ふがんてうにて候を大納言樣三左衛門殿の手を引立遲く成候間御急き候へと御いらち候へ〓三左衛門殿今い皆々早く候へ共困れ申候間草臥ぬやうに行人の敵の前にひかゆると心を掛て武篇を仕る者我等次第にして又左衛門御いらち有間敷由被申候扨城際に付人たまる處を見て三左衛門殿御申候い今い掛る時とたかひに言葉を懸合候刻利家公一番に掛入續て三左衛門掛入御兩人共に高名被成候信長公御前にても又其後迄も又左衛門に被越候と被申候去迚い三左衛門殿程の功之者い其比稀成由被仰候一大納言樣柴田修理殿森三左衛門殿坂井右近殿なとい威言申武篇の塲にて鐵炮打來る時柴田い立なから被居軍兵共をかゝみ候な〓〓あたらぬものそと御申候又三左衛門殿右近殿なとい柴田しやと云ても中るましき事かはかゝむ時いかゝみ鐵炮矢に當らぬ樣にしてかヽる時い押開き何にても不搆かゝるもの也と被申候三左衛門殿右近殿なとい功の者と度々被仰候一加藤左馬助殿脇坂中務殿唐にて番船を乘取候事御注進に中務殿より先に參候使者三十計の士額に矢疵有之者也利家御煩ゆへ御居間にて御對面被成候右之使者口上を被爲聞候て扨い早左馬介一番にと聞へ候と御意候如案後日橫目衆より注進候へい左馬介一番とあれ申候上手の御申候事如此に合申候と上下感申候一大納言樣昔御物語被成候村井豐後岡田長左衛門なと語申候いな見と申博士京の者にて有之候か利家被懸御目候故越前に御座候時御見舞に罷下候利家公後い日本のかたかたか天下御取可被成旨うらなひ申候御內衆村井豐後笹原出羽岡田長左衛門い後の仕合木村三藏山崎彥右衛門富田與五郞い討死可仕由うらなひしか大形合申候と御咄被成候ケ樣の儀に付大納言樣御物押不被成と被仰候一大納言樣能登國を孫四郞樣へ御渡し被成候時村井豐後を被下候樣にと被仰候無左候いヽ奥村伊豫を被下候へと表向より齋藤刑部岡田長左衛門御使にて御訴訟候へい御內證よりも御母儀樣被仰候へい尤孫四郞申ことく世上無事に候ゆへに孫四郞不取合肥前い信長被成たる事も若手之頃二三度も見申候其上柳ケ瀨の大き成人數立申又ハ內藏介と取合之刻度々の事を見末森の後卷なとを附てさせ候間孫四郎事を案し申候故我等內にて長九郞左衛門其外高山南坊不破源六人々に知られたるものを皆々附申候おとな分にい村井左馬介を遣我等內にて度々手柄を仕半田半兵衛誰とも負さぬ者跡目左大夫山崎彥右衛門北村三右衛門を附其外口上能申奧野與兵衛なとも附申候前田孫左衛門い城代に致付申候豐後事本マ記事業者往業時はいのろ。也佛教事ニ豫國処部的產業有方公式心生者に候間無用兎角死水まても召仕者に候間右之通被仰候一大納言樣御普請奉行宮川與左衛門を何事候哉御使に被遣候へハ結句公事を取込罷歸候由にて御返事申上候へい事之外御機嫌惡敷扨も信長公の御意昔より申置候通利根たわけと云者い何共可仕樣なく結句おつ成者い主の申付により利根を仕物也と被仰候野村五郞兵衛前波嘉右衛門を被遣理屈相濟申候是に付色々御物語被遊候事