別記第百三十三立花朝鮮記豐臣秀吉公朝鮮御征伐の時西海南海之諸大名浮田秀家毛利輝元島津義久加藤〓正黑田長政小西行長是等を先として宗徒之大名數拾人其勢拾三萬餘騎文祿元年正月に筑紫迄進發す同三月秀吉公東國北國すへて日本一州之人數拾萬騎を率して肥前國名護屋に著陣し給ふ高麗へ向ふ人數之大將い浮田秀家毛利輝元兩將たり先陣い加藤主計頭〓正小西攝津守行長也各秀吉公之御下知を得て既に渡海して朝鮮に到り先手合に釜山海登萊之城を攻落せり其後諸將都へ進發之評議をなす秀家何も諸將に向て先此所迄著陣すこと太閤へ一左右を啓し其命に隨て可働哉又此儘に都表へや進發せん各いかにと有けれい諸將僉議區々にして一决あかたし其時福島左衛門大夫正則進出て申されしい凡今度日本之地を離れ高麗之地に赴より始て命をい太閣に奉り骸を朝鮮の地に曝さんとこそ思ひ定て候へと申もおこかましく候得とも三千の兵一致して命を輕んする時い萬軍敗るにやすしと云り況や是い十萬餘の人數なれい進て戰を決せんに何の不足かあらん各いかにと申されし時加藤主計頭進出て抑武具を肩に懸る者戰塲に望んて誰か命を惜へきましてや今度い上古にも其例を聞さる朝鮮征伐の爲に何も指向らるゝに其先陣を承たる某に候へい猶以今度の働大事にこそ覺え候我身命のすたる事い扨置進ましきに進みとゝまる間敷にとゝまり事を仕損したらんい上の御爲又い末代日本の瑕瑾に非や評議といつは何も其てたてを一致せん爲也福島殿の詞近頃傍若無人に候と申されしかい夫より互に異論におよひ既に事出來候いんとすれとも列坐の諸將穩便の沙汰にあかしと制して和順させしむ其時に小早川隆景立花左近將監宗茂に向て申されけるい御邊い既に秀吉公も西國一の武勇と仰らるヽ人に候へい若年たりといへとも其所存覆藏なく申され候へと有時左近も再三辭退に及ひあかとも諸將各頻に申され候へと有しかい宗茂も辭退に不及所詮若輩の某申たる事少も事の用に立へきにて候いぬとも申さねい又却て貴命を輕んするに似て候へい愚意を可申にて候某手の虜に是より都迄の道の程相尋候得いまた杏々遠きよし申て候多人數は不日に集められぬものにて候若詮議不調都への發向遲々なせ六軍地。都能を皇く向南道悠鏡所難所にて防校モト由々致敬し都へ打入都にて合戰をも遂又い敵退かい王城を守りいか樣にも評議然へう存候と申され候時何も至極に候去なから朝鮮の都へ人數いまた集るましき考や候と各申されけれい其事にて候大軍集りたらんにい釜山海登萊をはしめ城々に少人數を籠へき理なく候大勢ならんにい一定大軍を指向て防へきとこそ存候と申されけれい各此儀尤と同して滯留なく都へ進發す行長〓正相好からすして數度同士軍せんとすされとも〓正此軍終て歸朝の後行長事いか樣重罪に行るへしとて家臣の憤をもやめて終に事をい仕出さゝりけり諸軍勢各進て都へ入に案のことく朝鮮の王李昭無勢にあて防に便なく〓正行長兩道にわかりさきんして攻來る來不過ハ義用ど所属着の父人大六六九五〇二所所舊もしむと正重生瓦瓦見路トゥ此のの感感が進慮無從半分にもするには僕前後に過るとらす行長い〓正にさきんして都に入然ともさせる功もなし大明より朝鮮へ加勢の爲勇兵