別記第百二十五志津ケ嶽合戰事小須賀九兵衛話一六度めの玄蕃返事に世上にて鬼柴田といはれ給ふい美濃尾張近江抔の間にて小迫合の節の事也是い大合戰なれい夫とい違可申也と云勝家か聞て無是非事を申越候もの哉此上い勝家切腹よと被申かゝる處に太閣七萬五千人を十七備に分玄蕃備の前二里計に被押詰白晝の事なり玄蕃方より太閣へ使を遣し是まて御出尤之事に候合戰ハ明朝と云太閤より使給り滿足せしめ候合戰の義得其意候との返事也玄蕃手段い案內者三十人計すくりて夜討せんと也大閣是を察し玄蕃か靑い事を申越たるとて御笑被成先手を一里引とらせ被成柴田勢と三里ほとへたてたり一里半ほとの中途に篝をたかせらる玄蕃案に相違して無了簡あくる朝合戰に及太閤樣子よきや觀察して御ゆるさるゝそ小性とも心次第に働けと被仰此せつ七本鎗有之一玄蕃允權六生捕に成たるとの由勝家聞て不合點ものさこそ有へき由夫も家運也是非なし旗本にて立派なる合戰をすへしと云毛受勝助申いケ樣の塲にてむた〓〓と大將の御屍をさらされん事口をしき事也私に御馬印の金の御幣と御人數を御渡被成い生々世々難有事也去に於てい柴田修理亮と名乘て討死可仕其內に小勢にて越前へ御歸着有て心靜に御城中にて御腹めされ可然樣にと云柴田同心して越前へ被引取毛受い討死す金の御幣い蒲生飛驒守內永原孫右衛門取之後に淺野紀伊守につかへ永原越後守と云三百石領知す一勝家越前へ引取時毛受定而最早討死すへし筑前守い早き者なれい追付あたひ來るへしと被申其言のことく金の瓢簞かすかに見ゆると云勝家城へ入心靜に自害す此時勝家家來法獨村麥中 1920見己師武者裁判よかりしと云々一堀久太郞長谷川藤五郎に越前半國つゝ被下候以來此方角の先手をせよと被仰付一太閤越前を引取の時中川勘右衛門に被仰付信孝を尾州野間の內海にて切腹させらる其時信孝の歌にむかしより主をうつみの野間なれいやかてむくいん羽柴筑前一權六玄蕃允い京都を引わたし首を獄門に被掛一瀧川一益へ太閤より使者を以て今度の義殘念に可被存候乍去武士の習無是非義に候向後い心靜に御一生を被暮よとて近江にて茶の湯料とて知行五千石被遣金銀なと入用の事あれいいか程も可承とて結搆のあしらひにて寬々閑居被致し由以上以所載武功雜記比校了伴信友伴信友明治三十五年一月再校近藤圭造別記第百二十五志津ヶ嶽合戰事小須賀九兵衛話