別記第百四十四其弟佛滿禪師い鎌倉建長寺の前住にて彼塔頭續灯菴の開基也其弟範國い先代の時泰家の高時に述懷有て出家せし時鎌倉中ことことく出家しけれい廿三にて入道し心省と申基氏の五郎にあたり末子にておはしけれと家督を繼給ひける也凡建武より以後度々の合戰に忠義を盡しひとへに忠功のまことをい天道の盛有物と承候誠なる哉かやうのためしいつれの御家にも其數多し大身小身によらす武道におゐていたゝ誠を本と可存事也活躍を以下さいたら建武四年駿河國手越河原の合戰に味方打負錦小路殿御討死有へき由細川卿房定禪すゝめ申されしを心省不了然とて御馬の口を押返し御馬の尻を打引かせ奉り夜に入けれい心省計御跡に留り敵付來らさりけれい奧津の宿にて追付給けり又九州へ御退の時兵庫莫の御堂と云本所にて皆々腹切の着到を付られしに心省い殊に御腹めさるへしとすヽめられ細川卿房ハ只御船にめさるへしとて御船にめされし也此事を後に錦小路殿常に被仰しい此兩度い已に御本十然を以石定めしと所の爲見移合せるまると武士のしかるこるに此外也とおほせられしとなり其後落書有りし今川に細川そひて出ぬれい堀口切れて新田なかるゝ細河〓氏御不審かうふりし時心省の御謀事として御所樣へ被仰しい貞世ハ〓氏と入魂の者也かれをめしのほせ〓氏と指違打果給いゝ御大事いあるましとて其比遠州に在國なされしをめしのほさせ給ふと也されとも貞世上洛以前に〓氏い沒落せしと也正布戰塲のうち死仕いあれとも一子をすて給ふ忠義い有難き事也チャタル守貞世了俊の俗名也建長四年北畠顯家三十萬騎にて奥州よりせめ上り給ひし時桃井字都宮三浦介已下の味方敵の跡をおそひ上りし時心省い遠州三倉山に陣とり味方に加り海道所々にて御合戰有殊に美濃國にて諸勢もみ合評義有明日の合戰一大事也とて海道の勢三手に分て一二三の圍を取入替々々せめらるへしとて桃井字都宮は一くし今川三浦い二くし吉良三河勢ハ三〓也桃井勢い皆たかの鈴を付たり今川心省かさしるしを思案被成あかとりを馬に付給けり今川の家人稻垣八郞左衛門尉米倉加々爪平賀なとヽ云若武者一番勢をぬけ先かけして合戰を初め桃井宇都宮打負けるに今川勢三浦勢入替て合戰心省の手にかけ山の內と云人を討捕ほろかけ武者二騎射落し給ふ也それより奧州勢所々の合戰に打負伊勢路にかゝり登りけると也此忠賞私云此奥州勢は北畠殿白河結城入道楠木として駿河國並數十所の御所領をたまはらせ給ふと也左右近藏人常陸國小田の少將以下の人。也駿州御入部の初め富士淺間へ御神拜の時神女詫し云遠江の國ちかくて氏子にほしかりしまヽ笠あるしを得させし也さるにより合戰に打勝て此國の主と成しと申けるに心省信を取て拜し給ふと也今川殿の赤鳥のかさあるし此いはれなり心省駿州國務の時淺間惣社の宮に誓狀を納め給ふ其狀に云沙彌心省謹言駿州國務成敗の間諸事の理非をわきまへなから遵行のさたをいたさす沙汰に親踈ありてへんはを存わいろをそくたくにふける思ひあらは心省以下諸奉行並家人等に至るまてね