かはくい淺間大菩薩たち所にはつしたまへと也仍せいくはん如件建武五年五月十七日心省敬白此願書かの社に納り于今有之彼心省の御子上總介範氏次男伊豫守貞世法名了俊瀨名殿堀越殿尾崎殿名和殿何れも此下より出たる也次に氏兼蒲原殿次に仲秋法名仲高是了俊の御跡を繼給ふ範氏い心省に先立て御早世也今のするかの國の大すの慶壽寺殿是也其御子中務大輔氏家是も御早世にて其弟上總介泰範御家督い繼せ給ふなり了俊い範氏御早世の後心省の御跡繼として京都に祗候有て寳筐院殿樣に眠近し康安貞治の比侍所にて御坐有し也鹿苑院殿の御時西國の御敵の蜂起せしかい九州の探題に了俊を被仰付しに已に發向のとき遠江國の守護職を惜く思召けるにや管領細川殿へ院岩栖かくよみてつかはされけり何となくこゝろにかけて思ふ哉濱名の橋の秋の夕くれと有しかい御分國ゆめ〓〓相違不可有との御返事有りとかや扨てい心安とて御發向有永和元乙卯年三月より戰はしまり筑前國せふり山に陣とり九州の御敵菊池松浦千葉の人々をうちあたかへ給ふ味方にも遠江國橫地奧山以下のともからあまた討死しけるかくて筑紫い殘りなく治り十三年の間九州の探題にて御坐有しに大友と大內介と丁俊の事を讒言申勘解由小路殿取持有り了俊の探題をい召上て澁川左近將監義俊に被仰付ける其比公方も管領も政道正しからさりしを細川前の管領常久なけき給ひけれと讒人おほくて今い常久のいさめも用ひたまはさりけれい世のたゝしからさるを恨み阿波國へ隱居し給はんとて一首の詩作り給ふ人生五十愧無功花木春過夏已中滿堂蒼蠅拂難盡去尋禪榻臥〓風鹿苑院殿樣御政道あしくて諸人うらみうとみ奉けれい其比の鎌倉殿氏滿公御政道も正しく東國十一ヶ國御存知有り篠川殿と申て御子を一人奧州に下し御申あり御下知ありし京都の御有樣諸人內心い背申由聞召てそのかみ尊氏公直義と御相談にて基氏をかまくらに居へ御申有事も京都の御政道たかひ給はヽ關東より制し御申あり又關東の御ちかひ目有い勿論京都より御制し御申ありて他家に天下をうはゝれ給はぬ樣にとの御謀なれい今京の義滿公の御政道惡く諸人恨奉るなれい從關東征し御申ありて天下を治め等持院殿大休寺殿の御存念を守り給ひ天下萬民の爲に御逆心有へしとて上杉刑部大輔憲春なとゝ被仰合しかい上杉いさめ申けるい京鎌倉兩方に御坐候へい互に御守りにいならせ給へ今京都をほろほし御申あらい唯兩頭の鳥有て毒を食て一つの體をうしなふと同しと申けれ共用ひ給はす上杉よしやいさめに死するい忠臣の道也とて一紙の諫狀を書氏滿へ奉り康曆元年七月十九日自害し果給ひけれい氏滿も驚き是非御逆心も難叶して思召とゝまりけり應永六年の事にや中國大內左京大夫義弘鎌倉殿へ內通して逆心し泉州堺まてせめ上り討死あけり其後上杉安房守いさめ奉りいろ〓〓の事有て京鎌倉御中色々いさめ奉り終に御和睦なりにき其比了俊い鎌倉殿に心を寄御申有よし京都に被聞食御辛勞有けれ共後にいきこしめしなをされ遠州堀越をやう〓〓安堵被成し也遠州見付の海藏寺い了俊の御墓所也此子孫