別記第百四十四あかるに源氏い代々の御門の御子孫そのなかれまち〓〓なれとも〓和の御末源氏の武將として今に繁昌まします也先正統の次第を申さい〓和天皇より貞純親王經基王多田滿仲賴信賴義八幡太郞義家也今の公方樣と申も管領の人々も吉良殿今川殿と申も何も此御末なり八幡殿の御子四人まします一男對馬守義親二男河內守義忠三男式部大夫義國四男六條判官爲義也あかるに義親ハ反逆の聞え有て被遠流於配所誅伐也實い讒言にてありけるとかや二男義忠い叔父新羅三郞義光と不和の事にて鹿島と云郞等にひそかにうたせられけるとかや三男義國い康和年中に東國に下向し下野足利に住し給四男爲義京都にとゝまり大内守護にて有しとかや實い此爲義い義親の子なりしを義家襁褓のうちより養ひ給しとかや此事義家の置文八幡の寳藏より出て後にい露顯せし也爲義の嫡子左馬頭義朝相續して京都の警衛也源氏の武士等彼下知にあたかはすと云事なしされ共義國の御子義重義康なとい自餘の源氏に不准諸事に付てれんみん慇懃の御事とかや本造造業期いあった人質實形成年絶如生事業成又れ樣してとてもいにたよしみも有ける也當時源氏の正統を申奉るに義國の御子一男義重新田殿の初め也二男義康足利殿是そ今の將軍の御先祖也義康の御子一男矢田判官義〓木曾殿と同時せめ上り備中國水島合戰に討死也二男足利判官義房ハ賴政に一味し宇治川合戰に討死し給ふ三男上總介義兼そ義康の家督をい御相續也義兼い實い八郎爲朝の子成しを義康の竊に養ひ給ひけると也御長九尺計にて力人に勝れ給ふ義兼い此事あろしめさぬ賴朝い竊にあろしめし給ひけると也賴朝に眤近し給ひ人柄も穩便にまし〓〓けれい時政か聟になし申されけると也去い賴朝と義兼もいとこにて又相聟也去程に新田殿より足利殿御末繁昌し代々北條家と緣を結ひ給ひし也義兼の實父爲朝い高名の合戰廿五度人をころす事數不知されとも一人として非儀の敵をうたす古今無雙の强弓にてあれとも漁獵のあそひをこのます慈悲を先として父母に孝有て禮儀を專とし一心に地藏を奉念さる故にや現在にて荒神のやうにおそれしかとも子孫い殘りて天下の武將とあふかれ高位將軍に登り給ふ不思儀の御事也義兼の御子左馬頭義氏御法名正義北條義時のむこ也其御子一男足利五郞長氏上總介二男義繼三男泰氏宮內大輔平石殿と申此御母義時の娘のはらにて左馬入道殿の家督を相續にて惣領に立給ふ泰氏又最明寺殿の妹聟にて式部大夫賴氏を生給ふ賴氏の御子家時伊豫守殿其御子貞氏讃岐守殿其御子尊氏將軍等持院殿樣是也其御弟直義大休寺殿今の京鎌倉の始め也尊氏公い北條相模守久時の聟也寶筐院樣御母是也加樣に代々先代の御緣邊にて關東の御威勢源家の棟梁にてましましけるとかや權長氏の御事義氏の一男にてまし〓〓候へ共病氣によつて三州吉良の庄に御隱居泰氏當腹の威に付長氏の猶子の義にて惣領に成家督相續有しと也去により吉良今川の御事とも公方樣より他にことなる御尊敬也又今川殿長氏御隱居の跡を御相續被成し故也田舎人の申事に