしくい印刻の本を尋てよみ給ふへし此邊の實錄てふ物見事夢々望み給ふ事なかれと其後へに物し侍りぬ文政二年卯臘月上旬記之畢湖北黑田住人西川與三郞記之湖北黑田住人西川與三郞記之