別記第百三十三三千餘騎を遣いす秀吉公是を聞賜ひて又六萬騎を渡海させしむ大明の援兵既に平壤の安定舘と云所まて競來る行長四千餘騎を率て馳向ひ是を打敗る大明の帝王聞給ひて安からぬ事にや思いれけん李如松と云者に二十萬騎を打添て朝鮮加勢の爲に差向らるゝ道すから人數馳加て其勢五拾萬におよへり行長か籠れる平壤の城を攻圍む行長勞をつんて防といへとも猛勢退治する事叶すして郞從多く討せ其身い王城へ退く李如松利を得て開城と云所迄押來て王城に陣する日本の人數を攻んとす日本の諸將各評議して王城の門々に勢を分つて守しむ李如松大軍たりといへとも日本の兵機健成におそれてさうなく攻す王城の諸將い又かれか猛勢に氣をのまれてかけらす斥候のせり合計也最初の先手い加藤遠江守前野但馬守たり兩人相計て物見を出し敵のやうを見たるに日本の軍勢い多き時十萬にこす事希なり近年秀吉の御人數こそ上古にも例なき大軍といへとも夫にい猶增る四拾萬に餘る大軍なれい目もおよひかたき程也それによつて遠江守も但馬守も大に氣をのまれて見えし所に敵勢の中より斥候を出すやうにあて六七千堅固に備てかゝりけれい但馬守遠江守一さヽへもせす敗軍す是に依て諸將相計誰か先手仕て可然と詮議區也隆景申されけるい小勢にてい候へとも立花左近將監宗茂こそ先を仕てあやまつましき仁と存候其故い元就か代に大友と合戰する事度々に及ひ勝負互に候ひし或時元就四萬餘騎を率して九州へ打出しに大友修理大夫義鎭三萬餘騎を師て筑前國多々良濱にして軍を八に分て戰しに大友か軍七重敗れ候處に左近親父伯耆守僅二三千騎にて六七千の敵を切崩し大友か勝利となる事九國中國に其かくれなく候されい左近將監宗茂い其子といひ身に取て希代の譽有上家來にいさこそ覺の者もあらんすれい立花か三千い餘人の一萬にもおとるましけれい只々左近將監殿然へう候其上太閤へ聞しめされるも宜しからんと存候と被申けれい諸侯此儀に同す左近申されけるい若輩の某かやうの大事の先手を仕事覺なく候併各御評議の上にて被仰付上い某能向て善惡に付然へき事にてこそ候いんすれい辭退をい仕間敷候さらんにい但馬守遠江守ことくに我等ハ輙く引取候事罷成間敷候へい時宜により一戰仕へく候各無用と思しめさい家來許指出候いんと申されけれい諸將御邊出馬をせられすしてい叶ひかたし去なから一戰をはしめらるゝ事い堅無用に候と再三申されけれい左うけ給候併敵取かけい是非なく一戰仕へく候と申さる各尤に候自然軍をはしめられハ早速一左右を告らるへしとて衆議一決して各陣所にかへらる其後左近將監も陣屋に歸り一家の輩を集て宗茂か一命こそ今宵限りに成つれ舊功のよしみなれい各宗茂と一所に兎も角もこそ思いれんすれいよく〓〓あたゝめて夜の明るを待へし明朝大明朝鮮の大軍に向ひ一戰を決し十死一生の働をなし當家の興亡を究んとこそ思ひ定てあれ何もいかにと申されけれい小野和泉池邊龍右衛門內田忠兵衛十時但馬なと云者とも進出て天晴一期の思ひ出にて候へ日本の地を離高麗の地に骸をさらさん事こそ何自以本望にこそ候と何れも勇あへる中に小野和泉申けるハ明日の軍こそ一定味方の勝利に成へきにて候其故い昨日被官をさし遣し味方のやうを見せ申候に但馬守殿遠江守殿の人數は働迄もなく只敵大勢成を見て敵相する者もなく崩立て引たるを慥に見屆參候されい明日此方より斥